体験談(本人の立場から) 


いい体験談には、自然と酒害者の悔恨の情がにじみ出ます。
 
私たちは良い体験談によって自身が浄化され、仲間との連帯感を深めていきます。
 
真剣に体験談を語るということは、誠実に正直に生きるということだと思います。(酒害者)
 





 1.断酒の原点                     (高島支部)
 2.酒とのかかわり                   (堅田支部)
 3.成功のカギ「人の意見を素直に聞くこと」       (瀬田支部)
 4.アル中人生、飲酒三十年断酒二十年          (草津支部)
 5.らしく生きる                     (守山支部)
 6.重い闇を抜けて                    (甲賀支部)
 7.私の飲酒暦                      (甲南支部)
 8.今日を生きる                     (長浜支部)
 9.断酒に向けて                (大津支部アメシスト)
 10.断酒会・・・               (彦根支部アメシスト)
 11.再飲酒                       (信楽支部)
 12.退院して15年、今                  (長浜支部)
 13.断酒会に感謝                    (草津支部)
 14.断酒13年を迎えて                  (守山支部)
 15.再出発、初心忘れず                 (瀬田支部)
 16.断酒は誰のためでもない、自分のために        (甲賀支部)
 17.断酒が私の平常心                  (甲賀支部)
 18.私が断酒会に入ったきっかけと今の生活について    (守山支部)
 19.断酒会の大切さ                   (甲賀支部)
 20.断酒の大切さ                    (甲南支部)
 21.素直になれた私              (彦根支部アメシスト)
 22.アルコール依存症を知らなかった      (瀬田支部アメシスト)
 23.今の私                  (信楽支部アメシスト)
 24.お酒にとらわれて                  (栗東支部)
 25.断酒ができた喜び             (彦根支部アメシスト)
 26.お酒のない第二の人生           (守山支部アメシスト)
 27.お酒からの卒業              (瀬田支部アメシスト)
 28.残された自分、例会出席や            (近江八幡支部)
 29.断酒して                      (栗東支部)
 30.夜が明けて                (彦根支部アメシスト)
 31.人間として、生きていきたい             (甲賀支部)
 32.断酒例会に思う                   (栗東支部)
 33.断酒会を大切に                   (甲南支部)
 34.仲間と共に                     (草津支部)
 35.ありがとう 断酒会                 (守山支部)
 36.断酒会に感謝                    (長浜支部) 
 37.すべってころんで又起きて              (堅田支部)
 38.子供たちの夢を奪った私の酒             (長浜支部)
 39.知らなかった「断酒会」              (八日市支部)
 40.時が経つのは早いもので               (信楽支部)
 41.断酒するための3つの約束              (彦根支部)
 42.ごめん和代                     (草津支部) 
 43.再起発奮                    (近江八幡支部) 
 44.家族に感謝                     (栗東支部)
 45.感謝の気持ち                    (彦根支部)
 46.意識が無くなった日                 (瀬田支部) 
 47.シアノとノックビンを飲んで酒を飲む         (甲賀支部 
 48.今日もお世話になります             (近江八幡支部) 
 49.地獄の正月                     (守山支部) 
 50.もう二度と酒を口にすまい −自分と家族のために−  (甲賀支部) 
 51.出口のないトンネルはない              (彦根支部) 
 52.これからの一歩                   (信楽支部) 
 53.断酒を続けて                    (栗東支部) 
 54.急性膵炎を繰り返して                (長浜支部) 
 55.断酒会に入会して                  (草津支部) 
 56.自分の過信が一番の敵              (近江八幡支部) 
 57.今年もつれづれなるままに              (守山支部)
 58.断酒会に出会って                  (栗東支部) 
 59.断酒の難しさ                    (長浜支部)
 60.「力むな」「肩の力を抜け」             (栗東支部)
 61.ごめんなさい                    (守山支部)
 62.依存症の再認識                   (甲南支部)
 63.付き合い                      (高島支部)
 64.断酒会に感謝                    (守山支部)
 65.私の弱さ                 (彦根支部アメシスト)
 66.黄檗病院                     (八日市支部)
 67.断酒していき続けたい              (近江八幡支部)
 68.父の死後から                    (甲賀支部)
 69.再入会して                     (高島支部)
 70.私の体験談                     (甲南支部) 
 71.人生の転機                     (長浜支部) 
 72.認知そして感謝              (高島支部アメシスト) 
 73.なぜ逃げた                     (守山支部)
 74.断酒時の思考                  (近江八幡支部) 
 75.逃げてばかり                    (栗東支部)
 76.断酒の会の大切さ                  (信楽支部)
 77.自覚                        (大津支部)
 78.アルコール依存症を振り返って            (栗東支部) 
 79.人生のやり直し                   (栗東支部)
 80.酒害体験                      (信楽支部)
 81.再飲酒そして復活                   (守山支部) 
 82.灯火                         (高島支部) 
 83.私はアルコール依存症者             (近江八幡支部) 
 84.断酒の答えは例会の中にある              (高島支部) 
 85.第二の人生は断酒会と共に       (近江八幡支部アメシスト)
 86.自分に勝つために                  (栗東支部) 
 87.アダルトチルドレンとアルコール依存症        (守山支部)
 88.私と断酒会                     (彦根支部)  
 89.断酒会に入会して                  (大津支部) 
 90.心の病と知ったとき            (彦根支部アメシスト) 
 91.仲間に感謝                     (瀬田支部)
 92.人生は山あり谷あり                 (長浜支部) 
 93.ようやく、そうして希望へ              (瀬田支部) 
 94.こだわっていた事                  (栗東支部) 
 95.流されて 今思う                  (長浜支部) 
 96.断酒会との出会い                  (高島支部) 
 97.依存症でなくとも飲んではならない          (守山支部) 
 98.時が経つのは早いもので               (信楽支部) 
 99.回復への道                    (八日市支部) 
100.私の体験談                    (近江八幡支部) 
101.昔をふりかえって                   (草津支部) 
102.断酒社会論序説                    (大津支部) 
103.私の飲酒歴                      (長浜支部) 
104.出会い                        (高島支部) 
105.断ったのでなく、捨てたのです            (八日市支部) 
106.断酒半年、今思うこと                 (長浜支部) 
107.酒をやめるのは自分自身                (彦根支部) 
108.何故、酒を止めたか                (近江八幡支部) 
109.人生の再出発                (草津支部アメシスト)
110.断酒して思うこと                 (近江八幡支部) 
111.断酒して                  (高島支部アメシスト) 
112.再飲酒しないために                  (守山支部) 
113.体験談はノンフィクション               (甲賀支部) 
114.成長論序説「回復だけでは終わらせない」        (大津支部) 
115.断酒〜引き金を避けて            (彦根支部アメシスト) 
116.女性酒害者の気付き             (彦根支部アメシスト) 
117.私と酒                        (瀬田支部) 
118.私とお酒                     (近江八幡支部) 
119.今までの私、これからの私         (八日市支部アメシスト) 
120.私と断酒                       (長浜支部) 
121.私の人生の転機                    (草津支部) 
122.依存文化論序説―依存から、自立へ―          (大津支部) 
123.依存症からの回復                   (草津支部) 
124.私とお酒                  (栗東支部アメシスト) 
125.依存のきっかけは            (近江八幡支部アメシスト) 
126.仲間との絆                      (大津支部) 
127.私とお酒                  (守山支部アメシスト) 
128.新しい人生  〜仲間と共に歩みます〜         (甲南支部) 
129.感謝                         (草津支部) 
130.酒と私の人生                   (近江八幡支部)
131.生きる道                  (彦根支部アメシスト) 
132.お酒と私の人生               (高島支部アメシスト) 
133.無駄な経験はないが、経験を生かすことは難しい     (甲賀支部) 
134.宿命                         (信楽支部) 
135.断酒会に出会って                   (栗東支部) 
136.これから                  (長浜支部アメシスト) 
137.私と酒                        (草津支部) 
138.否認の塊                       (大津支部)
139.家族に感謝、そして断酒会に感謝            (甲賀支部)
140.長年酒にやられ続けた脳ミソでは何をいくら考えても
   浅はかで稚拙なことしか浮かんでこない         (甲賀支部) 
141.私の酒害                       (守山支部) 
142.生命あればこそ                    (彦根支部)
143.今までの自分を忘れず、これからの家族との生き方を考える(高島支部)
144.アルコール依存症と診断されて             (大津支部)
145.断酒12年、今思うこと                (瀬田支部)
146.飲酒のきっかけと、再飲酒との闘い   (近江八幡支部アメシスト) 
147.アルコール依存症 回想録             (近江八幡支部)
148.私の人生と酒                   (近江八幡支部)
149.お酒の履歴書                     (甲賀支部)
150.私と酒                        (守山支部)
151.人生の軌道修正                    (草津支部)
152.酒と煙草と家内                    (守山支部)
153.近況報告                       (大津支部)
154.居場所                   (彦根支部アメシスト)
155.私と酒                        (栗東支部)
156.平成から令和 断酒の誓い               (信楽支部)
157.断酒8年目を迎え                   (甲賀支部)
158.感謝                         (長浜支部) 
159.感謝                         (草津支部) 
160.後悔                         (瀬田支部) 
161.酒歴                         (瀬田支部) 
162.酒との決別そして回復に向けて             (大津支部) 
163.退院後3ヶ月目の頃を思いて              (大津支部) 
164.「うつ」の思い違い                  (瀬田支部) 
165.私と酒                         (甲南支部) 
166.Hさん、アル中です              (守山支部アメシスト)
167.私と酒                        (守山支部)
168.私とお酒                        (高島支部)
169.じかく「自覚」ということ                (大津支部)
170.



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<ザゼンソウ>



「酒」
 
酒害者の家族にとってこれ程
 
恐ろしいものはない
 
辛いものはない
 
苦しいものはない
 
悲しいものはない
 
恥ずかしいものはない
 
大嫌いなものはない
 


 

1.断酒の原点(高島支部) 





 断酒の原点と言う言葉は、体験談の中でよく聞く言葉である。
 
断酒をつづけるのに苦しい時期は原点に立ち返ろうと私も思っている。
 
私の断酒の原点は、岩倉病院での入院生活である。
 
平成十七年一月四日、うつ病で自宅療養中の身ながら朝から飲酒運転をして、警察に捕まった。
 
家内が見かねて主治医に相談し、京都の広兼医院を紹介された。
 
広兼先生はにこにこされながら家内の話を聞き、すぐに岩倉病院への入院を勧められた。
 
その当時、私はまな板の上の鯉の状態で、すべてを家内にまかせ、とぼとぼと後ろについていった。
 
一月十七日岩倉病院に入院した。
 
観察室のベッドに倒れるように横になった時、これでゆっくり休めると安堵感を覚えた。
 
点滴を打たれ、看護師の皆さんに交替で励まされた。
 
発熱と発汗が続いた後は眠れない日がつづき、観察室にある依存症に関する本や「おたぎ」の体験談を夜遅くまで読み、看護師さんに注意された。
 
この時に、初めてアルコール依存症について学び、妻や幼い娘のために酒を断つしか道はないと感じた。
 
道場入りを許され三0二号室に入り、治療のカリキュラムを受けることとなった。
 
二月七日から外出が許可され、数人の仲間と初めて断酒会の例会に出席した。
 
退院の条件は例会出席二十回、卒業論文提出と言う厳しいものであった。
 
滋賀県からの入院者は私一人であったが、大津や堅田の先輩が励ましに来られ、初対面であったが、すごく勇気づけられたのを今でも覚えている。
 
朝六時前に起床、検温、室の掃除、六時から廊下で人員点呼、道場での清掃、「断酒の誓い」斉唱、ラジオ体操と続くが久しぶりの体操でジャンプできず、足腰の弱体化に驚いた。
 
同部屋の先輩が良い散歩コースがあると、私を連れて行ってくれた。
 
岩倉川沿いの道を約二kmほど遡ると林道にでるが、これ以上は立入禁止の標識があった。
 
左には彿教大学のグラウンド、右側は急な坂道で上には往心院と言う毘沙門天様を奉るお寺があった。
 
私は、足腰の鍛錬と断酒を祈願するため翌日から毎日参拝することにした。
 
借金で新築の家を買い、大阪の豊中市から移住した私は、妻と幼い娘を路頭に迷わすことはできず、藁にもすがる思いであった。
 
春が近づき梅の花が咲き始めたころ、入院期間は三カ月であったが、二カ月で退院を申し入れた。
 
退院後の不安はあったが、会社の休暇が三カ月のため退院即出勤は大阪までの遠距離通勤に耐えられないと考え、残り一カ月は通勤リハビリを行うことに決めた。
 
退院条件をクリアすることを条件に許可を得ると、滋賀県の例会場を中心に出席して三月十八日に退院、その日に高島支部に入会した。
 
現在、こうして断酒を継続していられるのも、病院関係者の皆様、断酒会の皆様そして家族の支えがあってこそです。
 
これからも、断酒の原点を忘れずに飲酒時代と違う新しい明日を創っていきたいと思います。
 




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例会には必ず出席しよう
 








2.酒とのかかわり(堅田支部)





 ♪酒が呑める 酒が呑める 酒が呑めるぞ!
 
呑める呑める呑めるぞ酒が呑めるぞ♪
 

 明けても暮れても、毎度良く唄って呑んだものだ。
 
昭和四十年代、日本が元気な頃、街中お祭り騒ぎ。
 
日本経済も学生運動もオリンピックも万博も、新幹線も高速道路も何もかも元気、元気。
 
給料もボーナスも毎年右肩上がり。
 
理由は何でも良かった。
 
とにかく人が集まると酒のある、良き時代を過ごしてきた。
 

 そもそも酒って?疑問が湧いてくる。
 
世界中で古来より儀式に使われたり、行事を盛り上げたり、嬉しい時、辛い時、悲しい時、それぞれ活力として心強い見方になってくれた「魔法の水」であった。
 
それがいつの間にか私には「悪魔の水」になってしまった。
 
今でも大多数の人々には「魔法の水」であろうが、私は節度ある飲み方をしなかった為、我が家では酒はすっかり悪者になってしまった。
 

 私は長男として生まれ育った。
 
当然、大人になれば酒、煙草はコミュニケーション作りには必要な条件だと信じて疑わなかった。
 
高校時代にどちらも覚え、ちょっと大人になった気分で浮かれていた。
 
生意気にイキッテ、イチビッテ飲んできた。
 
まさか、この先にアル中が待っているなんて、私の人生計画には入ってなかった。
 

 私は調理師として四十年、労働組合の役員として三十年、定年を迎えるまで、そんな生活してきた。
 
調理師になった頃はまだまだ男社会。女性調理師なんていなかった。
 
仕事後、遊び場等、どんな場所にも傍には酒があった。
 
飲んだ後は、ほっこり良い気分だった。
 
労組のお付き合いはノミニケーション。
 
もっぱら同業他社の組合員との情報交換、レクレーション、団結、結束、会社の生産性向上に協力、対会社には労使交渉の裏折衝、が日頃の活動。
 
仲を取り持つ酒!我が人生、順風満帆 そんな気分であった。
 

 売り物や会社の労組対策費、組合経費の浪費、家庭経済にはあまり迷惑かけないタダ酒三昧の毎日だった。
 
尤も当然、家では、一カ月十五本(日本酒一升瓶)自分で決めたノルマはあったが… 飲み続けると勲章がどんどん増えてくる。
 
十二指腸潰瘍、胃潰瘍、肝臓の異変、食道静脈癌、そして胃癌。
 
バ力みたい、全て飲兵衛の勲章だと威張っていた。
 

 それが酒をやめている今でも、医者の世話になっている。
 
えらい出費だ。
 
五十五歳の時、アルコール依存症と診断されたが、自分は違う、と否認し、もしくは軽い症状だと勝手に決め、断酒には至らなかった。
 
何度も再飲酒を繰り返し、頭の中と行動が一致せず、数年間隠れ酒、嘘つき、そして夫婦関係は最悪。
 
家庭内は真っ暗。
 
幸い?私は妻の信用以外は何もなくさなかったので、どん底に落ちる事なく益々否認の繰り返し。
 

 それでも何故か断酒会とは繋がって八年目、今に至る。
 
厚顔なのかアホなのか?お陰をもってこの二.三年休酒中。
 
妻の信用はいまだ回復せず。
 
かなりの時間が要るようだ。
 
このままズーツと休酒を続ければ、取りあえず家庭は明るく、信用も回復されると思う。
 




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一人で止めることは出来ない無駄な抵抗は止めよう
 








3.成功のカギ「人の意見を素直に聞くこと」(瀬田支部) 





 約一カ月の連続飲酒ののち、遂に水も受け付けなくなった。
 
あげくの果て「空エヅキ」の連続。
 
昭和六十年十一月のことである。
 
自分では、遂に来るところまで来たかと思った。
 
というのも、この状態がアルコール中毒の末期的症状であるという事が充分分かっていたからである。
 
三十五歳ごろからブラックアウト(一時的記憶欠損症)をしばしば体験し、その後、三カ月に一回は何の理由もなしに飲み出すと、勝手に連続飲酒に入ってしまうという形になってしまっており、 ア症に関するあらゆる本を読みあさっていたので、その症状が慢性アルコール中毒(今では依存症)の一つの症状であると知っていたからである。
 
しかし、そこまで解かっていながら止める事が出来なかった。
 
昭和六十年の丁度その時、私には一歳半の息子がいた。ボケた頭ではあったが、この子の為にも、何とかして酒は止めなければならない。
 
このままの状態が続けば早晩、私は死んでしまうだろう、そうすれば、この子は母子家庭の子として生きて行かなければならなくなる。
 
というのも私自身、早くに父親を亡くし父親のいない生活がどんなにつらいものかを知っており、同じ目に合わさなければならなくなるのはしのびない。
 
酒を要求する身体とは裏はらに、反面止めたいという気持もあるにはあった。
 
だから救われたのかも知れないと思う。
 

 丁度、その時、私には内緒で家内が当時、県の婦人相談所の所長だったKさんに相談に行ったようである。
 
そこで一度、専門医の受診をと勧められ、大津日赤の堀川医師を紹介され、数日のちの六十年十二月七日に初めて専門医の受診を受け、「あなたはアルコール依存症です」のおすみつきをもらうこととなった。
 
以後二十日間の入院、断酒の極意は自助グループに通い続けることだと教えられ、大津支部に入会後、「断酒教」の信者のごとく、狂った様に例会通いにのめり込んだ。
 
今考えるとその時期があったればこそ私の今日があると思っている。
 
「のめり込み」も必要だ。
 

 一滴も酒を口にすることなく二十六年と四カ月が経過した。
 
K氏を筆頭に人の意見を素直に開けたのが私にとっては正解だったと思っている。



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断酒に卒業なし
 








4.アル中人生、飲酒三十年断酒二十年(草津支部) 





 はじめて飲んだのは中学一年のころ、自分の飲み方がおかしいと、気付いたのは二十歳すぎたころ。
 
それから二十五年のアル中生活、日本中が右肩上がりの好景気、琵琶湖の漁師も豊漁続きで、漁から帰って、朝食の一杯で始まると一日中ほろ酔い気分で仕事をする。
 
半農半漁の田舎暮らし、農作業は稲作のみ、田圃へは舟に耕耘機や脱穀機を載せて、帰りには、収穫物を載せて舟運から、特殊圃場整備事業という、田圃の大改造事業が始まった。
 
水路(舟の道)は埋め立てて道路(車の道)に変えられ、トラクターやコンバインの時代になった。
 
農協から地元生産組合単位でトラクター、田植え機、コンバインのセット十組が貸付られた。
 
その一組を担当して、約一〇〇反ほどの田圃の耕耘作業から収穫までの機械作業の請負をするようになった。
 
十人の担当者は酒飲みが揃っていた。
 
田植え前や田植え後、稲刈りの前後の集会等では料理屋でドンチャン騒ぎ、作業期間中は、夕方格納庫や作業小屋等で二、三人寄れば酒盛りが始まるというように、仕事をして酒を飲むのか、酒を飲むため仕事をするのか分からないくらいいつも飲んでいた。
 
何年かが過ぎて、全員で合同作業に行った後、代表者から「お前は機械を使うのは危ないからやめよ」と言われて、それきり請負作業を辞めてしまった。
 
そのころの漁業は、「琵琶湖総合開発」のため休業や廃業に追い込まれ、わずかな補償金を受け取って、ほとんどの漁師が転職していった。
 
農業も漁業にも使い物にならなくなった自分は、「琵琶湖総合開発」関連の工事現場の土方に出た。
 
現場では酒は飲めないが、体からアルコール分が抜けてくると、頭がぼーとして酒のことばかり考えるようになっていた。
 
工事も湖周道路の完成で殆ど終って土方も要らなくなったころ、自分の体は酒を飲んでも動けない、飲みすぎたら足腰立たない状態までなってしまい、やっとの思いで女房に大阪の藍陵園病院 に連れて行ってもらい、八十八日間の入院生活でどうにか酒が切れて、やっと断酒にたどり着きました。
 
退院後、断酒会に入会して、例会出席の中でだんだん止め続けることが出来るようになりましたが、それでもしばらくは、飲まないだけのアル中でした。
 
いつの頃からかは分かりませんが、断酒会例会に通い続けているうちに、だんだん飲酒欲求が薄れて本当の断酒ができるようになり、今では仕事、断酒会と町内老人クラブ、神社、寺院等、元気に走り回れていま す。
 
 断酒会があってよかった。
 
断酒会に助けてもらって今の自分があります。本当に有難うございました。
 
これからも宜しくお願いします。
 




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今日一日だけ止めよう、そして、その一日一日を積み重ねよう
 








5.らしく生きる(守山支部)





 私は二年前自分の力でアルコールからの脱出を試みました。
 
飲酒量をコントロールしようとしたのです。
 
しかし、丸三日間一睡もせず出勤し、動悸、耳鳴りと目に見えない光景が私を襲いました。
 
幻聴、幻覚です。
 
そのまま病院へ運ばれ、入院しました。
 
熊本のアルコール専門病院へ転院し、三カ月間のプログラムで、アルコール依存症について学びました。
 
そこで初めて自分自身がアルコール依存症だということに気づきました。
 
私の場合は、素直に受け入れることが出来、入院生活の中でも退院後、これからが第二の人生の出発だと考えるまで精神的にも前向きになれました。
 
また入院中に妻と出逢い、今の自分があるのも彼女の存在が私の力に大きくあると思います。
 
同じ立場であるがゆえ、お互いが理解し合えていることもあり、彼女がいなければと考えると、今の自分はなかったと思います。
 

 色々な人生があると思いますが、私にとって現在まで過ごしてきた時間は、決して無意味でなかったと考えています。
 
過去があるから現在があるのだと強く思います。
 
また妻と二人で守山支部の門をたたき、退院後、例会へ出席しています。
 
断酒の道を歩む仲間の体験談を耳にすることで、初心に帰る気持ち、前向きな気持ちを頂き、日常を過ごせるのだと気づかされました。
 
人は一人では微力ですが、助け合い支え合う仲間の力があり実現されるものだと思います。
 

 これからは、自分らしく、素直に歩んで行こうと思います。
 
まだまだ、信用と信頼を取り戻せた地点ではありません。
 
私に出来ることは断酒継続するということです。
 
このことをキモに命じ、一人ではなく二人、断酒会の仲間と今を生きようと思います。
 
家族や知人にも大変な心配や苦労、迷惑を掛けたことを忘れることなくお酒のない人生を楽しく、明るく、力一杯、自分らしく過ごせる様、一日断酒と例会出席に励みます。
 




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前向きの断酒をしよう
 








6.重い闇を抜けて(甲賀支部) 





 四十代は体力で酒の毒を跳ね返していました。
 
酒はよく飲んだが、仕事も出来た。
 
しかし、五十代になると、酒が自分の能力を削り取り、仕事をこなして行くのがつらくなっていった。
 
そして、平成十八年ウツ病と診断された。
 
何でも出来ると思っていた自分がウツになるなんて信じられなかったけれど、ひたすらしんどかった。
 

 二カ月の療養を経て仕事に復帰するのだが、病の根っ子に酒があったことなど気付かず酒で薬を飲んでいる様なものだし、睡眠の質は酒で下がったままだったので、ウツ病が良くなるはずがな かった。
 
数カ月仕事をしては仕事に行けなくなって一カ月療養するといった状態が続いた。
 
その間、重く暗い塊のような闇と向かい合って胸が押し潰されそうな気持を、酒を飲むことで持ちこたえようとしていた。
 
死神が近寄って来たことも何度かあった。
 
そんな日々が三年以上続いた。
 

 そして、平成二十一年の九月には一日中飲み続けるようになっていた。
 
朝昼晩とコンビニに通い酒を買って、飲んでは寝、起きては飲む状態でした。
 

 二カ月以上飲み続けたある日突然、飲み方がおかしい、アル中じゃないかと気付いた自分がいた。
 
十数年前に読んだアルコール依存症の本のことが甦った瞬間でした。
 
その一瞬の光を捕えて精神医療センター、そして断酒会につながることが出来ました。
 
本当に運が良かったと考えています。
 

 断酒会に入って回復への道を歩き始めると、それに連動してウツ病の状態も良くなって行きました。
 

 これらの経験を通して「人というのは弱い存在であるけれど仲間がいれば強くなれる」ということを知りました。
 

 今、自分をウツと依存症に追いやったのは何なのかを考えながら新しい生き方を探しているところです。
 
きっとみつかるはずです。
 
何故なら、私には自分の気持を分かってくれる一万人の仲間と、一緒に歩いてくれる家族がいるからです。
 




 
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例会には夫婦共に出席しよう
 








7.私の飲酒歴(甲南支部) 





 酒を飲み始めて六十有年。
 
思い返せば高校時代、地域の野球試合に優勝して飲んだ酒が本当においしく、その味が忘れられず、生来の酒好きだったと思い知らされます。
 
就職してからも経済的理由で家で晩酌するなどもっての他でしたが、職場の仲間と時たま、ワイワイ騒ぎながら楽しく飲む酒には、生きがいを感じたほどでした。
 
そのうちに家でも晩酌する様になり、土・日は酒とマージャン、あとは眠るという生活で、家庭のこと、子どものことなど眼中にありませんでした。
 
若くて体力もあったので、後は仕事を無難にこなしていました。
 
転職した職場も酒席が多く、頭に乗って、飲み放題を続けていました。
 
最終列車を乗り越し、終着駅まで家内に迎えに来てもらったこともしばしば、それでも酒をセーブしようという気は、毛頭ありませんでした。
 
離職後、地域の役員を勤めることになり、それなりに忙しい日々でしたが、酒席も多く、又自分からも誘って飲酒の機会を作るという生活でした。
 
すべての仕事から離れた後も、飲酒からだけは離れることができなくなり、閑にまかせて、朝からでも酒を飲みたくなってきました。
 
近くの酒屋からケースごと配達してもらい、そのまま、ラッパ飲みを続け、止められると今度は自販機で、ワンカップを買いまくるというようになりました。
 
風呂から出られなくなったり、頭を打って手術したりしても飲酒を止めず、とうとう岩倉病院に入院という破目になりました。
 
依存症の恐ろしさを学んだり、断酒会に入れてもらったりして二年が経ちました。
 
時折、無性に飲みたくなりますが、皆さんに励まされて、何とか頑張っています。
 




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例会の2時間は断酒の話のみ真剣に
 








8.今日を生きる(長浜支部) 





 私が酒の味を覚えたのは、昭和四十一年に高校を卒業して職についいて間もない頃でした。
 

 上司の机の下にはそれぞれ一升瓶があり、夕方五時のサイレンが鳴ると同時に一升瓶が出てきて、仕事中使っていた湯飲み茶碗にトク・トク・トクと酒が注がれ、「お前も飲め」ということで、躊躇していると、「酒が飲めんような者は仕事もできん」と強制的に湯飲み 茶碗に波々と酒を注いでもらい、うまくもない酒を飲まされたのが酒の味を覚えた始まりでした。
 

 そのような職場の風潮は、酒の味を自分のものにするのにそう時間はかかりませんでしたし、まだ職場の雰囲気に慣れず、与えられた仕事も自分のものになっていない状態で、平常心を保てず、常に心が動揺していた情緒不安な自分に一時の安らぎを与えてくれたのは酒以外の何物でもありませんでした。
 

 酒量はどんどん増えていき、晩酌を三合飲んでももの足りず、友達の家に行って世間話を肴に二人で一升瓶が軽く底をついてしまうといった状態で、もう酒とは線が切れない自分になっていたことは自他共に認める”酒飲み”の自分の姿が浮き彫りにされていました。
 

 しかし、加齢とともに内臓に異変をきたし、五十一歳の最初の入院から始まり、都合十回を数える入退院の繰り返し、医者から「この状態を続けると命を落としてしまいますよ」という一言、まさか酒で死ぬとは思っていませんでしたので、大変ショックでした。
 

 まだまだやりたいこともある、まだ死んではいられないという思い、けれど今までやめようと思ってもどうしてもやめられなかった酒、そこで聞いたのが断酒会という組織、平成十七年十一月に滋賀県断酒同友会長浜支部に入会させてもらって、壮絶な体験談を聞き、自分が悩み苦しんできた頃の体験談を話し、励まし合いながら断酒することで、酒のない世界でも何の抵抗もなく生きていけることを学びました。
 

 与えられた人生、断酒会を大切にしながら一日断酒を続け、”昨日を追わず、明日を頼まず、今日を生きる″精神で歩み続けたいと思います。
 




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自分の断酒の道を見出そう
 








9.断酒に向けて(大津支部)





 私は十三歳の時、お酒を飲みました。
 
タバコも吸って不良でした。
 
母はバイクに乗って探し回り本当に迷惑をかけました。
 

 味もなにもわからないまま、友達や先輩と酒を飲み、ブラックアウトになり本当にバカだったと思います。
 

 十六歳で看護師になりたいと思い病院で看護助手をして、夜は看護師さんやお医者さんに酒を飲みにつれていってもらい、朝はどうして帰ったか解からなかったし、よく飲んできたと思います。
 

 二十歳を過ぎて二十五歳になり、妊娠をし、初めて産婦人科の先生に「お酒はやめて下さい。奇形児が産まれます」と言われその夜いっぱいご飯を食べて寝る前もおはぎやケーキも食べて寝る。
 
と言う事をしたのですが、どうしても寝れず、朝四時にコンビニに行ってビールを買い飲んでしまいました。
 
すごく反省したのですが、どうしても止めれず出産後も朝からベビーカーを押して公園に行くのではなく、酒屋に行きビールを買い、家で飲んでから家事をする。
 
そんな事をしていました。
 

 結婚も三回し、離婚も三回しました。
 
三回目の元夫とは、生活が違い三人の生活が上手く行かないと、ストレスをため酒に逃げました。
 

 朝から飲み、昼は寝て、夕方五時からは本番と言っては飲み、酒が止めたくても止められませんでした。
 
医大の先生に「アルコール依存症です。専門病院に行って下さい」と言われ、琵琶湖病院に行きました。
 
そこで先生は、「退院したら仕事だけしてたらいい、断酒会とかAAは、変なおっさんばかりがいるから行かなくていい」と言われ、忠実に守っていたら失敗の繰り返し、断酒会に初めて行き、その帰りに初めて「今日飲みたくない」と思いました。
 
断酒会に行って、語らしてもらい、先輩の話を聞かしてもらって、初めて酒を止めさせてもらえる。
 
感謝しました。
 
支部長に「一年後、三年後、良かったと思える日がくるから……」と言われ、通わして頂き、アメシストでは北見さんに県外研修につれて行ってもらい、今やっと二年断酒させてもらっています。
 
これからも一日断酒、例会出席させて頂きたいと思います。
 




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断酒優先をいつも考えよう
 








10.断酒会・・・(彦根支部) 





 私は二十六歳で二度目の離婚をしました。
 
「これからは自分一人の力で三人の子ども達を立派に育てる」と決意し仕事、育児、家事、学校役員など全てを抱えてきました。
 
とても大変でした。
 
それでも誰にも本音や弱音を吐かず良い母、強い母、時には父親役もしてきました。
 
子ども達が側に居てくれるからこそ頑張れた反面「本当に一人で子育てしていけるのだろうか?」先の見えない不安とプレッシャーがあり、とうとう不眠、パニック障害になり同時に元々大好きだったアルコールの量も急激に増えていきました。
 
そのうち精神安定剤や睡眠薬と一緒にアルコールを飲むようになり毎日のようにブラックアウトで子どもや母、職場にも迷惑をかけ、挙句の果て仕事に行けない状態になったため精神科の先生に相談したところ県立精神医療センターを紹介され通院生活が始まりました。
 
でも通院だけではアルコールはやめられず主治医と看護師に説得され、しぶしぶながら入院し、初めてアルコール依存症の恐ろしさを知りました。
 
しかし私の中で断酒の意味が理解できず「アルコールの量を控えれば良い」と間違った考えのまま退院したので、退院後すぐアルコールを口にしてしまい、元のアルコールの生活に戻ってしまいました。
 
このままでは駄目とはわかっていても自分ではどうする事もできず誰かに助けてもらいたいと思い、半信半疑だけど断酒会に行きました。
 
するとそこには私と同じ苦しみを経験している方がたくさん居て「ここなら私も立ち直れる」と断酒会に入会させて頂きました。
 
断酒会出席を重ねていくと無理なく自然にアルコールを飲まなくなり現在も断酒継続中です。
 
あの時、断酒会に足を踏み入れなければ今の私はいません。
 
アルコールに逃げず、現実と向き合うのは本当に大変な時もありますがそれ以上に得た物もあるし、子ども達と離れず一緒に生活ができる私は幸せ者だと心から感じています。
 
これからも一日断酒を続け、そして自分はもちろん、子ども達、母、彦根支部長をはじめ断酒会の仲間、友人、彼、断酒会を大切にしながら前向きに楽しい人生にしていきたいと思っています。
 




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アル中は心身の病気である
 








11.再飲酒(信楽支部) 





平成12年9月に断酒会に入会させてもらいましたが、断酒歴は九年余り、3 年目に再飲酒。
 

 考えてみると13年前、妻と娘に付き添われ精神医療センターへ、主治医から『貴方はアルコール依存症ですね』と言われたが、素直には受け入れられませんでした。
 
断酒会を勧められ、入会して多くの人の体験談を聞くようになりました。
 
しかし、多くの人は入院の経験があるのに対し、私は入院していない、もしかすると依存症では無いのかも知れないと頭の中で思っていました。
 
主治医と妻が相談してわざと依存症にしたのではないかと思いつつ例会に参加していましたが、3年目のある日、調理の仕事上、毎日使うワインや酒を何とも思わず口にしてしまい、それが一口で済めばよかったのですが、体の調子も良く、いくらでも入りました。
 
「これ一口でやめよう」と思ってもいくらでも‥・二日程して、やはり自分はアルコール依存症だと認められ、「再飲酒」をきっかけに本気で断酒の決意をしました。
 

 今思えば再飲酒をして良かったと思っています。
 
平成21年に定年退職し、今現在認知症の母親の介護をしつつ再任用職員として勤務しています。
 
母の介護と仕事は非常にきつく、飲み続けていたら仕事どころか母の介護も出来ない状態になっていると思います。
 

 断酒を継続していくには強い意志が必要ですが、年に何度かはもうどうなっても良い、飲もうかと思うことがありますが:‥。
 
飲みたい酒を我慢させてくれることが断酒会、仲間の一人ひとりに感謝しつつ一日断酒でこれからがんばります。
 




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例会で宗教や政治の宣伝をしてはならない
 








12.退院して15年、今(長浜支部) 





 私は昨年10月2日に長浜支部に加入しました。
 
6カ月になります。40歳の時、上司や妻に飲酒問題(泥酔、暴言暴力、不機嫌な表情、問題行動等々)を指摘されました。
 
そして、精神保健医療センターに入院。
 
しかし、自分でも自覚があって「入院です」と言われても驚きませんでした。
 
すんなり受け入れるのも嫌なので、ドラマの主人公を演じるように「えー!入院ですか−、いま…、ですか?」とひとせりふ。
 
他人事でした。
 

 自覚というのは、仕事から家に戻り、すぐ焼酎の湯割りを5対5で飲む。
 
妻が仕事で帰りが遅いのをいいことに、好き勝手飲んでいました。
 
ある日、そんな自分を変だと思い始めたのです。
 
やめてみようかな一、と思っても毎日きっちり飲んでしまう。
 
例え一日でもいいから、飲まずに過ごせないものかと。
 
しかし、/やめたらどうなる/どうせ飲みたくて仕方なくなるだろう/それは辛い/辛いのはいやだ/でした。
 
まずくはないが、おいしいとも思わない。
 
でも、飲まずにいられない。
 
もう一人の自分が「なんでそんなにまでして飲むのだ」と言っていました。
 

 初めての飲酒は19歳。
 
数人の友人と一緒に一間のアパートに、泥酔するまで飲んだのが始まりです。
 
その時/親父が酒飲みで毎晩飲んではクダをまき、くどくど、くどくどと、もう!いい加減!酒!飲むな!よ−!と叫ぶ毎日。
 
それは、私が物心ついてから高校卒業して家を出るまで続いた。
 
しかし、親父は酒をやめなかった。
 
その血を引いてしまった!/と思いました。
 
長い間、ひとりで我慢してきた。
 
辛かった。
 
でも、今は独りじゃないから!償いは飲まない事でしか今は出来ないけれど、回復できる日を信じて。
 




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酒害者の最大の敵は自分自身であり酒ではない
 








13.断酒会に感謝(草津支部) 





 私は今年で64歳になりました。
 
アルコール依存症と気付いたのは会社を定年退職してから自然と量が増してゆき、毎日朝から昼から飲酒に、昼寝て夜は寝られない日が一年半も続き、夜もコンビニへ歩いてゆき缶酎ハイを買い飲酒しては寝る日々でトイレへ行って転倒し、ケガしても朝気付くことが、数十回もありました。
 
そのうち手、足、腰も弱くなり、日本式のトイレにすわる事もままならない状態でした。
 

 そういう私を見かねて一昨年の8月15日、妻と長男、妻の姉に「これから病院へゆこう」と言われるまま車に乗りました。
 
私は通院していた病院とは方向が違うし、平日長男も姉も仕事を休んで来ているんで、なにかおかしいと思っていましたが、私はそういうおかしいなと思う余裕もなく、病院に着き次第診断を受けました。
 
結果は肝硬変という診断で即入院と言うことで医療センターに入院することになりました。
 

 入院し4日間は幻聴・幻覚に襲われ夜も寝られない、足のつま先が針をさしたような毎日で、痛み止め・睡眠剤で一週間がすぎ、やっと自分の体が楽になりいろいろ自分の今までの無謀な生活が思い返されるようになり、センターの松田さんに、一度断酒会へ行ってみませんかと誘いがあり、草津断酒会にゆき先輩方の話をきき感動を受け、自分のこれからの人生を考える時をえました。
 
2カ月後センターを退院することになり、後ろ髪をひかれる思いでセンターでリハビリに励んでいる友と、又断酒会で会える日、楽しみにしていると退院しました。
 
現在本部例会、支部例会と参加させていただき、早6カ月が過ぎ、体の方も元にもどり元気でいます。
 

 今後とも日々断酒をめざし、これからも家族、友人、断酒会のみなさま方の心強い支えの元、感謝し一日一日を大切に生きてゆきたいと思います。
 
又例会でお会いしたら御指導をお願い致します。
 




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自信過剰は失敗のもと
 








14.断酒13年を迎えて(守山支部) 





 今年13年目を迎えて、これからの年月をどう過ごすかいろいろ考えています。
 
定年後4年たちだらだらとした生活になってこまっています。
 

 私は仕事から逃げて酒を飲んできました。
 
最初は車での居眠り運転事故が怖くて寝るために酒を飲んできました。
 
しかし寝られないのは、仕事での嘘や言い訳を寝床で考えたため、よけいに眠れなくなっていた。
 
酒はどんどん増えて行く一方で、二日酔いの日も多くなり仕事もミスが増えて、余計に仕事に身が入らなくなりさらに酒が増えた。検診に引っかかりだし、病院へ行くように言われるが、行けなくなっていた。
 
3年位してもう嘘が言えなくなり病院に行くことになり1人では行けなくて上司に付いて来てもらった。
 
診察は4時を過ぎてからで昼食をわすれていた。
 
担当医は岩重先生でアルコール依存症は否認から始まると言われ口では反論できなかった。
 

 寝られないのは眠剤で寝られると聞き、通院と抗酒剤と例会出席で酒を止めていきましょうということになった。
 
守山と草津と栗東の3か所を回り断酒を始めることになった。
 

 金曜日の夜から3日間酒なしで寝られた事に自信が持て、酒を止める事ができた。
 
2年過ぎくらいから他支部も回りだして、5年位からは全支部もまわれた。
 
毎日例会も出来るまでになり、10年経ち、定年で会社を辞め年金暮らしを始めた。
 
その途端例会回りができなくなった。
 
今、所属支部と昼例会しか回れていない。
 
今年中に、もう1支部回れるようになりたいと思っています。
 

 畑と花壇も5年目になり畑を増設している。
 
花は家の周り一面パンジー100株が今満開になりチューリップも咲き出した。ムスカリも大きくなりあとバラが咲くのがたのしみです。
 




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失敗したらすぐ例会へ
 








15.再出発、初心忘れず(瀬田支部) 





 私は20歳頃から飲み始め、平成10年10月19日に精神保健総合センターに入院した57歳まで飲んできました。
 
元来、気の弱い、無口な性格ですが、酒が入ると気丈になり会話もはずんで楽しい時を過ごせました。
 
50歳頃には晩酌だけでは足らず、隠し酒も始まり、家で酒を飲みながら仕事をしていると頭の回転も良く、便利なものだと思っていました。
 

 平成6年9月頃に内科入院をし、この時に真剣に治療を受けて治しておけばよかったと後悔しています。
 
その頃は自転車通勤で、勤務が終って帰宅途中、酒屋や自販機に寄って飲みながら帰るのが楽しみでした。
 
その日はよく酔っていたのか、いつも通る下り坂のカーブを曲がり切れずに土塀に激突。
 
気が付いたら頭の上で赤色灯がピカピカ、人の声がガヤガヤ、救急車、パトカー、車で人だかり。
 
それからはJR通勤に変えましたが、電車の乗り降り時に酒を買っていました。
 

 平成10年正月明け、2回目の内科入院。
 
幻覚・幻聴を知り退院1〜2週後には再飲酒。
 
酒量も増え、ある朝日が醒めると全身が震え、歩くのもままならない状態でした。
 
早くから家には酒類を置いていませんでしたが、台所を捜し回り料理酒を見つけて一口飲むと、震えが止まりました。
 
その翌朝からは起きがけに飲み、職場ではいつも現物を持っていないと不安で、隠れて飲んでいました。
 
周囲には当然臭いがしており、「家庭崩壊になるぞ」等叱責・注意を受けていました。
 

 酒を飲んでいることは悪いと判っていましたが止められず、結局「仕事も家庭ももうどうなってもよい。
 
早く楽になりたい。
 
このような辛くえらい目をしているのは自分だけだろう」と思い、家内に連れられて精神保健総合センターに入院しました。
 
入院した時はこれでゆっくり休めるとホッとしました。
 
同じ病状の方が13人いらっしゃることを知り、安堵しました。
 
約3ケ月の入院生活を終え、平成11年1 月8日に退院、1月19日から断酒会にお世話になることとなりました。
 
もうこの職場には帰れないだろうと覚悟しましたが、勤務先のご配慮で復職することができました。
 
退院後の断酒会は家内の主導で、例会参加には車が必要と思い52歳で自動車の運転免許を取得して送迎してくれました。
 

 例会では皆様に助けていただき今日まで断酒が続けられています。
 
いつもお世話になりありがとうございます。
 




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アル中は一家の病気である
 








16.断酒は誰のためでもない、自分のために(甲賀支部) 





 断酒会に入会して、丸4年を迎えました。
 
アルコール依存症者の平均寿命を断酒例会のお陰で2年延命させてもらっております。
 
酒は若い頃から飲めるほうでしたが、車が好きで、ギャンブル好きで給料は全部これ等に使い酒を買って飲むこともなかったのです。
 

 飲酒するようになったのは、地元の消防団を退団し、子ども達が成長した40歳頃から晩酌するようになり、家庭も安泰、仕事も管理職となった45歳過ぎから異常飲酒するようになりました。
 
職場で部下も出来、責任ある仕事をするようになり、ストレスが出始め、夜寝られなくなって、酒に溺れる様になりました。
 
仕事から帰って部屋に引きこもり飲酒し失神するように寝る日々が続き、平成16年9 月にアルコール依存症との診断を医療センターから受けました。
 
50歳でした。
 
その1年位前は、本当にひどい飲酒との葛藤がありました。
 
隠し酒、盗み酒が始まり、家内は見つけては捨てるそんな繰り返しの日々でした。
 

 50歳で初めての入院が精神医療センターでした。
 
3ケ月入院し退院後すぐに断酒会に入会し、早や4年です。
 
入会し例会を回っても酒を止めることは出来ず、何度も何度も再飲酒して入退院を繰り返しました。
 

 病院は酒止めに行くだけ、酒は止められないものと思っていましたが、4回目に入院した香川の三光病院でやっと判りました。
 
市川院長との出会い、香川断酒会の人との出会い、この出会いで教えて頂きました。
 
断酒この道より生きる道なし、命懸けて飲んだ酒、命懸けて例会回って止めなあかん、退院して6ケ月例会回って酒止まっております。
 
例会回っているお陰で、家内のくも膜下出血を救うことが出来ました。
 
今は、2人で再出発を誓っております。
 
共に死んだつもりで例会回って断酒し幸せになろうと、又、明日からも断酒、例会出席で頑張ります。
 




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断酒会は、酒害者の酒害者による酒害者のための会である
 








17.断酒が私の平常心(栗東支部) 





 8年前、初めて専門医の診察を受けた時の言葉は「あなたは私の問いに正直に答えないと正しい治療方針が立てられませんよ」でした。
 
「どんな時に酒を飲みますか、?」の問いに、私は「仕事や家庭のことでうまくいったら酒。うまくいかなかったら酒。不平・不満のはけ口としての酒」などと答えました。
 
今、思い起こしますと私自身アルコール依存症の諸症状を語っていたのです。
 

 何事につけても、常に飲むための口実を一生懸命作っていたことに気づいていなかったのです。
 
つまり、自分の意思ではどうにもならない病気になっていたのです。
 

 医師や家族の言葉を受け入れられなかった私でしたが、断酒会を通じての体験談には耳を傾けることができ、自分にアルコール依存症のしくみが出来上がっていることを認めることができるようになりました。
 

 一方、酒を止め続けねばならないこと、また、一口飲んだら元のもくあみと語られるのを聞くたびに、「本当かな」と疑っておりました。
 
断酒半ばにして再び飲みはじめ、気の毒な目にあう方々を見聞きするたびに、二度と口にしてはいけないと認めることができるようになりました。
 

 止むを得ず酒席に出た当初は何としても飲まずに過ごさねばと緊張感と不安感で肩に力が入って疲れました。
 
スポーツで”力む”といつもの実力が発揮できないと言われるのと同様、飲まないでいるのが、いつもの自分だと思うと気が楽になります。
 

 また、アルコール依存症を理解できない方々に接すると「それだけ止め続けていると意思が強い。もうコントロールできている。一杯ぐらいどうですか」と勧められることがあります。
 
これが落とし穴で、この言葉を聞くと、よくなった程度を試したくなりがちです。
 
この時こそ、酒を口にせず、止め続けている皆さんがおられる断酒会、例会を思い起こすことにしております。
 

 今日も例会出席を通じて、「酒を止め続けるのが私の平常心」と、心がけて、飲まずに過ごすことができております。
 




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酒害者は酒のため墓場へ行くか、断酒会で酒を断つか二つの道しかない
 








18.私が断酒会に入ったきっかけと今の生活(守山支部) 





 40代初めに糖尿病を発病していた私は、飲酒が過ぎ検査数値を悪くするといった繰り返しで、断酒会入会前に5年間で4回の内科病院への入退院を繰り返しておりました。
 
顕著な酒害、アルコール依存症といった症状はなかったように思われます。
 

 元来、父の兄弟は皆酒量が多く、自分自身も周囲から飲める血筋だといわれ、その気になっていた部分もありました。
 
また、自分自身が父の飲酒には不快な経験をしており、自分は飲んでも同じことを子どもに対して決して繰り返しはしないと決心していたところもあり、飲んで崩れることは少なかったと自分では思っておりました。
 

 しかし、自分の飲酒量の増加、家庭不和、生きる意欲の低下等の原因は、飲酒にあると自認し、アルコール依存症ではと疑い、節酒しなければならないと考えながらも、意思の脆弱、飲酒・酒害からくる事態の深刻さに対する認識の甘さから、同じ生活を引きずり、仕事、日常生活も破綻寸前となりました。
 

 このとき偶然新聞で見たのが仲村会長の記事「断酒」する勇気を持とうという新聞記事でした。
 
そこにはアルコール依存症から自殺未遂に至る赤裸々な体験告白と断酒会会員の3分2が自殺を考えたことがあると書かれていました。
 
これは私そのものだと思いました。
 
この記事は、私にとってはまさしく天啓であり、現在でも財布に入れて持ち歩いております。
 

 その後、初めて断酒会に参加するまでには1ケ月かかり、その間に私は吐血し、退院した翌日、断酒会に生きていくための何かのきっかけをつかみたいと一縷の望みをもって参加したのでした。
 

 それからの7ケ月は断酒例会で皆の体験告白を聞き、当たり前のことを普通にできるように、自分自身に対する信頼を回復できるよう、一日一日を生きてきたのです。
 
一日断酒、例会出席これを続けている限り、許された命の期間、少なくとも飲酒を続けていたときより質の高い有意義な人生を送れると確信しています。
 

 今の私にとって断酒会はオアシス、なくてはならぬ時間です。
 
私は断酒会への参加を通じて生まれ変わります。
 
断酒は『バカになれ。やめ続けている人のマネをしろ』これが先日、断酒会でひろった宝物です。これからも諸先輩の言葉に従い一日断酒、例会出席につとめます。
 




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会員は断酒暦に関係なく平等である
 








19.断酒会の大切さ(甲賀支部) 





 私が酒を覚えたのは20歳の成人式の時でした。
 
気持ちがよくなり、わくわくなり、酒って良いものだと思いました。
 
大人のあかしとして大きな顔をして堂々と飲むようになりました。
 
私にとっては無くてはならない物になりました。
 

 最初のうちは夜2合位で済んでいました。
 
それが10年位続きました。
 
ふとした時それが朝から飲み、盗み酒で酒なしでは生活できなくなる状態が続き、飲酒運転をするようになり事故を起こし、警察にひっぱられ、それでも止めることが出来ませんでした。
 
親戚、兄弟から相手にされず、「おまえみたいな者は役に立たない」また、「人間の価値がない」と言われしゃべっても口をきいてくれず、足で蹴られ頭を殴られました。
 
じゃまもん扱いされ、それで生きてても仕方ない。
 
家の中は無茶苦茶で又酒量が増え、どうなっとなれ、酒を飲んで死んだら本望だと思い、首をつり自殺を図りました。
 
2度3度やりましたが、失敗に終わりました。
 
くやし涙をこぼし親を恨みました。
 
生んでくれたからこんな事になったと言いました。
 
私から酒を取ると何もない人間でした。
 

 ある日突然に倒れ意識不明になり気がつけば黄葉病院でした。
 
広兼先生に話を聞いてアルコールてんかんと言われ説得を受け入院となり家族を恨みました。
 
鉄格子の中、始めての経験は辛く、情けない、くやしい涙でした。
 
3ケ月の入院を終わり退院となるのですが、不安でした。
 
先生から断酒会に出席しなさいと言われました。
 

 家族に連れられ断酒会に出席しました。
 
その当時滋賀県で7人位だったと思います。
 
びっくりしました。
 
その時1年、2年断酒している人がおられました。
 
右も左も分からない私ですがただ話を聞いていると、ある人が「洞さん断酒会に出席すればやめられる」と言ってくれました。
 
うれしかったです。それより後、例会に出席して一日一日と断酒が出来て出席するのが楽しみでした。
 
それ以後、断酒会を離れず、先輩の方々や断酒会を創立して下さった方に深く感謝しています。
 

 お陰さまで私も断酒が出来ております。
 
同じ悩みを持つ仲間同志を大切に、又断酒会の大切さを忘れず、皆様と共に力を合わせて頑張りましょう。
 




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自覚なき酒飲みの多い中で入会された勇気に敬意を表します
 








20.酒と私(甲南支部)





 私は平成7年10月20日に滋賀県断酒同友会甲賀支部に入会させてもらい早や14年が過ぎました。
 
私は国鉄に21年間勤務してJRに変わる前に希望退職しました。
 
退職後は酒を飲み続けて、いくつもの会社を点々と変り続けました。
 

 国鉄に勤務しているころから仕事のストレスがたまり、軽いノイローゼになり、そのことが原因で酒の量も増えて酒の力なしでは何も出来なくなってしまい、歩くことも困難な状態になってしまいました。
 
酒気帯び運転を何度も繰り返し、何台もの車をつぶし、それでも酒を止めることが出来ず、その結果追突事故も起してしまいました。
 

 又家庭内もうまくいかず酒におぼれる毎日が続きました。
 
ある日、妻が酒におぼれる私を見るに見かねて病院に連れて行こうとしましたが、私は病院に行くことを拒み続けていました。
 
何日かたったある日、弟の嫁が家に来て私を病院に行くよう説得してくれました。
 
私は今まで病院に行くことを拒み続けていましたが、しかたなく病院に行くことになりました。
 
弟の嫁に連れられ県立精神保健センターの診察を受けました。
 
診察の結果、あなたは立派なアルコール依存症ですと診断され、3ケ月間の入院を勧められ、私も仕方なしに入院することになりました。
 

 入院してからもアルコール依存症と言う病気が理解できずにいましたが、院内での依存症の勉強をすることによって依存症のこわさ、おそろしさ、その他、色んなことを教えてもらうことが出来ました。
 
病院を退院して断酒会に入会しましたが、断酒会がどういう所か私には理解することが出来ませんでしたが、入会して何年か経つうちに色んな人の話を聞くことによって依存症という病気が理解出来るようになりました。
 
私も断酒会に入会して14年になりますが、病気以外の色んなことも勉強させてもらい、私も人間として少しは成長したかなと自分では思っています。
 
私も酒を飲み続けたことによって家族、会社、世間の人たちに迷惑をかけて自分の信用もなくしてしまいました。
 
又信用を取りもどすことがこんなにむつかしいと言うことを思い知らされました。
 
おかげさまで今では地元の役も与えられるようになりました。
 

 終わりに今まで私を支えてくれた人々に感謝して私の体験発表を終わります。
 




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断酒会員には普通の人より何か優れたところがある
 








21.素直になれた私(彦根支部) 





 飲んでいる時、私はいつも、こんなはずじゃなかったと、自分自身を宥め責め、又、今は亡き夫に対して責め続けていました。
 

 28歳から44歳迄の16年間、飲み続けていた私は、とうとう自分自身のどん底を知る事になったのです。
 
その頃、大阪に住んでいたからこの生命、助けられたのだと思います。
 

 子ども達は3歳と10歳でした。
 
私にも少しの母親の心が宿っていたのだと思います。
 
母子寮の先生に、子ども達を助けてはしいと頼みにフラフラの状態で事務所へ行ったのです。
 
その時、私の手には紙パックの鬼ごろしを持って行ったのです。
 

 酒を止めるから、子ども達だけでも助けて下さいと。
 
すると先生は全てを理解されたかのように、だらだら話をする私を受け止め聞いて下さったのです。
 

 次の日、保健所の相談委員の方が来られたのです。
 
その時、私を見て貴方は病気です。だから治療するため病院へ行きましょうと言ってくださり、一冊の薄っぺらい「アルコールと病気」という本を読んでおいてくださいと言って渡されました。
 

 私は部屋へ帰り10歳の娘に読んでもらいました。
 
娘は最初、不安そうな表情で読み始めました。
 
すると途中から娘の顔が笑顔と涙の言葉で私に言いました。
 

 「お母さん、やっぱり病気やったんや」と「治っていくんや」と、その時私も、ようやく素直に治していこうと思ったのです。
 

 そして2、3カ月後、初めて診察へと臨みました。
 
もちろん相談委員の方に、連れて行ってもらいました。
 
酒が切れて間がないから、私の身体は震えて脂汗が出てどうしようもない状態でした。
 
けれど小杉院長先生から「アルコール依存症という病気だから治して行きましょうね」と伝えられた時、肩の力が抜けてホッとしてなんだか、やっと出会えたという思いで素直にこの先生を信じていこうと感じたのでした。
 
その日があったから今の私が生かされています。
 
子ども達に助けられました。
 

 今日の生活を過ごせる私が止め続けてこられたのも、断酒会の皆様に出会えたお陰と改めて感謝の心で一杯です。
 
これからも忘れる事無く一歩ずつ前向きに歩き続けます。
 
ありがとうございました。
 




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節酒は出来ないが断酒は出来る
 








22.アルコール依存症を知らなかった(瀬田支部) 





 子どものころから酒が飲めました。
 
美味しかった。
 
学生の頃には大人に混じって一人前に飲めるようになっていました。
 
大人になって結婚し子どもも授かり普通の生活をしていたのです。
 

 数年後、離婚問題が起き台所で酒を飲むようになりました。
 
離婚後、娘2人と私、3人の生活が始まります。
 
長女6歳、次女3歳でした。
 
生きていくために昼も夜も働きました。
 
この時期にお酒を止めていれば良かったと思います。
 
本当に後悔しています。
 

 しかし、夜はスナックで働いたので酒量は増えました。30代後半になり身体を 壊しはじめ、婦人科の病気、黄症、貧血、膵炎になり入退院の繰り返しでした。
 
その時はアルコール依存症という病気のことは知りませんでした。
 
お酒の飲み過ぎだから量を減らせばいいと思っていました。
 

 そんな時、仕事上のストレスから、うつ病になり、職場に着くと足がすくみ身が震えました。
 
上司に受診を勧められました。
 
うつ病と診断され、7カ月間休職しました。休職中に悩み、酒に逃げ酒量は増え続けました。
 
すでにアルコール依存症になっていたのですが、ますます状態は悪くなりました。
 
仕事に行くために朝から酒を飲むようになり、ついに倒れてしまいました。
 

 それから専門病院に行きアルコール依存症と診断されました。
 
入院してアルコールの怖さを知りました。
 
長女の結婚式が無事に済み、ホッとしたら飲酒欲求がおこり、酒を飲んでしまいました。
 
飲んで飲んで以前より悪くなりました。
 
退院後の飲酒については娘達は知りません。
 
私の事を心配し入院させてくれた娘達に対して申し訳なくて恥ずかしくて情けなくて、消えてしまいたいと思っていました。
 
酒を止めたくても止められず、一人で悩みました。
 
思いきって断酒会の方に電話しました。
 
助けてもらいました。
 

 明日のことは分かりません。
 
不安です。
 
でも断酒会の皆様についていけるように、一目一日心穏やかに生きていきたいと思います。
 




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飲酒に近づく危険の予防のため自己の酒害を常に認識しよう
 








23.今の私(信楽支部) 





 15〜6年前の今頃、身体的にも精神的にもポロポロ状態で毎日いかなる手段でお酒を手に入れようか、暗くなるのを待って人が寝静まるのを確認し、衰弱した体にむち打って自動販売機を目指し、寒く凍りつく夜道を時には倒れながらたどりつき、人目を気にしながら震える手でお金を入れ「ボトン・ボトン」と缶ビールが落ちると慌てて袋に入れる。
 
情けなさと罪悪感は確かにあった。
 
けど止められない。
 

 その頃の私にはどうする事も出来なくなっていた。
 
こんな、私の異常な行動に、二男とその彼女が私を現行犯で捕らえ車に、そして家まで届けられ、折角苦労して買ったビールを目の前で捨てられる私の姿を見て息子は呆れ返っていたのか攻める言葉もほとんど無かった。
 

 酒を隠す事も随分苦労したのですが、あっけなく見つけられ処分される。
 
酒で狂っている私にはとても腹立ちを感じたのは事実でした。
 

 一口呑んでしまうと「どうにでもなれ!」という気分になり食事の準備も何とかなるやろ…毎日そんな無責任な生活を送っていた。
 
申し訳ない気持ちと情けなくて辛くてどうして?解らない?食事も長い間取れてなく体に力が入らない、身体中にアルコールの匂いが漂っているのも自分でもわかってました。
 
トイレに行くことも出来ず、お風呂も少し体調がましなときに入る。
 
その頃の私は今振りかえって見ると地獄でした。
 
又、家族も私以上に地獄だったと思います。
 
明神先生から断酒会への参加を随分勧められました。
 
けれど、呑んで嫌われている事もよくわからず断酒会なんかに行くと世間にバレる・格好悪い・子どもたちに迷惑になるといろんな言い訳をして参加する事を拒みました。
 
断酒会に入会させて頂いてからも何度となく失敗を重ねる私を仲間が県外の研修会又、一泊研修に度々誘ってくださり、そのうち声を掛けて頂いたり握手をして下さったり私の事を覚えて下さるようになり、出かけていく事が楽しみになりました。
 

 研修会に参加する私は楽しかったのですが、やはりその時も家族に迷惑を掛けていた事を反省します。
 

 断酒させて頂くようになって義父の介護もさせてもらい、送ることも出来ました。
 
そして4人の子どもたちもそれぞれ素晴らしい相手に巡り会い、立派な結婚式にも出させてもらいました。
 
今では3人の孫に恵まれたおばあさんにならせていただきました。
 

 人の一生のうちには楽しみは辛い事よりも少ないそうですが嫌な事があっても酒を止めていれば又、嬉しい事も出来るはずです。
 
そんな気持ちの切り替えも出来るようになり、今は明日の段取りが前日に出来るようになり一日中動き回っています。
 
本当に断酒会の仲間の一員にさせて頂き、酒の止め方を皆さんに教えて頂き本当に幸せです。
 




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酒害者に対する奉仕は自分の断酒の糧である
 








24.お酒に捕らわれて(栗東支部) 





 お酒を飲んだのは、中学生の時にふざけて飲んだのが初めての体験でした。
 
高校生になって友達の家でワイワイと飲み酔っ払って寝込んだ後、恥ずかしさと気まずさで、逃げ帰るようにして友達の家を後にした。
 

 アルバイトを始めると自由になるお金が増え、バイト先の先輩にも連れられ飲みに行く機会も次第に増えた。
 
「酔いつぶれては格好が悪い、少々の強い酒を飲んでも乱れない様になりたい」と思う様になり、少しずつ強いお酒を飲んで鍛えていった。
 

 アルバイトはガソリンスタンドだったので1日中走りまわり、体がへトへトに疲れる。
 
しかし、お酒を飲むとさらに深く良く寝つける錯覚に陥ってしまい、お酒を飲んで寝付く癖がついてしまい、飲まないと寝付けない状態になってしまった。
 
今思えば、アルコール依存症の始まりだったと思います。
 

 このお酒を飲んで寝る癖は、社会に出てから、色々なストレスに対処する為の鍛錬も阻害した。
 
毎晩飲んでは酒に酔ったドロドロの中に逃げ込み、お酒によってストレスをごまかす癖も身についた。
 
会社に入っても、その癖は変わらず更に酷くなった。
 

 結婚しても妻を助けるでもなく、夜遅くまで一人で家で待つ妻とは、殆んど会話もせず、また用意してくれた食事もろくに食べずに、酒を飲むだけでした。
 
遠くから嫁いだ妻は友達も無い環境で、あっという間に体調を崩してしまいました。
 
その妻を実家に帰して、義母に面倒を見てもらっていた生活が続いていたのです。
 

 子どもが生まれても飲酒は変わらず、子どもを連れて出掛ける事を口実に、お酒を買いに行ったり、車の中で隠れて飲んでいました。
 
量はどんどん増して体が悲鳴をあげ、ついに入院するに至りました。
 
これまでの生活態度を反省する気持ちさえ全く無かったのです。
 

 断酒会に入会させて頂き、皆さんのお話を聞かせ頂くようになり、ひどい事をしていたと気付かせて頂きました。
 

これもひとえに断酒会の皆様のご指導の賜と感謝いたしております。
 




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仲間の体験を良く聞き、自分の断酒を再認識しよう
 








25.断酒ができた喜び(彦根支部) 





 20年前、主人が山東町議会議員に立候補致しまして当選、その後2期3期つとめました。
 
選挙の時など山のようにお酒があり、又主人も飲み強い人なのでつい私も飲むようになりました。
 

 草津の精神医療センターに行く前には朝からでも欲しくなり、酒の種類はお酒とビールなどです。
 
主人が帰宅しても気付かず叱られる事も度々と回数が増え、主人と若嫁が決断し入院というハメになってしまいました。
 
お酒が大好きで、コップに一杯飲むことが嬉しかったです。
 

 入院したばかりの私は、朝起きた時、同じ部屋のお姉さんが、朝7時になったので環境整備に使うコロコロと濡れティッシュを持って、自分の居るまわりをきれいにするの。
 
次はラジオ体操を教えて下さいました。
 
私の不安もとけて嬉しかったです。
 
結婚以来初めて主人の手紙に涙していました。
 
励ましの言葉や面会でもセンター入所した事や抗酒剤を飲む事もただ一処置でしかなく、自分の心が変わらなければならないと言われました。
 
両親から健康な体をいただき本当に勿体ないことをしてしまいました。
 

 主人は70歳になります
 
一人で食事や身の回りの事をして仕事もこなし本当に頭がさがりますし、悪い事をしてしまったと悔やんでいます。
 
私は主人と家族皆んなにどんなに迷惑をかけたことでしょう。
 
素直になること、くよくよしないで明るく生きていこうと、通院と抗酒剤と自助グループ参加を心から頑張りとおしました。
 

 最後に私の心の中に強く残りましたのが、お酒を飲んでいる頃、主人と若嫁が泣きながら苦しんで居たことです。
 
若嫁が一生懸命私に言い聞かせ、絶対に一緒になって力をかしますから、そばをはなれず助けてあげるからと導いてくれたことでした。
 
喜びと安心に満ちた私は行動を共に歩みつつ進みました。
 

 センターを退院しましてから彦根支部に入会し、例会に出席させていただきました。
 
皆さん一人一人の暖かい眼差しで私を心から迎えて下さり断酒しなければならないこの一言に私は強く感動させられました。
 
御陰様で皆様が良くして下さいます。
 
本当に有難うございます。
 

 これから断酒継続し、二度と酒におぼれることないように、完全断酒で人生を送っていきたいと思います。
 




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家族・同僚の理解を得るために、絶対呑んではいけない
 








26.お酒のない第二の人生(守山支部) 





 私は去年の8月27日に熊本より滋賀に来ました。
 
熊本が大好きな私にはとても考えられません。
 
きっかけは、去年、熊本にある菊陽病院に入院していた時に、今の主人に出逢った事です。
 

 年半前、初めの結婿生活がアルコール依存症への始まりでした。
 
夜、2〜3 本のカクテルから朝酒、焼酎ラッパ飲みへ、なるべく安くて度数の高いお酒へと、坂を転げ落ちるようにエスカレートしていきました。
 
お酒しか体が受け入れず、食事しない為、体重は減り毎日水のような下痢と寝汗が続きます。
 
そしてブラックアウトです。
 

 体が危険サインを発していたのか、去年の1月実家に帰り、離婚後、アルコール依存症専門の先生が理事長を務めていらっしゃる菊陽病院へ自ら入院を決めました。
 
入院中のプログラムで、アルコール依存症を学び、離脱症状を知りました。
 
正に当時の私そのものである事に驚き、私の中の狂った自分を、認めることができました。
 
今、現在、お酒を口にせず、10カ月経ちます。
 
今の私を支えてくださるのは、私が私でいさせてくれる主人です。
 
他人の評価を気にしすぎる私は常に「良い人」でいる事に頑張りストレスを溜め込んできました。
 
お酒に逃げたのも弱い自分が居るからです。
 
しかし今は頑張りません! その日一日を精一杯生きています。
 
断酒も同じです。
 
一日一日の積み重ねが後から振り返ると続いていたと解ります。
 

 アルコール依存症は一生治らない病気です。
 
治すことはできません。
 
私も幾度となくスリップを繰り返しました。
 
その度に離脱が重くなります。
 
それでも今、私は生かされています。
 
私の父母は私を本当に看病してくれました。
 
感謝してもしきれません。
 
私に出来る事はこうして一日断酒と例会出席を今後も続けていくことです。
 
そして笑顔を絶やすことなく生きていくことがお酒に対する薬と考えます。
 
一度失った人生と思い、再スタートしたばかりですが、主人と二人三脚で前を向いて歩いていきます。
 

 最後に、断酒会の皆様と共に、幸せになることを誓います。
 




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断酒会に入会すること
 








27.お酒からの卒業(瀬田支部) 





 私は友人が多く、みんなでわいわい賑やかにしているのが好きで、何か集まるきっかけを作って大勢で飲みに行っていました。
 
もともとお酒には強く、たくさん飲んでも顔や態度にまったく出ないタイプで、先に酔っぱらった人を介抱する役でした。
 

 小さな頃から「しっかりしている」「頼れる」とまわりから見られることが多くて、それが嬉しくもあった私は、いつの間にか誰にも本音や弱音を吐かない、いえ、吐けない人間になってしまっていました。
 

 結婚してすぐ不妊治療を始め、約2年間毎日のホルモン注射・人工授精などの治療の末、待望の長女を授かりました。
 
共働きで、残業の多い仕事・家事・育児を全てこなすのは大変難しく、また完壁主義であった故に、夫はもちろん家族、友人にもSOSを出すことが出来ませんでした。
 

 結果、「双極性障害(そう鬱病)」と診断され、入院。
 
回復後3年はもとの生活でしたが、徐々に溜まっていくストレスから全く眠れない日々が続き、気付けばお酒がないと眠れない、家事などをする気力が出ないという状態に陥ってしまいました。
 
いわゆる「二次障害」です。
 
今度は双極性障害とアルコール依存症の治療の為、今年3月末に再入院しました。
 

 もっと早く「助けて」「しんどい」が言えていれば、家族も私もこんなに辛い思いはしなくて済んだはずです。
 
こんな意地っ張りな私に、家族や友人は「あなたは自分の気持ちを話さないから、いつも淋しかった。これからは何でも話してね」と言ってくれました。
 
「つらい思いをしたね。頑張ったね。もう無理しなくていいよ」とも。
 

 たくさん迷惑をかけた私に、こんな優しい言葉をかけてくれる人がいることを、今は心から感謝しています。
 
これからは、お酒のことで周りを悲しませるような事をしないのはもちろん、私自身ももう少し肩の力を抜いて、私らしい人生を送っていけたらと思っています。
 




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最初の一杯に口をつけないこと
 








28.残された自分、例会出席や(近江八幡支部) 





 私は昭和62年3月2日に大阪の藍陵園病院に断酒会の方に連れて行ってもらいました。
 
その時平野先生に出合い、20分程話しをしましたが、入院はしなくて良いので通院をしなさいと云われて、シアナマイド水薬をもらって帰りました。
 

 それから毎週水曜日に病院に通い、断酒会に3月28日に八幡支部に入会させてもらい、毎日例会をするようになりました。
 
例会は一人で家内はきてくれません。
 
あんた一人いったら良いと云われて滋賀県全支部をまわり、良き先輩の方の話を聞き、2年目にして支部長を引き受けました。
 
その時まだ会社につとめていました。
 
年が経って平成9年の2月に定年退職をする事に成る。
 
34年間勤めた太田鉄工所をやめ百姓に励むようになり、田も多く作るようになり、75反程作ることで忙しい毎日を過ごすなか、平成9年の5月家内とささいな事でけんかになり酒を飲み失敗をしました。
 
すぐに草津のセンターの明神先生にお目にかかりシアナマイドをもらい通院で又例会出席が始まり支部長を滝さんに変わってもらい、9年間断酒が続いていたのに私は馬鹿な男です。
 
又初めからやり直します。
 
一度失敗すると又12年8月に失敗を重ね、その時はセンターに入院することになり明神先生や柴崎先生にやっかいになりました。
 
3カ月勉強させてもらい11月中旬退院をしました。
 
例会出席が始まり、それからは支部の例会に家内が来てくれる様になりました。
 
家族や孫までが応援してくれるようになり私も元気が出てきました。
 
4月にお寺の建てかえがあり新しい立派なお寺が出来たその祝いの時に寺のお坊さんに勧められ42戸の檀家の人に勧められ酒を飲んでしまいました。
 
家内に泣いて怒られ、断酒会の方に京都の岩倉病院に連れていってもらい、加藤先生に会い通院をしてくれと云われシアナマイド薬をもらい2年8カ月程通いました。
 
今現在10年目に入っております。先日7月23日家内キミが胆のうがんで亡くなり、その節は断酒会の皆様にお通夜告別式に見送っていただき有難うございました。
 

 私にとって最高の嫁さんだった。
 
有難う。
 
体が続くまで断酒で頑張ります。
 




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時間励行
 








29.断酒して(栗東支部) 





 断酒会に入会して早くも12年の月日が過ぎたが何をして来れただろうか?
 
ただただ、断酒の月日を積み重ねて来ただけに思えて成らない。
 

 反省、感謝、報恩と教えられて来たが、どれだけ変われたのだろうか?疑問である。
 
確かに飲まない姿で平穏無事な毎日を送れて居るし、仕事もそれなりにこなせて居る。
 
父親は飲まない姿で送る事は出来たが、しかし何をどれだけ償えただろうか?
 

 葬儀の後で出てきた親父の遺言書には大変大きなショックを受けた。
 
孫司には悪いが財産の一切の管理を弟に任せるとの内容だった。
 
断酒して8年近くも経って居るにもかかわらず。
 
それだけ大きな傷を与えて来たのかと改めて思い知らされる事と成ったと同時に、改めて断酒の8年は何だったろうかと考えさせられた。
 

 たった8年位では親父の心は癒えなかったことを如実に物語って居る。
 
それだけの酒害を撒き散らして来たのである。
 
「金と酒はすきなだけ持って出て行け。そしてわからん所で死んでこい」とまで言わせしめた。
 
親父にはどうしても許すことが出来ない思いがあったのだろう。
 
大事なものを一つづつ失う病と言われるが、妻や子どもに出て行かれた時以上に落ち込んだ。
 
長男だからと育てられた自分にとってこれ以上の屈辱は無かった。
 
病とはいえ、親や妻や子どもに成すべき事をして来なかったから天罰と言えばその通りで有る。
 
この事はいまだに心のすみっこに引きずって居る。
 
家族を苦しめた分、私も苦しまなければいけないのか?
 
やって仕舞った事、取り返しがつかない事と踏ん切りがつかない私の心が弱いのか、止め続けてきちんとした生活をして行く意外に償いの術は無いと分かって居ても、何かしっくりとしない心中である。
 

 重い!あまりにも背負った物が重すぎる。
 
許せない自分をいつの間にか背負っている。
 
時々押し潰されそうになる。
 
断酒は気楽に順調に重ねられたのだが月日が経つにつれて重さがのしかかって来る。
 
考えすぎなのだろうか?私の性分なのだろうか?不眠症や鬱はこの延長なのだろうかな?分かっていても今はなす術が見当たらない。
 
しばらく付き合うしかないか?
 
一日断酒、例会出席の日々を続けていたら自ずから道は開かれるか!
 
もちろん微力だが己の努力が有ってこそだが。
 
頑張るしか無いか!頑張るってあまり好きな言葉じゃ無いけど。
 




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仲間に励ましの手紙を書こう
 








30.夜が明けて(彦根支部) 





 はじめまして!
 
私は東京のど真中から両親の猛反対を押し切って滋賀県彦根市に嫁いで参りました。
 
10月1日は結婚記念日。
 
すっかり忘れて居る主人に、出前のお寿司でサプライズ(病気持ちの主人には「毒」なのですが)「こんな田舎にとても暮せない。何度暇乞いをと思った事かとよくぞ45年ありがとう」と言う私に「すまん、すまん、ツイタチやった忘れてたわ」と主人。
 
二人でお茶で乾杯しました。
 

 私が初めてアルコールを口にしたのは、40歳も半ばを迎える様な年齢でした。
 
主人に無理押しされて飲んだ一口が始まりです。
 
その一口がとんでもない事になるとは夢にも思いませんでした。
 

 自分の飲酒が尋常ではない。
 
自分はアル中ではないかと思う様になりましたが、どうしても止める事は出来ませんでした。
 
心療内科に通いましたが期待した効果も出ない中で、腹水が溜り入院。
 
そこで初めてアルコール専門医のお世話になる事となりました。
 
先生から「断酒会かAAに必ず通う様に」と言われて続けておりましたが、何せ田舎の事、世間体を気にする主人は許しませんでした。
 
ずるずると飲酒を続ける私を息子が、保健所のアルコール相談に引っ張って行きました。
 
精神科の先生の面接を受け断酒会、AAにつながれない訳をお話したところ、息子に主人を説得する様にとの事。
 
やっと断酒会に通う事が出来る様になりました。
 

 まさにそれは夜明けでした。
 
長い暗闇がだんだん明るくなり、遠く鈴鹿山脈の山並みから日の出を待つ思いでした。
 
真っ赤な太陽が昇り始めています。
 
希望を、勇気を、決意を象徴しているかの様です。
 
私にとって「断酒会」はそう言う所だったのです。
 
これから雨の日、雪の日、いろいろと有ると思いますが、太陽が私の大好きな荒神山の向うへ沈む穏やかな今日一日を感謝し続ける事が出来ます様に願って止みません。
 

 断酒会の皆様にお逢い出来て本当に良かった。
 
喜びで一杯です。
 
お話を聞かせていただいて感謝!聞いて下さって感謝!
 
 この命をありがとうございます。
 




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全国組織の拡大につとめよう
 








31.人間として、生きていきたい(甲賀支部) 





 酒は、中学生の頃、父の妹が遊びに来た時、私の実家の近所のスナックに連れて行ってもらい、「コークハイ」を初めて飲んだ。
 
口当たりが良く、沢山飲んだ。
 
気分が良くなり沢山の話をし、その後吐いた。18歳の頃からは、仕事仲間と居酒屋で飲んだ。
 
主にビールで、つまみは取らずに付き出しだけで飲む。
 
それが、「カッコイイ」飲み方と思っていた。19歳の頃知り合った女と結婚し、女の子2人を授かったが、毎日晩酌をベロベロに成るまで飲んでいた。
 
美味しく感じるよりも、以前やった「シンナー」の「快感」を思い出した。
 
その後、酒が原因で離婚。
 
内心ホッとした。
 
私は自己中心的な人間で、その後の生活を考えると、なんか不安な気持ちだった。
 
しかし娘2人の事は、今でも愛しく思っている。
 
その部分だけが、私に残された人間的な思考。
 

3 0歳の頃から、休日になると昼酒をするようになり、飲まないと落ち着かない、物足りない、アルコール依存症の序章の始まりだ。
 
この頃から平気で飲酒運転をするようにもなった。
 
友人、会社関係の飲み会なども、会が始まるまで、酒が待てない、ゆっくりと、「ブレーキ」が壊れていく040歳の頃、急に仕事に行くのが、億劫になり、会社の近くの駐車場で缶チュウハイを飲み、会社の留守電に休む用件を伝え、ホテルに1人で入り、大量の焼酎と睡眠薬を持ち込み、飲んで、そして眠った。
 
もうどうでも良かった。
 
ただ休みたい、眠りたいそれだけだった。
 
連続飲酒の始まり、無気力、無関心、会社が遠くに見えた。
 
週間風呂にも入らず家に帰った。
 
その後、水口病院に任意での入院、1週間で退院する。この時、主治医に言われた事、酒は出来るだけ断酒した方が良いと言われ月に1回のカウンセリングに来いと言われた。
 
断酒に挑戦するが、1カ月でスリップ、元の状態に戻った。
 
この時から仕事に行く前に、缶チュウハイを飲み仕事に行く、昼位には離脱が起こり、昼飯が食べれなくなる。
 
吐き気もする。
 
仕事が終わり、帰りには、缶チュウハイを買い、飲みながら帰る、部屋に入り焼酎を飲む。
 
心底、怖かった。
 
酒やめたいのに、やめれない、泣きながら飲んでいた。
 

 会社では私が酒の匂いがすると、上司に言われ最後の「チャンス」をやるから、きっちりと治して来いと言われ、草津の県立精神医療センターに今年の2月に2カ月の入院生活をする。
 
やっと酒が止められると思った。
 
この時入院で「ARP」を選択し、自助会の参加で初めて草津の例会に参加させてもらった。
 
体験談を聞き自分と共感出来る所もあり、酒を止め元気に人間らしく生きていきたいと思うようになった。
 
退院後は甲賀支部に入会、酒が止まっています。
 
断酒会は酒を断つだけではなく、人としての生き方も教えてくれる場だとも思います。
 
まだ始まったばかりですが、一日断酒で頑張ります。
 




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厳しさのないところに断酒なし
 








32.断酒例会に思う(栗東支部) 





 梅雨の時期から暑い夏にかけて、私にとって戒めの季節になる。
 
酒は若い時から眠るために飲む酒に変わっていた。
 
夜半でも暑さで寝苦しく、起きたときは酒を追加して飲む、もう数時間で起きねばならないのに飲まずにいられなかった。
 
起きた時は体が気だるく、寝汗もひどい状態。二日酔い、それでも若い頃は休むことなく出勤していた。
 

 そのような生活のなかで、35歳の夏、盆の帰省から帰って数日過ぎた休日に、妻から目が黄色いと言われる。
 
盆に帰省の折、親から様子がいつもと違う、病院に行くようにと言われたこともあり、仕方なく成人病センターで受診する。
 
γGTPが1200あり即刻入院となる。
 
その年は滋賀県で国体があったのを記憶している。
 
若いせいもあり数値は短期間で改善し、仕事のことも気になり4週間で退院した。
 
暫くは体調が戻るのと同時に精神状態も良くなり酒を飲むのを控えていた。
 

 しかし仕事で忙しくなるのと同時に少しぐらい良いかと勝手な判断をして飲酒、元の状態に戻るのも短期間であった。
 
入院でたがが外れたのか、「酒で仕事を休むのは男じゃない」と人にも言っていたが、翌年には酒のために休む日が出てくるようになっていた。
 
会社に休暇の電話をし安心して又酒を飲む。
 
その頃から朝、出勤時に酒を少し入れないと体がだるくて行けない日も出てくるようになっていた。
 
徐々に休む回数も増え会社の上司からも度々注意を受けるようになっていた。
 
重要な仕事が入っている時にも休むことが度重なる中で、重要な仕事からは除外されるようになり、余計に酒に囚われていった。
 

 生きて行くのも厭になり、死ぬことばかり考えていた。
 
そのような中で家内が日赤病院に相談に行き断酒会を紹介された。
 
断酒会で専門病院を紹介され、会社の上司からも体を治せと最後のチャンスを頂いた。
 
過去3度の入院も夏の季節、忘れることなく例会出席を行いたいと思います。
 
共に体調を崩さず例会出席で頑張りましょう。
 




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実践第一
 








33.断酒会を大切に(甲南支部) 





 平成4年3月13日、初めて「断酒会」という言葉を妻から聞かされました。
 
まだアルコール中毒(依存症)が病気であることが診断される前に。
 
自分も家族もアル中に間違いないと思いながら、まして自分で白旗を揚げておきながら、まだ酒を飲み続ける姿を見て保健所に相談し専門病院を紹介された様です。
 
「病院に来る前に一度『断酒会』というのがありますから見学しておいてください」と病院のケースワーカーに言われたそうです。
 

 丁度、甲賀支部の例会日でした。
 
入院3日前のことです。
 
結局、隠してある酒を全部飲み干してブラックアウトになり行けなかったのですが、その後3月16日に受診入院となりました。
 
1週間の解毒のあとに多くの仲間がいる道場入りとなった訳ですが、そのときの大部屋には入院患者の氏名、退院予定日そして入会するであろう断酒会名(支部名)が書かれてありました。
 
もちろん私の名前の後にも勝手に甲賀支部と書いてありました。
 
そのときの気持ちがいつも体験談で話しているような精神状態でしたので、別に何の感情も無い、むしろ帰ってからの居場所があったというなんとも不思議な気持ちだったように思います。
 
このときの素直?な精神状態がその後の入院中の例会出席、退院後の断酒会の入会、毎日例会に繋がっていったように思います。
 

 退院しても家庭にも一般社会にも居場所がありませんでした。
 
断酒会が唯一の居場所でした。この断酒会に身をおき続け現在があります。
 
体験談を語り続けることで断酒とともに回復も少しづつ続けられています。
 
断酒も回復も死ぬまで続けなければなりません。
 
その為には断酒会は絶対に必要です。
 
断酒も回復もなくして我々は普通の人間には戻れません。
 
昨今の厳しい社会情勢の中でも私たち依存症者は忘れては(怠けては)ならないのです。
 
酒害者も家族も断酒会を大切に、利用してください。
 

 最後に一言、家族が酒害者に気を使っているようであればお互いに真の回復とはならないのではないのでしょうか?。
 
洒害者は今まで多くの人たちに、特に家族に迷惑をかけてきました。
 
その分今は周りの言動に耐え続けなければなりません。
 
この辛い気持ちも断酒会に身をおくことによって少しは楽になる筈です。
 
断酒会を信じましょう。
 




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他力による断酒ではなく、自力・自覚の上に立つ断酒であること
 








34.仲間と共に(草津支部) 





 私は連続飲酒から抜け出せずに身も心もポロポロに成り、このまま酒を飲み続けていたら、何れ遠からず行く所迄行ってしまうと思いました。
 
何とかして酒を止めなければと、断酒に挑戦しましたが、何度挑戦しても気が狂いそうに成り気が付いたら酒を飲んで居ました。
 

 私は何んでこんなに意志が弱いのだろうと思い悩むばかりでした。
 
もう、どうする事も出来なく成った平成3年の6月初めに、琵琶湖病院に入院させて戴きました。
 
そして1カ月後の7月の初めに退院させて戴き、直ぐに草津支部へ入会させて戴きました。
 

 今から思いますと私の飲酒は、自分の持って居る本当の姿以上に、他の人に対して自分を良く見せ様と見栄を張り肩肘張って、頑なな態度で自分の事ばかり考え、周囲の人達に対して思い遣りが全く無く生きて来たと思います。
 
自分の本当の姿を人に隠し続ける努力の為に、神経を費やし心身共に疲れ切った日々でした。
 
身体の疲れと心のイライラを牽(ぼか)す為だけの飲酒で、只酒を胃に流し込んでいるだけでした。
 
ぼかす為の飲酒も段々と効がなく成って行き、酒量が増え続け酒の地獄に引き込まれて行きました。
 

 断酒会に入会させて戴き例会に出席して仲間の体験を聞き、自分の過去を語り続けて居るうちに、親としての責任、夫としての責任、そして社会的な責任が全く無かった事に気付かせて戴きました。
 
断酒会に入会してから何度も挫けそうに成りましたが、仲間の皆様の支えと励ましのお蔭で何とか踏み停まる事が出来ました。
 
そして自分の本当の姿を曝け出す事で身も心も穏やかに日々暮らす事が出来る様に成りました。
 
仲間との絆を大切にして支え合い語り続けて行かなければ成らないと思います。
 

 私はこの8月で断酒継続20年に成ります。
 
ここ迄断酒出来たのだから「もう大丈夫」だろうと思った時が、アルコール依存症者の一番危ない時で有ると言う事を忘れないで、肝に命じて頑張り続けて行きます。
 




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失敗しても悲観するな、成功への糧とせよ
 








35.ありがとう 断酒会(守山支部) 





 自分が頑張ってきて、時代の波に乗ってここ迄成長して来た会社に、自分のミスで嫌になり退職届を提出して、社長が止めてくれているにも関わらず退社しました。
 

 在籍中の自分の飲酒はどうであっただろうかと反省すると、積算する時、手が震える、数字が書けない、人と話をする時は横を向く、又、(酒の匂いがするか確認する為に)一息ついてから話す、勤務時間が済むのを待って従業員の詰め所へ行き酒を飲んで、2次会として夜の町へ行くことばかりしていた自分であった事を思い浮かべます。
 

 退社と同時に連続飲酒がやってきました。
 
初めの内は3〜5日、日々が過ぎて行くにつれて、15〜20日と連続飲酒の期間が長くなっていきました。
 
その間に、家内がパートから帰って来て言いました。
 
「又仕事もせずに酒飲んでいるのか。止める、止めると言って何時になったら酒止めるのや」何回となく言われ続けました。
 

 言われる毎に「ゴー」を湧かして酒を飲んでいました。
 
「ゴー」を湧かすのは酒を飲みたいからだった事が、今、分かりました。
 

 その中で、吐血して継母の霊前で「お母、もう自分は死ぬの違うだろうか」と嘆いたのを境に、家内が町医者に相談に行き、入院する運びとなりました。
 
療養中にはいろいろな事が初めてで、戸惑いながらの日々でした。
 
そんな時、臨床心理士さんの勧めで断酒会を知りました。
 
家内が丁度面会に来ていた時でしたので、子供と一緒に例会に行き、内容を録音して次に面会に来る時に持参してくれ、と頼みました。
 
次の面会の時にそれを受け取り、隣の人の録音機を借りて聞き入りました。
 

 退院すると主治医から「断酒会に入会しなさい」と言われ、言われるままに入会して今日に至ります。
 
先輩からは例会の他に終了後のコーヒータイムで様々な事を学びました。
 
自分自身の理解と物の見方、判断力の養いを学べたと思います。
 
今日迄には幾多の事がありました。会に大きな迷惑を掛けた時もありました。
 
大声を出して嘆いた時もありました。
 
皆さんに声を掛けて頂いて元気になった時もありました。
 
研修会が終り、帰宅した時に「ご苦労さまでした。共に頑張りましょう。」とお電話頂いた時の事も思い浮びました。
 
今日迄、私を生かしてくれた断酒会。
 
一般社会人に今も育ててくれている断酒会。
 
「お陰さまで、ありがとう」の言葉を言わせてくれる断酒会。
 
生きる限り『ありがとう。断酒会』
 




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消極的だが初心者は酒席に出ないこと
 








36.断酒会に感謝(長浜支部) 





私が完全断酒に踏み切り、即断酒会に入会し、お世話になりましてから、早や満6年半が経過致しました。
 
断酒以来、今まで酒に満たされた体の各所から酒が完全に抜き去りました。
 
そのお陰で今まで酒に冒されていた各臓器が、酒のない本来の機能まで立ち直ることが出来、全く快適そのものの体に復帰することが出来ました。
 
現在体のどの部分も異状無く健康そのものの状態で生活が出来る様になりました。
 
心から断酒してよかったとつくづく感じ入っております。
 
私の飲酒歴は30代頃から始まりました。会社の仕事が外勤(外まわり)の営業に移ってからです。
 
担当地域とディーラー(代理店)を任され高額の目標(ノルマ)を持って販売受給活動に専念することになり、目標達成の為、毎日得意先の社長、仕入部長を相手に接客営業をやむなきにいたり、飲酒生活が始まりました。
 
連日連夜の多量飲酒で、知らない間に酒によって各臓器が冒されていきました。
 
先ず最初は脳障害による強烈な震えの発作におそわれ歩行困難となりました。
 
入院してすぐ処置して頂き、すぐ復帰できました。
 
退院して仕事の関係で飲酒生活に人らざるをえず又毎日多量飲酒の連続でした。
 
今度は自覚症状がないままに大腸のポリープが巨大発達していて大腸を塞ぎ込む腸閉塞に落ち入りました。
 
早速入院し開腹手術でポリープに被われた大腸を切断切除し残った大腸をつなぎ合わせるという大手術を受けました。
 
60日入院しました。
 
お陰様で除去されたポリープが病理センターで良質と判定され生きながらえることが出来ました。
 
最後に腎臓をいため腎臓結石におち入り石の排泄に苦労致しました。
 
30日入院で完全に復帰することが出来ました。定年退職後、朝から飲酒が出来喜んで飲んでいるうちアルコール依存症に落ち入り、急激な進展でついに急性アルコール中毒症にて死を迎えることになりました。
 
幻聴幻覚で「あの世」を垣間見て本当に自分は死んでしまうのだという恐ろしい局面を認識しました。
 
「助けてくれ〃」と絶叫して立派な先生の処置にて再度この世に戻して頂くことが出来ました。
 
「もう金輪際酒は飲まない」と強く自分に誓いました。
 
先生のお勧めにて、断酒会に入会し、今日まで会員の皆さんのお陰で完壁な断酒生活を送ることが出来ました。
 
断酒会に心から感謝申し上げます。
 




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姓名を堂々と名乗り、断酒会員であることを明確にせよ
 








37.すべってころんで又起きて(堅田支部) 





 平成11年8月18日、断酒同友会に入会した私はする事も無く、居場所も定まらず、只一心に断酒会の毎日例会へ通うだけでした。
 
得るものも多少は有りましたが、私語雑談の飛びかう例会が腹だたしく、人の語る貴重な体験発表が寝言を聞いている様な、酒飲みの管巻きの様にしか受け取れなかった事を想い起します。
 

 ケ月表彰を貰った時、1年表彰を貰う人より表彰状が小さい事、妻の名前が他人の名前になっていた事、等々、この会に対して不信感と矛盾を強く感じていたなぁ−と今でも思います。
 
そんなこんなで1年経過して、体験発表は自分は人より酷い事を自慢に語って自己満足して居ました。
 
どうだ自分はお前等と一段違うアル中だ≠ニ一人自慢に誉めてたし、また得もなしと言われますが多分他の断酒会員に顰蹙(ひんしゅく)を買って居たと思います。
 

 月日は流れ5年たち体調は元通りに成り、会の内容も理解が深くなった頃、昔の我が我がの悪心が芽生えていました。
 
6年3ケ月琵琶湖一泊研修の日、些細な事で腹を立てスリップ。
 
岩倉に入院、一口飲んだら一週間で一升酒、振り出しに戻るでした。
 
3ケ月で退院、以前にも増して県外研修会、松村断酒学校等に通い通しての断酒復活でしたが平成18年又々スリップ、私の失敗は秋のそよ風が吹く頃ススキが穂を出す頃に全て失敗しています。
 

 19年9月にまた岩倉病院に里帰り、酒は断てたが今度はウツ病が発症、正月も岩倉で年を越し20年6月やっとこさで退院。
 
現在に至っています。
 
断酒が続くと思い上がる自分を戒めて一日の時の使い方、そして心の病気である事を改めて思い知らされました。
 
酒は止まったがパチンコやギャンブル等々に狂って私より早く死んで行った人をこの10年でいやという程見て来ました。
 
仲間の言葉に励まされ鍛えられて来た年月、残り少ない人生を大切に生きようと思っています。
 




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各人の性格の相違を認め、各人が自らの体験を通じて体得せよ
 








38.子供たちの夢を奪った私の酒(長浜支部) 





 「お父さん今日は飲まずに帰って来て、家で準備しているから」「ウンわかっている」毎朝の言葉でした。
 
それが夕方飲んで帰ってしまう。
 
飲んだ、飲んでいないで喧嘩が始まります。
 
母も心配して何か言おうものなら、大きな声で怒り、物を言わせない。
 
そんな私達を見て、子供達は友達を家へ連れて来ることが出来ませんでした。
 
私のいない時子供達は、妻に何でそんなに喧嘩するの、他所のおじさんやおばさんは、そんな事いっていないでと言っていました。
 

 その頃から子供心に、結婚に対しての疑問がわいて来たようです。
 
夕食の時でも早く食事を終えて部屋へ行ってしまいました。
 
私も若い頃の酒は陽気な酒でしたが47才から3年間、宮の世話を務めさせて頂き、その頃から昼酒を覚えてしまいました。
 
50才を過ぎてからは、酒を飲むと腹が立ち愚痴っぽくなり、同僚の仕事にケチを付けては毎晩妻を困らせていました。
 

 そんな言い訳をしながら、時々会社で昼休みに酒を飲んでいました。
 
事務員や妻の忠告を聞かず会社をクビになり昔の仕事に返りましたが、面白くなく益々酒に溺れていきました。
 
妻も見かねて長浜の日赤精神科へ通い、そこで断酒会を教えて頂き入会させて頂きました。
 
入会して4カ月の時、母が心配しながら他界しました。
 
それから私も一生懸命断酒をして1回、3年の表彰を頂きましたが、スリップをしてしまい、それからは糸が切れた凧みたいになり、ワンカップを年に2、3度再飲酒する様なことになってしまいました。
 

 今は反省と後悔ばかりですが、もう取り返しがつきません。
 
今後は残り少ない人生を出来るかぎり努力して、断酒と人間性を少しでも取り戻し、妻や子供達に一寸でも明かりが見える様、ガンバッて行く覚悟です。
 
どうかよろしくお願いします。
 




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お互いが欠点や失敗を話し合って裸の触合いが出来るように努めること
 








39.知らなかった「断酒会」(八日市支部) 





 私の酒との付き合いは、25歳になった時、旧蒲生町の青年団団長をさせて貰ったときです。
 
毎日の様に公民館に行き、団員と語り、終わるのが午後10時頃ですが、それから私の家に集まりビールを飲みながら夜遅くまで話をしていました。
 
わたしはその頃あまり飲めなかったのですが、仲間と楽しい時間を過ごし、明日の仕事に張りが持てました。
 

 私の仕事はJA職員で色々な仕事をし、組合員と会話するのが楽しく、時間外はセールスで各家庭を訪問し、貯金、共済等の勧誘をしておりましたが、ある組合員からは、酒やビールも頂くこともありました。
 
2人ペアで推進していたので、帰りは飲まなかった方が運転をします。
 

 若い頃は晩酌をしていなかったのですが、40歳を過ぎる頃から毎日晩酌する様になり、酒に強くなっていきました。
 

 退職後、仕事も偶にしかなく、朝から飲む様になりました。
 
昨年6月、JAの健康診断で大腸にポリープが発見され、入院してファイバーで切除して貰い、3日間で退院しました。
 
その日、車を運転して、1人で帰るのですが、走っていると電柱が警察になったり、信号や目印にしていた建物が近くに行くと消えてしまい、家への帰り道が分からなくなってしまい、見ず知らずの家に飛び込んで事情を話し、夫婦のお世話で車と私を送って頂きました。
 

 それが幻覚症状だったのです(あとから解りました)それからも毎日、朝・昼・晩と飲むことが続いた為、これではいけないと私は思い、昨年8月八幡青樹会病院で、家内や子ども夫婦と共に診察を受けました。
 

 その場で初めてアルコール依存症と言われ、即入院しました。
 
退院後は断酒との闘い、知らなかった断酒例会に家内と2人で出席しております。
 

 断酒して、まだ10ケ月余りですが、今年9月には断酒1年の表彰を頂けるように、それを励みにして「1日断酒」で頑張って行きたいと思っております。
 




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酒の奴隷になるな
 








40.時が経つのは早いもので(信楽支部) 





 「信楽支部ですが、京都の城陽から来ている松尾です。よろしくお願いします。」が、いつも体験談の出だしの私も、滋賀県断酒同友会に所属して10月で6年、断酒継続8年が経とうとしています。
 

 岩倉病院に入院していたのが8年前、初めは平安会大久保支部に2年居て、仕事の関係で信楽支部に移りそれから6年。
 
色々と私生活でも辛い事にぶち当たり、決して平坦な道ではなあ…と振り返っております。
 

 人生の歯車が狂いだしたのは28才の時。
 
それまで付き合っていた彼女との結婚話が、両親に潰された時からでした。
 

 私は長男で彼女に「実家の仕事を継ぎたい」と言われ、苗字が変わらなければ問題ないと思いながら、両親に話しました。
 

 両親は「向こうに行くのは養子と同じ事がわからんのか?」と私を怒鳴り、彼女の両親を怒鳴りつけ、私が真剣に悩んでいる横で「慰謝料はいくら用意すればいいのやろ?」と話していました。
 

 決定的な言葉は「お前が出て行くのなら、それでいい。但し妹に養子を捜してから行け。」というものでした。
 

 自分のせいで妹にまで迷惑はかけられないと思った私は、彼女に別れ話をするわけですが、彼女の「私の青春返して」の言葉には、本当にこれで正しいのかという怒りややりきれなさを感じました。
 

 それからの私は、仕事依存になっておりました。
 
それまでもかなり残業が続いていたのですが、自分でもおかしくなっていたのは今になればよくわかります。
 
29才の夏に1人では抱え切れない仕事を受ける事になり、途中で倒れてしまいました。
 
1週間自宅で療養し、会社に行った時にある部長から言われた「お前が倒れたおかげで、周りに迷惑がかかっているのがわからんのか?」の言葉に、私は完全に自暴自棄になりました。
 
それからは、会社の定時になればさっさと帰り、まずは居酒屋、そしてスナックに行く生活が始まりました。
 

 アルコールで頭が狂い、自分の貯めてきた財産を失い、岩倉病院にとにかく逃げてしまいたいという思いで入院しました。
 

 それから、これだけ狂った行動をしたのはお酒のせいだと入院しているうちに自分でも分かり、アルコール依存症について勉強させて頂き、断酒会のみんなの中に居させてもらい、何とか自分があるのだと感じています。
 

 これからも、驕る事なくみんなの後について仲良くやっていきたいと思っております。
 




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断酒会員であることを誇りに思え
 








41.断酒するための3つの約束(彦根支部) 





 私が酒を飲み始めたのは、会社の仕事で夜勤が始まり、昼眠れない時に夜勤帰りで、朝酒を飲んで眠る習慣がつきました。
 
35才頃のことです。
 

 田舎なので行事がある毎に終わりに酒を飲む習慣があり、いつも酒を飲んでおりました。
 
段々と酒が飲みあがって2次会、3次会とあちこちと飲み歩くようになりました。
 
定年になって時間のゆとりが出来、朝昼晩と酒を飲み続け、体も大分弱り食事も余り食べられなくなり、皆から痩せたねと言われるようになりました。
 

 家族が心配して町の福祉の人に相談をしたところ、酒を止める相談所があると聞き、福祉課に行ってみました。
 
すると彦根の保健所に、役場の人が一緒に行ってくれ、相談をしました。
 
その時、家族、娘、孫も一緒に相談にのってくれました。
 
そして滋賀県立精神医療センターの石川先生の診察で、初めてアルコール依存症であることを知りました。
 
「病気だから治りますよ」とおっしゃいました。
 

 孫が「じいちゃん、長生きして欲しい」と私に言ってくれました。
 
それを聞いて私の心が動きました。
 
先生に来週にでも診察を受けよと言われ孫の勧めで石川先生にお世話になる事になりました。
 
看護師さんは松田さんという方で、私の相談に常にのってくれました。
 
1週間、2週間たってセンター生活になれ、部屋の仲間も出来、毎週の課題もひとつひとつ勉強になりました。
 

 2ケ月の入院生活を終え、石川先生に、薬と通院と断酒会に行くことの3つの約束をして帰って来ました。
 
入院生活の間も、草津、瀬田支部の断酒例会に出席して皆さんの経験談を聞かせていただきました。
 

 今まで皆さんに迷惑をかけ、飲酒運転を続け、反省することも多くあります。
 
これからは石川先生との約束通り通院と薬と断酒例会に出席することで、努めて一日一日断酒する事を願っております。
 
しかし、いろいろな行事や酒の誘惑が多く、常日頃苦しんでおります。
 
断酒会に行って励まされ、3ケ月の断酒表彰も受けました。
 
これからは誘惑に負けないよう努力して断酒例会に出席したいと思います。
 

 家族や孫を裏切らない日々を送りたいと思います。
 




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どんなことがあっても会から離れるな
 








42.ごめん和代(草津支部) 





 暑い夏は嫌です。
 
あんたはアッという間に40年の生涯を閉じましたネ。
 
癌を隠し続けてゴメン。
 
言い残したい事が沢山在ったでしょうネ!
 

 「最後に何と言うの?」と3人の娘達が聞いた時、「「ありがとう」それだけ言ってやってくれ」と頼んだら、泣きながら耳元で医大中に聞こえる大声で叫んでいたの、聞こえたのかなあ?
 
一人二役で超多忙だったけれど、充実した日々を4人で暮らしていたよ。
 
3人共大学、2人は留学(逃げたかった?)、社会人と育ってくれ、あんたとの約束は果せたのかなあ。
 

 台所仕事の内に酒を飲む様になり、それも朝酒飲んでた気がする。
 
量が増えていき、止めたくても止められなかった。
 
子供が泣いて頼んだが酔い潰れてしまう様になったよ。
 
何故や?私だけがそう思いながら酔っ払っていた。
 
只酔いたかっただけ、苦い酒でした。
 
妻の代わりは捜せばあっても、母の代わりはこの世にはもう無い。
 
「私達の方がもっと辛いのに。」そんな子供達の声も私の耳にも頭にも届きませんでした。
 
「お母さんは痛みをこらえて一日でも生きようとしたのに。」「何やこの有り様は。もう死ぬで。」「私達天涯孤独やわ。」横で声を聞きながら酔っ払って寝ていました。
 
もう何もする気もせず廃人。
 
「昔のお父さんに戻って。」何度言われても、酒は私を乗っ取っていました。
 
苦い酒、意志が弱かっただけ、弱虫の正体が出ただけ、酒で本性が出た。
 

 和奈の結婚の日が決り、どこで捜して来たのか医療センターへ入院となりました。
 
仕事・家庭崩壊寸前、子供日く神様の様な先生、天使の看護師さん、良き病友に巡り会い、何とかアルコールの勉強をして、今こうして報告しています。
 
朋未も11月に結婚します。
 
あとは有希だけ。
 
出会った年月より別れたのが長くなりそうです。
 
断酒会の炬燵の中にも入れて頂き、いろいろな話を聞いて甘え逃げ、そんな自分を見つめ直してます。
 
以前の生活には戻れませんが、それ以上の生活は出来そうです。
 
暖かい仲間と一緒に一生酒は止めるヨ!
 
あんたを何とかあきらめられたんだから、酒もあきらめます。
 
今迄の醜態、子供の泣き声、あんた全部見てたんやろう、天国から。
 
いやきっとそうだ!
 
断酒会の皆様ありがとう。
 




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43.再起発奮(近江八幡支部) 





 社会人になり、飲む機会が増えるにつけ、徐々に飲むことが日常茶飯事となり、アルコール依存症となり、2度の入退院を経験しました。
 
酒は自分自身のみならず家族・会社にも悪影響を与え、最後は自願退職した現在の私です。
 

 私のアルコール依存症は単身赴任が始まってからひどくなっています。
 
この病気で2度入院したのも赴任先です。
 
家族から離れ一人暮らしになれば酒を一人で飲んでいる限り誰からも非難や助言もありません。
 
単身赴任専用アパートは食堂はついているもののほとんど外食でした。
 

 疲れを癒すためビールから始まり焼酎を追加し食事もツマミ程度のおかずだけで帰宅する毎日でした。
 
帰宅後は一人静かに本や雑誌を読むか、唯一の趣味であるギターを弾いていました。
 
しかし目の前には酒がやはりおいてあります。
 
やはり孤独だったのでしょう。
 

 やはり一人で断酒するのはむずかしい。
 
アメリカの会社では通常、夫婦共働きであれば奥さんの希望する現地の会社で働けるように斡旋するそうです。
 
日本では家族という大切な基盤までも無視されることに関してはいかがなものでしょう。
 
高度成長期が終わり景気低迷する中、アルコール依存症やうつ病が社会問題になっていることには社会生活の基盤さえも、もぎ取られるのではないかと思わされる今日です。
 
しかし私の人生はまだ終わっていません。
 

 私の断酒継続には生活する上でいかに時間を使うかが大きな課題です。
 
頭の脳には色々な事が記憶されています。
 
連続飲酒という悪癖もまだ五感の中に潜んでます。
 
皆さんも飲酒欲求に対しての誘惑対策を講じておられるかと思いますが、私の対策は無理せず何かに没頭することです。
 

 現在、私は非常勤で元の会社で働いています。
 
この会社が好きです。
 
20年間勤務しましたが、人生一度っきりです、このままでは親も家族も社会もアル中で職を失い、家族や会社に迷惑をかけた男という経歴を残したまま予後のみならず死後も語りつがれるでしょう。
 
私はそれが嫌なのです。
 
もう一度社会復帰し、正社員として信頼を取り戻し再起発奮したいものです。
 




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酒害者の最後の一人までも残すな
 








44.家族に感謝(栗東支部) 





 断酒会に入会して4年6カ月、自暴自棄になって家出をしていた私を捜し出し、入院させてくれて、酒を断つ事が出来た日から4年10カ月経ちました。
 

 この間、1度もスリップする事なくこれたのは、家族と断酒会のお陰だと思っています。
 
なかでも家族、妻には本当に感謝しています。
 

 入院する以前の私は、何度も酒の事で喧嘩をし、離婚話が出て、その度に「もう酒は止めるから」と言って、誓約書まで書いたのに、次の日には、欲求に負けて飲んでしまう。
 
明日には止めようと思いつつ、実際は酒量が増える一方でした。
 
治したいと頭の片隅で思いながらも、飲んで帰る毎日、何年かそんな日々が続きました。
 
その間には、内科入院が1度、全く懲りない私でした。
 

 家出をして、家族に見つけてもらった時も、今、帰ったらもう飲めなくなる、いやもう1本だけ飲みたいと、車に閉じこもって反抗したものですが、時間が経ち、酒が切れてしんどくなり、ようやく観念し、家に連れて帰ってもらい、翌日、済生会病院に入院、弱った身体を治し、その後、県立精神医療センターに繋がり、断酒会を知り、今に至っています。
 

 あの時、私を怒らずに受け入れ、身体の事を、心配してくれた妻に、本当に感謝しています。
 
断酒会も今の私にとって支えとなっています。
 

 酒害は周りの人達を巻き込みます。
 

 私を救ってくれた家族、そして自分自身の為にも、1日断酒、例会出席を、続けていきたいと思います。
 




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素直な心で話を聞こう
 








45.感謝の気持ち(彦根支部) 





 私は39歳〜55歳迄飲みつづけて16年4カ月になります。
 

 その間、飲酒運転事故を起こし免許取り消しになりました。
 
家族と会社の社長にはたいへん迷惑を掛けました。「1年間取り消し」
 

 私は飲酒運転事故を反省し、そして仕事以外運転しませんからと長兄(兄)に2 度目の免許証をお願いしました。
 
2年後私は週末休みになるとギャンブルをしていました。
 
勝っても負けてもいつも行くお店の居酒屋で毎日飲んでいました。
 
当時は趣味もなく弟や会社の同僚に裏切られた事でお酒の量が多くなりました。
 
そして今年平成22年5月10日社長に呼ばれて、もう身体を直すしかないと言われました。
 

 社長が精神医療センターに入院の手続きをしてくれまして私は入院しました。
 
9週間のアルコール依存症の治療をしました。
 
入院中はいろいろと勉強させていただきまして感謝致しております。
 

 自助グループへの参加、スポーツ、練歩=文化ゾーン一里山コース、月一回の大練歩6月3日でした。
 
生涯忘れる事なく素晴らしい体験でした。
 
6月27日2泊外泊初日私は自分自身に負けてしまい再飲酒しました。
 
院長先生に謝りまして24時間反省病棟で反省しまして、私は主治医の芝崎先生にお願いしまして残りのプログラムへの参加をできた事に有りがたく思っています。
 
担当の鎌田看護士さん、スタッフの看護士さんの皆さんに本当にご迷惑を掛け、また色んな面で勉強させてもらい有りがとうございます。
 

 月9日に退院しました。
 
院長先生の言った言葉を忘れずに。
 
私は兄に入院の時も雨、退院の時も雨、兄にごめんなさいと言いました。
 
これはお前への恵みの雨だと言ってくれました。
 
7月9日金曜日彦根支部に入会しました。
 
10日に仕事復帰でき今現在遅刻、欠勤はもちろん休まずに働いています。
 
これも断酒会に出席又各支部長さん初め先輩の方々の体験談のお話を聞く事によって飲酒欲求もなく現在アルコール飲みたいと言う気持ちもおこらず身体も健康に回復して有りがたく思っています。
 




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1年半したら会の運営に参加しよう
 








46.意識が無くなった日(瀬田支部) 





 初めてお酒を飲んだのは23歳の時。
 
勤労学生で下宿へ帰るのが夜遅く睡眠剤代わりでした。
 
そのうち酒量も増えていった。
 
結婚してからは帰りの前に酒屋で一杯、帰る途中で一杯、家に帰ってからは腰を落ちつけて飲む毎日で、60歳の定年まで飲めない日はあっても休肝日は無かったです。
 

 梅干1個でコップ酒3杯の口で、余り食べずに飲む、風呂に入らずに寝る生活で家の中に会話が無いと言われていた。
 
自分だけ陽気になり我、関せずで飲むだけでした。
 
このため二日酔いで月一回位、会社を休んでいた。
 

 問題は定年になってから。
 
無職となり朝から飲む、昼寝をして夕方から飲む毎日で、しんどくなり、下痢をし、食べられず体重が減っていく。
 
足がふらつき外へ出られない。
 
家内に連れられ初めて精神医療センターへ行き「アルコール依存症、抗酒剤、断酒会」を知った。
 

 通院し、断酒会へは一般参加させてもらったが4カ月程でスリップした。
 
これが呼び水となり飲み始め、量も増えた。
 
体調が崩れまた断酒する。
 
何回もこれの繰返しだった。
 

 ある日の朝方、意識不明になり救急車で病院へ運ばれた。
 
意識が無くなる前は自力で起き上がれなかった。
 
その後は暗闇の世界で何も分からなかった(熟睡?)。
 
意識が戻る時は明かりが見え(病院の照明?)、次男が私の血液検査の結果を欲しいと言った(夢?)のを覚えている。
 
意識が戻ってからは「ろれつが回らず」しゃべれなかった。
 

 死後の世界は無いと思う。
 
仏教に「三途の黒闇開くなり…往生安楽国」の一文がある。
 
ここを出る川があり、渡し舟がある。
 
両岸には美しい花畑があり先祖の人が呼んでいる。
 
こちらの明かりに行かず呼び戻されて今生きている。
 
「酒を飲んで死ねたら本望や」と言っていた人が亡くなった事を思い出しました。
 

 今年1月センターへ2回目の入院をした。
 
退院後は会員にして頂き通院と例会での交流を通じ、断酒が続けられています。
 
耐えてくれた家族に感謝し、酒の怖さを十二分に体験したので「今日も一日断酒」を積み重ね、頑張ります。



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私の屍を乗り越えて断酒会を益々発展させてください
 








47.シアノとノックビンを飲んで酒を飲む (甲賀支部) 





 朝起きて家族に見せつけるようにビンの口からシアナマイドを飲む。
 
オマエらの為に飲んでやってる。
 
ノックビンも1包飲む。
 
俺は、オマエらに二重の安心を与えてやってる。
 
仕事に出掛ける。
 
すぐさま途中でコンビニへ行く。
 
昨日入れたワンカップの空を二本ダッシュボードから出し、コンビニのゴミ箱へ、そして二本ワンカップを買って飲む。
 
今日は、二本買ったけど、明日からは、捨てるだけで買わずにおける。
 

 明日から断酒して、完全断酒会員に戻れる。
 
だって俺、3カ月入院して、退院後断酒して1ケ月以上働きながら、元のお父さんしたから、止め方知ってる。
 
シアナによる苦しみがやって来る。
 
2時間ほど姿を隠す。
 

 その後、ノックピンによる二日酔い状態が続く。
 
誰もが再飲酒の始まった私を感じていました。
 
でも誰も言いませんでした。
 
飲んでるやろ。
 
飲んだらあかんやろ。
 
家族も、会社の皆も、例会でさえも。
 
自分で、だんだん減らしていって、また止められる。
 
前みたいにめちゃくちゃ飲まへんようにしたら良い。
 
何よりも、俺は入院を経験してるし、断酒会にも通ったから、一度治った事のある成功者なんだ。
 
断酒会を知った、たちの悪いアル中がそこにいる。
 

 入院以前よりも、家族を深い絶望の底に落としたアル中がいる。
 
入院しやはったのに、断酒会に通ってはるのに、あかんお父さんがいる。
 
打ちひしがれ希望を失ったお母さんがいる。
 
2人の息子の心の傷がどんどん深まって行く。
 
お父さん、飲んでるんや。
 
と言ってやれば、良かった。
 




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1県1断酒会
 








48.今日もお世話になります  (近江八幡支部) 





 例会場に入る時、一礼をして席に着くように心掛けています。
 
それは、今生きているのは家族・病院・断酒会・例会にお世話になっている感謝と、そして今日一日断酒と明日も継続が出来る願いがあるからです。
 

 20歳を過ぎて初めてお酒を飲み始めから食べ物を口にする事はなかった。
 
ただアルコールだけを飲んでストレス解消とほろ酔いの気持ちが、たまらなく心地良かったから飲み続けていました。
 
仕事が忙しく趣味をする時間が無かったからで、手っとり早い解消方法と思った。
 

 いつしか飲む量も次第に増えていきましたが何の体の異常もなく俺は強いんだ、と思い込んでいました。
 
家族から飲み方を注意されるようになってから怒りっぽくなり、いちいち人が機嫌よく飲んでいるのに“ほっとけ、うるさい、考えて飲んでるわ”と言いながら飲んでいました。
 
飲む量が増えているのは自分でも内心分かっていたんですが減らすことが出来なくなっているのに気付いていましたが、家族から注意される度にその場しのぎの言い訳の嘘ばかり繰り返し、次飲む理由を考えていました。
 

 退社時間が待ちどうしくタイムカードを押したら一直線に酒屋に入ってワンカップ一気飲みして、2・3杯飲んで飲酒運転で帰途に着き、途中で農道や脇道に入って、また飲む日々が続いていました。
 
結局、内科入院を繰り返し、退院したらまた飲む。
 
主治医からこのまま飲んでいたら末梢神経が壊れて指一本ずつ切断や肝硬変になるとも言われましたが、聞き入れずに飲んでいました。
 

 案の定言われたように感覚が無くなっても酒止められず、連続飲酒に陥って部屋に閉じこもって飲む日々、時間も曜日も朝夕の感覚も分からないけど、時折覚めた時自己嫌悪・自暴自棄・自殺願望等々やり切れない気持ちに陥ってしまい、幻聴に悩まされる。
 
気持ちを紛れさすのは、又酒を飲む。
 
飲酒事故・免許取り上げ・検問で引っ掛かる・家族の財布から金を盗む、そんな姿を見ながら、後始末もすべてして、日々生活している家族の胸の内を感じる事は全く考えた事はありませんでした。
 

 今、例会で多くの家族の方々の体験発表を聞かして貰い、罪の深さを感じ、反省し、断酒に日々精進して生きてます。
 
お世話になりながら。
 




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会員は人に疑われるような場所に行くな
 








49.地獄の正月 (守山支部) 





 地獄を見た。
 
心臓は動いているけれど地獄を見た。
 
酒を飲んで、酒を求め徘徊していた。
 

 20代から飲み続けて人から「お前は酒が強い、飲み方が気持ち良い」と言われ自分も俺は酒が強いと思い込み飲み続けた。
 
今、過去を振りかえると思い出はすべて酒に関する事ばかりである。
 
楽しい時は酒、苦しい時も酒、悲しい時も酒、すべて酒でごまかして来た。
 

 ちょうど10年前の正月、世の中が20世紀から21世紀に変わった時、私は精神病院の鍵のかけられた病棟で正月を迎えた。
 
小学校低学年の子ども二人と家内がインターホンを押して面会に来た。
 
子どもの友だちはみんなお正月で家族と楽しい時を過ごしている。
 
自分の父親は、酒で精神病院に入院している。
 
私はアルコールの地獄を体験した。
 

 しかし、家族はもっとつらい地獄の正月を体験した。
 
地獄の正月は入院中だけではなかった。入院の数年前の正月に連続飲酒に入った。
 
年末から飲み続けて紅白歌合戦の時にはすでに泥酔状態で寝ていた。
 
年が明けて、だき起こされて、近くの神社に初詣に行き神酒を飲んだ。
 
普通の人なら一杯の縁起の良いお酒であるが私は一杯だけに止まらず二杯、三杯とおかわりをして家内に止められた。
 
周りの人達も笑っていた。
 
正月やから酒がつきものであると思ってなんとも思わず家に帰っても正月は朝から酒がつきものや、酒飲んで良い正月にしようと思って飲んでいたが、正月休みも終わり初出勤の日が来た。
 

 朝起きれない。
 
体から酒がぬけていない。
 
仕事をする気持ちにもなれず、会社を休む事にして、会社へ風邪をひいて休みますと電話をして、また酒を飲んで、一升ビンのラッパ飲み、ビールビンのラッパ飲み、ワンカップの一気飲み。
 
すでにアルコールをコントロールする能力がなかった。
 
何度も止めようと思いましたが止められなかった。
 
断酒会に入会させていただいて、今、少しの間ですけれど酒が止まってます。
 




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初志貫徹
 








50.もう二度と酒を口にすまい −自分と家族のために−(甲賀支部) 





 2008年2月、私は酒気帯び運転で物損事故を起こし、30年間勤めた教員生活を懲戒免職という形で終えた。
 
家族や知人の勧めで精神医療センターに入院し「アルコール依存症」と診断された。
 

 酒には自信があった。
 
「ザル」と言われても楽しい酒だった。
 
どんな酒席でも最後の最後までつき合っていた。
 
晩酌だけでアル中に?
 
でも既に45歳で、マロリー・ワイス症候群で下血していた。
 
数年後には、脂肪肝・アルコール肝炎も経験していた。
 
アルコール依存症と認めざるを得なかった。
 
「回復はあっても治癒のない病気で、回復のためには断酒しかない」と教えられた。
 

 入院中から断酒会に顔を出すようになったが「なぜこの人たちは酒が止め続けていられるのだろう?いつも同じ話ばかりして…」という思いばかりで、正直に自分の過去を語ることができなかった。
 
何とか半年は断酒は続けられたが「辛抱している」「少しくらいなら」という未練は残ったままだった。
 
もう隠れ酒しかなかったが、それがまた飲酒運転での事故とつながってしまった。
 

 一体自分は何で同じ失敗をくり返すのだろう。
 
今のままでは全てを失ってしまうと思った。
 
酒に対して無力であり自分一人ではどうにもならなかったことを改めて思い知った。
 
と同時に、事ある度に心配や迷惑をかけても反省もせず、失敗を悔い改めてこなかった自分は本当に自分勝手な生き方だったと思う。
 

 過去についても、今もそしてこれからも迷惑を妻にかけることを思うと胸が苦しい。
 
ある家族例会で「家族への償いは、断酒しかない」と教えられました。
 
酒に飲まれて亡くなったと思われたくない、もうこれ以上に家族に辛い思いをさせたくない、そんな思いがやっと断酒に向かわせている。
 
「情」と「絆」で自分を支えてくれた断酒会に、この原稿を書きながら改めて感謝している毎日です。
 




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君と僕とは同じ体質だ。断酒するより他に生きる道はない
 








51.出口のないトンネルはない  (彦根支部) 





 新年を穏やかに、暖かな気持ちで迎えられたことに、先ずは「感謝」の言葉でご挨拶申し上げます。
 

 私の飲酒歴はそう特別なものではなく、夜勤という環境で昼間眠るための手段として、また職場や地域の付き合いにと無くてはならないものとなり、いつの間にか酒豪と言われるようになっていました。
 

 そんな酒が毒と化し、病をもたらしたのは平成19年の事です。
 
人間関係のもつれからウツ病となり、暗く出口の見えないトンネルに入ってしまったのです。
 
医師や家族の忠告も耳に入らず、苦しさから逃れたい一心でウツ病の治療薬と酒を一緒に飲む日々が続きました。
 
しかし、あくまでも自分はウツ病であり、アルコール依存症とは思いも至らず仕事も休みがちとなっていました。
 
平成21年11月次女の結婚式の翌日1回目の離脱症状による痙攣と硬直が起こり、家族は予期せぬことに動揺し、救急車で緊急搬送されることとなりました。
 

 平成22年春、状態はいっそう悪化し、隠し飲みが続いていました。
 
帰省していた長女はそんな両親の苦しみを見て、泣きながら断酒を懇願し、入院を勧めてくれ、妻も家の事は心配ないと言ってくれたことで、私が本気で治療する決心をさせてくれました。
 

 入院は思ったほど苦しいものではなく、むしろ人生を振り返り自分を見つめ直すための時間とゆとりを与えてくれました。
 
あの時、入院をためらっていたら、今頃は廃人と化していたことでしょう。
 
そう考えるとぞっとします。
 
退院間近い10月その長女も無事結婚し、安定した状態で一緒に祝うことが出来ました。
 
やっと長い暗闇から抜け出せたのです。
 
あれから1年、仕事にも復帰でき、今では孫にも恵まれ、幸せな日々を暮らしています。
 

 通院と断酒会と家族の協力が支えとなり、私の気力となっています。
 
改めて、支えて頂いた全ての方々に心から感謝申し上げます。
 
そして今後も例会への参加を通じて、私と同様に苦しんでいる方々に出口のないトンネルは無いことを語り続けたいと思います。
 




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語るは最高の治療
 








52.これからの一歩 (信楽支部) 





 私が初めて酒を口にしたのは高校2年の時でした。
 
忙しい時だけのアルバイトで近所の料理屋さんに行っていました。
 
その時消防団の人が「男やったら酒ぐらい飲め」と、井茶碗で「一気に飲め」と言われ正直に飲みました。
 
少しすると身体が熱くなり目がまわってきて吐いて倒れて寝かされていました。
 
後のことは何も覚えていません。
 
幸い大事に至らずに済みました。
 

 卒業と同時に上京、専門学校を経てやがて就職をし、酒が私を好んだのか?いつの間にかいっぱしの酒飲みになっていました。
 
普段の酒は陽気で唄ったり踊ったり、冗談を飛ばして人を笑わせていました。
 
私は晩婚で結婚して子どもができ暫くたった頃から(妻の方の色々な理由で)酒の飲み方がだんだん変っていくのが自分でもわかっていました。
 
会社の休みの日は朝から晩まで飲んでは寝る、起きては飲む、そんなことが何年も続き、その内食欲が全く無くなり、夜は寝られない、身体がガタガタ震えてくる。
 
そんな状況で、仕事には行かなくてはならない。
 
一旦酒を止めるのですが少し調子が良くなるとまた、同じことの繰り返し、私の場合は酒をやめた後の離脱症状がものすごく激しく、幻覚・幻聴・全身の震え、歩くことすらようやくで最終的には気を失い倒れて、救急車か場合によってはパトカーで病院へ即入院。
 
一度目は水口病院、二度目は草津の精神医療センターでアルコール依存症と言われましたが否認し続けてきました。
 
断酒会の方が会社へ行っている時に家に来たらしく家族から聞き、これも拒否し続けてきました。
 
その間これでは駄目だと思い一応10年近く時々スリップをしながらも一人断酒をしていましたが、昨年の初夏ふとした心の隙間から酒が入り込み連続飲酒、以前のパターンを繰り返し、倒れて精神医療センターで3カ月入院しました。
 

 退院と同時に今度は素直に断酒会に入会させて頂き、先輩方の体験談を聴き、今まで迷惑を掛けてきた家族、お世話になった柴崎先生、そして看護師の皆さんの心に背く事の無いように、人生が繰り返すことはありません、命の一分一秒は二度と帰っては来ませんが、やり直しは何時でも幾つになっても出来ると思います。
 

 これからの第一歩、この卒業の無いゴールの無い厳しい断酒の道を皆様方と共に精進することを誓います。
 




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例会は体験発表に始まり体験発表に終わる
 








53.断酒を続けて(栗東支部) 





 私は昭和52年に離婚いたしましたのは36才の時です。
 
その後、昭和55年に飲み仲間と知り合い、草津の飲み場で、お酒を知りました。
 

 毎夜、飲み歩いておりまして、昭和58年に胃が悪くなって、草津中央病院に入院した次第です。
 

 そんな有る夜、飲み仲間がワンカップ3本を見舞いと云って持って来ました。
 
お酒は好きな方だったので真夜中に飲んでおりました所を看護婦に見つかり、「大森さんは、ここの病院では治らない」と翌日に云われ、父と妹とケースワーカーと私の4人で父の運転する車で、大阪のアルコール専門病院に行きました。
 
約100人の患者が居まして、そんな中で、友人が出来、退院してから、友人達に手紙を出しましたが、誰一人として返事をくれませんでしたので、アルコール依存症は隠す病気なんだと思ってしまいました。
 

 とにかく断酒会の草津支部に、会場が草津市民会館で、家から5.6分の所でしたので例会には出席しておりました。
 
ところが平成3年に飲み仲間と出会い、再びお酒を飲む様になり、芦原温泉へ飲み仲間と行きまして、帰りに福井駅まで来たのですが眠くなって、福井駅のホームで眠ってしまい、公安官に起こされ、草津へ帰るのですが、草津の父は耳が遠いので、妹の方へ電話をし、真夜中に近江八幡から迎えに来てくれました。
 
後程聞いたのですが、大阪のアルコール専門病院がアルコール医療をやめており、保健所で聞いた所、大津の坂本に病院が有りますから、行って下さいとの事でした。
 
私は草津へ帰れると思っていましたが、琵琶湖病院の閉鎖病棟へ入るなり、妹は下着などの入ったボストンバックを置いて「一生入れておいて下さい」と言いましたが、アルコール依存症は3カ月の入院でしたので、退院するなり、断酒会の草津支部へ入会いたしましたが、平成8年、平成12年と再び琵琶湖病院に再入院いたしましたが、現在断酒継続しております。
 

 飲酒の為、無くしたものは数々有ります。
 

 私は誓いました。
 

 死ぬまで断酒会を辞めない事を・…‥
 




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断酒道五心 ひとの体験談を自分のことのように聞く 素直な心
 








54.急性膵炎を繰り返して (長浜支部) 





 私は、平成22年1月16日に、過去経験したことのない腹痛に襲われ、木之本の湖北病院に入院しました。
 
病名は急性膵炎です。
 
膵炎の原因は長年に亘る飲酒です。
 

 医師からは、「急性膵炎は命に係わる病気ですよ。絶対に酒を飲んではいけませんよ」と言われ、栄養指導を受けた栄養士にも同様のことを言われていましたが、今年平成24年7月まで急性膵炎での入退院を、6度繰り返しました。
 
入院は約10日から3週間程度で退院できました。
 
退院して2〜3カ月は飲酒を我慢出来るのですが、2〜3カ月を過ぎた頃には、何かと理由をつけてビールを飲み始め、再び入院する。
 
そのパターンを2年半の間に、6度繰り返しました。
 

 初期の病名は急性膵炎でしたが、今では慢性膵炎になっています。
 
又、5回目の入院では、背中に強い痛みを感じたのでレントゲンを撮ってもらったところ、背骨が骨折していました。
 
又、古い骨折の傷が2か所ありました。
 
病名は骨粗しょう症です。
 
原因は膵炎同様、長年に亘る飲酒です。
 
同年代と比べて骨密度が75%しかありません。
 

 話は変わりますが、わたしはうつ病で大津市の琵琶湖病院に4週間に1度通院しています。
 
6回目の退院後、すぐに琵琶湖病院へ行きました。
 
担当の石田院長先生から、「すぐに地元の断酒会に入れてもらいなさい」と言われ、ケースワーカーさんから、さざ波の最終面の例会場案内のコピーを頂きました。
 
長浜支部が一番だったので、支部長の清水さんに電話を入れ、7月17日から例会に参加させて頂いております。
 

 私は、そういった経験で断酒会と繋がりました。
 

 今後も断酒会の例会参加を続けたいと思っております。
 

宜しくお願いします。
 




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断酒道五心 自分の過去の失敗を常に忘れない 反省の心
 








55.断酒会に入会して(草津支部) 





 嫌なことを避けるために酒を飲んできました。
 
自己憐憫にも陥っていました。
 
「自分はこんな人生を歩むはずじゃなかった…」と他者をうらむように酒を飲んでいました。
 

 初めは「仕事を頑張ろう」と思いながら酒を飲んでいました。
 
それが酒を飲み進むに従って仕事もできなくなり、酒を飲むことで「どうでもいい」という気持ちになり、入院する直前の酒は「死んでもいい」というあきらめに似た気持ちがありました。
 
でも救いを求め、平成10年10月5日に滋賀県の精神保健総合センター(現、精神医療センター)に入院することになりました。
 
一緒に入院した方から「お前は若いから絶対酒やめられへん」と言われたので、反発して酒止めていた時期もありました。
 
今でもその人には良い感情を持っていませんが、その言葉がないと酒を止められなかったのも事実だと思うので、ある意味感謝しています。
 

 平成11年1月5日に24歳で断酒会に入会した時は最年少で(今でもそうでしょう?)、とても肩身の狭い思いをしていました。
 
あれから約14年経ち、支部に女性や若い人が一人いるようになり、大きく断酒会の在り方も変わってきたように思います。
 
僕は…本来の自助グループの在り方に戻ってくれたらなあと思っていますが、なかなかそうはいかないようですね。
 

 今、仕事は大阪でケアマネージャーをしています。
 
最近家に帰るのが夜10時近くになることも多く、支部長をしているにもかかわらず例会には行けなくなりました。
 
けれども今の仕事には満足していますし、仲間が例会を支えてくれているから、自分も力いっぱい仕事が出来ていると思い感謝しています。
 

 酒は僕を殺そうともしましたが、一方では僕の壊れそうな心を守ってくれた大切なものだと思っています。
 
たくさんの出会いや経験等をくれたお酒に大変感謝しています。
 
だからといってもう一回飲む…事はしたくないです。
 




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断酒道五心 ひとりでは立直ることができないという 謙虚な心
 








56.自分の過信が一番の敵(近江八幡支部) 





 私はハズイ食料品店に住み込みにて入社いたしましたのが昭和40年3月です。
 

 入社当時は毎日が忙しく、朝早く夜は遅くまで仕事をしておりました。
 

 年齢も若く少々の無理も効き仕事をしていれば何でも出来ると思って居り意気揚々として毎日をすごして居た自分が一番怖いのです。
 

 家内とは26歳で結婚しました。
 
27歳になったその年末でした。
 
急に体調が悪くなり左顔面がお岩さんみたいになるヘルペスを患い体調も悪く死ぬ一歩手前までいきました。
 
その時は中神医院に通院しており中神さんの方から済生会病院に紹介され1カ月程入院し退院後、野村支店勤務になりその後の事です。
 
お店の友達の家に行き、お酒をかなり飲んで、夜間車を運転した事があります。
 
その後もお酒を飲み車に乗っていましたが、36歳になった頃にお風呂に入った時のことです。
 
胸が苦しくなって心臓が止まる様な思いを2回しまして、約一週間ほど自宅で静養しました。
 
会社の方からも酒を止めたら来てもよいとの指示がありました。
 

 年も若いし子どももいるし、これではと思い酒を止める決意をし、それから60 歳まで現役で頑張りましたが、現役を降りてから又お酒を口にするようになり65歳くらいまではあまり飲んでいませんでしたが、その後のことです。
 
ストレスが溜まっていたのか、家内にも又飲んでいるねと言われた記憶があります。
 
お酒の量が増え自分もわかっているつもりで何回となく酒を止めなければと思い、断酒してはリバウンドをし、3年が過ぎ昨年の9月くらいから下痢はするし、物は食べられなくなるので白井医院にゆき、血液検査とその他の検査をしてもらったところ、最初はなにもなかったのですが、今年の1月に検査を再度してもらったところガンマー数値がかなり高かったので精神科医院を紹介されて、守山こころのクリニックの明神先生のところに行きました。
 
ガンマー数値が高いので先生の言葉は入院か断酒をするかどちらかと言われ、断酒する事を決意しました。
 

 お陰様で今日が有るのも断酒会の皆様のささえがありましたからと心から感謝致しております。
 
今後宜しくお願い申し上げます。
 




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断酒道五心 止めさせていただいていますという 感謝の心
 








57.今年もつれづれなるままに  (守山支部) 





何年か前に一寸きざっぼく”徒然なるままに”なんて事云うて投稿さしてもろて、なすがまま断酒出来たらもうけもん、出来んかったら又別の道捜そ、なんて軽い軽い考えで断酒会にお世話になった姿を聞いてもらいながらも、軽い軽いのは気持ちだけで、体は断酒会にお世話になる寸前は危機的状況やったもんでr−GTPは1890迄上り詰めとったもんでした。
 

 今回又投稿する機会がもらえた此の今迄、断酒が継続出来とる事に喜びを感じとるんです。
 

 私はおやじが早よう死んでもうて母一人の片親で育ち兄弟二人おったんです。
 
二人の兄は大酒飲みで母は男三人の中お前だけは酒飲みにならんといてやと、よう云われとったんです。
 
でも酒飲みになってもうて、二人を下戸やと見下す程の酒飲みになってもうたんです。
 
人前での照れくささや恥ずかしさから逃れるのに酒飲んだ。
 
ただこれだけの事やったんです。
 
人前での気恥ずかしさが赤面症、対人恐怖症へと向って行って人と会うのも嫌、だもんで人と会うのに酒の力が要ったんです。
 
それが飲む内に酒の旨さも分り飲んだら蚕の心臓が狼の心臓になれたもんで味をしめて何をすんのも酒の力無しでは出来ん様になって、でも飲んでの動きは別段普通と変わらんと出来たもんで町内のソフトボールクラブでは水島新司の野球漫画あぶさん気分でビール飲んで動き走るし、和歌山美浜マラソンではフルマラソンスタート時ビール飲んで走って家族を心配さしたり、若気の至りとはいえ無茶やってたもんやとある種懐かしくもあるんです。
 

 今68歳と9カ月この機に今もってマラソン4時間で走れとるのも61歳で断酒会のお世話になって酒を絶てたからやと、段々断酒会にお世話になり始め頃の必死さと新鮮さと有り難たさを忘れかけとる今、振り返る処なんです。
 
只今断酒8年、まだまだ階段一段登ったぽっかりでウロウロ足踏み、階段見上げて高い望みで登り出し、落ちて怪我するより怪我の無い一段めで取りあえず酒止めとれば別の道は拓ける。
 
これからも此れで行って見よう。
 
何処迄も徒然なるままに流れて進んで行きます。
 
ありがとうございました。
 




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断酒道五心 酒をやめたくても止められないでいる人々への 奉仕の心
 








58.断酒会に出会って(栗東支部) 





 お酒を飲み始めたのは、高校2年生の頃です。
 
音楽を聴くのが趣味でしたので、数ヶ月に一度はレコード店の帰りにラム酒を買い、コーラで割って呑んでいました。
 
あの頃は、大人の真似がしたかったんでしょう。
 

 それから大学を卒業するまで、さほど変わらない飲み方だったと思います。
 
就職してからも、忙しい上に薄給なので、酒量は増えることなく過ごしていました。
 
しかし、仕事で抱えるストレスに負けて退職してしまいました。
 
私の呑み方がおかしくなったのはその頃で、不安や鬱屈した時間から逃げる為に呑んでいる状態になりました。
 
酒量が増えているのは自覚していても、頭の中で都合の良い言い訳をしながら酒を買いに行くという日々でした。
 

 再就職しても長く続かず、次の就職先を探すのを繰り返しながら酒の量だけは増えていき、とうとう連続飲酒に陥りました。
 
酒を買いに出る以外には殆ど外出せず、貯金を切り崩した挙げ句に大事な楽器まで売り払い、時には家族の財布にまで手を付け、そこまでして呑んでも満たされない自分に嫌悪感を抱きつつ、昼間に眠りこけることにも慣れてしまいました。
 
底つき体験と言いますが、私の場合は問題を自覚はしていても行動を先延ばしにしていた感があります。
 
体力が落ち、やっとの事で内科を受診してみると、既に脂肪肝の状態で、このまま進行すれば確実に死ぬと言うことで禁酒を言い渡されました。
 
死を意識すると、不思議と飲酒は止まりました。
 
そのまま半年は酒を断ちましたが、体力が戻った頃にアッサリと呑んでしまいました。
 
雪だるま式に酒量は増え、以前より酷い状態になってしまい、看護師の従妹と相談の上、精神科〜断酒会へと繋がりました。
 
例会での体験談は人それぞれですが、それぞれから様々なヒントを貰えます。
 
生の声というのは文字とは違った卓効があります。
 
通い始めて半年ばかり、ここまで随分と遠回りしてしまい、もっと早くに来ておくべきだったと感じています。
 
これからも宜しくお願い致します。
 




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断酒は自ら酒害者と認めることから始まる
 








59.断酒の難しさ  (長浜支部)   





 私が飲み初めたのは、高校3年生の時でした。
 
興味と経験してみたいと、同級生と一緒に飲みました。
 
でも、この時には飲んで苦しいし、後で気持ちが悪くなって来て、なんで大人はこんな飲み物を好むのか不思議でした。
 
大学に行く時に、岐阜の柳ケ瀬を知って通うようになり、飲酒の機会も増していましたが、その時は店の雰囲気を好んでいたので、多量に飲む事はありませんでした。
 
大学卒業後、仕事をするようになって、忙しいのと、彼女との付き合いがあったので、飲酒の機会も減ってしまいました。
 
就職して6年後に結婚を機にして、仕事も中間層になり、今度は仕事の付き合いで飲酒の機会が多くなり、以前通っていた柳ヶ瀬を思い出したように、飲み始めて会社が終わると同僚や上司と共に飲みに行くようになり、飲酒の量は増して、深酒をして二日酔いで会社も休むようになったり、子どものスボ少の試合に行っても、昼間から飲んで夜の宴会でも飲んで、他の人が飲めないようになっても、まだ飲み足りない気分で、早朝一人でコンビニでビールを買って飲むようにもなっていました。
 
そんな飲み方に家族が異変を感じて、長浜の日赤の精神科に入院するように勧められて、しぶしぶ入院する事を決めました。
 
精神科では今までに経験した事が無かったので、不安ばかりが先立ち、自分がアルコール依存症であることを認めようとはしませんでした。
 
でも、早く退院したいばかりに病院から職場に通うようにしましたが、一度家に帰りたいばかりに、職場から車で帰る途中に単独事故を起こして病院に戻されました。
 
今度は草津の医療センターに転院するようになり、自分でも認めて、精神医療センターに入院しました。
 
センターでアルコールの怖さをしっかりと学んで、私だけが特別に家族向けの酒歴発表をさして頂き退院しました。
 
退院後、長浜と彦根の例会に出席していましたが、3ケ月程して、仕事の忙しさに例会に出席しなくなりました。
 
この時が平成11年2月の時です。
 
今から14年前の出来事です。
 
それからは断酒を続けていましたが、少しづつは飲むようになっていました。
 
昨年の7月に父が亡くなり、その後1ケ月飲酒の日々が続き、このままではいけないと思い、14年前の例会の事を思い出して、例会に出席するようになり、今月で半年になりました。
 
これからも、例会出席が続くように頑張ります。
 




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はじめ、ひと酒を飲み、やがて、酒酒を飲み、ついには、酒人を飲む
 








60.「力むな」「肩の力を抜け」  (栗東支部) 





 スポーツで試合に臨んでよい成績を残すためには「力むな」、「肩の力を抜け」と良く言われています。
 
力んだり、肩に力が入りすぎると日頃、練習で鍛えてきた実力を発揮できない場合があるからです。
 

 私にとって断酒継続も同様で、断酒例会の体験談で「頑張って断酒継続します」と語っている自分ですが、止むを得ず酒席に出る場合があります。
 
その時、酒席では飲まずに過ごす為に一生懸命努力をし、人との会話も十分出来ず、精神的にプレッシャーがかかり、楽しむどころではありませんでした。
 
座が盛り上がり、酔いがまわってくると、以前共に飲んでいた仲間からは「俺の杯を受けられんのか」とか、「5年も10年も酒を止めていたらもう大丈夫」と、ほとんどの人はアルコール依存症を理解していないため、「コントロールできている。一寸ぐらい、ええやないか」と無理にすすめ、困る場合がありました。
 
多くの人々がこの様な経験をされている事と思います。
 
この様な場合、スポーツの試合に例えれば、「力むな」や「肩の力を抜け」という意味に通じると思います。
 
酒席に出た時、酒を飲まずに済まそうと力むと、精神的に大きな負担がかかり、大変疲れます。
 
しかし、そういう時は断酒例会を思い浮かべることにしております。
 

 例会では自分は一人だけでなく、全員が酒を止め続けておられます。
 
そういう「仲間」が居られるわけですから、精神的に楽になります。
 
しかも、止めつづけていることを例会で語ることにより、断酒継続の達成感を得ることができます。
 
このように、スポーツでは日頃練習で鍛えた実力を発揮するために「力むな」や「肩の力を抜け」というのと同様、私にとっては酒席に出ても断酒会活動を通じて、酒を止め続けている「仲間」がおられることを思い浮かべて、同席の人々と飲まずに気持ち良く過せることに感謝しております。
 




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酒害にかかったことは何も恥かしいことではない、
 
それから立直ろうとしないことが恥かしいことなのだ
 








61.ごめんなさい   (守山支部) 





 子供時代、父の飲酒が原因で夫婦喧嘩は日常茶飯事、そんな両親を愛し、憎み、恥じて育ちました。
 
長い間、両親に対する感謝・尊敬の念を持つことができず、負い目に感じていました。
 
しかし、体験談で過去と向き合う中で、自分が父に愛されていたこと、母も父の酒害から自分たちを守るので必死であったことに気づき、許し、そして感謝の念を持つことができるようになりました。
 

 父を反面教師とした私でしたが、社会生活のストレスに直面したとき、行きづらさの自己治療のため酒を常用し、内臓疾患で4度の入院、最後マロリーワイス症候群で吐血。
 
その後、精神科を受診しアルコール依存症・神経性抑鬱症と診断されました。
 
このままでは破滅する、酒は止められない。そんな思いでした。
 

 これは語りたくない、けれども、語らなければならない私の酒害体験です。
 
息子の幼稚園時代、酒代ほしさに貯金箱に手をつけ、気づいた子供が悲鳴を上げた瞬間、犯人は自分だと我に返り、ことの酷さに凍りついた私。
 
18歳の娘に、酒害のために「お父さんは私の大事なものを一つ一つ壊していくね。今度、弟に手を出したら承知しない。家族が仲良くなれるなら、自分が犠牲になってもかまわない」とまで言わせた時、【娘の若さ故の言葉だ、堪忍してやろう、それが寛大な父親の姿だ】と自分を正当化し、自棄酒を飲んだ私。
 
妻が、不登校気味な子供を必死に高校まで送迎しながら、「私がどんな思いで子供を守ろうとしているか、解っているの」と言った時、【ふん!なんや自分だけ正義漢ぶりやがって】と反抗した私。これは、酒害の一角だと思います。
 

 妻や子供達の悲鳴で目覚めなければいけないのに、気づこうともせず、いつの間にか酒さえ飲めたらよい人間になっておりました。
 
この時の私は父でも夫でもなかった。ただの酒の奴隷でした。
 
与えた酒害は取り返しがつかない。
 
今、幸運にも断酒会につながり、過去を反省し、酒をやめ続けています。
 

 妻と子供達へ。
 
長い間苦しめてごめんなさい。生涯かけてごめんなさい。
 




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断酒の道ははるかに遠い、しかしその入り口はすぐそこにある、
 
それは今日一日断酒することである
 








62.依存症の再認識   (甲南支部) 





 私は、今43才、お酒を飲み出したのは社会人になってからでした。
 
お酒は殆ど飲めませんでした。
 
人並みに付き合いが出来る様にと先輩や同期の仲間そして町内の自警消防団と無理をして酒を飲んでいました。
 

 数年が経ちお酒の味を覚え親父と一緒に晩酌するようになり、お酒は美味しいものだと思った。
 
勤めは三交勤で家では農業も営んでおり疲れやストレスをいやす為、又寝る為に朝から昼から飲んでいるような日々を送っていました。
 
その内に職場の健康診断があり、その結果医者より肝機能の数値が異常に高いので酒を止めるよう言われ、約1ケ月半入院する事になりました。
 
その頃はアルコール依存症とも知らず、数ヶ月過ぎ又治ると同じように飲んでいました。
 
その頃より自分で飲み方がおかしいと思うようになりました。
 
職場での疲れとストレス、睡眠不足、酒を飲んで眠りたいと言う気持ちから家まで待てず近くのコンビニで酒を買い飲んで帰る毎日。
 
休日前にはパック酒を買い隠し酒、朝から隠れ酒、そのうち食欲もなくなり二度目の入院、同じくアルコール性肝障害、医者からはこのまま飲み続けると命は無いよと言われ、滋賀県立精神保健総合センターを紹介され、お酒を止める良い病院と言われましたが、断りました。
 
心の中でまだお酒が飲みたかったからだと思います。
 

 退院後は断酒会の方に勧められ平成15年1月23日、甲南支部へ入会させてもらいましたが、例会出席もなく連続飲酒に陥り、自分ではどうする事も出来なくなり支部長に連絡を入れ、11月19日、岩倉病院へ連れて行ってもらいました。
 
問診ですぐアルコール依存症と診断され、三ケ月間治療を受け、酒の恐ろしさ、普通の飲み方には戻れない、医者でも薬でも治らない一生持ち続ける病気と教えられました。
 
退院して新しい気持ちでしたが、何回も失敗。
 
断酒会の皆様に支えられ、今度こそ、ここが断酒の勝負所、酒のない人生を断酒会の皆様と共に続ける覚悟です。
 
何卒宜しくお願い申し上げます。
 




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例会には家族も参加しよう、アルコール依存症は家族の病気だから
 








63.付き合い   (高島支部) 





 お酒は高校入学の時から、少しずつ飲むようになった。
 
高校を卒業後すぐに3交替の会社に入った。
 

 1ケ月は研修期間だった。
 
その間、寮のサロンで同室の人や同期入社した人達と一緒に飲んだ。
 
そして寮の前にある酒屋に行き、お酒を買って寝る直前に飲む習慣になった。
 
職場に配属され見習いの名札、ヘルメットを着け、先輩の後を付いて仕事を教えてもらった。
 
子どものようなアイドル的な接し方で職場にも慣れていった。
 
仕事の失敗をしても「まあまあ、いいから、いいから」と言ってニコニコして許してくれた。
 
そして先輩からは、仕事以外の色んな事も同時に教えて頂いた。
 
良い事も悪い事も。「大人の仲間入りが出来た」と自分では思った。
 
そんな中、当然飲酒の誘いも有った。
 
お酒を飲めば自分から色んな話題を作って、大きな声で話をしている自分に変わる事も気が付いていた。
 
当然周りの人達も気が付いていた。
 
私の耳に節酒、休肝日、肝硬変と言葉も聞こえるようになった。
 
私の体の事を思って注意をしてくれる人も大勢いた。
 
私自身もお酒を控えよう、休肝日を作ろうとは思ってはいたが仕事を終えると仲間と一緒に近くの飲み屋に行く誘いを自分から言うようになっていた。
 

 そんな中、誘いを断る仲間も居た。
 
「付き合いわるいなあ」と言ったが悪びれた様子も見せずに帰る後ろ姿をみながら、うらやましいなあと思っていた。
 

 今日は飲まないでおこう、誘われたら断ろうと思っていた日、いつも一緒に飲んでいる学校の先輩でもある方からの誘いを受けた。
 
「体の調子が悪いから今日はちょっと」と断ると「最近付き合いが悪いなあ」と言われた瞬間悪い事をいったなあと思うのと同時に、明日からの付き合いをどうしたら良いのか判らず、なかなか寝ることが出来なかった。
 
深夜1人で枕元の酒を飲んでいた。
 

 断酒会に入会して酒を飲まないで他人との付き合い方も少しは身に付ける事が出来つつ有る自分がとても嬉しい。
 
これからも断酒会の中で直面で生きて行こうと思っています。
 




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格好よく断酒しようと思うな、うそのベールをぬぎ裸になろう
 








64.断酒会に感謝  (守山支部) 





 私は、昭和18年生まれで、昨年3月に中学校の教員を退職しました。
 
お酒は、社会人になって生活していくうえで、職場でも地域でも、飲まねばならないものと思っていました。
 
私は体質上、アルコールに対して耐性がある方でなく、お酒に飲まれていくタイプです。
 

 20歳代、地域の飲酒の席で、長老が湯呑み茶碗に2杯飲酒されて「もうこれで終わり!ご飯を食べる!」と言って、茶碗を伏せてしまわれる様子を見て、鼻先で嘲笑っている自分がありました。
 

 30歳代に入って飲み上がり、家庭はもちろん、職場でも地域でも四六時中、お酒が頭から離れない状態になっていました。
 

 ある日教頭が、「学校でお酒の匂いをさせている先生がいる。」と話されました。
 
私はお酒の好きなもう一人の同僚のことだと思い、意に介しませんでした。
 
その頃、家庭では、娘たちが酒飲みになっている私をひどく嫌がっていました。
 
また、地域では、「酒飲み先生はどうしようもない。」と信用を失いつつありました。
 
そして、職場では、昭和57年10月、女生徒の部活動の指導で、飲酒して出て行ったことが不評を買い、保護者間で許しがたい事態だと言われ、校長は放っておかれず、地教委に報告されてその結果、自宅謹慎処分となりました。
 

 最近、中西一善国会議員が、飲酒不祥事で記者会見し、詰問されて苦し紛れに、「酒は一生飲みません。」と未練がましく謝罪している姿が、自分と重なり、何とも哀れに思いました。
 

 紆余曲折して、昭和58年1月に断酒会に繋がり、同年8月に会員の紹介で広兼神経内科の診察を受けて、「アルコール依存症」と診断され、ホッとするとともに、荒んでいた気持ちが断酒に切り替わりました。
 
NHK深夜便「心の時代」で、梅原猛哲学者が「イチローを語る」の中で、イチローの求道者的な生活に対して、「たいがいの者は、いい気になって酒を飲んで遊んでしまう。」と話されていました。
 
何歳になってもこたえることばです。
 
今日ある生活は有り難いことで、断酒会に感謝です。
 




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断酒できたと思ってはいけない、まだ断酒している最中なのである
 








65.私の弱さ     (彦根支部) 





 酒を飲み続けて来た16年間、大事なものを失っていきました。
 
最後に口にした酒は44歳の3月だった。
 
その頃すでに身体は動けない状態で、水を飲んでも吐き出す有様でした。
 
傍にいる幼い子ども達を助けないと、とは思うばかりで、酒を止める事が出来ませんでした。
 

 私たちは大阪の施設にお世話になっていたから、アルコール専門の医療に繁る事が出来たのです。
 
その先生からアルコール依存症と診断されたとき、それは長い間待っていた私の心に光が見えた時でした。
 
身体的な治療と心の治療は、毎日通院を続ける中で、素面で生活出来るようになりました。
 
子ども達に励まされて、上を向いて歩ける私になって来たとき、飲んでいた時の私自身を振り返るようになり、やがて私の弱さに気付きました。
 

 暴言暴力、女性関係、怠け者という元夫の姿を見つめた時、私はいつも酒を飲み続けていました。
 
元夫と正面きって、話し合う事もなかった私は、入籍して20年間、一緒に生活をしたのは3〜4年だった。
 
その間には、前夫の娘二人も一緒だった。
 
けれど前夫の娘達は、実父の元へと帰る事になってしまったのですが、そこでも前夫の娘達の居場所がなかったのです。
 
元夫と籍を共にして、娘、息子を授かるのですが、その子ども達の父親は先日、死後1ケ月程経って発見されたという現実を見せてしまったのです。
 
彦根署からの連絡をもらって、元夫の確認に二人の子どもと私は出向きました。
 
遺体を見る事なく、検死の時の写真を3枚見ました。
 
惨めな姿で.思わず手を合わせていました。
 
生きていた時の元夫の姿はなく、遺体の側には酒、焼酎が残っていて、真にアルコール依存症の孤独死でした。
 
子どもたちは放心状態の中、検死後2 日目にはささやかな葬儀、お骨にと運ぶ事ができ、産まれ育った東京へと、お骨納めに子ども達が動いてくれたのです。
 

 元夫は、子ども達と私に生きる力を与えてくれたように思います。
 
私のアルコール依存症を知る事によって、子ども達と共に酒を止め続けて生きて行けるようにと。
 
そして、心の底から詫びる気持ちがあったから、誰にも知らさずに生命を無くして行ったのだと感じています。
 
4人の義姉弟の子どもをささえるのは私なんだと、考え思えるようになれたのも、断酒会の皆様と出会えたおかげさまです。
 
気楽に語れる居場所を、灯を消す事なく老いも若きも共に手を繋いで幸福な心で生きて行けるよう一日を大切に過ごしていきます。
 




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酒の誘惑を断つ苦労は、飲んでいる酒を断つ苦労に比べれば、物の数ではない
 








66.黄檗病院    (八日市支部) 





 忘れもしないあの日(昭和58年10月25日)
 

 それまでは、国立病院の常連客、入院4回もうあなたの病気は、この病院では治りません。
 
あわてた家族、会社と相談し、彦根保健所の紹介で、宇治黄檗にアルコールの専門病院がある事を知った。
 
お父さん明日病院に行くから、朝から酒呑まんといてや、8時会社の車が家にくる、10時過ぎ病院に着く、驚いた、この病院鉄格子がある、俺の来る、病院と違うと言って会社の人に噛みつく、今更家に帰してくれそうでもない、あきらめる酒呑んでないのでイライラする、午後2時頃から診察が始まった。
 
立派なアルコール依存症の診断、即入院反省室に入れられる1週間ほんとうにつらかった。
 
何も悪い事してないのにこんな病院に入れやがってと変な反省ばかりする。
 
反省室から開放室に移される。
 
その頃から酒気が抜けたのか本当の反省するようになる。
 
人との交流も始まる、京都・奈良の例会場に毎週行かされる。
 
南山城が特に多かった。
 
それから家族に300円置いていって下さい、日曜日外出の時買い物する金です、300円では電話代くらいにしかならないそれでも、かしこいと言うか、悪知恵の働く人がいた、隠し金たくさん持っていた人もいた。
 
1個20銭の内職もさせられた、金のありがたさが分かる。
 
内職で貯まった金で平等院に、つれていってもらった。
 
自己紹介で八日市のSさんを知って仲良く話するようになる。
 
反省室で知り合った人と朝の散歩に出かけたときのこと、その人が道に座り込み土下座する、何のことかと聴くと、わしをここから見逃してくれと頼まれる、見逃してやった。
 
知らん顔して部屋に帰る、午後になって、大騒ぎになる事務所に呼び出され事情を聴かれるが知りませんと答える、後日見逃してくれてありがとうと、手紙をもらいました。
 

 ある日会社の工場長が病院に来て今度酒呑んだら、会社辞めていただきますクビの通告、退院して即八日市の断酒会に入会し仕事にも復帰する、会社では自分のいない所で随分陰口を言う人がいたらしい、仕事が3交代になると断酒会を3年で退会した。
 
それでも断酒は12年つづいた。
 
平成6年55歳定年で、クビと言うクサビがなくなり飲酒、2度の失敗を繰り返し現在に至ります。
 




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酒を止めただけでもとへ戻るものではない、
 
償いをしながら一生送るつもりでなければ、真の断酒はできない
 








67.断酒していき続けたい   (近江八幡支部) 





 断酒会に入会させてもらってから「今日もお世話になります」と言うの言葉 が自然と自分の口から出るようになりました。
 
皆さんの体験談のお蔭で今日まで断酒生活が出来ています。
 

 自分がアル中に成るはずがないと思い込んでいましたし、考えながら飲んでいたのですが、休肝日が作れなくなってしまいました。
 
この時点でアルコール依存だったのでしょう。
 
家族から「飲む量をきめたら・飲酒運転をして帰るな・外で飲まないで家で飲んだら・酒がそんなに好きか」と言われたり、朝、出掛けに「今日も飲んでくるのか」と言われた一言が一日中頭に残って、「意地でも飲んできたるわ」と心に呟きながら会社へ出勤していました。
 

 何故だかわかりませんが、飲めば呑む程イライラしたり、腹が立ったり、考え過ぎなのか気が滅入って来る。
 
持って行き場の無い自分の気持ちを癒すのに、又酒を呑んでしまう。
 
そんな日々が続いて連続飲酒になってしまい、挙げ句に家に閉じ籠って呑み続けた。
 

 酔いが醒めてくると、何とかしなければと焦る。
 
こんな人生になるとは思ってもみなかったと悔やむ心と、家族がいちいち口うるさく言うから、こんな呑み方になってしまったんだと、人のせいにして呑み続けた。
 
自分でもアル中だと思い込んでいった。
 
呑んでいるか寝ているかの毎日でした。
 
心でアル中だから治らないと思い込んでしまっていた。
 
内科入院・退院を2度繰り返しても酒は止まらないので、主治医に相談してくれて岩倉病院を教えられたが、精神科に入院するのが嫌で家出をしました。
 
自暴自棄になっていたし、酒が切れる恐さを感じていた。
 
でも家族の説得で岩倉病院へ3カ月入院して退院後、断酒会に入会したけれど、半年も断酒出来ずにスリップしてしまい再入院。
 
その時思った事は、「例会での体験談は素直に聞く事」を感じました。
 
人の話を素直に聴く事の大事さを教わった気がします。
 
批評・比較していては断酒が出来ない事を。
 
自分の酒の呑み方で、どれだけの人に心配・迷惑を掛け続けていたかを真剣に思い起して、反省と断酒に皆さんに引っ張ってもらい、押してもらいながら生き続けたいと思います。
 




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断酒会なくして断酒なく、断酒なくして己なし
 








68.父の死後から      (甲賀支部) 





 父が昭和49年7月、心筋梗塞で急に亡くなりました。
 
私は分家の2代目の一人息子として生まれました。
 
私は23才で結婚しましたが、父に頼り切って親離れが出来てなくて、一家の柱として初先祖の無くては成らない物を揃えるのに、精神的なストレスを酒に逃げる様に酒量が増えるようになりました。
 

 40才〜50才までの10年間は、一生分に値する程呑みました。
 
10年間は洋酒だけであり、ストレートのラッパ呑みでした。
 
酒がきれると手が振えてくる様になりました。
 
家内の注言が始まりますが、聞く耳持たずで盗酒を始めました。
 
20代から糖尿病の治療を始めていたので、月1回の定期検診の血液検査で内臓の数値は把握しており、異常もなく大丈夫と思っていました。
 

 時が過ぎ家内と口論が始り、暴力を振う様になりました。
 
誰の注意も聞かなくなり、家内は保健センターへ駆け込みました。
 
保健士の説得で63年4月、岩倉病院へ診察に行きました。
 
家内は入院を希望していましたが、満室のため2週間に1度の通院となりました。
 
2回目の時、脳のCT撮影をし、酒で脳の萎縮が80才代まで進行しており、余命は後2年と宣告されました。
 
死が怖くなり断酒会に入会し、家内と二人で例会出席が始まりました。
 
1カ月程して、シアナマイドの副作用による湿疹で、公立病院に4週間入院して退院後、例会出席を続け1年酒は止りました。
 
口実は抜きで再飲酒を2日間しました。
 
仲間の方が家に来て励ましを受け現在に至っています。年号が変り平成元年、入会日と同じ5月7日から再断酒しました。
 
毎日例会で自分の過去を語り継続しています。
 

 会社は平成10年に定年退職しました。
 
退職後も嘱託で勤務し喜んでいた平成13年1月、息子の病気が発覚。
 
脳腫瘍で余命1〜2年と宣告され、脳の手術を3回受けましたが奇跡は起こらず平成13年3月、36才の命の火が消えました。
 
奈落の底で生きる希望も失いかけましたが、酒を断ち続け、皆さんに励まして戴き、強い精神力で早く立直らしてもらいました。
 
16年例会出席の中で沢山の方に出合い支えてもらい、皆さんの御蔭で命を生延べさしてもらって感謝申し上げます。
 
頑張ります。
 




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断酒のコツは例会を休まないこと、
 
どんな薄い紙でも何枚もはり合わせれば、いつかは硬い丈夫な板になる
 








69.再入会して    (高島支部) 





 私が初めて酒を口にしたのは20歳のころ、大工として働いていた時のことでした。
 
ごく普通の社会人として普通の生活をしていましたが、当たり前のように先輩から酒の席に誘われ、当たり前のように「一人前の職人に」育っていきました。
 

 もちろん初めて酒を口にしたときには、こんなもんはとても飲めないと心から思ったものですが、やはり人の付き合いだとあきらめて少しずつ口にする機会が増えました。
 

 何年か過ぎ、最初は分からなかった酒の味も、知らぬ間に少しずつ判り出し、酒量も増えていったが、酔いが回ると今までの自分の生い立ちを語り、自分を頑固に主張する姿が有りました。
 

 正直に自分を語り出すと他人と衝突を繰り返すようになり、今考えると自分の酒はあまり褒められたものでなかったと思います。
 

 時には喧嘩に発展することも有り、酔いが醒めると他人の目が気になり出す始末に、反省はするものの酒は止めようと決心するまでにはなりませんでした。
 

 自分でも出口のない何年かを過ごし、平成4年高島支部に入会し、勇躍断酒生活に踏み出しました。
 
このときは先輩の指導により例会回りも他府県に及び、断酒継続7年も達成出来ましたが、仕事の都合で断酒会出席が多少減り、住居も高月町に移しました。
 

 同友会での所属支部が変わったことも有り知らぬ間に例会出席が減り、平成19 年これでは再飲酒の危険がますます増えると実感して、60歳の定年を機に高島支部に再度入会させてもらいました。
 

 現在高島だけでなく、他支部例会にも参加し、大阪、京都断酒会の記念にもたびたび出席し、昔の仲間の人達との交歓に努めています。
 
飲んでいた頃に比べ、気楽に声をかけ合う自分を見いだし、断友を大事にし、充実した生活を長く続けたいと思います。
 




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安心それがわれわれのもっとも身近な敵である
 








70.私の体験談      (甲南支部) 





 「焼き捨てた!」と言っていた結婚式の写真を発見した、そして岩倉病院入院直前の写真も。
 
結婚、二人とも幸せそうな笑顔でした。
 
私自身も緊張の中にも幸せにしてやるぞ−。
 
という決意の気持ちが溢れ出る様でした。
 
全体像も・キリッ・としていました。
 
しかし、その時すでに「アル中」初期に入っていました。
 
遡ること2年前、25才の8月朝酒一杯飲んで酒の魔力に取り憑かれていました。
 
一杯かぶって仕事するのが当たり前の状態です。
 
そんな中での結婚(家庭)生活。
 
新婚旅行での大ゲンカ、盗み酒、隠し酒の発覚等々。
 
記念写真とは正反対の顔付き(心も)にお互いなっていきました。
 
自分の事は解りませんが、女房の表情から見て売り言葉に買い言葉の中で女房以上の恐ろしい顔をしていたのでは?!。
 

 毎日が飲酒の事、飲酒状態での行動等、酒にまつわるケンカの日々です。
 
そこに同居している父母、子供が加わります。
 
私の飲酒のことが原因の生活です。
 
異状飲酒が問題であると当初から分っていたのですが止めるに止められない。
 
そこで自分を正当化しょうとあらゆる手段、行動を考える様になりました。
 
色々な事をやりましたが、当たり前の事で自己満足でしかなかった事が今分ります。
 
飲酒状態で何をやっても家庭がよくなる筈がありませんでした。
 
同時に、体力、気力共も飲み上がりと逆に低下していきました。
 
一杯の朝酒から16年、結婚して14年目。
 
入院直前の写真。
 
本当に情けない表情です。
 
そして断酒会との出合い。
 
例会での勉強の中で過去を反省する毎日、断酒会を知らなければ今、私はどうなっていただろうと考える日々です。
 
と同時に酒「止めさせてもらっている」日々に家族共々感謝の毎日です。
 

 最後に女房の(私の飲酒当時)気持ちの変化です。
 
”情けない恥ずかしい∞憎たらしい=hくやしい=B
 
これからも断酒会と共に頑張ります!
 




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断酒の先輩は先生ではない、新入会員こそ真の先生である
 








71.人生の転機     (長浜支部) 





 3+3=??いくら考えても答えが出てこない。
 
飲酒当時仕事が長続きせず職を転々とし行き着くところが身内の会社。
 
そこでも朝から酒を飲み朦朧とした頭で仕事をしている始末で簡単な計算もできない状態になり、この時本当にアルコールの為に痴呆になってしまったのかと実感したことを今でも鮮明に覚えております。
 

 過去を振り返りますと高校卒業と同時に航空自衛隊に入隊し3年の任期満了を終えて退職したわけですが、浜松南基地の術科学校時代に教官にならないかと上官の方に勧められましたが、長男であり家の後継ぎということもあって故郷に帰り三交替勤務の会社に就職してから人生の歯車が狂い始めました。
 
夜勤明けで寝付けない時に朝酒を始めたのが25歳頃かと思います。
 
それからというものはアル中街道まっしぐら。
 
この間家族、親族会議、神社に願掛け等まわりが酒を止めさす為にあらゆる方法をとるも依然やまらず入退院の繰り返し。
 
カラスが鳴かぬ日があっても酒を飲まない日はなし、自分の身体を自分で痛めつけて、正に愚の骨頂。
 
何回目かの日赤入院中に断酒会という存在を知り、昭和58年に入会させていただきましたが5年程は失敗の連続。
 
家内も呆れはて、もうこの人とは到底一緒にやっていけないという事で一時は離婚のことも真剣に考えたようですが先輩に説得され、それからというものは夫唱婦随で断酒会に足繁く通う過程で自分の考えも少しずつ変化していきました。
 
今では酒のない生活があたりまえのようになっていますが、飲酒当時の人生は何だったのかと不思議に思える昨今です。
 

 「人生やり直すことは出来ないが、見直すことは出来る」この言葉は正に体験談の原点になるのではないかと感じております。
 
飲むのも自分、止めるのも自分、同じ止めるなら1日でも早く止めたほうが得策だと過去の経験から実感しています。
 




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意志が弱いから酒害者になったのではなく、酒害者になったから意志が弱くなったのだ
 








72.認知そして感謝    (高島支部) 





 平成16年4月から17年にかけて「アルコール性肝障害」という病名で、4回地元の内科医に入退院しました。
 
自分が「アルコール依存症」である事など何も知らず、数値が下がれば又飲める。
 
そんな安易な考えでした。
 

 私は、学生時代から陸上競技をやっていましたので、生活面、特に食事の面においては、かなり厳しくしていましたので、お酒に接する事がほとんどありませんでした。
 
23才で結婚し、二人の子供に恵まれ、子育てと同時に両親を亡くし、目に見えないプレッシャーやストレスが溜まり、いつの間にか自分自身に甘え、周りが見えなくなり、お酒に手を出し、自分に都合が良いように、家族や周りの人の気持ちなど少しも考えず、振り回し、一人勝手に生きていました。
 
ポロポロの状態でした。
 

 そんな私の姿を見て家族が気付かない訳がなく、娘の通う大学の先生の勧めで、精神医療センターに入院する事となりました。
 
そこで初めて自分が「アルコール依存症」である事を知り、「飲酒の怖さ、断酒の難しさ」を身心共に学ばせて頂き、退院と同時に断酒会につながらせてもらいました。
 
まだ短い期間ではありますが、皆さんの貴重な体験談をお聞きし、「断酒継続の難しさ、家族の苦しみ、悲しみ、そして、大切さ」を考えさせて頂いています。
 

 入院前、「自分はもうダメなのか。どうしようも無いのか。どうなってしまうのだろうか」その繰り返しでしたが、依存症である事を素直に認知できたので気持ちが楽になりました。
 
一人では何も出来なかった私を導き、気付かせてくれた主人や二人の大切な子ども達、そして多くの人々に感謝し、苦しみを喜びにかわる様、一日でも長く続けられるように、前を向いて大切に歩んで行こうと思います。
 
これからも宜しくお願い致します。
 




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アルコールによる被害者意識を捨てて、社会に対する加害者であったことを認めよう
 








73.なぜ逃げた    (守山支部) 





 平成12年4月精神保健総合センターでアルコール依存症と診断されました。
 
前に会社の健康診断でガンマーGTPが600有り、医師面談で肝臓が溶けているといわれて、その意味を勘違いしていました。
 
翌年も600以上有り会社の看護師さんから酒の飲み過ぎで専門病院が在るので行きなさいといわれてセンターを紹介され、病院の場所は見に行ったが、当日自分に嘘をついて診察にはいけなかった。
 
まだ酒を止めたくなかったのだろう。
 

 次の年も検診で800を越えていたが酒を減らす事も出来ずに呑んでいた。
 
止めたいと思いつつも止めることが出来ない自分が情けない。
 
前の年一人で病院へ行けなかったのでなんとか病院へ行かなければいけないと思い、嘘をつけない人に来てもらって行くと決めて、会社の部長に頼みました。
 
当日8時に南草津駅で待ち合わせをしてセンターに行き4時を過ぎてからの診察だったが、昼食抜きで付き合って頂きました。
 
この事が断酒するきっかけのひとつになり、睡眠導入剤で3日間酒を呑まずに寝られたので酒を止める決心がついた。
 

 私が酒を止められないのは夜寝られないので酒で寝ようとしていたからと思っていたが、そうではなく仕事から逃げていた。
 
仕事上での嘘や言い訳を毎晩考えて寝られなくなっていた。
 

 入院は無く通院と断酒会週3回を回るよう言われ、断酒会回りが始まった。
 
何もわからずに例会に出ている内に良く出会う人の話がわかるようになり名前も少しずつ覚えられた。
 
顔と名前が合わない人もいたが支部長にそのつど聞いてメモしていた。
 
その後転勤で多賀町になり彦根や長浜、八日市、近江八幡支部例会を回り次の転勤で野洲になりこんどは全支部を1年かけて週3回以上回ってみようと思い、回ることが出来た。
 
電気の仕事から鮮魚5年目に入りました。
 

 大津支部の I さんが毎日例会8ケ月続けたと言う話を聞いてやってみようと思い、全支部(近江八幡をのぞく)を1年2ケ月で回れた。
 
現在水口より全支部5回、回れています(4月より)、後2年で定年になる。
 
定年後も続けられたらいいと思っています。
 




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誘惑に負けるのは心のどこかでそれを求めているからである
 








74.断酒時の思考    (近江八幡支部) 





 新年明けましておめでとうございます。
 
私の干支戌年の新年最初のさざ波に載せて頂ける事は、本当に幸せ者です。
 
ところで私も人並み以上に飲んで来たわけですけれども昨日の酔い以上に今日の酔いを求めて少しづつ酒の量が増えていき自動販売機に手を出すようになり販売機の前では人に見られては格好が悪いのでどうしても一気飲みになってしまいました。
 
連続飲酒にはいった頃は人の迷惑など考えることもなく本当にマイペースで気ままに飲んでまいりました。
 
時間、場所、所構わず飲んでいると当然体が悪くなり内科病院に3回入院しております。
 
どれも2〜3ケ月酒を飲まずに居りますが又飲みだし再飲酒3回という事で酒の量が物凄く増えました。
 
物も食わずに酒ばかり飲んでいるものでゲリ状態にはいり日に何回もトイレに走る苦しい日々がつづき、体力が落ち、痩せていきました。
 
仕事が休みの日など朝から飲み1日中体が生だるい感じがし夕方頃になるといろんな事を考え、なぜか涙が出てきて最後には生きていても仕方がないと考え出し、死にたくなってきて自殺願望におそわれました。
 
いろんな自殺方法を考えるのですが、なかなか死ねません。
 
結局自分の居場所がなくなり逃げる様に精神病院へ入院しました。
 
入院中でも死ぬことを考え寝られないと言って眠剤をもらい飲まずに50個程ため死ぬなら家で死のうと、外泊の時、ベッドの上に水と眠剤50個置き、さあ飲もうとするのですが、いろんな事が頭の中をよぎりなかなか眠剤が飲めませんでしたが、目をつむり50個の眠剤を口に含み水を一気に飲みました。
 
気が付いたら病院に戻っていました。
 
そんな不始末をしたので4ケ月入院して断酒会につながりました。
 
お蔭でいまのところ酒は飲んでおりません。
 
これは断酒会の雰囲気、目に見えない力、断友の励ましのお蔭です。
 
新年にあたり断酒継続する決意を新たにして頑張りますので宜しくお願い致します。
 




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>
> 人間にはもともと酒害者になり易い性格などありえない、
 
そこにはアルコールによって歪められた性格があるだけだ
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75.逃げてばかり     (栗東支部) 





 私が断酒会を知ったのは、4年半前の9月11日の事です。
 
その日は前日会社で仕事中から酒を飲み、フラフラになって家に帰ると、顎から血を流しており、家族に叱られながら、守山市民病院に連れて行ってもらいました。
 
怪我の処置をしてもらってその日はそれで帰りましたが、酒の飲み過ぎのせいでとても体がしんどくて、次の日怪我の処置のついでに、内科の診察を受けました。
 

 そこで私の酒の飲み方や糖尿病である事から、医者に入院か断酒会を勧められました。
 
私は昨日、会社でやった事や、家族に迷惑をかけている事を考えるとそこから逃げ出したくなり、入院する事にしました。
 

 何故、断酒会を選ばなかったかというと、自分も家族にもアルコール依存症だという事は認めたくなく、一生酒が飲めなくなるのが、嫌だったからです。
 

 内科入院して少し酒を止めれば、自分でコントロールできるようになると思っていました。
 
でもやっぱりコントロールする事は無理で仕事の方も酒のせいで何回か変わり、家族とも旨く行かず、自分では「俺は絶対アル中や、これ治さんと何もうまい事行かへんわ、もう酒止めなあかん、ホンマに止めなあかん、しっかりせいよ」と言い聞かせてましたが、やっぱり治らず、仕事がうまく行かなかったら飲んで、それを家族から言われるのも嫌で、車でブラブラと飲んでは寝て、何日も家に帰らなかった事もあります。
 
これも現実から逃げたかったからで、今まで壁に当ると必ず酒に逃げていました。
 
昨年8月、いつものように車で「もうどうでもええわ。死んだ方がましやろな。」と酒を飲んで逃げている時、運良く妻に見つかり、すぐ済生会病院に1ケ月入院し、そのまま精神保健総合センターに3ケ月入院して、今こうして元気な姿でいられるわけです。
 

 妻の支えがなかったら、私は今どうしている事かわかりません。
 
自分で治そうという意志も持てました。
 
三本柱プラス家族の四本柱を頼りにして酒のない楽しい人生を過したいと思います。
 
もう逃げません。
 




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アルコール依存症は治る、しかし何時でも自らの手で再発させることができる
 








76.断酒の会の大切さ    (信楽支部) 





 私が酒を飲み始めたのは成人式の時だったと思います。
 
最初の一杯は何とも言えない酒でした。
 
口に言い表わす事の出来ない酒でした。
 
段々と酒の量が増してきて、酒なしでは生きていけない状態でした。
 
酒を飲んでなぜ悪い、酒は飲む為にあると言う事が頭から抜け切る事が出来なくなり深酒になり、連続飲酒が始まり朝から酒、ぬすみ酒、かくれ酒が始まり、飲酒運転は勿論、他人には文句を言い自分を正当化して、又酒を飲み続けて人に相手にされず、喋ってても返事もしてくれませんでした。
 

 家族、親類は死んで貰ったら皆は楽に暮らす事が出来ると言い、ようし死んでやろうと思い首を2度3度吊りましたが、うまくいかず自殺未遂となりました。
 
自分乍ら生きていても仕方なく人間扱いされず、犬猫動物扱いにして、馬鹿にされました。
 
お前が酒を止めたら逆立ちして歩いてやると言われました。
 
なかなか酒は止められませんでした。
 

 そうこうしていると急に倒れ、意識不明で昭和55年1月23日宇治黄檗病院へ入院となりました。
 
アルコール性てんかんと診断され3ケ月余りの入院生活に入りました。
 
反省室に入り、苦しくみじめで、つらい毎日でした。
 
色々と勉強して酒の恐さを知りました。
 

 昭和55年5月4日退院となり、滋賀県断酒同友会に入会しましたが、酒なんて止められないと思っていました。
 
長年飲んできた酒を簡単に止められたら苦労がいらないとも思っていましたが、先輩の方が1年2年断酒していると聞き、私も頑張れるだろうと決心しました。
 
止め始めはつらかったです。
 

 「一日断酒」「例会出席」を頭におき、「断酒会の大切さ」同じ悩みを持つ人の話、共通する体験談を聞き断酒会から離れず、初心を忘れず御蔭様で断酒26年目になります。
 
一人では絶対止め続ける事は出来ません。
 
同友会の皆様の支えがあっての今日があります。
 
明日の日は分りません。
 
「断酒には卒業」はありません。
 
あせらず、おごらず、ゆとりを持って、お互いに助け合い、仲よく、健康に気をつけて手を取り合って、生きる喜びをかみしめて、又断酒の喜びを分ち合い、苦しい時の事を思い出して「人生2度なし」悔いのない生活をお互いにいつまでも長く続けて頑張りましょう。
 




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われわれには禁酒の冷たさや節酒のみみっちさはない、
 
そこには断酒という力強さと爽やかさがあるだけである
 








77.自覚   (大津支部) 





 昭和21年9月生まれで昨年還暦でした。
 
生家は寺院でしたが、ごく普通に育ち成人しました。
 
大学にも行かせてもらい無事卒業しました。
 
その後就職することなく、お寺の手伝いやバイトしたりで衣食住付きの目的意識が全く無く30年間過ごして来ました。
 
が、昭和54年7月、自分としては突然、現在のお寺へ「行って手伝え」とのことで、短期間のはずがいつの間にか住職にとの話で、子供の頃から見聞していたことでもあり、今から思うと自分でも感心する程「まじめ」に勤めてきました。
 
また大病すること無く健康でしたし、飲酒の機会も多い方でしたが大した失敗もなく平成6年まで無事に過ごして参りました。
 

 でもその年の12月10日、父親の死と同時に飲み方が変わり、感情と共に飲む型になりました。
 
その後も元には戻らず段々ひどくなる一方でした。
 

 平成15年1月急性膵炎で入院、慢性となり薬物治療が必要となり主治医も飲酒はダメと忠告されましたが、止まりませんでした。
 
結果、入院3回。
 
でも3回目、幸運にも看護師から精神医療センターを紹介されました。
 
入院中色々教えられた中で、自分がアルコール依存症であることを自覚せざるを得ませんでした。
 

 また断酒会への出席を勧められ、先輩の話を聞きながらでもまだ自分でコントロール出来るとか、このまま止められるとか錯覚していました。
 
ついに昨年7月と本年1月、精神不安定と低血糖で気が付けば飲酒していました。
 
抗酒剤も服用し断酒を心掛けていましたが、本能か潜在意識か、無意識でも欲求があることを自覚させられました。
 
身を以ての経験でようやくこの「病」の本質を知らされました。
 
「落とし穴」の意味も実感できました。
 
と同時にまだ1年しか経っていませんが、断酒会の「ありがたさ」が判ったような気がします。
 
また自分の考え方が中途半端であることを教えてもらいました。
 

 自分の命はいつまでかは判りませんが、1日1日を大切に、1日断酒を心掛け、急ぐことなくゆっくりと、積み上げて行きたいと思っています。
 




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真の断酒家は己に厳格であるが、他に対しては寛容でなければならない
 








78.アルコール依存症を振り返って    (栗東支部) 





 私は昭和52年に離婚をいたしまして、昭和55年、40才の時に同窓生からお酒を教えられ、お酒を飲むようになり、昭和58年に大阪の藍陵園病院に入院する事になりました。
 

 それから平成3年、8年、12年と琵琶湖病院に入院いたしました。
 
断酒会の例会で、4度の入院を言いました所、大津支部の会員さんから「4度もアルコールで入院してアホやわ」と言われ、まさに大馬鹿者だと思いました。
 
私のお酒は、お茶屋遊び、芸者遊びから、ナイトクラブ、キャバレー、スナック、居酒屋、そして酒屋での立ち飲みと友人と一緒での飲み方でした。
 

 ワイワイ騒ぎ、歌を唄って悦に入ったお酒でした。
 
それにナイトクラブやキャバレーでも「ビールは酔えへんし、トイレに行くだけやから日本酒を持って来て」と日本酒オンリーでした。
 
又、草津に居まして新地(元遊郭の有った所)や矢倉、大路井町で飲んでいました。
 

 そして大津は石山、浜大津。
 
守山では元町の飲み屋街。
 
京都では祇園、木屋町、四条大宮の飲み屋横町。
 
大阪では難波、十三、新世界と、友人と回り回って飲んでいました。
 
そんな私がアルコール依存症にならない訳が有りません。
 
平成8年に栗東支部の断酒会に入りましたが、平成12年までに、3ケ月表彰が3度、6 ケ月表彰が2度、1年表彰が1度と、何度も失敗しております。
 
丁度平成12年の4月に退院した時「もっと断酒を真剣に考えんとアカン。私よりひどい飲み方をしている人でも断酒してはる。私にも出来んことはない」と思いまして今日にいたっております。
 

 妹にはアルコールで大変迷惑をかけて来ました。
 
だから土曜日の近江八幡支部例会には、妹に飲まない姿を見せる事が、せめてもの妹への償いだと思って出席しております。
 

 いつも例会で言っている事ですが、私は死ぬまで断酒会は止めたく有りませんが、それまでに足、腰が立たなくなると思います。
 
そうなりますと、独り身ですので老人ホームに入ると思います。
 
老人ホームに入っても断酒の継続だけはしてゆきたいと思いますので、どうかよろしくお願い申し上げます。
 
ありがとう御座居ました。
 




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酒を止められない人を見たら、それはきのうの自分の姿と思え
 








79.人生のやり直し     (栗東支部) 





 私は断酒会で人生をやり直せたことに感謝している。
 
前を向いて歩めていること、家族とのこと、仕事のこと、どれを取っても断酒できていることが前提であると感じている。
 

 私が断酒会に入会するきっかけを貰ったのは、会社の同僚の一言でした。
 
家内が法事で子どもと一緒に帰省中、留守なのを良いことに数日来飲み過ぎ、どうしょうもなくなり近所に住んでいる同僚に頼んで、以前肝臓で治療を受けた成人病センターへ運んでもらった。
 

 点滴治療を受けている時、医者が同僚に「この人はこの病院では治らないよ。違う病院へ行った方がいいな」と告げた様です。
 
この言葉から家内が大津日赤病院精神科に相談に行き、断酒会を教えてもらった。
 
この後2年位の間に3度程断酒例会に参加するが、その都度私には参加している人のようには「出来ない、無理だ」の結論を出し参加しなくなった。
 
その間にも確実に体と精神は最悪の状態になっていった。
 
生きることにも仕事にも嫌気がさし、酒を飲むために取りあえず家をでる、酒をどうして飲むか、帰ってからの酒は、量は、その事が一日の最大の仕事となった。
 
なぜ人は40歳も50歳も生きるのか、おれはもう十分に精一杯生きてきた。
 
これ以上生きていても意味がない、どうして死ぬか、死ぬことばかりを考えるようになっていた。
 
そんなとき、会社で酒に関わる問題を起こし、かねてより酒に対して注意を受けていた上司より辛らつな叱責を受けた。
 
その上司との話し合いの中で、進退窮まり最後のチャンスを頂いた。
 
体を直せ、休暇。
 

 会社を辞めるつもりで出した結論は、自分自身が以前足を運んだ断酒会の人の電話番号でした。
 
結果、藍陵園病院を紹介して貰い入院しました。
 
入院中自分自身の今までのことを振り返り、一から出直そうの結論を出しました。
 
酒を止める自信はありませんでしたが、断酒会の先輩方の励ましや導きで現在があります。
 
感謝するとともに断酒会を離れず皆さんと一緒に歩んで行きたいと思います。
 
今後ともよろしくお願いいたします。
 




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失敗した人をゆるすかゆるさないかが問題ではない、
 
その人が自分を罰しているかいないかが問題なのである
 








80.酒害体験     (信楽支部) 





 2008年2月12日で私の断酒生活は丸9年を迎えることが出来ました。
 
これも同友会の皆様と家族のお陰だと心から感謝しております。
 

 90年代の後半は、酒がないとどうしようもないほど、毎日酒を飲んでいた自分ですが、96年の2月に一度センターで受診した事がありました。
 

 数ヶ月の断酒をしたのですが、一人での断酒はやはり続きませんでした。
 

 98年4月にアル中末期の状態で、今の職場への再就職が決まったのですが、酒が飲みたい一心で駐車場の車の中に焼酎の5合瓶を隠しいれ、仕事の合間に、車の所に行きラッパ飲みをして、何喰わぬ顔をして職場に戻り、同僚たちに酒の臭いがしてはいけないので、いつも離れたところで仕事をしていました。
 
(仕事とは名ばかりで)あの当時、本当に頭の中は、酒のことしか考えられなかった自分です。
 
その日の朝にあったことさえ夕方には忘れてしまい。
 
今では、本当にあってはならないようなミスをしていたのです。
 
そのミスを、同僚が黙ってカバーしていたことなど、全く考えていませんでした。
 

 その年の9月上司が「おまえの酒の飲み方がおかしい」その一言と娘の「こんなお父さん要らない」の一言で、入院治療を決め、センターへ行ったのですが、満室のため入院予約をして帰るのですが、これで最後と思いセンターの近くのコンビニでカップ酒2本を買い車の中で飲み帰路に着くのですが、途中ハンドル操作を誤り車が横転・センター入院より先に整形の入院となってしまいました。
 

 その整形での入院の時、兄が見舞いに来てくれ「人生折り返し点にきたようなもの、ゆっくりと気長に治していけばいい」と一言いってアルコール依存の書籍を置いて帰っていきました。
 
兄も私同様アルコールで悩んでいたのですが、私と違い自力で回復した人間でした。
 
そういってくれた兄も4年前に先に逝ってしまいました。
 

 これからは、兄の分まで長生きをしなくてはならないのです。
 
決して酒に手を出さないよう、皆さんとともに一日断酒を継続していきたいと思っています。
 




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誘惑の本体は他にあるのではない、それは自分の心の中にあるのだ
 








81.再飲酒そして復活    (守山支部)





 三年間断酒継続から再飲酒してしまったのが、去年の4月。
 
断酒は一人でも出来ると断酒会を離れて一年目の事でした。
 
断酒会を離れたことで、心の回復がストップ。
 
「過去を反省する事」を忘れ、「酒のいい思い出」ばかり思う様になってきた。
 
そして再飲酒です。
 

 理由なんて無かったのです。
 
ただ酒を飲みたかった。
 
「酒の魔力」に負けました。
 
理由は後付け。
 
「コントロール出来ると思った」「仕事のプレッシャー」理由はどうでもよかった。
 
ただ酒を飲みたかった。
 

 一杯の焼酎が3日目にはコントロールの出来ない元の飲み方になっていました。
 
仕事にも行けない、というか仕事なんてどうでもよくなっていました。
 
結局、やっとつかんだ仕事も辞めざるを得ませんでした。
 

 一緒に住み始めた彼女にも、いきなりアル中家庭のどん底を味あわせてしまいました。
 
彼女にも依存していきました。
 
彼女がフルタイムで働いていましたから、私が働かなくてもなんとかなった。
 
私は働かず、飲んでの借金も、飲む金も、飲んで失敗した穴埋めも全部彼女に段取りさせました。
 

 過去、家族に迷惑をかけつづけ、家庭崩壊までいってしまった私の酒に依存した飲み方と、だらしない心を思い出す事ばかりでした。
 
私は、酒を飲めばそれでよかった。
 

 一年間飲み狂って、最後に「死」を予感したら「酒飲んで死ねたら本望」と言っていたのに、命が惜しくなりました。
 
救急車を呼んでもらって、病院へ搬送。
 
あと一日処置が遅れていたら死んでいたそうです。
 

 「死」を予感したときはじめて彼女の「お願いだから酒止めて」という言葉を素直に受け入れる事が出来ました。
 

 酒を飲んだらまた同じ事の繰り返し!
 
それが、解らなくなるのが「酒の魔力」だと気づき、断酒会へ再入会させていただき、彼女と共に例会をまわる毎日です。
 

 「つぐない」なんてほど遠い状況ですが、飲まない一日を淡々と続けていこうと思っています。
 




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酒害相談は聞かせることではなく聞くことである
 








82.灯火    (高島支部) 





 アルコール依存症として診断された日、私はこの診断を100パーセント受け入れられなかった。
 
たとえ依存症を認めたとしても、治療さえすればある程度飲めるようになるだろうと思っていた。
 
依存症についての知識が全く無かった私には、その断酒をする期間が一体どれくらいになるだろうかという不安だけで、専門病院の門を叩くのをためらっていた。
 

 その程度にしかこの病を考えていなかった。
 
いざとなれば、断酒はいつでも自分の意思で出来るだろうと浅はかな考えにとらわれていた。
 
しかし、診断をされたその日、主治医から「あなたは一生これから先一滴のアルコールも口にしてはいけません。」と告げられ、そんな馬鹿な話があるものかと思った。
 

 1ケ月程度なら今まで何度か断酒をしたことがありますと言っても、「そんなものは断酒とは言えない。現に薬の関係で今でもアルコールを口にしてはいけないと言われているのに酒を飲んでいる訳でしょ。」と釘を刺された。
 
それでも次の診察日まで、これが最後、これが最後と思いながら毎日酒を家族のいない間に飲んでいた。
 

 今から思えば、このような行動こそが正しく依存症の症状であると理解できるのだが、この病の知識の無かった私は、主治医や家内との約束を平気で破り罪悪感もなく情けないことに最後の一滴まで飲み続けた。
 

 結局、入院せず自宅療養をすることになったが、必ず自助グループに出席することを勧められた。
 
幸いにも高島支部の方々が私を温かく迎え入れてくださった。
 
楽しい断酒もあるんだよと教えてくださった。
 

 最近の私はアルコールを忘れ、楽しく時間を過ごすために手作りのランプを作っている。
 
優しいロウソクの明かりや、和紙を通した穏やかで温かいランプの明かりは私の心を癒してくれる。
 
よく断酒会のメンバーは、「断酒会に繋がる」と言うが、私にはその表現はぴったり来ない。
 
私は「断酒会に出会い、断酒会の皆さんに包まれている」と感じている。
 
断酒会はアルコール依存症という嵐の大海原に漂う私にとって、かけがえのない灯火なのである。
 




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ひとりが着実に断酒を実行することが、やがて万人の断酒家を生むことになる
 








83.私はアルコール依存症者   (近江八幡支部) 





 私は小学校高学年の頃、祖父に「ちょっと飲んでみるか」といわれ日本酒を飲みました。
 

 その後、たまに祖父とともに飲んでいました。
 
中学生になると私は一人っ子であったため、親戚が集まると一人前の男として扱われ、大人に混ざって酒を飲んでいました。
 
また左義長祭りになると先輩から飲まされ、やがて自分からも飲むようになりました。
 

 大学に入ると最初のコンパで鹿児島出身者と一気飲み競争をやり、コップ15 杯までは覚えていたのですが、その後は記憶が無くなり友人の下宿に泊まりました。
 
奨学金は飲み代に消えてしまい、卒業後返済しました。
 

 妻にセンターへ連れて行かれ、当時藤井先生に「あなたはアルコール依存症です」と告げられました。
 
でも私は「違います」と否定、酒は減らします、週3回にしますと答え、結局そのときは入院しませんでした。
 

 しばらくすると会社の友人5人が我が家へ来て入院を勧められました。
 
そこで決心して入院することになりました。
 

 最後に家族、特に妻には謝らなければならないことが一杯あります。
 
大きなことだけ言えば、妊娠中絶をしたときには、これはアルコールではないと、仕事人間だったから仕事を優先して無視していたこと。
 

 そして二人目を帝王切開したときは、酒を飲みたくなり、産んだらすぐに帰ったこと。
 
ただ再度の呼び出しには飲酒運転で行きました。
 

 そして仕事で大怪我をしたときも医者が大丈夫といったので、これも酒が飲みたくて帰ったこと。
 
また2回目は酒を飲みながら泊まりました。
 

 そして退職したときは「ご苦労さん言わへんで」とこれも小遣いを減らされ、酒を減らさなければならないと思いつつ、心では「もっと働けばいいのに」と思っていたことです。
 
それと断酒後ドライドランク状態になり、訳のわからないことに手を出したりしたことです。
 
まだまだ迷惑をかけてきましたが、これからも断酒を続け一歩一歩理解を深めて行きたいと思います。
 




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断酒は先輩と比べてはいけない、自分の過去と比べてみるべきである
 








84.断酒の答えは例会の中にある    (高島支部) 





 例会の中で「頭で判っているのだが体が酒を求めて飲んでしまう」という事をよく聞きます。
 
飲んではいけない事は言われなくても自分が一番よく知っています。
 
30年間飲み続けて何百回も失敗ばかりして来ました。
 
でも頭で判っているだけでは断酒は出来ませんでした。
 
そんな自分が依存症である事も、まして酒を止める術も知らずして口先ばかりで「止める」と言い続けて来ました。
 
「今度からはあんなに醜態になる迄は飲んではいけない」と心に言い聞かせますが、飲み始めると適量で切り上げられません。
 
第一自分の適量と言うのが無いのです。
 
とことん飲まなければ体が承知しないのです。
 

 回復には断酒しかありません。
 
それには例会出席をする事だと病院で教わった事を実際に行わなければ本当に判った事にはなりません。
 
依存症になる程長年飲んで来た酒です。
 
ちょっとやそっとの事で止められません。
 
余程腹をくくってかからないと生半可な気持では止め続けられません。
 
その上仕事と例会出席を両立させなければなりません。
 
それには知恵と工夫がいります。
 
仕事が出来るのも断酒しているお蔭と言う事を決して忘れてはなりません。
 

 断酒には特別な能力も才能もいりません。
 
ただ例会出席という努力をひたむきに続けていけるかどうかです。
 
行ける時に行けばよいと言う甘い気持では断酒は難しいです。
 
片手間ではとても出来る事ではありません。
 
止められずに死亡された仲間を数多く見聞きして来ました。
 
我々アルコール依存症者には一瞬一瞬命がかかっているのです。
 
断酒会には指導も教育もなく、古い人も新しい人もどん底を語るだけです。
 
仲間の体験談を自分事としてじっと心で聞いていると、同じ病気の者同志やって来た事も考えていた事もよく似ていて共感し、「やっぱり酒は止めなあかんなあ」と素直な気持になり、心から思いました。
 

 例会の中で仲間の体験談と姿から色々と学びとらせてもらっています。
 
例会の中に答えはある。
 




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酒害者はひとりでもなれるが、断酒家はひとりではなれない
 








85.第二の人生は断酒会と共に  (近江八幡支部アメジスト) 





 私は平成15年の6月半ば頃から強迫性洗浄という病気になり生活のバランスが狂い始め、子どもの夏休みには子どもを家に閉じ込め、私は必死にアルコール除菌の行為をしていました。
 
そして子どもらしさを失わせ、本当なら心を自由にしてあげなければいけない時期に傷を負わせる様な行動、言葉をぶつけてきました。
 

 離婚で子どもを失い、アルコールに手を出して家、主人、子どもすべてを失い、実家へ帰る事になり、お酒に溺れていく様になりました。
 
そして平成17 年にセンターの方へ入院3ケ月、そして退院しても心が、全く回復していなくて再飲酒をしてしまい、又2ケ月センターにお世話になりました。
 
心はズタズタに切り刻まれ、真暗なトンネルの中でもがき、苦しみました。
 
地獄でした。
 
そして平成17年8月13日に先輩のお導きで、断酒会へ入会する事が出来ました。
 

 今、生きている私、生かされている私は、本当に良き先輩や仲間の人達に支えられているからだと心から感謝しております。
 
現在まだ子どもの声すら聞けない状況で思い悩んで苦しくつらく悲しい思いは変わりませんが、断酒会の皆様、仲間の方達に暖かい励ましの言葉を頂き、現在が有るのだとつくづく思っております。
 

 そして年老いた母や父、そして兄や兄の家族、友人にも反省と感謝する様に、大切な心・愛を学ばせて頂きました。人は人と巡り会う事で幾つになっても自分を変える事が出来る、変わって生きたい、人として母として成長していきたいと思っています。
 

 ただ自分が学ぶべき事を見極め、そして自分の心の声に正直にやるべき事を一生懸命にやって行きたい、学んで行きたいと思っております。
 
アルコール依存症になった事は悲しい事であり、娘達に会えない事はつらくて悲しい事ですが、依存症になった事によって仲間、皆様に、出会う事が出来、感謝をしております。
 
これからもどうか宜しくお願い致します。
 




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酒に迷って人生の道草をくったからって慌てることはない、
 
断酒してゆっくり歩いていればいつか目標に到達する
 








86.自分に勝つために   (栗東支部) 





「お酒をやめたい!」と今まで何度思ったことでしょう。
 
でも、そう思ったその日の夜もお酒に手を出し、自分がわからなくなるまで飲んでしまう私がいました。
 
私は、仕事上のストレスから逃れるためにお酒を毎日大量に飲み続け、アルコール依存症になってしまいました。
 
自分では「私は病気ではない」と思い込んでいるのですが、お酒を飲んでは家族に暴力をふるい、お酒を買う金がなくなると給料を前借りしたり、借金をしたりして、家族からは「お父さんと一緒に生活したくない。もう我慢の限界だ」と言われ、離婚届を突き付けられました。
 
その時は「ごめんなさい。もうお酒を止めるから許してくれ」と心から謝るのですが、しばらくすると酒という悪魔に引き戻され同じことのくり返しをしていました。
 

 私は家族の手にもおえないし、自分でもどうすることも出来なかったので、病院に入院し専門的に治療をしていただきました。
 
そこで初めて自分はアルコール依存症だと自覚することができ、人間としてしてはいけない事を今までどれだけしてきただろう、どれだけ家族を悲しませてきただろうと深く反省しました。
 
また、その後も引き続き和歌山断酒道場に入所し、酒についての勉強や人生をやり直す方法を学びました。
 
人を家族を不幸にすると、必ず最後には自分に大きな大きな苦しみ悲しみが返ってきます。
 
私は、家族と一緒に幸せになりたいです。
 
家族を幸せにしてあげたいです。
 
だから、私は本来の自分を取り戻し、自分らしく生きていけるようにこれからも皆様方とともに断酒を続けていきたいです。
 
こんな私ですが、今後も皆様の良き友達でいられるように頑張りますので、よろしくお願いします。
 




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自分の物差しで他人を測ってはいけないし、他人の物差しで自分を測ってもいけない
 








87.アダルトチルドレンとアルコール依存症    (守山支部)





 所帯を持った頃、幸せな家庭を築こうと思っていました。
 
奥さんを幸せにしようと思っていました。
 
不幸だった少年時代の家庭を、そしてケンカが絶えない両親を思い出してそれが一番大事なことだと思っていました。
 

だけど私は一体、何をしてきたのでしょう。
 

 子供の頃、酒を飲む父が嫌いでした。
 
自慢話をする父が嫌でした。
 
ヒステリックに言い争う母も嫌いでした。
 
こんなのと一緒になってたまるかと思いました。
 
父を乗り越えようとしました。
 
反抗しました。
 
相手の権威を否定しようとしました。
 
だけどできたことは、親に対する感謝の念を否定しただけでした。
 

 努力して難関の就職試験に合格したとき、勝ったと思いました。
 
対等以上になれたと思いました。
 
結局、掴んだのは自惚れだけでした。
 

 この自惚れのため、私は自分を正当化しながら酒を飲み続けアルコール依存症になり酒害者となりました。
 

 妻が言いました。
 
「どうしていつも上から目線で人を見るの」
 
一杯飲んでいる私には理解できなかった。
 
逆に馬鹿にされていると思いました。
 
「なぜそんなことを言う。俺がおまえを指導するのは当然至極じゃないか。」今でも自分の歪み具合がわからない。
 

 子供の頃、両親の顔色を見て育ち、そして否定しようとしたときから、本当の自分と、あるべき家庭像と、あるべき親子関係が自分には無くなってしまいました。
 
なぜだか人と真正面から向き合えない、対人関係を築けないでいます。
 

 飲酒中に娘を叱ろうとして「おまえのような子供は要らない」と言ったことがありました。
 
高校生になった娘が「幼い子供にとって親は天にも等しい。そのひとから要らないと言われ、自分は要らない子供だろうかとずいぶん悩んだ」といいました。
 
私はこのように告白されたとき、素直に自分の非を認めることすらできなかった。
 
ひとつ非を認めたら一生懸命守ってきた自分が全部崩れてしまいそうな気持ちだったのだと思います。
 

 私が子供に観ていたのは以前の自分の姿、父を追い抜かそうとする子供、競争者、敵。
 
もしかすると無意識に子供を蹴落とそうとしていたのじゃないか。
 

 自分は一体何をしてきたのだろう。
 

 今、成人した娘と息子がいます。酒害の最大の犠牲者です。
 




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断酒の第一歩は酒害の自覚、次に必要なことは断酒生活の利得への目覚め
 








88.私と断酒会    (彦根支部) 





 私が始めてお酒を飲んだのは小学6年生ぐらいだと思っています。
 
父の飲んでいたビールを飲んですごくまずかった記憶が有ります。
 

 その後会社へ入り3交替で寝酒をする様になり量がだんだん多くなりました。
 
会社へ行けなくなり病院へ行くとうつ病と言われ、うつの薬を飲む様になりました。
 
医者にアルコールを飲むとうつ病の薬が効かなくなると言われ、家族もその事を知り家族の前ではお酒は飲めなくなり、かくれ酒をする様になりました。
 

 その後お酒の量が又増えγ値が1500になり病院に入院する事になりました。
 
2、3 日後に離脱症状が出、点滴を3回ぐらい抜き看護師にたばこをもらいに行ったり、守衛の人に暴言を言ったりしました。
 
次の日の朝、医者が家へ電話をし、このままでは病院ではどうにもならないので、退院するか家の者が夜一緒にいるかどちらかにしてくれと言われ、父が夜一緒に居てくれました。
 

 その後退院する事となり、医者からこのまま飲んでいたら死ぬと言われた元妻が医療センターの事、断酒会の事を調べてくれ医療センターへ入院する事となりました。
 

 退院後1年ぐらいは断酒出来ていたのですが又、お酒を飲む様になり、会社でもいろいろあり、うつ状態になりセンターへ入院しました。
 

 入院後血液検査をするとγ値が高く、医師に外泊がしたければスマープヘ出ろと言われ、2泊したければ断酒会へ行けと言われました。
 
初めはいやいや断酒会へ行っていました。
 
しばらくその様な感じで断酒会へ行っていましたが、何度か行く内に彦根支部の人にやさしくしてもらい、断酒会へ行く為に2泊する様になりました。
 
その後1度スリップをしましたが、連続飲酒もする事もなく今に至っています。
 

 これも断酒会のおかげと、入院している時に断酒会へ行けと言ってくれた医師のおかげだと感謝しています。
 

 これからも一日断酒を続け断酒会へも出席したいと思っています。
 

 これからもよろしくお願いします。ありがとうございました。
 




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酒害は酒話害者自身が自分の治療者にならない限り治らない
 








89.断酒会に入会して    (大津支部) 





 私は、20歳から60歳まで40年の飲酒歴が有ります。
 
その間、色々な事が有りましたが、それを単々と想い出して見たいと思います。
 
ある企業に今も栗東市に有りますが、そこに20歳で途中入社で働き始めました。
 
そこで12年程、4組3交替という勤務をしました。
 
その勤務というのは、昼勤、後夜勤という不規則な勤務でしたが、私はなぜか、気に入りました。
 
時間に余裕が有って、仕事以外にパチンコ、昼食時にビールが飲める。
 
夜勤には、出勤する間に時計を見てビールを飲んでいました記憶が有ります。
 

 30歳に叔母の紹介で見合い結婚をしています。
 
しかし交替勤務が身について、朝からビールを飲んでいた気がします。
 
女の子が生まれ、規則正しい生活に戻れないまま、2年間が過ぎていった気がします。
 
そして離婚する事になりました。
 
その後、普通の日勤になり、毎晩飲酒する様になって、飲酒事故を起こし、免許取り消しで、一年間運転出来なくなりました。
 
飲酒運転をしたという罪を知り、暫くは車の事は忘れていましたが、酒は止められず飲み続けていました。
 
そんな事をしていると、群馬県伊勢崎市に、単身で転勤命令が出ました。
 
そこで12年間、仕事をしていました。
 
そこでも飲酒を続けていました。
 
再度、滋賀県水口町に転勤を命じられ、後12年もすれば定年だと思いました。
 

 酒を飲み続けているうちに、平成14年、54歳でアルコール性肝炎で、大津日赤に1カ月入院と治療を受けると同時に希望退職しています。
 
酒が悪いと思い、1年間は酒が止まりました。
 
再飲酒が止まらなくなって、連続飲酒になり、平成22年4月10日から7月1日まで、琵琶湖病院に再入院して、治療を受けて断酒会大津支部に平成22年9月16日に入会しました。
 
現在、一滴の酒が入ると元のもくあみになると知らされ、毎日自分に厳しくして、例会出席、一日断酒を続けていこうと思います。
 

 アルコール依存症になってしまいました。
 
これからは断酒会に出席して、酒を止めていこうと思っています。
 




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酒害者の自己嫌悪の心が断酒の決意を生む
 








90.心の病と知ったとき    (彦根支部) 





 私は一度目の離婚を機に、酒を飲み始めました。
 
飲んでいる時、「なんでこんな事になるの」と、憎んで苦しんでいました。
 
やがて、酒を飲みながらの仕事をするようになっていました。
 
二人の娘は母に任せ、私自身はお金を稼いで母に手渡していました。
 
数年経った頃、酒の勢いで二度日の夫となる人と出会いました。
 
その人は、とんでもない常識で考えられない人格でした。
 
女、子供に暴言暴力を振るう事は、当たり前、そして働かない、女性関係は、男の甲斐性と言っていました。
 
その時私は、逃げる事を諦め、酒を飲んで不満を抑えていたのです。
 

 母はとっても幸い悲しい顔をして、私に言ったのです。
 
子供達が可哀想でこれ以上、関わりたくないし、別れてくれとも言いました。
 
米粒一つも買えなくなった生活を立て直すには、私が働いて稼いで、母に返済しようと考え、娘と夫を残し出稼ぎに行きました。
 
やがて返済のめどが出来た頃、実家の間借りから追い出すことが出来たのです。
 

 娘と夫、夫の女の人との生活が始まり、私は変わらず出稼ぎを続けていくのでした。
 
娘の顔が見たいから、月に一度帰っていたのですが、やがて、飲む為に家に帰るようになっていました。
 

 今さらながら考え、思い返してみると、私自身他人の話を聞かず、幼い子供の存在すら目に入っていない、自己中心的な心だったと、反省する日々です。
 
それを、気付かせて頂けたのは、酒を止め続けるキッカケを頂けました断酒会との出会いでした。
 
もちろん、そのチャンスに気付かせて頂いた、故小杉院長先生のおかげです。
 
信頼できる主治医、吐き出せる仲間との出会いのおかげです。
 
これからも、酒害を一つずつ、語り続けて行く事が、私の試練だと思っています。
 
生かされるよう続けて行きます。
 
よろしくお額いします。



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断酒会に話し上手は不必要、みんなが聞き上手になることが大切
 








91.仲間に感謝    (瀬田支部) 





 連続飲酒になって、再び飲酒、明けても暮れてもお酒なしでは生活できないありさまが、昨年の11月頃まで続いていました。
 
そのせいで仕事は退職。私生活では離婚するはめに。
 

 気がつけば、今まで大切にしていた友人、同僚そして自身の信用まで失っていました。
 
とうとう何もかもお酒のせいで失いました。
 
そんな時、入院したことで、お酒で失敗をしてどうしようもない仲間達と出会いました。
 
お酒の付き合い方を知らない僕達にとって、医療センターでの2カ月間の入院は苦痛の連続でした。
 
入院中しばらくたって、断酒会に通う事になり、冬の寒い時に週に2回仲間で通いました。
 
そんな時、僕に手を差し伸べてくださった断酒会の皆さんが「一人じゃないんだよ、みんな一緒なんだよ」って言って励ましてくれました。
 
ものすごく気持ちが楽になり、再び入院生活頑張ろうって思いました。
 

 まだ入会して半年余りしか経っていませんが、僕がこのまま断酒生活を送るにはやっぱり断酒会が必要不可欠です。
 
そして、これから再出発をして、今まで迷惑をかけてきた人達に、恩返しをしていこうと思います。
 
途中でやめてしまった仕事も、新しい職場でがんばっていこうと思います。
 
ゆっくりとしか、なかなか信用回復はできないのが今の現状ですけれども、自分に「あせっても仕方ない」って言い聞かせながら毎日を過ごし、月に2〜3回位になりますけれども、支部の例会に参加させていただいています。
 
以前のひどかった頃の事を思えば今はゆっくりと断酒の毎日が過ぎていきます。
 
思い返せば、今こうやって体験談を書いているのも全て断酒仲間のおかげ、一番大切なものがお酒であった私が、今は断酒仲間にかわっていました。
 
これからも、無理せず一歩一歩前向きに前進するのみです。
 
過ぎてしまった事は、戻りません。
 
今を大切に生きて行こうと思います。
 
ゆっくり、ゆっくりですけれど。



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断酒会には、あの人はもう駄目だという言葉もないし、俺は絶対大丈夫だという言葉もない
 








92.私とアル中    (高島支部) 





 私は、当初、アルコール依存症になったことを否認し、恥じ、隠してきました。
 
それはこの病気に一旦身を落とせば生涯消すことのできない汚名を着せられ、陰の世界でしか生きられないと思ったからです。
 

 ですから私は自分の酒の飲み方に問題がある、異常であると気付きながらも、この世間から押される熔印を恐れて十数年もの間、自分の異常な酒の飲み方を隠し誤魔化してきました。
 
いえ、世間からではなく、自分で自分自身に烙印を押すことを恐れていたのです。
 
俗に言う「アル中」という烙印を。
 

 私はそんな愚かな人間ではないはずだ。
 
そういう人間に身を落とすことを私のプライドが許さなかったのです。
 

 しかし、「アル中」が愚かな人間なのではありません。
 
「アル中」を愚かな人間と思う私の心が愚かだったのです。
 

 私がアルコール依存症と宣告され治療が始まっても、私にはやはり素直になれない心と否認する心が付きまといました。
 
家族のためにも、この病気を克服しなければならないという焦りの気持ちが私を追い詰めていました。
 
しかし、この病気を克服することなどできないのです。
 
私にとって重要なのはこの病気を認め受け入れることでした。
 

 初めて私が素直になれたのは主治医の前ではありません。
 
自助グループへ参加した時でした。
 
数人で開かれていたその例会に私はおどおどしながら参加しました。
 
しかしメンバーは温かく迎え入れてくださり、私は初めて心の落ち着きを得ました。
 
AAにしても断酒会にしても私が驚いたのは、これが「アル中」と世間で呼ばれている人たちの集まりか。
 
優しく紳士的淑女的な人たち。
 
温かい眼差しの家族の方々。
 
私もここで頑張ってみようと思えたのは、そういう真撃な人たちの例会であるからです。
 

 依存症は汚れたものではない。
 
汚れたものは自分の心の中にあったのだと気付いたからです。
 
私は断酒会の中で回復して行きたいと思っています。



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心を裸にしなさいといっても裸になれる人はいない、
 
みんなが裸になっていれば誰だって裸になれるものだ
 








92.人生は山あり谷あり    (長浜支部)





 去る7月の暑い目、水田畦畔の除草作業をしていた時、ちょっとした不注意から畦に突き出ていた石で足首をひねって骨折、救急車で長浜市民病院へ搬送してもらいました。
 

 応急措置はもちろん、入院ということで、やむなく治療のため整形外科の病棟で過すことになりました。
 

 2日後に手術をしてもらい、普通ですとそこで一段落というところのはずが、またぞろ横腹、いわゆる胆嚢のあたりが痛くなってきて、そのことを看護師に伝えるんですが、他の検査ばかりされて、何か空白の日が過ぎていくばかりで、状態はますます悪化していきました。
 

 結局、胆嚢は腹の中で化膿し、胆嚢自体が溶けて膿が腹の中に蔓延、腹膜炎を起こし最悪の状態となり、割腹手術ということになりました。
 

 入院生活も長くなり、何しろ入院中は行動も制限され、暇を持て余す時間がたっぷりありますので、改めて考えさせられたことは、やはり人間は健康状態の中で動けて、毎日を充実した中で暮らせる事が一番の幸せであると改めて思い知らされました。
 

 アルコール肝炎での10回を越える入退院、かなり回り道をしたかもわかりませんが、これも自分が通過しなければならなかった人生の過程であると今は思い直しています。
 

 断酒を始めてから、今回の入院があるまでは、自分なりに健康には気をつけていたと思いますし、ある程度は人生の限られた時間を有効に使ってきたように思っていますが、酒と今回の怪我・病気で二度も二次元の世界に足を踏み入れかけた自分です。
 

 遅まきながら、自分の生き方というものをある程度把握できたように思いますし、与えられた人生、どれだけ残されているかわかりませんが、“人生には山もあり谷もある”ことを己に言い聞かせて、断酒会を大切にしながら頑張っていく所存です。
 
これからも宜しくお願い致します。



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医師も家族も断酒会も酒害者を治すことはできない、
 
しかし酒害を治せる唯一の人がいる、それは酒害者その人である
 








93.ようやく、そして希望へ    (瀬田支部)





 それなら自分も、と飲んでみたのが始まりだった。
 
高校時代に友人が缶チューハイを飲んで自慢していた。
 
それから26年間、飲み続けることになった。
 
初めてのチューハイが、あれほどまずかったのに。
 

 大学へ進学し、親元を離れて一人暮らしを始めた。
 
アルバイトで小遣いを稼ぎ、友人といつも安酒を飲んだ。
 
楽しかった。
 
友人はそんなことはなかったが、何故か私はお酒で、よく失敗した。
 
卒業する頃には、飲んで記憶をなくすことが時々あった。
 

 そして就職。
 
入社式の夜に新人たちで祝杯。
 
とても楽しかった。
 
しかし飲み過ぎて、私だけ、新人研修に遅刻した。
 
深酒のせいで出張こ遅刻したこともあった。
 
人より酒量は多いと思っていたが、私は普通だと考えていた。
 

 そして結婚。
 
家内は結婚の初日から、私の酒癖の悪さに付き合わされるはめになった。
 
お酒で失敗する度に家内は心配し、我慢してくれたが、失敗も我慢の限界を越えるようになる。
 
改心すると、いつも口先ばかりの私は、あきらめられていった。
 

 12、3年ほど前からは担当している仕事が嫌で、職場の人間関係も悪く、毎日ストレスと不満が溜まっていった。
 
しかしお酒を飲んでいる時は、嫌なことを忘れられた。
 
現実逃避で毎日飲むようになり、いつしか止まらなくなっていった。
 
公園、駅のベンチや河川敷で、何時間も独りで飲むようになった。
 
自宅でも隠れては一人で飲んだ。
 
時々ブラックアウトした。
 
家内との関係もさらに悪くなり、子供の前でも言い争っていた。
 

 今年6月にまた泥酔し、ブラックアウトで自宅の鍵を失くした。
 
観念して家内と一緒にアルコール専門病院を初めて受診し、アルコール依存症と診断された。
 
大変なショックだった。
 
しかし、長年の酒癖の原因がようやく分かり、私は本当にホッとした。
 
主治医からは、大学卒業の頃にはもう依存症だったのだろうと言われた。
 
家内には結婚のスタートから18年間も迷惑をかけ続け、申し訳ない気持ちで一杯である。
 

 今はただ、通院と断酒会でお酒を飲まない目を何とかT日ずつ増やしていきたいと思っている。
 
これからの希望につながるように。
 




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酒害の病識のないところには断酒はない、そこには苦悩と涙があるだけだ
 








94.こだわっていた事    (栗東支部)





 初めてお酒を口にした頃は、飲み慣れないため、ひどく酔ってしまい、何度も 酔い潰れた。
 
しかし自分の恥ずかしい、みっともない姿を見られるのがすごく嫌だった。
 
酔っ払った人の姿を見ても、大声を上げたり、暴れたりするのは見るに耐えられない。
 

 飲んでも乱れず、カッコ良く酔いたいと思っていたので、次第に少々の量では酔わず、だんだんと強いお酒を飲む様になっていった。
 
依存症の始まりである。
 

 僕は元々、人からどの様に見られているか、気にする性格である。
 
飲みすぎている事を妻に指摘されると、それは自分でも判っている事なので、すごく腹が立った。
 
隠れ飲みしている所を妻に見つかる事もあった。
 
それはとても体裁が悪 く見つかった事により、自分のプライドが傷つき、もう、妻に対して反撃しないと気が済まなくなる。
 
自分の事を棚に上げ、妻に対して些細なことでも、とても攻撃的になった。
 
今思うと胸をいため、反省する事が多くある。
 

 会社での飲み会もそんなに深酒はしなかった。
 
酔った醜態をさらすのが嫌なのと、帰るのが大変だから‥.しかし、飲み会がある時は、家に帰ってから思いっ切り飲む。
 
少々酒臭くても、今日は飲み会だったという免罪符がある。
 
自分勝手な変なプライドみたいなモノを持ち、格好つけて飲み続けて来た。
 
飲みすぎて体調を崩して入院し、主治医の紹介で断酒会につながった。
 

 参加し始めの頃は、この人たちは本当に止めてるのか、信じられなかったし、楽しそうに大勢の人前で、自分の醜態を披露、紹介している。
 
不思議なことばかりで、僕にとって断酒会は全く理解出来ない所だった。
 

 しかし、お酒を止めたい気持ちは一緒だったので、先ずはみなさんの真似をした。
 
自分のしてきたことを話し、素直な気持ちも話すことで、今日に繋がっている。
 
先日、セミナーの中で「話すことば’離す事”」と教えて頂いた。
 
変なこだわりやプライドを少しだけ離す事が出来たので、いまお酒が止まっています。
 
本当にありがとうございます。
 




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なおったから飲まなくなったのではない、飲まないでいるからなおっているのだ
 








95.流されて 今思う    (長浜支部)





 雪深い湖北地方の春には、古くから御神事(おこない)という祭典行事が催行されている。
 
中でも、私の住む集落には、二つの神事が行われており、その一方に若者が中心となり菅原道真公を祭り、天満宮にお鏡餅を奉納し、勉学と健康を祈願する行事が、受け継がれている。
 
そして、祭りごとの礼儀作法、仕切り、先輩後輩の役目などを見憶えていくのである。
 

 私も13歳で神事の仲入りをして、計らずも飲酒の経験に出会ったのを今も鮮明に覚えている。
 

 その後54年常用することにより、体に大きな支障をきたす羽目となってきた。
 
それでも何かと理由を付けて、友人と飲み歩いた事等を思い出している。
 

 ある時、健康診断で肝蔵の数値が極めて悪いので再診察を受ける様言われて、同級生の医者に受けたところ「ツウチャンもう充分飲んだやろ、これ以上飲んだらおむつ当てて寝たきりになるんやで」と諭され、わが身がとことんまで病んでいるのをやっと理解することができた。
 

 断酒を心掛けている今、飲酒時代の頃はどんなものの「考え方」をしていたのか、すぐには思い出せない。
 
しかし断酒を続けながら移り行く世の中を元気な姿で見続けたいと思い、日々ウオーキングを続けている。
 
どこかで見て特に心に残った言葉『断酒の最大の敵は、自分自身であり酒ではないと……』これからも断酒で頑張ります。
 




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断酒道には免許皆伝もないし達人もいない
 








96.断酒会との出会い    (高島支部)





 私が断酒会に入会したきっかけは、昨年の夏、顔や手足が腫れて病院に入院しました。
 
診断はアルコール性肝機能障害で、今回で4〜5回目くらいだったと思います。
 
しかし今回、今までと違ったのは入院中に禁断症状が出たことで、ここから県立精神医療センターを紹介され受診しました。
 

 ここで初めてアルコール依存症であると診断されました。
 
しかしその時、自分ではまだ「いや、そんなことはないのではないか?」と思っていました。
 
先生から断酒会があることを聞かされて、高島の断酒会に出席、入会することとなりました。
 

 最初は先生方の言われるままにというか、何となく入会したような思いがありましたが、この会で皆さんの話を聞き、大変な所に入会したなと感じました。
 
酒を一滴も飲まずに、いつまでも過ごせるのだろうかと思いながらも半年 が過ぎ、今は体調もよく、一日が忙しく過ごせています。
 
もし、この会に入会していなければ、今頃は又体調を崩し入院していたかもしれません。
 

 今まで何回も酒をやめようと思っても、最高1ケ月ぐらいはできたのですが、気がつくと会社の休みの目には、朝からでも酒を飲んでいる日々で、酒を飲まなければ体調が良くなるのにと分かっているのに、何故か飲んでいました。
 

 会社の帰り、コンビニに寄り、チュウハイやビールを買い、家に着くまで全部飲んで帰ってくる。
 
そして体調も悪くて会社でも手が震え、痙攣等が起こることが多くなりました。
 
それでも酒をやめることができず飲んでいました。
 
そしてついに入院して現在に至った次第です。
 

 この半年を振り返り、アルコール依存症は終生完治しない病だと言い続けておられる先輩の言葉が心に残り、自分も断酒会に出席し続けることが断酒出来る事なのだと思っています。
 
これからもよろしくお願いします。
 




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酒害者というものは99%酒害を認めていても、1%の理屈がつけばそれだけで酒を飲むものだ
 








97.依存症でなくとも飲んではならない    (守山支部)





 私が毎日、お酒を飲むようになったのは、結婚して、子どもも生まれて家庭での晩酌に変わった頃だと思います。
 
買ってもらった酒では足りなくなり、内緒で買って飲む酒も一目に一合、二合、と増えて、やがて一升なのか一升五合なのか、分からないほど飲むという始末でした。
 
酒が少なくなると何時でも買いに行くようになり、やがて朝からでも飲み、休みの日などは、1日中飲むことも増えてきました。
 

 そんな飲み方をして、家族が黙っているわけがありません。色々と、意見や注意を聞かされましたが、聞く耳を持たず、トラブルがどんどん増えていきました。
 
「あなたは飲むと人が変わる」といわれましたが、認めることができず、「お前らが悪い」の一点張りでした。
 
そんなふうですから家族との溝ができ、家庭崩壊、離婚問題、暴言、暴力、警察問題、近所付き合い、飲酒から生まれる私の病状等はいっぱいで数えると、きりがないくらいです。
 

 そんな私も、病院につながることとなり断酒会を知りました。
 
例会に出席して、「1日断酒」「例会出席」を知りました。それから、仲間の方に、誘われるままに出席し、いつの間にか毎日例会になっていました。
 
会の中でいっぱいの励ましを受け、助言を頂き順調に続いていました。
 
でも上手く行くと、俺は、本当に、依存症なのかと疑問を感じて病院での資料を調べることもありました。
 

 又、自分の酒が止まっていることを良い事に、他の方と比べて批判する等、天狗になっていた事もありました。
 
でも体験談の中で、皆、回復途上にあり、私も同じであることを知り反省しました。
 
断酒会には先輩も後輩もない、みんな一緒だという意味も分かってきたように思います。
 

 断酒16年、今もなお、酒害をひきづっている自分をも知りました。
 
その事については、これからの体験談の中で語っていこうと思います。
 
よろしくお願 いします。
 




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酒を百薬の長というのは挽かれ者の小うたか酔っぱらいの屁理屈
 








98.時が経つのは早いもので     (信楽支部)





 「信楽支部ですが、今は三重の伊賀市から来ている松尾です。よろしくお願いします」が、いつも体験談の出だしの私も、早くも断酒継続10年以上経っています。
 

 岩倉病院に入院していたのが13年前、始めは平安会大久保支部に2年居て、仕事の関係で信楽支部に移りそれから11年、色々と私生活でも幸い事にぶち当たり、「決して平坦な道ではなかったなあ‥・」と振り返っております。
 

 人生の歯車が狂いだしたのは28才の時、それまで8年間付き合っていた彼女との結婚話が、両親に潰された時からでした。
 
私は長男で彼女に「実家の仕事を継ぎたい」と言われ、苗字が変わらなければ問題ないと思いながら、両親に話しました。
 
両親は「向こうに行くのは養子と同じ事がわからんのか?」と私を怒鳴り、彼女の両親を怒鳴りつけ、私が真剣に悩んでいる横で「慰謝料はいくら用意すればいいのやろ?」と話していました。
 

 決定的な言葉は「お前が出て行くのなら、それでいい。但し、妹に養子を探してから行け」でした。
 
自分のせいで、殊にまで迷惑はかけられないと思った私は、彼女に別れ話をするわけですが、彼女の「私の青春返して」の言葉には、本当にこれで正しいのかという怒りや、やりきれなさを感じました。
 

 それからの私は、仕事依存になっておりました。
 
それまでも、かなり残業が続いていたのですが、自分でもおかしくなっていたのは今になればよく分かります。
 

 29才の夏に1人では抱えきれない仕事を受ける事になり、途中で倒れてしまいました。
 
1週間自宅で療養し、会社に行った時に、ある部長から言われた「お前が倒れたおかげで、周りに迷惑がかかっているのがわからんのか?」の言葉に、私は完全に自暴自棄になりました。
 

 それから、会社の定時になればさっさと帰り、まずは居酒屋そしてスナックに行く生活が始まりました。
 
アルコールで頭が狂い、自分の貯めてきた財産を失い、岩倉病院にとにかく逃げてしまいたいという思いで入院しました。
 

 それから、これだけ狂った行動をしたのはお酒のせいだと入院しているうちに自分でも分かり、アルコール依存症について勉強させて頂き、断酒会のみんなの中に居させてもらい、なんとか自分があるのだと感じています。
 

 これからも、馨る事なくみんなの後について、仲良くやっていきたいと思っております。
 




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若いから酒を止められないというのは甘えの心だ、若いからこそ酒癖を断つのだ
 








99.回復への道    (八日市支部)





 私が自身のアルコール依存症に気づき始めたのは、2012年11月の事でした。
酔いが抜けてくると不安感と対人恐怖症、うつ状態になり酒を飲むとその症状はなくなり、普通でいられる。
酒が原因と分かっていたので飲酒量を減らし寝床に入る。
 
眠剤を使用していたので、眠りに入るが夜中、体からアルコールが抜け、大量の汗とともに目覚めると、部屋中がザリガニの様な小動物で覆いつくされていて、横で寝る妻を起こしたこともあります。
 
不安感のあまり自殺未遂に至った事もあり、とても仕事にいける状態ではありませんでした。
 

 解決方法を見出せず、毎日布団に潜り込むだけの日々。
 
勇気を出し、すがる思いで断酒会へ連絡。
 
自宅のすぐ近くの例会場へ、夜ならほとんど人に会うことなく行ける。
 
初めて出席し励ましの言葉をかけて頂き、出席を心がけて いたお陰で、予定より早い精神医療センターへ入院ができる様になり、途方にくれていた私は涙が止まりませんでした。
 

 センターへ入院し酒の恐ろしさを学び、断酒会へ行き苦しんでいるのは自分だけじゃない。
 
回復することは出来ると解り、希望を持ち退院。そして、その後復職しましたが、今回の入院以前にも酒による内臓疾患で入退院を繰り返しており、職場移動となった。
 
10年ほど前に働いていた職場であったが、年月と共に業務内容も変わり素人同然。
 
新たな事を学ぼうとするが長年の飲酒による脳の萎縮の為か覚えられない。
 
メモ書きをしても書いていることが、後で見ても理解できない等あり、上司からの激しい注意。そんなストレスの中、2013年12月まで約1年断酒生活は続きましたが、年末に一杯だけと 飲酒。大量飲酒になるには時間はかかりませんでした。
 
再びのうつ、自殺願 望。様々な葛藤の中、諦めるしかない、もちろん酒を飲むことを。
 
本年1月末ごろより、断酒生活を続けています。
 

 今日も苦しい。
 
でも冬は必ず春となる。
 
今は心の冬かもしれないが、今咲き 開いている桜も冬の寒さがないと開花しないと言う。
 
自分にしか咲かせられない花のため今日一日断酒で人生を生き直して行こうと思います。
 




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行動することが断酒継続の糧となり、行動する量が断酒の質を決める
 








100.私の体験談     (近江八幡支部)





 私は平成25年9月、10月と断酒会、近江八幡支部長のご高配により、一般参加の機会を得て、11月1日付けで入会させて頂きました。
 

 入会を決断した最大の理由は、9月12日に町内近くの道路において、飲酒 事故を起こした事と、同時に私の子ども達により断酒会及び例会出席を強く勧められ、私の妻と同時に入会させて頂きました。
 

 私の今日までの飲酒経歴を返りみますと、昭和40年3月高校卒業後、守山市にある一般企業の生産工場に入社しました。
 
工場勤務40数年の間、会社の慰安旅行及び年数回の酒席において、料亭の障子を破ったり、カラオケのスピーカー、アンテナを破損させた事もありました。
 
又、タクシー乗車中、車内での嘔吐など、相手側にとって大変腹立たしいことと、ここにお詫びしたいと思 います。
 

 会社勤務中は前記の通りで幸い大きな事件として表面化しませんでした が、してきた行動に対し深く反省しております。
 
一方、会社定年後、飲酒の内容は除々に変化し、それまで酒イコール、ビールだった内容から日本酒を飲むようになり、交通事故を起こす頃には、昼間から飲酒する事もありました。
 
家族から「お父さん酒くさい」「呂律が回っていない」「最近どうしたの」と責められることも度々ありました。
 

 ついには、隠し酒、盗み酒をする様になり、時にはアルコールチェッカーで調べられる事もありました。
 
そして遂に、9月12日当日になり、私はバカだったと反省しましたが、後の祭りです。
 

 そうした中で、先に述べました様に断酒会へ入会。
 
例会出席を大切にして、今後も参加したいと思っています。
 

 参加当初はそれほど期待しておりませんでしたが、断酒会の理念であります「酒害体験を聞く、そして自分の体験を話す」事、
 
「体験談に始まり、体験談に終わる」と言う言葉が、この頃少し理解できて来た様に思います。
 




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酒害は人間を肉体的にも精神的にも老化させる
 








101.昔をふりかえって   (草津支部)





 私は、某会社の営業マンをしておりました。
 
毎日営業成績に追われ、数字が回転木馬のように頭の中を巡り、休日も夜も仕事が気になるようになりました。
 
他の同僚の人達は、仕事と家庭の両立を上手くこなしているのに私には出来ませんでした。
 

 ある日のこと、深酒をして前日の酒が残っている状態でお客様との対応が大変スムーズになることを知りました。
 
二日酔いで朝、迎え酒をすると、身体も落ち込んだ気持ちもすっきりする自分がいます。
 
会社に出勤した時は、酒の匂いを消すために常に仁丹を口にしていました。
 
会議中には冷や汗が出たり、昼食時には箸を持つ手が震えて大変恥づかしい思いもしました。
 

 その後、幻覚、幻聴迄が出るようになり、家内と幾つかの内科病院を転々と回ることになります。
 
又、私は、当時男の厄年42歳でした。休日は酔って嫌がる私を、妻は厄払いと大津南郷の立木観音様に何度もお参りに連れて行かれました。
 
あの長い数百段の石段は、大変に辛かった想い出であります。
 

 しかし益々酷くなる私に、妻も業をにやして「酒を取るの、家族を取るの」と責められ、私は迷うことなく「酒」と答えました。
 
又「好きな酒を呑んで50歳迄生きたら本望や」とも言っておりました。
 
本当に無責任で申し訳なかったと思います。
 

 今振り返りますと私は当時酒に捕らわられ、分別もつかない状態の人間でした。
 

 その後アルコール専門病院に繋がり、断酒会に入会させて頂きました。
 
大先輩に連れられ毎日例会が一年間続きました。
 
自分のような意志の弱い者は、断酒は不可能と思っていましたが、お陰様で不思議と酒が止まっています。
 

 私は、断酒会の中で人生の軌道修正をさせて頂きました。
 
これからも例会を大事にして断酒を続けて参りますので宜しくお願いします。
 




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一年断酒できたからといってそれはいったい何になろう、十年断酒した人もそれは
 
   同じだ、明日はまた初日なのだ
 








102.断酒社会論序説   (大津支部)





 これまで、酒を煽って、陶酔の果てでなければ、学会発表も、学術論文も書けなかった社会学者の著者が、とうとう、身体を壊して、アルコール専門病棟のある岩倉病院に入院するハメになった。自業自得である。
 

 現代社会、我々は、仕事上や、近所付き合いにおいて、体裁を繕い、肩書きなどの仮面をかぶってコミュニケーションし、生活をしている。
 

 それが、アルコール依存症と診断されて、病院に放り込まれた途端、ペルソナ(仮面)なしのアナザーワールドに出くわすことになる。
 
そこにあるのは、地位も名誉も関係なく、剥き身の人間たちが織り成すコミュニティ。
 
社会学者の著者にとっては、研究上の大発見であった。
 
自らが、アルコール依存症であったことに感謝する。
 
なぜなら、これ以上の参与観察はあるまい。
 

 俗に、精神病棟に対して持たれる先入観は、監視や管理体制の下、監獄のような社会像が多い。
 
しかし、岩倉病院のアルコール病棟では、脱病院化社会を地で行き、患者には、自助グループへの参加を促している。
 

 そして、著者も、アルコール依存症患者にならなければ、一生知ることのなかった、“断酒のテーマパーグ(断酒会、AA)で、数々のアトラクション(例会、ミーティング)を体験(発表)する。
 
その例会や、ミーティングの内実は、場所により異なる。
 
それぞれ、繰り広げられる世界観やテイストも違い、気に入った所には、なんどもリピートできる。
 
しかも、フリーパスである。見方を変えれば、断酒は、病的エンターテインメント(笑)楽しくなければ、断酒など続かない。
 

 そんなサブカルチャーを通して、社会学者には、なにが見えたのか。それは、例会や、ミーティングにおいて、老いも若きも上下関係が無く、社長であろうが、社員であろうが、先生であろうが、生徒であろうが、アルコール依存症患者としては、皆平等。
 
また、語られる体験発表に貴腐はなく、“言いっぱなし、聞きっぱなし”が、論争を生みません。
 

 現代、争いの絶えない格差社会の水面下に、こんな、争いもなく格差もない理想的なパラレルワールド、<言論空間>(体験発表の場)が存在していたことは、本当に、学問上の私的な大発見でした。
 
回復志向のアルコール依存症患者まで、白い目で見る<世間様>の方が、よっぽど好戦的で差別主義的なスタンスです。
 

 著者は、奉職する大学に、堂々と、アルコール依存症から回復の為という診断書を提出して、休職が受理されました。
 
そして来春、復職が叶いましたら、上記のような、<言論空間>の存在意義を、学会発表し、依存症患者への誤解や偏見を解く一助とする所存です。
 




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酒害を治せる人は、それは酒害者本人だけである
 








103.私の飲酒歴    (長浜支部)





 私が断酒会に関わりあうようになったのは、今から8年前の春のことでした。
 
アルコールの多量飲酒による急性アルコール中毒症にて呼吸困難に陥り、間もなく死を迎える状態になり救急車にて長浜日赤病院に運ばれ、良き先生の処置にて間一髪、死を免れることができました。
 

 多少意識はしっかりしていましたので、幻聴幻覚に苛まれつつ「あの世」を垣間見、これは本当に死んでしまうと思いました。
 
あの世とやらへ行ってしまうと思い、これは何とかしてもらわないといけないと死の恐怖に襲われ「助けてくれ」と何回も絶叫したようです。
 
お陰様にて良き先生に出会ったお陰で緊急に適切な処置をして頂くことができ、もう1度この世に戻して頂くことができました。
 

 この死の恐怖をきっかけに「もうこれから、金輪際酒を断とう」と決断致しました。
 
退院時に先生から、丁度今良い時期だからと断酒会を紹介され、断酒会に入会する様になりました。
 
私は家内を早くに亡くしていまして、長浜日赤を退院後、次女の東京の家に体力回復と静養の為暮らすことになり、東京断酒新生会練馬断酒会に入会する事になりました。
 
3年経過後、現在の米原の実家に戻り、長浜支部に入会させて頂くことになりました。
 
早や滋賀県断酒同友会長浜支部に移りまして5年程が過ぎました。
 

 学生時代から会社に入社後2年位は、酒は飲みませんでしたが、会社の仕事が営業本部に転属されてから、営業の仕事推進でどうしても接待営業の飲酒に走らざるを得なくなり、だんだんと多量飲酒の生活になって行きました。
 
それともうひとつまずかったのは、私の酒の飲み方です。
 
自分をコントロールして酒を飲むことが出来なかった事です。
 
俗に言酒に飲まれてしまうと言うことです。
 
ある程度飲酒が進んでいきますと「もうこれで今日は止めよう」という抑制が出来ずとことん飲まないと気がすまないという「人酒、酒酒、から酒人」と云う極めてまずい飲酒にて30年間程飲酒を続け、脳の機能からはじめ、体の大切な各臓器を次々と痛め、挙句の果てには死に至るということを真面目に体験しました。
 
情けない人生だったと痛切に反省させられている所です。
 
これからもよろしくお願い致します。
 




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われわれの敵は酒ではない、われわれの敵は自分の心だ
 








104.出会い    (高島支部)





 今日は朝からどんより曇っている。
 
食事を済ませ、安曇川の堤防沿いにウオー キングした後、机に向かいペンをとった。
 

 今から10年ほど前会社の上司にうつ病の診断書を提出し、しばらく休むように言われたが、朝からビールを飲む習慣は止められず、前よりも増して飲酒量が増えた。
 
ある朝、いつものように500mlの缶ビールを飲みながら車で近くの漁港に行った。
 
誰もいない漁港で一人だけ釣りをしている20歳前後のにいちゃんに声をかけた。
 
話の中で新庄の理髪店に勤めているとのこと。
 

 年が変わった1月4日の朝、缶ビールを飲みながら琵琶湖の湖岸を車で排掴している時、ふとあのにいちゃんのことを思い出し、髪ものびていたため、新庄の理髪店にいった。
 
あいにくまだ開店していないため、引き返そうとしたとき、車の左前輪が溝にはまり、近くの鉄工所の人が3,4人助けに来てくれたが上がらず、しかたなくJAFに電話した。
 

 しばらくして、背後に車が停車した。
 
JAFにしては早過ぎると思いながら振り返るとパトカーが止まっていた。
 
どうやら、鉄工所の人が警察へ通報したらしい。
 
車の中に缶ビールの空き缶がゴロゴロし、飲みかけの缶があり、おまけにビールの臭いをプンプンさせていればしかたがない。
 
現行犯で捕まった。それからは、パトカーに同乗し、朝からの飲酒運転ルートを検証したが、最後に警察官が私に話した言葉がいまでも鮮明に覚えている。
 
「藤森さん、お酒を止めればきっとすぼらしい人生が見えてきますよ」と、この警察沙汰がきっかけで妻が掛かりつけの医者に相談し、京都の広兼医院を紹介され、1月17日岩倉病院へ入院した。
 
入院して初めてアルコールの怖さを知り、アルコール依存症からの回復は酒を止めつづけることしかないと知らされ、私は落ちるとこまで落ちたと感じた。
 
3月18日病院にお願いして1ケ月早く退院し、その日に高島支部に入会した。
 
高島支部の皆さんや同友会、朋友の皆さんの励ましをいただき今日まで断酒をつづけることができ、昨年秋に44年間務めた会社を無事退職することができた。
 

 断酒会に出会えたことで、現在・過去・未来を真剣に考えることができる自分を取り戻せたことが一番の喜びであるが、元を辿れば、あの朝漁港であのにいちゃんに出会えなければ、今の自分はなかったかも知れないと考えると、ひとつひとつの出会いを大切に生きていきたいと考えている。
 




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酒をやめることが何故恥かしいのか、やめられないことの方が本当は恥かしいのに
 








105.断ったのでなく、捨てたのです    (八日市支部)





 自ら進んで妻と共に断酒会例会に参加した夜、私は凄いショックを受けました。
 
行く前の想像では断酒会とは健康に正しく楽しくお酒を飲むことを身につける会…その程度の認識でした。
 
私はお酒が大好きでした。
 

 お酒は私にとって人生のよき伴侶、日々の仕事の張り合い、生活のエネルギーの源でした。
 
元々お酒の強かった私は相当の量を飲んでいましたが、それにより仕事に支障が出たり、体を壊したり、家族や他の人に迷惑を掛けるという事は無かったのですが、妻にはいつも心配を掛けていたようです。
 

 妻が私の健康を気遣って掛ける言葉に、素直に「ハイ」と答えていれば楽しい飲酒ライフを送れたはずなのに、天の邪鬼な私はその都度「なら、止める」と見栄を張り、さりとて飲んでも全く大丈夫という自信から、いつしか約束を破り、再飲酒をするの繰り返しでした。
 

 一昨年に脳梗塞で入院、退院後しばらくして飲酒をした時は娘の助言で県立精神医療センターのアルコール外来に行きました。
 
先生は依存症とは言わなかったし、特別な薬も必要無いと言いながら、毎回今度は何日にしますかと予約日を聞くのです。
 
こんな医者にはこちらから三下り半を突き付けて酒を断つ日が続きました。
 
しかしやっぱりお酒に対する興味は時々沸き上り、ある日、古い酒を見つけた私は一寸と味見をしようと口にした時に妻に見つかったのです。
 
私は今度はどうやって怒りを納めようかと考え、悩み、出した答えが断酒会でした。
 

 断酒会の体験談は実に驚きでした。
 
でもそれ以上の驚きは妻の「家族の体験談は共感できる」という一言でした。
 
今は体験談を聞きながら、依存病にならなかったり、トラブルが無かったのは、ただ運が良かっただけなのだと自らを戒めています。
 
一日断酒という言葉がありますが、私は一生断酒の決意で入会しました。
 
私は酒を断ったのでは無く捨てたのだと思っています。
 




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酒害者は自分の最も頼りにする人から傷つけていく
 








106.断酒半年、今思う事    (長浜支部)





 一昔前、職場の長に任命され、5年後メンタルの弱さで降格。
 
諸問題の対策に追われ不眠にもなった。
 
そして現在、夜勤明けの週始めなどは必ず朝方まで寝付けない。
 
筆走してる今がその時である。
 
神が与えた反省の時と思えるようになった。
 
私が家の空気を汚染して来た大公害なのがハッキリ見える。
 
依存症への過程を罵声だったが解いてくれた妻と断酒会のお陰だ。
 
特に家族方のパンチある話は怖くて顔を上げられなかった。
 

 初めに書いた仕事の件でも、飲みに行き遊んで帰る私の事で妻は心労で体を壊した。
 
私は仕事に専念出来ない環境を自分が作ったのだ。
 
職場に大した問題などなかったのだ。
 
対策対象は私自身なのだった。
 
当時こんなメカニズムにも気づきもせず、ギャンブル依存にもなり社会的信頼を失うこともやった。
 
親にも心配をかけ大公害を広げていく一方だった。
 

 その親に介護が必要になり大半を妻に任せた。
 
二人とも疲れていた。
 
私の酒量は増して言葉も悪く、大事な話も出来ん状態で保健所へ”連れて行かれた”専門医は「依存症の入口、気をつける様に」と話された。
 
この時だ。
 
この時に何とかできたのに”連れて行かれた”と思うような人間に、この後、親族までをも悲しませ苦しめることを起こすなんて分かりっこない。
 
この時に例会で話をされた「本気と謙虚な気持ち」妻へ「いつもありがとう」の気持ちさえあれば。
 
今更、何を思っても遅すぎた。
 

 平成26年1月3日、妻の家庭で私は焼酎を飲み続け、徐々に自分でなくなっていった。
 
イヤ違う心の奥底に闇・孤独・劣等感が有る本当の自分をさらけ出したのである。
 
酒に対しての無力さである。
 
テーブルに座り込み甥に口に含んだ酒を吹き掛け妻の腕を強引に振り回し、裸足で外を歩き、注意された父上に後ろから 頭突きするなど暴れたのである。
 
その一部始終を勿論、私の2人の子供も見ていた。
 
両親家族に言い様のない悲しい想い、腹立たしい想いをさせてしまい、詫びきれん想いを抱き固まってしまった。
 

 早春、断酒会へ繋がった。
 
少しづつ心を整理したい。
 
恥をさらしながらも辛くても惨めでも、もがいて、もがいて、もがいて生きて闇を照らしたい。
 




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酒をやめなければならない理由はのんでる頭ではわからない、
 
酒をやめてみて少しずつわかるものだ
 








107.酒をやめるのは自分自身    (彦根支部)





 私が酒を飲み始めたのは15歳の時に青年会に入った時でした。
 
祭りの行事を行い酒が出る機会が多い事がありましたが、私はあまり酒が好きではありませんでした。
 
付き合い程度の酒で晩酌もなく過ごしてきましたが、37歳の頃仕事が変わりました。
 
4班3交代の工場で働く事になり、昼間眠れないので酒を飲んで眠るようになり、又朝から飲んで眠るようになりました。
 
それからは寝る前、又目が覚めると又一杯と毎日酒を飲んで寝ていました。
 
そしてそれは定年まで続きました。
 
定年後もずっと朝酒、昼酒、夜も一日中、酒酒酒を飲むようになりました。
 
65歳頃からは体を壊し、家族が心配して福祉保健課に相談して、彦根の保健所へと繋がり医療センターへ入院しました。
 
先生は自分が酒を止める気があるのなら良いが、入院しても止める気がない時はだめであることを言われました。
 
入院してからの孫の一言が自分の心を変えてくれたと思います。
 

 断酒して、体の調子も良くシルバーの仕事を月に10日程度行っております。
 
これもあの時、酒を止める事が出来なかったならと今はよかったなあと思います。
 
地域の皆さんも私の事を思って、私が酒を飲まない事を信じ、飲み会がある時はウーロン茶を出して下さいます。
 
そんな皆さんを裏切らない、家族を裏切らない自分になり、断酒を続けて行きたいと願っております。
 




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やめられない酒だからやめるのだ
 








108.何故、酒をやめたのか    (近江八幡支部)





 私が何故酒を止めたか。
 
私は酒を浴びるほど飲む奄美の小さな島で生まれ、身内も酒飲みが多い中で育ちました。
 
初めて酒を飲んだのは親父が死ぬ前、小学3年生の時に近所の焼酎を作っている家で飲み、まずく飲めたものではないと思い ました。
 
酔ったのは小学6年の時、2杯を続けて飲み酔い潰れました。
 
中学の頃からは、小学校の同級生と集まり、祭り、運動会、盆正月、キャンプ又夜に魚などを取りに行く時には酒を飲み始めました。
 
親も身内も「酒を飲むのはいいけど、先生らにばれないように」とよく言われました。
 
高校からはテストの勉強、明日は日曜日などと言ってはよく飲むようになり、未来はアル中と自覚する様になりました。
 

 16歳の時、原付免許を取りましたが、2人乗りは当り前、飲酒運転もたまにしておりました。
 
高校卒業後は車の免許も取り、仕事は左官見習いの為、酒は控えて20歳で無事職人になりました。
 
控えていた酒はすぐに元通りのヨッパライ。
 
22歳で結婚、2ケ月で飲酒運転をして免許が無くなり、10年間無事故無違反無免許で365日飲酒運転をして過ごし、おまわりさんに道交法が変わるので直ぐ取りに行けといわれる始末でした。
 
仕事は建築の為、酒は付きもの。常時酒を飲むようになりました。
 
しかしバブルが弾け、左官の仕事が少なくなり量も減り、先行きが暗くなったことと、又酒を止める為に会社に勤めるようになりました。
 
ですが前の日の酒が残り臭うのと人間関係のギクシヤクで仕事はするのですが、仕事を転々とし生活は苦しくなり、嫁子供に迷惑を掛けました。
 

 何故、酒を止めたか、それは今年の2月の終わりにインフルエンザ、肺炎、胃腸炎に掛かり入院。
 
月末に退院しました。
 
つかの間の3月1日に酒を飲んで倒れ、救急車で病院に運ばれ入院したのも、3月7日の検診まで知らなかったのです。
 
これでは駄目だと思い、同級生と還暦は欠けることなくおいしい酒を飲もうと言う約束。
 
又身内からは「親父の死んだ62歳を超えるように」と言われ酒を止める決意をしました。
 
センターの皆様のお陰で酒を止める事が出来嬉しいです。
 
大人しく目立たない為に覚えていないでしょうが、これからも宜しくお願いします。
 




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のむ理由は見つかってもやめる理屈は立たぬもの、先ずやめようそれから考えよう
 








109.人生の再出発    (草津支部アメシスト)





 お酒を飲んで、病気になるなんて……。
 
考えてもいなかったし、思いも寄りませんでした。
 
「あなたは、アルコール依存症です」と言われても、ピンと来なかったし、まさか自分が……と信じられない思いでいっぱいでした。
 

 学生時代は、仲間と一緒にお酒を飲み、語り……仲間との絆を深めてくれたお酒。
 

 仕事に就いてからは、行事が終わるごとに、「お疲れ様会」ということでお酒を飲み、愚痴が貯まっても、嬉しいことがあっても、事あるごとにお酒が出てきて同僚と飲み、家では、「今日1日お疲れ」と自分にご褒美として飲んでいました。
 
また飲むと気持ちが高揚してきて楽しくなり、「貴方と一緒に飲むと楽しい」と言われると、ついついお酒を飲むペースが上がりました。
 
お酒は、私にとって初めは「悪」ではなかったように思うのですが……。
 

 しかし、仕事のストレスからうつ病になり、仕事がうまくいかなくなってくると、気持ちだけでも盛り上げようとお酒に頼るようになって行きました。
 
お酒を飲む意味もお酒の種類も変わっていったように思います。
 
お酒を飲んでも、飲んでも気持ちが盛り上がらない、なかなか酔わない、周りは悪いようにしか回らない、うまくいかない。
 
そしてまたお酒に頼ってしまう、あの楽しかった生き生きしていた時が取り戻せるかと勘違いして飲んでしまう。
 
挙句の果てには飲みすぎてベロベロになり、自分を見失ってしまう。
 
そんな日々を送り、とうとう私は「アルコール漬け」になってしまいました。
 

 今、一度お酒を口にすると、ストップが効かないこと、飲み続けてしまうこと、どうにもならなくなってしまう自分を認めることができます。
 
私は、正真正銘のアルコール依存症です。
 
治さなければなりません。
 
また、心・気持ちの持ち様で治すこともできるということがやっと分かってきました。
 
飲んでも何も解決はしないのだと。
 
でも、私一人の力では、なかなか……。
 
家族の支えによってやっと明るい日差しが見えてきました。
 

 家族に感謝!
 
自分はひとりばっちじゃない、と強い気持ちで思うことができることに感謝!
 
平凡な、しかし充実した毎日を過ごせることに感謝!
 
これからも『感謝!』の気持ちを忘れず、お酒のない、お酒に頼らない生活を過ごしていきたいと思います。
 

 私の人生、お酒を飲むことで、失ったものがたくさんあります。
 
もう、後戻りはできないけれど、これからの人生やり直すことで、また新しい出会いを作っていきたいと思います。
 
これから人生の再出発です。
 
頑張ります。
 




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断酒道にか免許皆伝もなければ達人もいない、そこには酒に自由を失った酒害者がいるだけだ
 








110.断酒して思うこと   (近江八幡支部)





 再入会して皆さんにお世話になり、断酒継続させて頂いています。
 
20歳になってから酒を飲むようになり、アルコール専門病院へ入院するまで1日も休むことなく飲酒してしまいました。
 
休肝日を作る事は解っていても実行する事はありませんでした。
 
自分がアル中になるような飲み方はしていないしアル中になるなんて考えても思わなかった。
 
飲酒量が増えて毎日飲酒運転していたので、家族から再々注意されて少しは反省するのですが、飲酒欲求に負けてその場その場凌ぎの弁解と嘘を言っていました。
 

 自分でもこんな飲み方をしていたら事故を起こすかも、仕事も出来なくなるかもしれないと思いながらも飲む。
 
毎日帰宅したら、くどくど言われるから隠れて飲む。
 
隠して飲むような日々が続くようになると結果、家に閉じこもって鍵をかけカーテンを閉め切って連続飲酒、でも淋しさから人声が恋しくてテレビはつけっぱなし、そんな中で考えていたのは一生懸命に働いてきたのに、結婚した相手が悪い、生い立ちが甘やかさせて育ったから、社会が悪いから…等々を周りのせいにして、自分を省みることはしなかった。手の震え幻聴が出て足腰が立たなくなっても飲み続けていました。
 
このままアル中で人生を終わってしまうのだけは情けなくて避けなければ、親より先に死ぬ親不孝は何とか止めなければと思っていました。
 
家内も限界だったのでしょう!
 
病院へ連れて行ってくれました。
 

 3ケ月間の入院、退院して断酒会に入会して例会廻りを妻と2人でしました。
 
毎日飲んでいたから毎日例会に参加しないと止められないと思っていましたし、不安な気持ち、イライラする日。
 
みんなも同じ日々を過ごして辛抱我慢されていたんだと思って通う中、少しづつ体験談にそして自分に素直に向き合う事が出来 るようになりました。
 
永年止め続けられている後について例会、記念、研修会に参加して心の修正作業を行っています。
 
ただ勘違いしたり脇見すると他人のことが気に成りだしたりしないよう気をつけて精進したいものです。
 
嬉しい事は両親を看護し見送れた事。
 
四季を感じる事、家族に笑顔が出来た事、信用される事、体が元気になれたこと、等これからも仲間の方々と共に断酒継続して行きたいと思います。
 
会員家族の方には感謝しています。
 




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酒害は不幸な病気である、しかし治そうと思えば必ずなおる病気である
 








111.断酒して   (高島支部アメシスト)





 私は18歳の時からお酒を飲み始めました。
 
初めは会社の忘年会などでお酒の味を覚えました。
 
22歳の時、未婚の母で子供を生みました。
 
その時から子育ての不安と生活の不安などのストレスでお酒の量は増えました。
 
子供の面倒を見る事も出来なく、会社へは行けなくなる程、朝からお酒を飲み、子供や家族には凄く迷惑を掛けました。
 
これではダメだと病院へ連れて行かれ、京都のいわくら病院で3ケ月の入院が始まりました。
 
その時はお酒を止めれていましたが、退院後2週間ぐらいでお酒を飲み始めてしまいました。
 
前よりも酷い飲み方で、お酒が無くなるとすぐにお酒が欲しくて、ふらふらの状態でも飲酒運転で買いに行きました。
 
もちろん飲酒運転で捕まり、家族には酷く怒られました。
 

 それにも懲りず子供の学校や市役所などにお酒を飲んだ状態でうなりに行ったりして、子供も泣いて怒っていました。
 
私は子供の気持ちが分かってあげられなくて、いつも飲んでいる姿しかありませんでした。
 
もう一度治そうと思い病院に行き、草津の県立精神医療センターに入院する事になりました。
 
又3ケ月の入院でお酒の恐ろしさや色々なプログラムがあり勉強しましたが、退院後又お酒を飲み失敗しガッカリさせました。
 
私はもう一度本気で治したいと思い、2回目の入院を決め3ケ月頑張りました。
 
気持ちも変わっていました。
 
私の担当看護師の秦さんに話も聞いて貰いよくしてくれました。
 
退院後、仕事にも行けるようになり、子供も何とか18歳にもなりました。
 
お酒も止めています。
 
退院後1回だけビールを飲みましたが、その後は一滴も口にしていません。
 
お酒の恐ろしさを知り、自分の為と子供の為と今迄迷惑を掛けた家族に恩返しをしていきたいと思っています。
 
これからはお酒より楽しい事を見つけて、これからも断酒会へ行き断酒して行きます。



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断酒道には王道もなければ近道もない
 








112.再飲酒しないために   (守山支部)





 私は昭和18年生まれで定年退職して11年目になります。
 
断酒期間は4回目の再飲酒の末、4年1ケ月を数えます。
 
もう、再飲酒しない為に、在職中、酒を止めてから退職するまでの20年間を振り返ります。
 

 その20年間の気持ちを一言で表現すると(不安な幸い)気持ちの生活でした。
 
与えられた職を続けていく為には、飲酒社交効用の生活の中で、断酒生活を送るしかありません。
 
飲酒と断酒の狭間で私は卑屈になったり、頑なになったり、職場の人間関係の中で行き詰まりを感じたりしていました。
 

 退職後はアルコール性うつ病と喘息を友としながら、一日断酒、例会出席の生活を送っています。
 
私のアルコールの酒害はまだ抜け切れておらず、家族に心の傷を残し、私の酒害の責任を強く問われています。
 
その苦しい幸い状態から救ってくれるのは、断酒同友会の存在です。
 
それは間違いなく断友の励ましと示唆であり、広兼医院での診察です。
 

 私は中学校の体育教師でした。
 
無類のビール好きの飲みあがりで、昭和57年10月17日(目)39歳の時に、生徒・保護者との信頼関係を断ち、又勤務していた中学校の実績を汚しました。
 
その時の上司(校長)からは「酒を止めるか、仕事を止めるか、どちらかにしろ!」と諌められました。
 
私は教育指導・生徒指導の出来ない教師となり、しおらしく反省するのですが、生徒からは反発され、同僚の冷たい視線を感じ四面楚歌の居場所の無い心境でした。
 
「酒を飲んではいけないときに限って飲んでしまう」「酒を飲み終わることをしない」というアルコール依存症の病質を知る由もありません。
 

 昭和58年正月に断酒会を知る3ケ月間は、遠足行事の反省宴会の時、乾杯のコップ1杯のビールをなめるようにして過ごす。
 
忘年会の時勧められる酒を断り、適当に慰められながら相槌を打って過ごす。
 
その鬱屈した気持ちの反動は生半可なものではありません。夜な夜な隠れて、行き付けのスナック通い、私の生活は乱れに乱れ、家庭は崩壊し、心身は衰弱していきました。
 

 昭和58年1月6日(木)に栗太(現栗東)支部に入会して今日があります。
 
励ましてくれた家族始め、力強く支えて頂いた皆様に心よりお礼を申し上げます。
 
これからもよろしくお願い致します。



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最初の一杯に罪の意識を感じないうちはだめだ
 








113.体験談はノンフィクション   (甲賀支部)





 私は、断酒会に入会して半年が過ぎようとしています。
 
30年以上も酒を飲み、いつしか体が悲鳴をあげるようになりました。
 
急性膵炎に始まり、糖尿病、結石、あげくの果てに肝硬変で腹水も溜まりました。
 

   私の嫁は、13年前に全財産を使い、さらにはサラ金に多額の借金をして蒸発をしてしまいました。
 
当時、ひとり娘は小学3年生。
 
急に母親がいなくなったもんで、娘の動揺をおさえたり、学校やスボ少に今までどおりに通えるように必死に努めてまいりました。
 

 私の仕事は順調に勤めてまいりましたが、昨年の5月より精神疾患で休職しております。
 

 私の両親は、一昨年に他界し、現在はひとりで生活していますが、多量飲酒になったのは、それらが原因ではなかったと思います。
 
何気なく毎日飲んでいた結果、心と体を病むようになったのです。
 
振り返ってみて、あれが原因やきっかけなどと言い訳をするのもアルコール依存症のよくある話です。
 

 断酒会に繋がって、体験談を聴いていますと、自分自身に心当たりのあることばかりです。
 
話されている方の体験は真実だから聞き入るのです。
 
そんな時代があったなあと、笑って話せる時が来るまで断酒を続けてまいります。



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< 酒が悪いのではない、酒を飲み続けた私が悪いのだ
 








114.成長論序説「回復だけでは終わらせない」    (大津支部)





 【身体】の<回復>は、また飲めることを意味するとして、再飲酒する仲間を、たくさん見て来ました。
 
また、冠婚葬祭や、お付き合いの酒席で・・・勧められたお酒を断るのに苦労しては、失敗し、不安を抱えている患者は多いです。
 

 そこで、著者は、職場にも、アルコール依存症の診断書を提出したことを逆手に取り!今後 一切、嫌な酒席には出ないと決めました。
 
だって、診断書があるのですから、正々堂々と、酒の席での不本意なお付き合いはしないで済むではありませんか。
 
それより、仕事が終われば、 自助グループの楽しいミーティングに出よう。
 
社会学者としての著者は、自殺対策連絡協議会でも、自殺は、無理に抑止しようとするより、 明日も出たい!楽しいミーティングを演出することが、生を長らえる導きになると提言して参りました。
 
そして、改めて、アルコール依存症 から立ち直ったとされる、<回復>のイメージですが、呑む前の元に戻っただけです。
 
依存症の克服とは、<回復>すれば良いというものではありません。
 
それは、心身に分けて考えてみると、明白になります。
 

 【身体】は、<回復>する必要がありますが、【精神】が、<回復>するとは、呑み始めへの元の木阿弥に戻ったと、勝手に脳が解釈する危険性があるのです。
 
そして、再飲酒してしまう のが、冒頭に挙げた仲間たちです。ですから、【精神】は、 <回復>するだけではいけません。
 
<成長>する必要があるという私見が、通院している精神科病院、安東医院における、アルコール講座で探究し、得られた成果なのです。
 
それを裏打ちするように、アルコール依存症を克服した患者の家庭は、健常者の家庭よりも、家族への暴力、暴言が少ない環境になったという興味深いデータがあります。
 
一般家庭、アル中家庭、断酒後家庭、それら三家族の多くをサンプル調査、比較した結果、アル中家庭に、DV が多いのは当然ですが、断酒後家庭は、一般家庭よりも無害だという結果が出ています。
 
つまり、<成長>したアルコール依存症患者とは、健常者よりも、温厚で穏便、“世間様”よりも、“紳士・淑女”になれるのです。
 

 確かに、著者が、ここ1年の自助グループ回りで出会った、同じアルコール依存症患者たちは皆、ミーティング中、@私語は慎み、A時間 配分を考え、B約束は必ず守る。
 
そして、帰る時は、みんなで!本当に、気持ち良く、送り出してくれる。
 
これらは、著者が教えている多くの大学生たちにも欠けている素養、作法です。
 
それを体得することは、即ち、社会人としての心得であり、就職対策にも、応用したいくらいです。
 
もし、著者が採用側なら、ミーティング中の振る舞いだけでも、内々定を出します。
 
そして、それこそが、<回復>というより、<成 長>した証と言えましょう。
 

 もちろん、社会復帰した暁に、「私は、依存症を経て、<成長>しました。」とは言えません。
 
職場や、家族に、散々迷惑を掛けておいて! < 成長>したなどと言えば、周囲の反発は必至です。
 
やはり、「お陰様で、<回復>致しました。」 が適性表現でしょう。
 
確かに、肝臓の値は、< 回復>したのですから。
 

 しかし、欧米の企業では、精神疾患でも告白して、<回復>の手段を見出し、克服した者は、<成長>したとラベリングされ、無病息災な社員よりも!≪問題発見能力≫と≪問題解決能力 ≫があると高く評価されます。
 
日本の企業風土も、欧米に追い付くことを願います。
 
それには、まず、風邪を引いたら、すぐに訪ねる【身体】のかかりつけ医と同様に、心が荒んだら、すぐに訪ねる【精神】のかかりつけ医(精神科病院)が常在するというコンセンサスを、日本社会に根付かせる必要がありますが・・・ 結論。
 
アルコール依存症を、真に克服するということは、酒を止めて!―【身体】は、<回復>し!!【精神】が、<成長>した!!!― というテーゼに収斂できる。
 
それが、落とし処で、みんな納得の表現でしょう。
 

 最後に、これまで、依存症患者で社会学者であることを自負して来た著者ですが、それは、多くの専門家たちにとって、想定外の存在であったようです。
 
患者は、あくまで無垢な患者で、≪批評精神≫は<回復>の妨げになるというのが、一部の研究者たちの本音だったのかもしれ ません。
 
『猿の惑星』で、知性を帯びてきた類人猿を、人類が、駆逐しようとするのと同相です。
 
著者が、アルコール依存症と診断されて、最初に出会った友人の精神科医からは「インテリは、なんやかんやと理屈を付けて、呑みよるから、酒は止められんよ。」と言われました。
 
事実、呑み続けていた時は、四の五の理屈を付けては、否認していた病でした。
 
しかし、現在、著者は、本論の様に、理屈を捏ねて、酒を止めています。
 
そして、今後も、これぞ、【精神】が<成長>した証だと言えるよう、酒の無い社会学者として生きてゆく所存です。



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三年のみ続けると一年寿命が縮む
 








115.断酒〜引き金を避けて   (彦根支部アメシスト)





 私は一滴もお酒が飲めませんでした。
 
42歳の時に更年期障害から、不眠になり食事が摂れなくなりました。
 
子ども達も思春期が近づいてきたのか自我が明確となり、母親としての私の役割も減っていき、寂しさと、空白の時間を埋めるかの様に、お酒に手を出してしまいました。
 
その結果、大量飲酒と連続飲酒を繰り返し、みるみる内にやつれていきました。
 

 食事が摂れなくなっていたので、お酒でおなかを満たしては、太りたくないと吐く、過食も起こり、飲んでは吐くを続けていたら、気がつけば3年間そんな生活が続いていました。
 

   市内、県外の内科、精神科、心療内科等を転々とし、医師には呆れられて診察して貰えず、これが最後であるようにと願い受診したのが滋賀県立精神医療センターでした。
 

 センター受診を勧めてくれたのは、私は手話通訳の活動にもほそぼそと関わっているのですが、一緒に活動していた先輩通訳士さんと手話サークルの仲間でした。
 
この二人のお陰で私はアルコール依存症という病名を知り、断酒会や、AAの存在を知る事ができました。
 
支援して頂いて、センターでの初診日が1カ月後しか最短で予約が取れず、それまで自力断酒を試みる事になりました。
 
離脱症状は、それはとても幸いものでした。
 
体中に発しんが出てかきむしり、動博と寝汗、顔面チック、精神的に追い詰められて壁に頭を打ち付けて、泣き続けたりと私の思考は完全にお酒に支配されていました。
 
センターで入院する事になった1ケ月、本当にお酒と決別しようと思っていましたが、半年後に再飲酒してしまい、再入院 しました。
 
その頃から支援者の2人から縁を断たれ、私にとっては底つきを経験し現在にいたります。
 
家族にも支援者の方々からも失った信頼は簡単には取り返せません。
 
ですが、こうして断酒会と繋がり、仲間と共に断酒という共通の目的を持ち、前進していける日々に心から感謝しています。
 
一日断酒を積み重ね一歩一 歩自分の足元を固め、その歩みを持って私に関わった全ての人に謝罪していきたいと思います。
 
その確かな何かが、この断酒会で掴み取れると、私は心から確信しています。
 




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自分が酒害者でないと言い張っている人は、他人に酒害者だと指さされ、
 
自分を酒害者だと心から認めている人は、他人に酒害者だったとすら言われない
 








116.女性酒害者の気付き    (彦根支部アメシスト)





 あの日、「ここまでよ−く辛抱されましたね。あなたはアルコール依存症です。私と一緒に治して行きましょう」と言って下さいました。
 
故小杉クリ ニック 小杉院長先生の言葉は、決して忘れてはならない新しい人生の始まりでした。
 
それから、毎日、通院を続けて3ケ月間、頭のてっぺんから足の先までアルコールが抜けかけた時、例会出席で聞こえて来た言葉が「断酒会のおかげさまですと」口々に言われていた言葉です。
 
幼い子供と断酒会の例会に行った時に、会員、家族さんが「よく来てくれましたね」と温かい言葉で接してくださりなぜかホッとしました。
 

 私は体験談の中でいつも、夫の暴力、男のくせに働かない怠け者、その上、女性関係をなじり、私は被害者意識のことばかりを語っていました。
 
子ども達にとっては、父親の悪口ばかりを言って飲み続けていた私は、どのように映っていた事でしょう。
 
母親としての私自身は反省の心も無かったのです。
 
飲んでいるから仕事にもいけないし、食事の仕度も橡に出来ていなかった。
 
私は例会で初めて気がつきました。
 
幼い心を抱えて我慢、辛抱していた子ども達こそ、被害者だったのです。
 

 今この世間の中で女性の酒害者が伝えていかなければならないのは、一人の女性であり母であり妻であり嫁という立場を続けていくには、仲間の話を聞かせて頂く心になることと感じています。
 
私自身は止め続けている私を褒めて、この先誇りを持って、ひたすら自分に出来る仕事を続けさせて頂く事に励みます。
 
気付かせて頂きました断酒会の仲間の方たちに感謝の気持ちで一杯です。
 




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断酒とは酒をやめることではなく、のめなくなることである
 








117.私と酒    (瀬田支部)





 現在57歳と半年。
 
酒歴は、19歳の学生の頃から飲み始め、理由は、好奇心、友人との親交、スナックでの女性への関心、大人びた気分等からでした。
 

 飲み方は、飲み出した頃から深酒。
 
たまたま飲酒しても顔を赤らめることもなく多少友人と比べてよく飲む方だったので、「俺は酒に強い」との思い過ごしが助長し、共に飲んでいる友人や家族の声を全く聞き入れず、学生の分際で毎日晩酌をし、日々居酒屋、スナック通いが常となりました。
 

 飲酒人生とともに就職、結婚、育児等を経過するも、飲酒は深まるばかりでした。
 
ちょうど40歳半ば頃から、酒に対しての執着が強くなり、休みの前日は極度の深酒、さらに、休日は朝からの飲酒へと変わってしまいました。
 

 そのため、妻から非難を浴びせられながらも飲み続けた結果、隠れ酒へと進行し、そうなると、勤務中でも休み中でも、常に「酒」のことが気がかりとなり、依存症へ一直線の人生となりました。
 
とにかく、1分でも早く飲みたいという渇望により、残業ができない日々もあり、酒が中心に回っており、酒に操られていました。
 

 平成25年1月9日、妻が探し出した高槻市の阿武山病院への受診となり、医師から、入院の必要性があるとの診断を拒否したため、医師が、一旦診察を中断するので、「入院するかどうか、家族で決めてください。」と言われ、病院の中庭で約1時間、妻及び次男とのけんか腰の家族会議の最中、妻が独断で私の職場へ電話を掛け、「主人は、明日からアルコール依存症のため、病院に入院します」と一方的に伝えた。
 

 私の、何が何でも依存症での入院を断固拒否していた心が揺らぎ、一抹の安堵感が湧いてきました。
 

 入院後は、医師看護師からの勉強、さらには入院されていた諸先輩からの生のレクチャーを受けて断酒を決意し、退院後は、断酒会に繋がりました。
 
私は「あのみじめな飲み方」を座右の銘とし、二度とあの世界に舞い戻らないよう日々生活しています。
 




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我慢だけでは断酒はできない、それはいつか爆発するからだ。
 
我慢しないですむ秘訣は断酒例会の中にある
 








118.私とお酒    (近江八幡支部)





 私が、初めてアルコールを口にしたのは中学生の時です。
 
先輩に勧められキリンビールを飲みました。
 
苦くて飲めませんでした。
 
しばらくして、今度はサッポロビールを勧められ飲みました。
 
キリンビールよりは苦味がましで飲むことが出来、少し大人になれたような気がして、嬉しかった事を今でも覚えています。
 
「早く大人になりたい」その時は、そのように思っていました。
 
今は「年をとりたくない」そう思っています。
 

 ビールが自分の体のガソリンだと思っていました。
 
アサヒのスーパードライが好きでしたが、質より量で、安い物を平日は4本飲んでいました。
 
何故4本かというと、仕事がライン作業で、翌日にお腹がゆるくなるのを避ける為です。
 
昼夜一週間の交代勤務で、昼勤の金曜日の作業が終わると、月曜の夜まで長い休みです。
 
その時は次の日のおなかの調子などを気にしないで飲むことが出来るので、箱で24本買って帰ります。
 
まずはいつも通り4本。
 
6本飲んだ頃、「明日は飲まない。だから明日の分を今飲もう」そう自分に言い聞かせ。
 

 次の日の朝、冷蔵庫の中を見ると、いつも6本ぐらいしか残っていませんでした。
 
そうなると、昨日は飲まないでいようと決めていたビールを平気で土曜の朝から飲んでいました。
 
無くなると妻に食材などのついでに、買ってきてくれるように頼みました。
 
買い物から帰って来ると食材など気にもせずビールを急いで飲んでいました。
 
妻もまた買いに行かされると思い、箱で買ってきてくれていました。
 
結局食材よりもビール代のほうが高く付いたと思います。
 
そんな飲み方をし続け、アルコール依存症になりました。
 

 けれども後悔していません。
 
依存症になって断酒会に繋がる事ができ、断酒して体の調子がよくなりました。
 
断酒会と断酒会の皆様に感謝しています。
 
いつか恩返しが出来るようにまずは、一日断酒と例会出席で頑張りますのでよろしくお願い致します。
 




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何年酒をやめようと酒害地獄は断酒家から遠ざかりはしない、
 
それは常にコップのガラス1枚しか離れていない
 








119.今までの私、これからの私    (八日市支部アメシスト)





 私とお酒の出会いは小学生の正月でした。
 
田舎なので冗談交じりに進められて口にして次の日、二日酔いを経験しました。
 
それから何かイベントがあると口にしていました。
 

 就職し、自分で収入を得るようになり、友達と飲みに行ったり、新年会、忘年会など酒の席に出るのは楽しかった。
 
「お酒を飲めない人は損だ」とも思っていた。
 
若い頃は人並みに秩序ある飲み方が出来ていました。
 

 量が増え昼夜問わず飲む様になったのは結婚してからです。
 
物事が規律通りに進んで欲しい私にとって次々に起こってくる借金問題に耐えられず、酒で紛らわせていました。
 
そんなごたごたが過ぎた後に、残ったのは酒が止められない私でした。
 
出産をし、乳飲み子を抱えても、酒を飲み続けました。
 
娘が園児の時、酒で動けない私を見て、隣に住む私の両親に助けを求めに行きました。
 
ビックリして飛んできた両親に酷く怒られたはずですが、私は覚えていません。
 
娘も「お母さんと一緒にいるのは怖い」と言って一週間ほど自宅に戻りませんでした。
 

 それでも反省することなく酒を飲み続ける私を叔母が精神医療センターの受診を勧めてくれました。
 
精神科の受診に戸惑いながらもなすすべが無く父に連れられセンターを受診し、同日に、八日市支部の例会があることを知り、例会に参加して、今日に至ります。
 

 自分だけが幸い思いしている。
 
被害者だ、だから酒を飲んでも仕方が無いと思っていましたが、今は「酒を飲んでも良い理由なんて無いんじゃないか」と思えるようになりなりました。
 
こう思えるようになったのも皆様の体験談で 教えて頂いているからだと思います。
 

 家族への償いと断酒会行事への参加、仕事のバランスを上手くとりながら私なりの断酒生活を有意義に過ごしていきたいと思いますので皆様、今後とも宜しくお願い致します。
 




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明日からやめるという言葉は酒害が言わせる言葉、
 
今日止められない酒なら明日だって止められない
 








120.私と断酒    (長浜支部)





 私と断酒会の繋がりは、今から15年前くらいに一回目の入院のときでした。
 
長浜赤十字病院の精神科に入院しました。
 
その頃はアルコール中毒症、略してアル中です。30歳で結婚して、子どもは3人娘。
 
長女は、高校3年生、次女は中学3 年、末っ子は小学校2年でした。
 
入院は2ケ月ほどで、退院してから断酒会に入会しました。
 
入院、断酒会は、親父が、僕の嫁に言わせたらしいです。
 
家族も一緒に断酒会に来ていましたが、3回位してからは一人で、仕方なく参加をしていました。
 
1年程して交通事故で顔に怪我をし、大量の出血で意識不明になり、5日位してから意識が戻ったそうです。
 
家族の話では、先生より「7・3」ですと聞いたようです。
 
聞いた家族は、先生にどうか助けて下さいとお願いしていました。
 
お陰で3ケ月ほどで退院しました。それからは、断酒会に行かなくなりました。
 

  3年程経ち、止めていた酒を田刈りが終わり、夕食の時に家内が暑かったからと言ってビールを出してくれました。
 
飲酒欲求がありましたから、やっと飲むことが出来ると思いました。
 
それが引き金になりました。
 
それからは晩酌を飲み始めました。
 
農作業で疲れたときに飲んでいましたが、毎晩飲む様になりました。
 
親父がヤンマーを辞めて自営をしていましたので、3人兄弟で男一人でしたので、私もヤンマーを辞めて自営を継ぐことになり、商工会に入る事になりました。
 
商工会には、色々部会があります。
 
私は青年部になります。
 
仕事を習い始めて半年してから青年部の副部長になって下さいと頼みに来られ、未だ仕事を習っているから無理ですと断りましたが、私は町の青年団のコーラス部の部長をしていた関係で、青年部も同じメンバーが多く、部長も友達で断る事もできないので名前だけならと言って引き受けました。
 
所が、暫く経ってから、部員中から副部長はなんで来ないと言われました。
 
訳を話しても聞いて貰えなく、親父は怒っていました。
 
会合や慰労などで酒を飲んで、仕事の事で悩んで酒を飲み続けて1回目の入院。
 
2回目は区の役員や区の農業組合の役員など色々とやってきました。
 
長女がお盆休みに帰ってきて、東京に帰る日になっても孫と2人だけいました。
 
1ケ月程経っても帰りません。
 
訳を聞くと離婚を考えていると聞き、悩み又酒に溺れ、2回目の入院。
 
この入院は自分はこのままでは自分は元より家族崩壊、孫の事など考え、自分から入院をして、絶対酒を止めると思い、断酒会に入会しました。
 
今は酒を目の前にして飲みたいとは思いません。
 
明日からも一日断酒を続けていきます。



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酒をやめるだけだったら断酒会はいらない、酒をやめ続けるために断酒会が必要なのだ
 








121.私の人生の転機     (草津支部)





 私は、昭和63年4月京都から滋賀へと引っ越して来ました。
 
家族4人、当時、私は41歳、子どもは高1、中1でした。
 
「庭付きの家が欲しい、お酒も控えて頑張る」と言う私の言葉に妻も少しは酒量が減る事を期待したと思います。
 
しかしその後、断酒に繋がる2年間は、大変な時間を過ごす事になります。
 

 営業職で売り上げ数字に追われる毎日、プレッシャーで酒量は益々増える一方でした。
 
身も心も限界に達していたと思います。
 
胃が痛い、肝臓の数値が悪いと内科病院を転々と回っている内に、某病院で神経内科の診察を受けるように言われました。
 
そこで初めて「あなたはアルコール依存症です」との診断を受けました。
 

 最初は入院を拒んでいた私ですが、自分の力ではどうすることもできなく、平成元年12月岩倉病院に入院する事になります。
 
3ケ月の入院後、断酒会に入会しますが、酒への未練は中々断ち切れず、5月の連休に再飲酒をしてしまいました。
 
妻は大ショックを受けたようですが、飲酒欲求はそう簡単に収まるものではありませんでした。
 
抗酒剤は飲んでも洗面所で吐き、仕事から帰宅する時は一升瓶を片手にぶら下げておりました。
 

 平成2年8月13日、断酒会の大先輩3人の方が家まで来てくださいました。
 
深夜に及ぶまで懇々と諭してくださり、その翌日から先輩の方との毎日例会が始まりました。
 
例会の中で飲んでいた時の自分を語り、又他の人の体験談を聞く事で不思議に酒が25年止まっております。
 
私は断酒会の中で人生の軌道修正をさせて頂きました。
 
もしあの時お酒を止めていなかったら、私の家は崩壊し、仕事も自分の命さえ失っていたかもしれません。
 
何よりも良かったと思うことは、子どもが進学など一番お金のかかる時期、父親としての役目を全うで来た事です。
 
妻に対しても断酒継続が償いと心得、これからも断酒に精進して参ります。
 




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どん底を見た人は酒をやめる、どん底が見えない人は飲み続ける
 








122.依存文化論序説―依存から、自立へ―   (大津支部)





 日本人の一割が、お酒を全く呑めない体質で、更に一割が、殆ど呑めない体質と言われています。
 
呑まないで、人生を全うしている彼ら彼女たちに、アルコール依存症の気持ちを理解してもらおうとしても・無理です。
 
しかし、社会的人間である限り、下戸も、世の中の何かには、頼っているはずなのです。
 

 微力ながら、著者は、大学で、様々な依存症を横断的に扱った授業を行っております。
 
社会的な生物である人間は、何かに頼らなければ、生きていけません。
 
無人島に、ひとりで置かれては、殆どの人間が、死に絶えます。
 
著者の場合は、ひとに頼らず、アルコールに頼り、頼り切ってしまったが為、病気になってしまったと、次世代には語りかけています。
 
すると、ゲームにハマって、バイト代を、すべて注ぎ込んでいるゲーム依存の学生や、ネットに感情を奪われ、現実の彼氏が去って行ったというネット依存の女子学生と共感出来る授業になりました。
 
いずれも、どこかのミーティングで聴いたようなお話です。
 
人間の脳の中では、おおよそ25歳で、価値観が固定化するという説があります。
 
ならば、 25歳以下である次世代の大学生にこそ、誤解や偏見を修正する可能性が見出せるのです。
 

 教育とは、地道な革命!です。
 
 そして、これまで、酒の力を借りなければ、大胆な授業など出来なかった著者が、現在、素面(シラフ)で、大学教育の新境地を開拓しています。
 
一年半前、酒を取り上げられた時は、絶望。酒なしでは、二度と新しい授業スタイルなど、見出すことが出来ない!と信じていました。
 
酒なしでは、毎年同じノートの知識を板書して、学生に書き写させるだけの、その日、その時間に、その教室に来る意味も意義もない、コピー可能な授業をするだけ。
 
そんな教員余生しか待っていないと諦めていました。
 

 もし、改めて、授業革命を起こすなら!再び、アルコールに手を出すしかないと信じていました。
 
しかし、三ヶ月間、いわくら病院おたぎ病棟での入院生活で頭を冷やし、退院後は、安東医院のアルコール講座を、一年間ほぼ皆勤賞で受講して学びながら、自助グルーフ回りで、拙いまでも、体験発表を重ねて行くうちに、酒の勢いで体得したスキルは、脳が覚えていてくれたことを認知します。
 

 地道なリハビリを続けていれば、個人差はあるでしょうが、一定期間で、アルコールによって磨き上げた発想力を、脳が、素面の状態でも、思い出してくれるのです。
 

 依存症とは、快楽や報酬系の回路が、脳に出来上がっており、再び、一滴でも酒を呑むと、自分の意志では制御不能に陥って、脳は暴走する病気だと危倶されて来ました。
 
しかし、それと同時に、アルコールが培った!生産的な想像力も、脳は覚えていてくれるのです。
 

 2014年、ドイツの研究グループによる報告では、記憶と学習を司る脳の部位、海馬は、断酒をすれば、一定期間で回復するとされています。
 
それ即ち、飲酒期間中に憶えたスキルも、断酒直後は使えませんが、回復すれば蘇る可能性を示唆しています。
 

 そして、酒の力を借りて創造していたアイディアを、素面でも呼び起こすプロセスこそが、<依存からの自立>を証明する段階であるとラベリング出来るでしょう。
 

 振り返れば、アルコール依存から、ケースワーカーをはじめとする医療者依存にシフトするのが、治癒の注じまりでしたが、着地点ではありません。
 
ドクターも、ケースワーカーも生身ですから、不確定な人間関係にだけ頼っていたのでは、確固たる自立には至れないでしょう。
 
治療は、自立するプロセスにおける、導入としては、絶対に必要な時間でした。
 
お世話になった医療者の方々には、断酒への引導を渡して下さった事に対して、感謝の念は尽きません。
 

 最後に、現在は、自立することが、依存の対極にあり、依存からのテイクオフだと考えています。それが、再び、アルコールに手を出さなくても、アルコールの力を借りて行って来た偉業と同じ行いが出来る状態を指します。
 

 そして、時間は掛かっても、脳は、アルコールで培ったスキルを覚えてくれているということを証明してゆぐことが、アル中社会学者としての著者に課せられた天職だと考えています。
 
具体的には、大学において、固定観念のない次世代に、酒害教育はもちろんの事、酒なしでも機転の利く!即興授業(いま、この教室に居なければ体得できない知恵を学ぶ、コピー不可能な授業)を提供し続けてゆくことです。



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断酒とは動き回っている独楽のようなもの、動きが止まるとズッコケる
 








123.依存症からの回復   (草津支部)





 「私の夫は酒を止めて3年になります。
 
しかし只、酒を止めているだけで思いやりも(優しさもなく)家庭内でのいろいろな物事に対して一切協力してくれません」
 
「夫が酒を止め始めてた頃、家族みんなで必死になって協力したのに一体どうなっているんだろう。
 
この先どうなって行くのか、怒りと不安で一杯です」。
 
例会などで家族の方からよく聴く酒害者の回復の程度の話です。
 
夫と同じ時期に断酒を始めた「誰々さんは大変優しくなられ、家事も良くお手伝いされるそうです」他者と比較して、「悔しい思いをしております」。
 

 酒害者一人一人は個人差があり、ほかの酒害者との比較は間違ったことだと思います。
 
酒害者の側からは、何年たったからもう回復したとか、もう大丈夫だとかは解らないそうです。
 
まだまだ断酒する為に闘って居る状態であり、そんなには変われません。
 
家族にとっては不満でしょうが、酒害者自身から優しくなり始めた時が回復の始まりではないでしょうか。
 
酒害者自身からの回復が始まる迄我慢しましょう。
 
人それぞれの元々持っている性格、性質等があり、酒を止めたからといってすぐに元に戻る事はないと思います。
 
そして依存症になる以前の事を思い出してください。
 
元々優しく無く、家の用事も一切しなかったこの人が依存症になって治ったから優しくなり、家の事も良く手伝ってくれるようになったとは到底考えられないことでしょう。
 
依存症の家族は本当に大変だと思います。
 
いつ正常に戻るか解らない人をじっと耐えて待ち続ける辛さ、他人は勿論、酒害者本人も解らないのではないでしょうか。
 
この家族のつらさから逃げるのではなく、耐えて向かって行かなくてはなりません。
 
断酒会の経験豊かな家族の方から、お話を聞きながら指導していただくのも良いと思います。
 

 又、医療の先生とか、カウンセラーの方々に相談して対処するのも良いと思います。
 
この家族の辛さを知っておられるのは彼らだけではありません。
 
沢山の家族の方々が知っておられます。
 
逃げ出さず忍耐強く頑張りましょう。
 




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一杯飲めば自分にわかる、二杯飲めば同志にわかる、三杯飲めばみんなにわかる
 








124.私とお酒   (栗東支部アメシスト)





 私が最初にお酒を口にしたのは、中学2年の14歳の時でした。
 
遊び半分で姉が飲むのを見て、誘われて、つい引きずられて飲みました。
 
断ったら良かったのに、一緒になって飲んでいた。
 

 酎ハイだったので飲みやすくて、ついガバガバ飲んでしまった。
 
飲んだ後が大変だった。
 
気分が悪くなってトイレから離れられなかった。
 
一晩過ごしたのに、これに懲りてお酒を飲まなくなったらよかったのに、その後付き合った人が、お酒を飲む人だったので一緒になって2人で飲んで、家では飲み足らずに外でも飲むようになった。
 

 それから一緒に住み生活をしていったのですが、生活が続いていくうちに、彼が帰って来るのが遅くなって来ました。
 
私は眠れなくなり、眠るためにと、しまいには家にあるビールに手を出した。
 
次第にお酒が無くては寝れなくなっていった。
 
そんな生活が続くはずもなく、別れてしまいました。
 

 実家に帰ってからも、お酒がなくては眠れなくなっていた。
 
その頃は前の彼との生活で、お金を借りていたので、返す事に必死になっていた。
 
昼の仕事だけでは返すのがしんどかったので、夜の仕事に入る事になった。
 
最初は「お酒も飲めて、お金も儲かるのは良かった」と思ったが、体がついてこなくなってしんどくなっていった。
 
そんな日が続いて、眠るのに睡眠薬とお酒を飲んで寝るようになっていき、しまいには、寝惚けて階段から落ちたのが最後だった。
 
家の人にお酒と睡眠薬を飲んでいることがばれてしまい、怪我が直ったあとは精神科に入院させられた。
 

 でもここで反省して断酒会に繋がりお酒をやめ、止められて頑張れる事になって、今も頑張っています。
 

 まだ「お酒が欲しい」と思う時もありますが、「せっかく今まで止めているのだからもったいない」と思い、「断酒会にも申し訳ない」のと両方があるので、今も我慢できている次第です。
 
まだ睡眠薬には依存していますが、これからも一日断酒で頑張っていきたいです。
 




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命をかけてのんできた酒だ、命をかけてやめ抜こう
 








125.依存のきっかけは   (近江八幡支部アメシスト)





 もともとはお酒を飲まない家庭に育ち、お酒のどこがおいしいのか解らない私でしたが、就職してからお酒を飲む機会が増え、仕事のストレスと、自分の性格上のコンプレックスからお酒を飲み始めるようになりました。
 
人との会話が苦手でマイナス思考。
 
家では怠け者で、駄目な所だらけの自分のことが嫌で、自分に自信が無いという悩みがあった所、そんな私でも酔うと人との会話を楽しめる、自信が出てやる気が出るという「酔う快感」を知ってからお酒にはまっていきました。
 

 結婚後はキッチンドリンカーに始まり、いつからか、程良い酔い加減で飲み終わることが出来なくなり、楽しみながら飲んでいたお酒が、愚痴に始まり度々泥酔しては、主人に暴言を吐く飲み方に変わっていきました。
 
酔うと明るく前向きでいい気持ちになれたお酒が、飲んでも、飲んでも飲み足らない・・・「気がつくとアルコールに浸かる」の毎日になっていました。
 

 そんな生活を続けて挙句の果て、6年前に高血圧による脳出血で倒れ左半身麻疹になりました。
 
リハビリ病院を退院後、1年程は反省してお酒を控えられましたが、次第に飲みたい衝動に駆られ、倒れる前より量も増えて行き、主人に隠れて飲んでは泥酔を繰り返し、転倒するなど心配させるばかりでどうしても止められませんでした。
 

 不自由な体になったにもかかわらず、「懲りずにお酒が止められない・・・これでは駄目だ!」ついには主人からも「これ以上は面倒見切れん!更に大怪我をする前に医療の力を借りてでも、何としても治せ!!と専門外来を勧められて受診した結果、アルコール依存症だとわかり断酒会へと繋がったのが、今からちょうど1年前の事です。
 

 それからは断酒会の皆さんのお陰もあって、一滴のアルコールも口にせず今日まで頑張ってこられました。
 
断酒し始めてまだ、たったの1年ですが、今までずっと心配と迷惑を掛けてきた主人の為にも自分の為にも、これからも断酒を続けて頑張って行きたいと思 います。
 




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酒害は素直な心を失わせ、人格を低下させる
 








126.仲間との絆   (大津支部)





 断酒会に出会いして約20年になります。
 
人生を変えるために断酒会に再入会しました。
 
初めに自分から変る事、まず笑顔で挨拶して、努力を重ねればどんな人でも、再び花を咲かせられる事がわかった。
 

 花が咲かない間、憎い相手の支配下にあることと同じだとわかる。
 
心の病気だと笑顔もないし、人とまともに話せなくなる。
 
この世に生きる資格がない、自殺を何度も試みるが、死に切れない自分がいる。
 
今まで見えていなかった事、酒が消えればだんだん見えてくる。
 
同時に今まで気付かなかった他人の優しさや他人の倣慢さも同時に見えて来ました。
 
どうしても心から離れない、(洗脳、支配…)憎しみの中で、自分に嘘をつきながら酒を飲んで、記憶を消せばいいと飲み続けてブラックアウトになりました。
 
そして大切な家族や友達、お金、仕事、恋人等を失いました。
 
例会で出会えた友に苦しんでいる人達を少しでも助けたい気持ちに変りました。
 
自分のおごりを取り去る事が出来なかった。
 
人生にポッカリ開いた穴から、見えてなかったものが見えるようになりました。
 

 大阪や京都の友達の体験談を聞く事で心のメッセージを感じました。
 
心が感動して行動となり、やがて友情となりました。
 
断友と共に話し合い、両親の優しさ、友達の優しさ、友の裏切りなど分かると同時に、心の変化では勇気、笑顔、挨拶、悦しみ等色々ありました。
 

 花がきれいに見えたり、視覚が戻り、盛りがわかる、食事がおいしく体が動く等。
 
自分が変れたのだし、皆様方も変れるのだとメッセージを伝える為に毎日例会を致しました。
 
たったそれだけで、自分の家族も変りました。
 
涙で感動、感謝できる自分にならせていただきました。
 
今までのように人に対して憎しみや妬みを全く感じない、椅麗な心を取り戻せました。
 
険しい峠でも友と登れば、喜ばしい思い出になります。
 
2%の人を許す勇気を持てば、心のゆとりに変るのである。
 
人は自分の心の鏡である事を常日頃から心において行動を起こせば開けるのだと教えて貰った断友にありがとうと心から感謝します。
 




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断酒は車の運転と同じだ。
 
昨日まで無事故だからといって、今日も無事故だという保証はどこにもない
 








127.私とお酒  (守山支部アメシスト)





 私は小学校1年生でネフローゼ症候群を発症し、19か20歳で死んでも不思議ではありませんでした。
 
おまけで貰った命が、どうして酒癖に満ちてしまったのか考えています。
 
2人の娘にも恵まれたのに。
 

 2人目の子どもは生まれて10カ月、1年まで2時間おきに泣く子供で、心身ともに疲れていた時、授乳中にもかかわらずコップ一杯のビールを飲む機会があり、初めて酒が「馬力」になって1時間ほど散歩に連れ回れました。
 
その子が小学生の時、夕方にワイン1本を飲んでも夕飯の支度をしても平気でした。
 
幸か不幸か、酒を飲んでも顔が赤くなったり、眠くなったりしない性分で強いなと思います。
 

 母親として子どもから手を離れて、さみしいのと更年期のはしりか、不眠症になり、酒にはしった様な気がします。
 
10年位前には一睡も出来ない日が続きました。
 
そして酒の量が増えて行きました。
 
5年位前には酒気帯び運転で免停になりました。
 
物損で済んでラッキーにも関わらず、運転しなくていいので昼間から酒を飲むようになりました。
 
ある日洗濯物を取り入れていた時、竿が頭に当たり酷く出血し、同じく取り入れていた隣の奥さんに助けられ、救急車で病院に運ばれました。
 

 日頃の不摂生と出血によりひどい貧血になり、実家に預けられました。
 
「今度やったら離婚や」と言われたのに帰って2、3日で飲酒にはしってしまいました。
 
あれもこれもしているのに私が居なくなったら困るのにとの思いでしたが、そのままにしておいたら病気で死ぬか、怪我で死ぬかどちらかだと思い、離婚してくれたのだと今は思います。
 
娘にも大変迷惑をかけています。
 
改めて「償い」ができればよいのですが、今は「黙々と断酒を積み重ねること」が償いと考え一日断酒に努めています。
 
ただ飲まずにいられるのは、両親、妹、娘 の無償の愛に支えられているのだろうと感謝するのみです。



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われわれの敵は酒ではない、われわれの敵は自分の心だ。
 








128.新しい人生  〜仲間と共に歩みます〜 (甲南支部)





 私は今年4月に断酒会に再度入会させていただく事になりました。
 
数年ぶりです。
 
1年前の平成27年に再度断酒を決意して新しい人生を歩もうと考えました。
 
1年間必死で断酒をしました。1年間断酒を続ける事ができたらご迷惑を掛けた断酒会に入会して仲間の皆さんと一緒に共に歩みたいと強く思いました。
 
断酒会の皆様のご厚情により入会させて頂く事になり、ありがたく思っております。
 
私は平成17年に酒害でどうしようもなくなっていた私を、妻が専門病院に連れて行ってくれました。
 
S医師からあなたは正真正銘「アルコール依存症」です。断酒をして下さい。
 
一生です。
 
直ぐに入院をして治療を始めましょうと言われました。
 
私にとって人生の中で一番の「晴天のへキレキ」でした。 この医師は何を言ってるのか意味が分からず「否認」をしました。
 
病院に連れて行ってくれた妻に暴言を吐き怒りは頂点になっていました。
 
それから10年間色々な事がありました。
 
専門病院に2回入院、そして断酒会に入会で2年間はスムーズに行けました。
 
3年目に入り連続飲酒が始まり、酒害をどんどん積み上げました。
 
多くの入院仲間の死亡8名、失職、妻との離婚、交通事故(人身事故)による障害、糖尿病の悪化、家族からの絶縁、友人やお世話になった方々への裏切りと多くの酒害体験をして来ました。
 
全て酒が原因です。
 
分かっているけど止められない酒、本当に地獄の日々でした。
 

 10年目に一筋の光明が射し込みました。
 
どうしようもなかった私に、別れた妻の義父の励ましたと援助があり、酒を止める事が出来ました。
 
断酒までとは最初はうまく行きませんでしたが、酒をやめていく内に不思議と自分を見つめる事が出来ました。
 
体調の改善、精神状態の落ち着き、酒を飲んでいない頭で考える行動と思い。
 
少しづつですが良い方向に歩みだしました。
 
どうしてもっと早く気付かなかったのかと思います。
 
本当にアルコール依存症は怖い病気です。
 
今は、私は正真正銘の「アルコール依存症」と自覚をして、日々一目断酒の積み重ねと迷惑を掛けた人達に償いをしていければと思っております。
 
それと私にとって本当の気付きは断酒していくだけでは足りない、新しい人生を自助グループである断酒会の仲間の皆様と歩む事が一番大切なことだと気付きました。
 
本当に長く遅い「気付き」でしたが、今後とも皆様と共に新しい人生を歩んで行こうと思います。
 
よろしくお願い致します。
 




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酒をやめることが何故恥かしいのか、やめられないことの方が本当は恥かしいのに。
 








129.感謝   (草津支部)





 紫陽花がひと際美しい季節となりました。
 
27年前の今頃、私は家内に説得され初めて岩倉病院の診察を受けに行きました。
 
あなたはアルコール依存症です。
 
即入院するようにとの所見でした。
 
「自分で治せる人は2000人に1人です」とのことでしたが、私は「その一人になって見せる」と豪語を発して帰りました。
 
その半年後、底つき体験をして入院する事になりますが、その半年間は家内にとって地獄だったといいます。
 
度重なる交通事故に幻覚幻聴、手の震え、理解しがたい言動等、何が起こるか分からない状態だったそうです。
 
こんな状態の私ですから、到底 親孝行など出来ていません。
 
父が亡くなったのは、私が入院する3ケ月前の事です。
 
長男である私は、喪主であるにもかかわらず、その場に座っているのが精一杯でした。
 
心配ばかりかけ最後まで親不孝をしてしまいました。
 

 平成2年3月岩倉病院を退院し断酒会に入会しました。
 
療養中は会社や家族に 迷惑を掛けていた事を深く反省し、もう2度と酒は口にするまいと誓っておりました。
 
しかし私の意志の弱さか、酒への未練が断ち切れずに5月の連休の際に飲酒をしてしまいました。
 
酒を一度口にすると、中々止められません。
 
家内は失望し又争いが耐えませんでした。
 
そんな時救ってくださったのが断酒会の先輩の方でした。
 
私の様な身勝手な人間を、根気よく毎日例会へと導いて頂き、お陰さまで今現在まで断酒する事が出来ております。
 

 飲酒当時の私は、家族も顧みず妻や子ども達との思い出の写真も少なく、後悔先に立たずですが大変申し訳なく思っております。
 
今断酒会の中で酒を止め続けることは勿論の事、人として生きる知識を体験談の中で学ばせて頂いております。
 
これからも断酒に精進して参ります。
 




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酒害者は自分の最も頼りにする人から傷つけていく
 








130.酒と私の人生   (近江八幡支部)





 私と酒の出会いは、私の記憶ですと、幼稚園児の頃に雨天の日には、農夫だった祖父が近所の友人たちと一人ずつ膝元に一升瓶を置いて、手酌で飲んでいました。
 
その場のお摘みをおやつに食べ、皆に酌をしながら私も少し飲んでいました。
 
其れを見た隣の小父さんに旨いかと尋ねられて、ウンと答えると(本当に旨かった)、流石に爺さんの孫や、跡取りやと言われて、物凄く嬉しそうな顔をしていた爺ちゃんをみて、酒を飲むことが悪い事だと思わなくなりました。
 
その頃から母親が私の酒を飲むのを見つけると、お前を腹に宿して6ケ月過ぎた頃より、夜な夜な盗み酒をする様になり、父に注意をされても、誕生の2日前迄飲んでいたが、お前が誕生すると酒が一滴も欲しくなくなったと聞かされました。
 
(母は元来アルコールを口にしない人です。妹さんたちは別ですが?)三姉妹の父の祖父は、跡取りの孫の私を物凄く甘やかして、悪戯をした私をしかる父を怒ったそうです。
 

 そんな中、我侭気億で大人になり、世間的に酒を飲めるようになる頃に父親を亡くし、実の叔父も無く、叱ってくれる人も無く、私の酒の飲み方がおかしいと注意してくれた叔父さんを、あの人は、けちだからと、自分勝手に思い、話も聞かず飲んでいました。
 
迎え酒をするように成ったのは、離婚の時に3人子供を連れて行かれ、通勤時に通学する子ども達を見ると我が子を思い出して、寂しくなり、酒でごまかしている内に、日常化してしまいました。
 
徐々に度数の高い酒を飲むというようになり、胃に流し込むように体内に入れると気持ちが落ち着く感じを覚えました。
 
その頃から酒から離れなくなったと思います。
 
飲んではいけない、このままでは、と思いつつも酒を飲んでしまいました。
 
県立精神医療センターに酒を 止めるきっかけを教えて頂きましたが、退院時には不安になり、断酒会に入会させていただき皆様のお話で自分の酒歴を思い出し、二度と私の命を危険に晒す酒に手を出す事のない様に、「断酒会無くして断酒無し・断酒無くして命無し」を念頭に置いて、一日断酒で参会させて頂きますのでこれからも宜しくご指導お願い致します。



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酒をやめなければならない理由はのんでる頭ではわからない、酒をやめてみて少しずつわかるものだ
 








131.生きる道    (彦根支部アメシスト)





 飲酒している時は、このまま死んでしまえば良いのにと何度思った事か、その時の私は自分勝手で周りの事など何も気遣う考えなど無かったのです。
 
振り返ってみるとあの時、アルコール専門の小杉院長との出会い、断酒会の仲間との出会いで、死ぬことなく、今を生かされている私なのです。
 
子ども達4人は、今は成人しています。
 
子ども達が育って行く中で満足に食べさせてやれない日々、古着ばかりを与えてきた母親でした。
 
子ども達にとって、親を選んで生まれてきたのでないという思いであったと思います。
 

 私が、選んで夫婦になり、子どもの気持ちも考えずに別れて、又二度目の夫を選び、子どもが生まれる。
 
夫の暴力が酷すぎて、女性関係が激しすぎて、生活のために家庭のためにと、働いてもくれない夫を選び、毎日毎日が地獄、飲酒して暴れ狂っているもうだめだと思ったとき、子どもを連れて逃げてしまった私。
 
しばらくは止まっていた飲酒が始まった時、大阪の母子寮にいたのです。
 
飲酒生活をやめようとしても止まらない私でした。
 
どん底になった私は、母子寮の先生に頼みました。
 
飲酒をやめるから子ども達を助けて欲しいと、アルコールをやめるときの苦しいという体験を、何度も繰り返している私でしたが、これが最後と思い我慢しました。
 
頭の中では子ども達の顔の、悲しい、辛そうな表情が見えているのです。
 
その結果、小杉先生との出会いがあって生きることは楽しい事ばかりではない、辛さを乗り越えてこそ自分の人生が開けて行く事を教えて頂きました。
 
断酒会に入って、他人の語る事を聴かせて頂く内に、私の飲酒が元で、子ども達には母親の愛情すら与える事が出来ていなかった事に気付いたのです。
 
子ども達に、許して貰おうとは思いませんが、ひたすら断酒を続け、その中で素面で向き合える母親に、社会の中で一人の女として信頼されるように、努力しかないと思っている現在です。
 
もう2度と裏切る事無く生きる道のレールに乗り続けていきます。
 
やっぱり最後に伝えたい言葉は支えて下さった、皆様のお陰です。
 
ありがとうございました。



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やめられない酒だからやめるのだ 
 








132.お酒と私の人生   (高島支部アメシスト)





 私は大阪で産まれました。
 
親と兄は私が女の子やからって、甘やかされる事も多かったけど女の子やから厳しい事もあり、家族にとっての「いい子」で居てないとアカンと思っていました。
 
でも中学校、高校の時は、隠れて悪い事は一通りしてた様に思います。
 
もちろん、その頃はお酒も飲んでましたが、もともと、家が親戚や親の友達が集まっていて、お酒は当たり前にあったし悪いものやとは思ってませんでした。
 

 20代は子育てが楽しく幸せでしたが、私が育った環境のようによく人が集まる家で、お酒はいつも身近にあり、どちらかと言うとお酒で問題を起こす自分に悩まされる感じでしたが、今思えば私は「いい娘」「いい嫁」「いい母」である事、親のようになる事が必要やって思ってたように思います。
 

 30歳を過ぎて下の子も小学校に入り、少し楽になった頃色々な事がきっかけでパニック障害になりました。
 
今迄出来た事が出来ない。
 
人が多い所で色んな場所が 怖くていつ死ぬのかと言う恐怖でいっぱいでした。
 
心療内科で薬を飲んでゆっくりゆっくり治していけば良かったのに、心配性の親を心配させたくない、色々手伝ってくれる気持ちに応えなアカン、と思うとますますしんどくなっていきました。
 

 そんな時、友達に「あんたお酒飲めるんやし朝起きたら飲んだらえーねん」て軽い 一言で飲んでみたら、めっちゃ体動くし外に出る事も怖くないし、家族は喜んでるし、それから薬代わり、ガソリン代わりに飲む様になりました。
 
でもどんどんお酒の量は増えおかしくなって行っているのは分かってたけど止める事が出来ませんでした。
 
アルコール病院につながって入院もするけど退院したら飲む、自助グループに行っても、飲み仲間を作ってばかりでした。
 

 家族にお金を取り上げられると子供の財布から取る、家中お金と隠したお酒を探してめちゃくちゃにする、そんな事も当たり前で何も出来ませんでした。
 
子供は毎日学校から不安一杯で帰って来ましたし、隠してたお酒を流させたり、「死ね」まで言わせてしまいました。
 
私は子供を飲む理由にしたくなかったから子供の為に止めるって事は言えませんでした。
 
その時の私は自分の為にお酒を止める事が子供の為になるって事も分かってませんでした。
 
長女は家に寄り付かなくなり、次女はこんな私に寄り添ってくれ、長男はまだ小学生やったから、飲んでない時は一緒に居てくれました。
 
旦那には「オレの稼いだ金で生活させたってるのに止められへんなら出て行け」と言われ、ホンマに私の居場所はありませんでした。
 
そんな自分を責め 続ける中お酒があったから無理やり自分を守れて生きてられたと思います。
 

 最後の入院の後、地元に戻ると同じ事を繰り返すのは、私も家族も分かってたし、滋賀の施設に来ました。
 
施設で意志と根性で止めても2、3ケ月が限界でした。
 
去年7月から断酒会に行かせてもらえるようになり、初めて高島支部に来た時、まず、家族の人が「よう来たなあ」って迎えてくれました。
 
私は家族に迷惑を掛け続け、依存症の私が加害者で家族は被害者やから責められて当然やと思ってたのに、「お酒で苦しめられた同じ仲間や」って言ってもらってホンマ涙が出ました。
 
電車の都合でいつも一時間しか居られないのが残念ですが、今、断酒会は心の場所となっています。
 

 しらふになって元々パニック障害が出て凄いしんどい時があって、こんな時は薬代わりのお酒が正直飲みたいです。
 
でも飲んでしまうとまた元に戻ってしまいます。
 
今は断酒会のおかげ、子供のために止められなかったお酒も子供のお陰で止める事が出来てます。
 
本当に愛する子供に何もしてあげられませんが親として、私が安全な居場所になってあげたいです。
 
これからも私は「とりあえず今日1日」を続けて行きたいのでよろしくお願い致します。
 




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のむ理由は見つかってもやめる理屈は立たぬもの、先ずやめようそれから考えよう 
 








133.無駄な経験はないが、経験を生かすことは難しい  (甲賀支部)





 私が朝昼晩と飲むようになるまでに、酒を止めるチャンスが3回ありました。
 

  1回目は20年前、ちょっと飲む量が多いような気がして、休肝日を作ろうとした時です。
 
日曜日に、月、火は飲まないでおこうと決めるんですが、それが出来ません。
 
どうしていいのか分からず、図書館で調べました。
 
この時は、アルコール依存症の本までたどりついて、依存症について知ったんですけど、酒は止まりませんでした。
 
まだ体力もあった、飲んでも仕事は出来ていた。でも、その頃から、会社から家までの20分間が待てなくなって、途中のコンビニを"しらふ"で通り過ぎることが出来なくなって行きました。
 

  2回目に酒を止めるチャンスは、10年前にウツになったときでした。
 
眠れない、仕事がカラ回りする、気持ちが落ち込む、何もする気がなくなる。
 
精神科でウツと診断されました。
 
この時2カ月の自宅療養をして会社に復帰するのですが、酒で薬を飲んでいるようなものだったし、酒でウツを遠ざけようとしていました。
 
酒とうつの関係を知らない医師にかかり、酒の害に気付きませんでした。
 

  3回目に酒の問題に気付くチャンスは、8年前に劇症肝炎で死にかけた時でした。
 
倒れる前の健康診断でガンマGTPが1700あったのに、酒を飲んでたらこんなこともあるわ、と思っていました。
 
2か月後、マロリーワイス症候群で吐血、下血して意識を失くして、済生会病院に救急搬送されました。
 
4日間意識不明で医者には、意識が戻るかどうかは五分五分と言われていたそうですが、何とか持ち直して1か月後には退院にこぎつけました。
 
退院する時、担当の先生は“酒を止めろ”とは言わなかったし、自分は最もしんどい時期を意識不明で過ごしていたため、全く懲りていなかった。
 
隠れて酒を飲むようになるまで1か月もかかりませんでした。
 

 今思うと、依存症について知識ができたこと、ウツの時自分の思い通りに出来ないことの辛さを知ったこと、入院中に飲まないことの穏やかさを体験したこと、これらの経験が後押ししてくれて7年前の断酒につながったと思います。
 




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断酒道にか免許皆伝もなければ達人もいない、そこには酒に自由を失った酒害者がいるだけだ 
 








134.宿命   (信楽支部)





 洋食の料理人になりたくて、18歳から京都のレストランで見習いコックとして働いていました。
 
その頃の調理場は上下関係が厳しく上の人の言う事を逆らうならば拳をあげられる事もしばしば……。
 
「酒やワインぐらい飲まなければ真の料理の味は解からないぞ」と言われ飲み始めたのがきっかけです。
 
最初の頃は飲 むのも修行の内と思い、軽い気持ちで飲んでいた酒、いつの間にか上司よりもよく飲む様になっていきました。
 
仕事の方も人よりもよく教えて貰い、利点もありましたけど・・・。
 
それから数年信楽の地に帰り結婚に至りました。
 
結婚したら酒は止めよう。
 
子供が出来たら酒はやめようと頭で分かっていても体が言うことを利かず、これ一杯飲んだら止めよう、もうこれで止めようと思いながら飲んでいました。
 
家内との喧嘩も絶え間なく、家に帰るのもイヤでイヤで、帰りたくないから隠れて飲むのが、毎日の日課の様になっていた。
 
最盛期は阪神大震災の頃、テレビの画面を酒の肴にして飲んでいました。
 
飲酒運転だとわかっていても朝から飲んで行く。
 
いつの間にか、飲まずしては何も出来ない状態になっていくのが、自分でも分かっていました。
 
父の死によって、生活の不安から酒の量も一段と増し、仕事はもちろん、経済面、子供の教育、嫁姑の問題等、何一つコントロールできない状態でした。
 
家内も我慢の糸が切れたのか、職場の上司と相談し、医療センターを紹介され、週一回の通院と断酒会に入会して依存症を回復してくださいと言われました。
 
信楽支部に入会させて貰ったのが、平成12年です。
 
しかし自分が依存症とはなかなか認められず、少しぐらいは良いだろうと思い断酒会に入会しながら、少量ではありましたけど飲んでおりました。
 
もちろん隠れ酒です。家内も何も言わなかったのでこの状態を続けようと思っていましたが、日に日に量が増していき、又、最初の頃に戻るのではないかとやっと気付いたのが、入会して3年目です。
 
やっと3年目にしてアルコール依存症と認め、真の断酒に踏み切ったのが、平成15年、それから断酒を続けています。
 
今は通院もしていませんし、主治医もいません。
 
断酒会の皆様こそが主治医だと思い、本当に感謝しています。
 
色々な事がありましたけども、これも自分に課せられた宿命だと思い、これからも頑張って行きます。
 




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酒害は不幸な病気である、しかし治そうと思えば必ずなおる病気である 
 








135.断酒会に出会って    (栗東支部)





 私が精神科(アルコール専門病院)に入院するきっかけは、家内がもたらしました。
 

 36歳の盆に帰省した時でした。
 
体がだるい、何もやる気が起こらない、目にも黄疸が出ている。
 
痩せた私を見て、母が家内に「帰ったら大きな病院で見てもらいなさい」と言っているのを横で酒を飲みながら聞いていた。
 
成人病センターで診てもらうと「酷い肝炎、即刻入院」との診断でした。
 
会社に許可を貫いたいと許しを得て、会社に行き報告し、その後、酒屋で酒を飲み入院しました。
 
γ−GTPが1300ありました。
 
若いせいか3週間程でγ−GTPが300を切り、退院させてもらいました。
 
仕事がしたいと40日間程酒を止めていましたが、少し汗もかいて仕事も引けた帰りの道中で、こんな日にはビールでも飲みたい、駄目だの葛藤の揚句、缶ビール1本に手を付けました。
 
次の日は2本と増えて行き、1週間もすると日本酒になり元の酒量に戻るのに時間はかかりませんでした。
 
仕事がしたいと思っていた事も忘れ、仕事も休む酒になり、飲みすぎたらあかんと思うのですが、飲み過ぎてしまう。
 
暫くして、予定していた義父の法事で実家に家内を先に帰らせて、私は週末の土日で帰る予定でいましたが、家内が留守なのを良い事に飲み過ぎ、実家にも帰れず、同僚に肝炎で入院した成人病センターに運んで貰った。
 
治療を受けている間に担当した医者が「この人はこの病院では治らないよ。精神科で診てもらった方が良い」と告げたようです。
 
その事を聞いた家内が何時も診てもらう近くの内科の先生に精神科を紹介して貰いました。
 
家内が受診したところ、断酒会を紹介された様です。
 
それから暫く経って、私が酒を飲み過ぎて体調を崩し休暇を貰って寝ているときに、断酒会に行こうと誘われた。
 
無理やり連れて行 かれた格好ですが、断酒会の例会で酒を止めている人達がいることに驚いた。
 
自分には無理だとまた飲む生活に戻りましたが、39歳の年に会社で酒の問題を起こし、上司から叱責を受けた。
 
からだを治せ。
 
生きづまり自殺願望もあった自分が逃げ出した格好であるが「酒を止める為に治療を受けよう」と決断し、断酒会の方に電話を入れた。
 
その方から専門病院を紹介され入院する事になった。
 
退院後、栗東支部に入会、例会通いを始めた。
 
1週間後に仕事に復帰したが、飲まずにやっていけるか不安で一杯でした。
 
例会の帰りに先輩方に明日はこの支部やと言われるままに毎日例会出席をしていた。
 
例会に出ると帰りは清々しい気分で帰れる。
 
「例会出席、一日断酒」で酒を飲まずに過ごす事ができた。
 
例会は止める為のすごい力を与えてくれる。
 
また明日も頑張ろうという勇気を貰えるところと感じている。
 
現役の頃、仕事の悩みも例会に出席して体験談を聞く中で、酒を止める辛さを考えれば、何でもない事と気持ちの切り替えができ勇気が貰えた事を思い起こします。
 
これからも例会出席して酒を止めて行きます。
 




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断酒道には王道もなければ近道もない 
 








136.こらから   (長浜支部アメシスト)





 私がお酒を飲み始めたのは20代半ばでした。
 
私は飲める体質だったらしく徐々に習慣化していき、量も一定でしたが毎晩飲む日々が10数年続きました。
 
今思うと、眠るための飲酒でした。
 
私は早いうちに自分が依存症なのではないかと分かっていました。
 
「体のために週に1日くらいは休肝日を」と思った時には、その一晩を飲むことをやめられない自分がいたからです。
 

 深く考えないように現実に蓋をしていた気がします。
 
そして、どこかに死にたいという願望がずっとありました。
 
飲み続ければ、いつか死ねるんじゃないかとおもっていました。
 
でも、昨年祖父母が突然、相次いでなくなり、ずっと溜まっていたストレスや自分への不満や周りへの不信と、祖父母への思いと喪失感みたいなものがぐちゃぐちゃになり、心身のバランスが崩れていき、一気に酒量が増えました。
 
そしてすぐに連続飲酒状態になり、以前からあった手の震えに加え、幻覚や幻聴が起き、アルコール性てんかん発作で倒れました。
 
顔から転んだ為、前歯が4本折れ、顔面血まみれ状態で救急車で運ばれて、全てが明るみになってしまいました。
 
家族が私のひどい酒癖を知ったのは、このときが初めてでした。
 
とてもショックで驚きだったと思います。
 
自分の現状を何とかするには、酒から隔離してもらう入院治療しかないと思いました。
 
アルユール治療をしている病院を探しましたが、県内の病院では直ぐに診察してもらうこともできず、岐阜県の養南病院に入院しました。
 
でも、今ある環境や仕事を一度リセットして長期入院するのは、とても不安で怖かったです。
 

 でも、改めて自分だけに向きあう時間を持てたことはすごく貴重な経験だったと思います。
 
入院中、たくさんの本を読んだり、先生や他の患者さんと話をする中で、アルコール依存症という病気を理解する反面、本当にお酒をやめられるんだろうかと常に自信がなく、不安で一杯でした。
 

 入院中から「断酒会に参加する」という事は、治療に必須条件だと思い、近くにある支部の情報を集め、退院後すぐに彦根と長浜の断酒会に通いはじめました。
 
皆さん暖かく迎えて下さって、本当に嬉しかったです。
 
家族や友達にも言えないような話や、ここでしか共感してもらえない話をできると言う事が断酒を続ける上で、本当に大切なんだと、数ヶ月経った今でも強く思います。
 

 お酒を飲むのをやめて、もうすぐ半年です。
 
退院の際に「まずは3年やめ続けること」と言われました、飲酒欲求もあり、3年なんて途方も無く長く感じていますが、とりあえず今日一日を大事にしていきたいです。まずは「1日断酒」。
 
これからも断酒会の皆さんとのご縁を大切にして毎日頑張って生きて行きたいと思います。
 




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最初の一杯に罪の意識を感じないうちはだめだ 
 








137.酒と私   (草津支部)





 私は当時、某会社の営業職にありました。
 
来る日も来る日も売上数字に追われていました。
 
夜も休日も仕事が頭から離れず、休日にも出社するようになっていました。
 
同僚の人達は仕事、家庭、そして自分の余暇と上手く生活を配分しているのに、私にはそれができません。
 
その頃から深酒が始まり、二日酔いの状態でお客様との商談が上手くいく様な錯覚に陥っていました。
 
段々と酒量が進み朝酒の勢いも借りる状態になって行きました。
 

 出社時には酒の匂いを消すために何時も仁丹を口にし、会社中に手が震えて字が書けない事や、昼食時には箸を持つ手が震えて恥ずかしい思いもしました。
 
最終的には幻覚、幻聴も現れ恐ろしい体験もするようになりました。
 

 仕事で使用する社用車も、再三接触事故で破損させ、異常に気付かれた上司の方が、入院して治療をする様に言って下さいました。
 
本当なら私はこの時点で解雇されても仕方ない状態だったと思います。
 
有難いことに3ケ月専門病院に入院し退院後断酒会に入会させて戴きました。
 

 退院後数回の再飲酒もしましたが、私は幸せ者だと思います。
 
当時、草津支部長が毎日例会へと導いて下さり、酒を止めることができました。
 
断酒会で自分の酒に溺れていた恥ずかしい状態を素直に語り又他の人の体験談を聞かせて頂く事で、私は少し自分を改革することが出来ました。
 

 自分が酒に溺れていた時、どれだけ周りの人に迷惑をかけ、どれだけ家族を苦しめていたのだろう。
 
本当に今は二度と酒をロにしてはいけないと自分を戒めております。
 
まだ私のように酒の怖さを理解できず路頭に迷っている人が多くいると聞きます。
 
早く専門機関に繋がり新しい人生を歩まれることを願ってやみません。



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酒が悪いのではない、酒を飲み続けた私が悪いのだ 
 








138.否認の塊   (草津支部)





 「人並みに仕事もしているし、贅沢をしなければ家計も問題ない」「事件や事故を起こしたこともないし、肝臓はちょっと心配だけど健康的にも何も問題ない」 「なのに何で周りは、私の飲酒に対してとやかくいってくるのか、追い詰めるような話ばかりしてくるのだろう?」としか、2年前にセンターに入院するまでの20年間は思っていませんでした。
 

 今、振り返れば成人式はアルコール依存症完成式であったと思うほど、早い時期から異常な飲み方をしていました。
 
実際、20代後半には、結婚まもない妻に暴力をふるって骨にひびが入る怪我を負わせ、専門病院をいくつか受診してアルコール依存症とはっきり診断されています。
 
その後しばらくは、それなりに反省もしましたし、長男の誕生もあいまって健常者のような飲み方をしてた時期もありました。
 
がそれもそう長くは続かず「アルコール依存症って何それ!」といわんばかりに、又その事を無かった事にしようとするかのように酒量が増えて行きました。
 
「飲んで何が悪い」でした。
 
2度目の転職をした頃からです。
 
経済的にも家庭的にも、もちろん仕事でも、何もかも上手く行かなくなり、妻も私の酒をなんとか止めさせたいと双方の親族が集まって会議が行われました。
 
結果、琵琶湖病院への入院を断固拒否した私は、通院とAAへ通う事。
 
半年断酒することを条件にその場を凌ぎました。
 
本当に断酒をしていたのは3ケ月ぐらいしかありませんが、確かに体が楽になったような感じもしたし、断酒も悪くないと思えるときもほんの少しありましたが、ほとんどは怒りとイライラで一杯の我慢の日々でした。
 
「なんで自分だけこんなにしんどい思いをさせられるのか?
 
だからといって何か変ったのか?」そんな事を考えながらAAへ行くと言ってパチスロに興じ、今いい所なのに帰らなければならずイライラ。
 
仕事は元々行き詰ってイライラ。
 
私が悪態をつかなくなって安心したのか周りは物をズケズケいってくるし、要求してくる気がして又イライラ。
 
もう2度と断酒とかするものかとある意味、固い決意と飲酒正当論を逆に強固にして最後のチャンスをみすみす逃していったのです。



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三年のみ続けると一年寿命が縮む 
 








139.家族に感謝、そして断酒会に感謝   (甲賀支部)





 「私も一緒に行くから、断酒会に行こう」
 
 妻のこの一言がなかったら、断酒会につながることも、自分の酒害について振り返ることも、今の回復もなかっただろうと私は思う。
 

 平成20年に1回目の精神医療センターを退院して、運良く半年後に再就職できた。
 
職場では未経験者なのに年長者扱いで、期待に応えなければと自らを鞭打ち、本音を出せないままストレスだけが蓄積していった。
 
(飲んだら、嫌なことを考えなくて済む)と、飲むことだけが唯一の逃げる方法だった。
 
週に1回だけ飲むという約束は守れるはずもなく、飲む量も回数もあっという間に増えていった。
 
家では安心して腹一杯飲めないからと、通勤途上の飲酒運転が始まった。
 

 家の中では失禁しても下痢便しても黙っていた妻が、「飲酒運転だけは、止めて。お父さん一人の問題では済まなくなる」と目の色を変えて訴えるのだが、私は耳に栓をした。
 
家の中や車の中に隠し酒をした。掃除の邪魔と言われれば喜び勇んで外に出た。
 
コンビニに行ってワンカップを一気飲みし、パチンコ屋に走った。
 

 帰りに転んで血だらけになって帰ったことも、救急車に運ばれて帰ってくることもあった。
 
私は、お酒が依存性薬物であることも、自分が酒に対してコントロール障害であること(酒に対してブレーキがきかない状態)もすっかり忘れてしまっていた。
 

 飲酒運転がばれないはずはない。
 
今日は止めておこうと思うのだが、いや、明日から止めようと、今日飲むことは許してしまうのだった。
 
職場での飲酒が発覚して逃げるようにして帰る途中、記憶が飛んで車道側壁に激突、車は大破して、またもや警察のお世話になった。
 
その大破した車を冷めた目で見たとき、酒を止めなければ次には自分の命はないだろうなと直感して思った。
 

 2回目のセンター入院前に妻からは「退院したらどうやって生きていくのか考えてきてほしい」とも「もう仕事はしなくていいから断酒だけを頑張って」とも言われ、週3回の例会通いが始まった。
 

 「何で酒で失敗した話をして酒が止められるのだろう」「今日、指名されたら何をしゃべろうか」と、聞くことにも、話すことにも素直になれなかった自分だが、例会出席の中で自分の酒害に気づき、酒を我慢しているという感覚は次第に薄れていった。
 
償うためには飲むことを諦めるしかない。
 
自分で酒を止めると決めるしかない。
 
これが、私の断酒の出発点だった。
 

 今、お酒を止めてやっと6年。
 
やっと当たり前の生活、普通の生活を取り戻しつつあ る。
 
家族に感謝、断酒会に感謝である。「感謝」の気持ちを忘れずに、これからも「1日断酒」「例会出席」に励みたい。



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自分が酒害者でないと言い張っている人は、他人に酒害者だと指さされ、
 
    自分を酒害者だと心から認めている人は、他人に酒害者だったとすら言われない 
 

140.長年酒にやられ続けた脳ミソでは何をいくら考えても
 
   浅はかで稚拙なことしか浮かんでこない   (甲賀支部)





 堂々と飲めなくなり隠し酒を始めた頃は、隠し場所に困らなかった(と思っていたのは自分だけ)。
 
客を入れたことがない応接間のソファの背もたれ、テレビ台の収納スペース、机の引き出し等々。
 

 ある日、すべてお見通しの妻が言う。
 
「机の引き出し、ソファの背もたれ、etc.明日、缶の日やし、ゴミ袋に入れて持って来て!焼酎のワンカップも!中身入ってるやつも!!」
 

 「次どこに隠そうかな?」…バカである。
 

 コンビニから帰って来て外から部屋を見ると窓に“いいちご’の紙パックが…、急いで部屋に戻りそれをソファの後ろに置く。カーテンで隠したつもりが外から 丸見えJ!!…バカです。
 

 背中とわき腹の痛みで目が覚めた。
 
なんで?起き上がれない、記憶がない。
 
息子を呼んで聞いてみると、どうやら階段から落ちて気を失ったらしい。
 
思い出した!灰皿とグラスを持って階段を降りようとした、その後は??肋骨4本骨折、全治3か月の重傷。
 

 後日、詳しい事を知る。
 

 階段を滑り落ち、障子のガラスを割り、気を失って失禁。
 
たばこの吸い殻と割れたグラスの破片が散乱していたそうです。
 
その時、階段横の部屋には息子の友達が大勢遊びに来ていて娘も一緒だったと。
 

 息子は驚き、どうしたら良いいか解らず、私の母親に泣きながら助けを求め、私の弟にも手伝ってもらい、着替えと後片付けを3人で済ませたということでした。
 
その日から、息子は家に友達を呼べなくなりました。
 
息子と娘の心に大きな傷を負わせてしまったことを思うと、謝っても謝り切れない。
 

過去に起こしてしまった事実は忘れてはいけない。
 
反省しなければいけない。
 
一生償い続けなければならない。
 

 酒を止め続け、人として、親として生きていけば償える?
 

 その気持ちを持ち続ければ出来るはず。



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断酒とは酒をやめることではなく、のめなくなることである
 

141.私の酒害   (守山支部)





 ご承知のとおり断酒会では、『この世の地獄を見たければアル中の家庭を、極楽を見たければ断酒者の家庭を見よ』という言葉がありますが、もう一つ『この世の極楽を見たければ、一人ぼっちでぼんやりと、独り酒を飲んでいるアル中を見よ』という言葉もあります。
 

 これは例えて言えば蚕の繭の中にいるような生活実感のないアルコール依存症者の世界を表現したものです。
 
狭い空間の中で自分だけの世界をつくり、孤立してぼんやりと暮らしています。
 
退嬰的で、はかない世界で、この世界の絶対必要条件は酒を飲み続ける自由と権利です。
 
この自由と権利のためにはモラルも社会通念も親子の情愛さえもその地位を低くしていきます。
 
私は長い間、この世界の底で生きてきました。
 
何時その世界に入ったのか定かではありませんし、ここ数年断酒はしてまいりましたが、一杯の酒を飲めば、止める事が出来ず、また戻ってしまうのに違いありません。
 

 この世界に住む人の口癖は「わしは頑張っている、やるべきことはやっている、だから少々飲むぐらいかまへん」酒のみであった父からこの言葉を嫌ほど聞きました。
 
この手の体験談はたくさん聞きます。
 
あえて言えば自己弁護の匂いがします。
 
私も言葉は違いますが言い続けてきました、とにかくどんな事でも酒を飲むための理由にしてしまう。
 

 この世界の中の私は「孤独の中で苦痛と不安」を感じ「周囲との関係の回復を望む」訳ですが自分の飲酒問題は棚上げにしますので、「酒だけを生きがいにしながら人に言うことを聞け、変れというのでありますから「周囲との関係修復は失敗」に終わり、また「孤独の中の苦痛と不安」に戻ります。
 
これが私の住まいでありました。
 
無理やり家族の中に入ろうとするのですが酒を飲んでいますので、どんな話も右から左で空回り、そっぽを向かれて一人自己嫌悪に陥るのみです。
 

 私は入会当初、自分の酒害について、「飲んで崩れることは少なかった」「顕著な酒害、アルコール依存症の症状はなかったように思う」と語っています。
 
アルコール第一主義の自分を不自然とも思っていなかった。
 
隠し酒、朝酒、家庭内窃盗、飲酒運転をしていても、酒を飲むためにはやむを得ない手段、ということで頭の中でへ理屈をこねます。
 
恐ろしい話ですが、「少し悪いけど、まー洒落ということで」となります。
 
とんでもないペテン、欺瞞であります。
 

 息子の幼稚園時代、酒代ほしさに貯金箱に手をつけ、気づいた子供が悲鳴を上げた瞬間、犯人は自分だと気付き、ことの酷さに凍りついた私でした。
 
この時、どう取り繕うと困りましたが、子を育てる親としてはどうかなんて思いはかけらもなかった。
 

 妻が言いました。「どうして上から目線で人の意見をはねつけるの」、一杯飲んでいる私には理解できなかった。
 
逆に馬鹿にしているのかと思いました。
 
「なにを言う。俺がおまえを指導するのは当然至極じゃないか。」飲酒による万能感に浸って、世の中を生きようとしている私には、人を傷つけているその自分の歪み具合がわからない、そんな人間でした。
 

 18歳の娘に、「お父さんは私の大事なものを一つ一つ壊していくね。今度、弟に手を出したら承知しない。家族が仲良くなれるなら、自分が犠牲になってもかまわない」とまで言われた時、私は反発して『娘の若さ故の言葉だ、堪忍してやろう、それが寛大な父親の姿だ』と思うようにしました。
 
わたくしは心地よい依存症者の世界から一歩も出ないため駄々をこねていました。
 
頭の中で現実を書き換えていました。
 

 妻が、不登校気味の子供を必死に高校まで送迎しながら、「私がどんな思いで子供を守ろうとしているか、解っているの」と言った時、「ふん!なんや自分だけ正義漢ぶりやがって」と反発を感じた私。
 
自分にとっては酒さえ飲めればあとはどうでもよかったんです。
 

 私の断酒は自己保身ため、破滅の危機感から始まりました。
 
仕事がうまくいかない―飲みすぎによる体調不良―仕事がうまくいかない―吐血―破滅の予感―節酒の必要性を思う。
 
飲酒第一の世界に住む人間には、酒を節酒する必要は感じられても酒を止めようという決断ができるはずがない。
 
酒なしで生きているなんて考えられない。
 

 私をアルコール依存症者の歪んだ世界から引きずり出し、眠りこけている人としての感性を目覚めさせてくれたのは、娘の必死で誠実な対応でした。
 
吐血後の平成20年11月1日、いよいよ追い詰められたと感じ、生きるヒントをもらおうと断酒会に出席するようになっても、3週間、酒は止まりませんでした。
 
「あわよくば止められたら良いな。できたら節酒が出来たら最高」と本音では思っている私です。
 

 11月22日の深夜、ベランダに私を呼び出した娘が、「自分がどれ程、家族の幸せ、仲の良い家族に戻れることを願っているか理解しているのか、私は母と弟のためならこの身を犠牲にしてもよい、もし今、断酒を決意しないなら手首を切る」とそのしぐさをします。
 
私は娘を丸め込もうと心にもないのに必死で断酒を誓いまくりました。
 

 翌朝、叱責に疲れた娘の身に危うさを感じ、自傷行為が起きてないか不安で娘の部屋に飛び込みました。
 
部屋に飛び込んだ時、疲れ切った寝姿で布団からはみ出す腕が目に留まりました。
 
その時その腕の白さが、まるで弓矢の様に、私の眼を貫きました。
 
私は初めて自分の飲酒が起こしている事態を認識し、猛烈に断酒を決意しました。
 
以来断酒生活が始まりました。
 

 そもそもアル中の私は、水に濡れた枯れ木、断酒の灯がともるはずがない。
 
だけど灯りました。
 
娘の必死の姿、疲れた姿が眠っていた私の親としての本能に働きかけたのだと思います。
 
弱い弱い灯でしたが、断酒会の仲間、例会、体験談が消えてしまうのを防いでくれました。
 
燃料は酒害を懺悔する気持ちであり、自分の体験談でした。
 

 私の今の断酒は長い長い期間、家族が受けた苦しみ、犠牲の上にあります。
 
私は飲酒第一、自分第一の世界の住人です。
 
いつその世界に入ったのか定かではありませんし、現在も完全に抜ける事が出来ていないのかもしれません。
 
ただ断酒は継続しており11月で丸9年になります。
 
こんな私ですが、数年前のある時、息子と二人で話をしていて、偶然に私の話が体験談のようになったことがあります。
 
当時高校生の息子は涙をぼろぼろ流しながら「お父さんの話をもっと早く聞きたかった」と言ったことがありました。
 
この家族の長い長い犠牲を忘れることがないよう自分の酒害を語り続けて、酒をやめ続けていきたいと思います。
 




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我慢だけでは断酒はできない、それはいつか爆発するからだ。
 
我慢しないですむ秘訣は断酒例会の中にある
 

142.生命あればこそ    (彦根支部)





 私は、酒を飲み続けて16年間、このまま死んでしまって楽になりたいと思っていました。
 
ところが最終を迎えた日、幼い子どもたちが側にいて、声を出さずに見守っている事に気付いたのです。
 
女子寮の先生に助けを求めました。
 
早速、保健所の相談委員さんとの面接、その時私の姿を見るなり「大丈夫ですよ、アルコール専門の先生の所へ行きましょう」と私に冊子を渡してくださったのです。
 
部屋へ持って帰っていると、小学校4年の娘が学校から帰るなり、冊子を見て読んでくれました。
 
『アルコールと病気』という題名でした。
 
「お母さんやっぱり病気やったんや、治してな」。
 
娘の目から涙が溢れました。
 
その後、相談委員さんと小杉クリニックへ支えられ診察に臨んだのです。
 
今でも忘れられない言葉は、小杉先生が私を見るなり「よくここまで辛抱しましたね、辛かったでしょう。これからは私と一緒に治して行きましょう」と言ってくださった。
 
私は涙が止まりませんでした。
 

 ようやく、自分自身が素直になれたのです。
 
その後、毎日通院をし、数カ月後、仲間が断酒会へ連れて行ってくださったのです。
 
例会の中で「皆さんのおかげさまで、生かされています。今日一日を大切に断酒続けて行きます」と言って笑顔なのです。
 

 仲間の話、家族さんの話を聞かせていただいている内に、私は飲んでいた自分白身が一番反省しなければいけないことに気付きました。
 
女の癖に酒を飲んでアル中になってと批判され差別されていましたが、そうじゃない自分の本性を貫く事、それは酒をやめ続け、飲まざるをえなかった日々を語り続け、私の周りにいて支えてくれた家族や、他の人たちの心の中を語り続けていくしかないと思っています。
 

 すると自然に今生かされている事に感謝できる私がいます。
 
これからも反省、感謝そしてどう生きていくかを日々努力させて頂きます。
 
ありがとうございます。



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何年酒をやめようと酒害地獄は断酒家から遠ざかりはしない、
 
それは常にコップのガラス1枚しか離れていない
 

143.今までの自分を忘れず、これからの家族との
 
   生き方を考える       (高島支部)





 お酒を初めて飲んだのは、高校三年生の夏でした。
 
サッカー部での最後の試合で、当時優勝候補の守山北高校に7−0で完敗した後、部活仲間と一緒に打上でビールを飲みました。
 
以降、友人と遊ぶ時は、決まってお酒を飲むようになり、その当時から、人より飲酒量は多かったように思います。
 

 最初は、機会があるときしか飲まなかったお酒も、20歳になった頃には、毎晩一人でも飲むようになりました。
 
自分でもお酒の飲み方に異常さを感じたのは、20代後半からで、飲み会が終わっても、お酒が足りずに記憶が無くなるまで家で飲みなおすような状態になりました。
 

 3年前、会社の健康診断で、ガンマ数値が異常に高いのが分かり、家族からもお酒をやめるように言われ、禁酒をすると約束をしました。
 

 しかし、当然やめられるわけも無く、家では飲まず、仕事帰りにお酒を買って、隠れて外で飲むという状態がずっと続きました。
 

 仕事も忙しく、帰りが遅くなってしまう事も多かったのですが、仮に早く終わっても、外で数時間飲んでから家に帰る、休日も仕事と嘘をついて、外で飲むという事を繰り返していたものだから、娘からは、「いつも私たちのためにお仕事頑張ってくれてありがとう。私はお父さんが早く帰ってくるのを待っているよ」という手紙までいただきました。
 
普通なら、そこでお酒はやめようと思わないといけないのですが、私はそれでもやめられず、酒を飲み続けた結果、今年の1月末に飲酒運転で事故を起こしました。
 

 専門病院でカウンセリングを受け、断酒会では、当事者や家族の体験談を聞き、今更ながら、家族には本当に長い間、心配ばかりかけてきたことを改めて知りました。
 

 今、お酒を断つことが出来ているのは、そうした家族の思いをもう、裏切ることはできないという思いが大きいです。
 

 今は、休日に家族と一緒に過ごすことが、お酒を飲んでいたころには出来なかった何よりの楽しみです。
 

 これからも断酒会の仲間の皆さまと一緒に、お酒を断ち続けていけるよう、日々頑張っていきたいです。



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明日からやめるという言葉は酒害が言わせる言葉、
 
今日止められない酒なら明日だって止められない
 

144.アルコール依存症と診断されて  (大津支部)





 去年の12月20日、行き先が分からないまま、娘の運転する車に私は乗っていました。
 
1週間前に朝からだらだらと連続飲酒の挙句の果てに家族に対して、とてつもないような酷い問題行動を犯してしまいました。
 
その後大変後悔し、2〜3日後、家内に「酒をやめたい」と懇願しました。
 
車が着いた場所は安東医院の前でした。
 
診察の結果、「あなたはアルコール依存症です」の診断結果でした。
 
その日のうちに入院の手配をして頂き、12月22日いわくら病院の入院が決まりました。
 
「ついにここまで来てしまったのか」と自責の念で一杯でした。
 
入院はしたも甲の、アルコール依存症がどういう病気なのかまるで理解できていませんでした。
 
それから院内例会、本などで理解が進む中で、酒をやめれば回復するが、治らない病気であると分かった時は大変ショックを受けました。
 
10年断酒しても、気の緩みで一杯飲んでしまったら、元の木阿弥になることに繋がる、こりゃ相当に覚悟をしないとならないなと思いました。
 
そう考えると多少不安になってきましたが、それ以上に不安な事がありました。
 
家族に掛けてきた迷惑をどうすれば、償う事が出来るかと考えると、今までの生き方を変えないと駄目だと思い、退院後、態度、習慣を根本的に変えるしかないと覚悟を決めました。
 

 しかしながら覚悟を決めたものの、具体的に且つ継続できる事を実践しなければいけないと、腹をくくりましたが(しかし不安です)。
 
3月14日に退院してから7ケ月経ちましたが、スリップはしていません。(多少は飲みたくなりましたが)
 

 毎日5時半に起床し、朝飯前に1時間ウオーキングして、そして毎日2〜3時間読書をします(内田康夫にはまっています)。
 
毎週火曜日には例会に出席し(現在皆勤中)、月1回外来通院をしています。
 
平凡な日々を送っていますが、今後も日々研鉾を続けて行きます。
 
家族とのコミュニケーションを少しずつですが、まだまだ回復途上であります。
 
これからも1目断酒をモットーに頑張っていく所存です。



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酒をやめるだけだったら断酒会はいらない、酒をやめ続けるために断酒会が必要なのだ
 

145.断酒12年、今思うこと   (瀬田支部)      





 平成17年6月に60歳にて当時大津支部瀬田分会に入会しました。
 
以来12年余り断酒生活を継続して、今思うことを語ってみたいと思います。
 

 私が酒を知ったのは15歳頃だったと記憶していています。
 
理由は13歳の時アルコール大好き人間の父親を突然失くしたからです。
 
田舎の次男だった父親の一人息子である私が父に代わって、本家に盆碁の挨拶に行く事になりました。
 
下戸の伯父と従兄弟に代わって、出席者の相手をすることになりました。
 
高校を卒業し18歳で社会人となりましたが、その時には相当な酒飲みになっていました。
 
我の強い私は他人と上手くなじめないので、酒を飲むのもほとんど一人でした。
 
当時はコンビニや自販機があまりなかったので、たいがい酒屋の立ち飲みがスタートでした。
 
1〜2合の後は7〜8人で満席の止まり木の居酒屋で軽く飲む毎日でした。
 
帰宅すると食事の代わりに酒屋から配達してもらってある在庫の酒を又飲んでいました。
 
1日一升近い酒量だったと思います。
 
20年あまり続いた母親との2人の生活から28歳で現在の妻と結婚しました。
 
職場での出会いの妻は私が酒をよく飲むことを知っていたと思います。
 
同居の姑が私の飲酒について何も言わないのを見て、妻もその後生まれた息子二人も何も言わなかったと思っていました。
 
今思うに何も言わなかったのではなく、何を言っても無駄だと諦めていたのではないかと思われます。
 

 運転免許のない私は飲酒事故の経験はありません。
 
父親ゆずりの肝臓のお陰でアルコールに関しての通院経験はありません。
 
但し母親ゆずりの糖尿病と高血座は断酒12年の今でも通院加療中です。
 
この事を今思うに45年間の飲酒に原因があったのではないかと考えています。
 
会社生活も38年続きましたが、私の飲酒について文句や注意もなかったと思い続けていましたが、これも1人よがりの思い込みだったと思います。
 

 入会時、大津支部、瀬田分会双方に10〜20年の断酒継続の方々がおられましたが、有言ではなく無言のご指導を得た様に思っています。
 
現在瀬田支部には入院中の方々に出席して頂いていますが、話をして頂く中で、以前の私を思い出させて頂き、初心忘れずでいければと思っています。
 
今後とも宜しくお願い致します。



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どん底を見た人は酒をやめる、どん底が見えない人は飲み続ける
 

146.飲酒のきっかけと、再飲酒との闘い (近江八幡支部アメシスト)





 私は、飲みだしたら泥酔するまで飲んで、主人への不満をぶつけては寝てしまうお酒で、家飲みしかしなかったので、外での失敗は一度もなかったのですが、お酒の勢いを借りては主人に当たってばかりいました。
 

 そもそもの深酒は独身の26歳頃からで、仕事の立場とプレッシャーから気付いた時にはうつ状態になっていて、スタッフ同士との会話も苦痛になりだした頃から、がんばろうと思えば思う程、変な目分になっていく状態を思い詰めて、精神的におかしくなっていき、最終的に自殺を図ってしまいました。
 
今思うと完全な「うつ病」になってたんですが、当時は一人で苦しみ続けた結果、この世で一番許せない最低最悪の事だと思っていた「自殺」という行為をしてしまった自分の卑怯さと罪の深さと、自分を信じられなくなった怖さが付きまとい、それからの人生が本当の苦しみの始まりでした。
 

 今後も行き詰ったら自分が何をしでかすか分からない恐怖心と不安感から、精神的に潰れそうになる中でとうとうお酒に手をつけ始めました。
 
お酒を飲んだ時だけは「こんな私でも前向きになれるかもしれない!もう2度と何があっても絶対に自殺なんかせずに生きぬくんだ!!」という力が湧いてきて、勇気付け助けてくれたのがお酒でした。
 
それからの私はうつが酷くて落ち込むとお酒の力を借りるようになっていきました。
 

 自殺未遂がトラウマになり結婚にもうつ病で自殺の事は誰にも言えなかったのに、お見合いで知り合った主人にだけは、何故か正直に話せました。
 
主人は驚いた様な顔を一つせず、こんな私に暖かい言葉をかけてくれ精神的に大きく受け止めてくれました。
 
そんな主人のお陰で自殺の呪縛から少しづつ解放されてうつも軽くなってきていたのですが、結婚後のある悩み事で深酒が始まりました。
 

 自分でもおかしな飲み方だと思い始めた3年前に「依存症」だと診断されたので、病気のせいだと判った事で、すぐに断酒へと気持ちが切り替えられて頑張る事が出来、それ以後はまったくアルコールを口にせず順調に断酒できていました。
 

 1年半を過ぎた頃、あまりにも順調に止められすぎてる事が不思議で疑問に思えてしまい、飲みたくもないのに試し飲みをしてしまいました。
 
それが失敗への始まりで、その後の再飲酒〜再々飲酒へと繋がっていきました。
 
断酒し始めてから「絶対に飲まない日」と決めた強い決心が一度の試し飲みをしたぽっかりに、高かったハードルがとたんに低くなってしまい、スリップするたびに再飲酒への罪の意識が薄れていきました。
 

 今はそんな低くなってしまった断酒のハードルをまた乗り越えてしまわない為にも、断酒会とアメシストの会に通い、こころに溜め込んでしまった悩みやストレスを断酒仲間に話して吐き出す事が一番の薬だと実感し、再々飲酒への欲求をなんとかして断ち切って頑張っている真っ只中です。



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断酒とは動き回っている独楽のようなもの、動きが止まるとズッコケる
 

147.アルコール依存症 回想録   (近江八幡支部)





 異常な酒の飲み方になったのは仕事上のひとつの出来事だと思います。
 
当時、中間管理職で一つの職場を任される傍ら、企業内労働組合の執行委員長をしていました。
 
そんな折、既存事業の一部を撤退し、新事業を展開する噂が立ち始め、労働組合役員である私の耳にはすぐに入ってきました。
 
詳細なことは徐々にわかっていきますが、撤退する部署は私が任されている部署でした。
 
事業撤退となる職場の管理職でありながら、労働組合の委員長をしているという受け入れ難い現実から、持っていたプライドを引き裂かれ、同時にやるせない気持ちになっていったことを強く覚えています。
 

 撤退となる部署の従業員のうち正社員は別の職場に配置転換となりましたが、再雇用社員や派遣社員は、期間満了にて契約打ち切りというものでした。
 
ニュースで見ているときは「当たり前」と思っていた対応もいざ自分の職場となると話が違います。
 
まして組合員からどう見られるのか不安になりましたが、悪い予感は的中し、よからぬ噂はすぐに耳に入ってきました。
 
組合員からは陰口を言われるようになり、募る不安や不満を中間管理職である私に突き付けて来ることが日常になり、部下との関係は悪化していきました。
 
部下から見れば私も撤退を推進している立場の人間に見えたのでしょう。
 
そんな折に一人の部下から突き付けられた一言で何か張りつめていた糸が切れたことを覚えています。
 
それでも毅然とした自分を取り繕うために必死でした。
 
契約打ち切りとなる従業員の顔を素面で見られない、朝からコンビニで缶チューハイを買って飲み出勤するようになっていました。
 
アルコールが切れてくると落ち着かなくなり、心を鎮めようとアルコールに手を出してしまう、勤務中にも隠れて飲酒をしました。
 
こんなことを繰り返して一番幸い時期を乗り切りました。
 

 事業再編も終わり大きな問題はなくなったかのように思っていましたが、一度ついた飲酒癖と、社内での自分の立場、部下との関係性は悪化の一途を辿りました。
 
家族には内緒で会社をズル休みするようになり自分の居場所を探すように市内のあらゆるところで飲酒するようになっていました。
 
食事もせず、寝られず、水すら受け付けない、ただアルコールを流し込む。
 
飲酒運転も常習化し単独事故を2度起こし、とうとう妻から別居を言い渡され、実家に戻りましたが、状況は何も変わりません。
 
落ちていく自分を見直し、「このままではあかん」と決心し出社したその日に上司から、休職して体を回復させるよう説得され、結局は「酒から逃れられるところにいきたい」という一心で専門病院に入院しました。
 
これまでも医師や家族から入院を勧められましたが、「酒をやめられるわけがない」という自尽と酒を飲まない生活を想像できなかったことで、酒をやめなければならないという病気の存在を否定し、その病気を患っていることを認めていなかったと思います。
 

 入院中も現実から逃げられただけで満足している自分でしたが、治療の一環で通いはじめた平安会の例会で、少しずつ「酒を断たなければいけない」という思いが芽生えました。
 
退院後も何度かスリップしましたが、家族の支えや断酒会の仲間のおかげで『断酒の道』に戻れています。
 
本当に少しずつですが成長していると思います。
 
『死ぬまで飲めない』ならすぐ挫折しますが、『今日一日』を積み上げていきたいと思います。



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一杯飲めば自分にわかる、二杯飲めば同志にわかる、三杯飲めばみんなにわかる
 

148.私の人生と酒   (近江八幡支部)





 私の人生は、酒で始まりアルコール依存症を患うことが当然の様な人生の始まりでした。
 
私が酒(日本酒)の味を覚えたのは、幼少の頃、雨天の日など、町内で酒豪で知られていた祖父が、近隣の友人3〜4人で一人当てが一升瓶を持ち寄って飲んでいる所へ幼稚園から帰宅した私は、そのつまみが食べたくて酌をしに近寄って酒を少し飲んだ頃に大変に美味しく思ったことを覚えています。
 
祖父はそんな私を見て微笑んでいました。
 
「この子が酒が好きなのは、母親がこの子を胎に宿して6ケ月頃から生まれる前の夜まで夜な夜な酒が欲しくなって盗み酒をしていたのに、産後は以前の下戸に戻ったから」と言っていました。
 
産後産声を上げなかったので産婆さんが尻や背中を叩いても泣かなかったので両足を持って振り回した時、初めて泣いた事を母に聞いた父は「二日酔いでもしていたのか」と言って笑ったそうです。
 
小学生、中学生の頃も休みの日等は、友達と川へ魚とりに行っても、私だけビール、タバコを飲用していました。
 
大学入試も終わって長い春休みに京都駅前の串かつ鉄板焼き店でアルバイトをすることになり、仕事中に飲酒をしても注意されず、夜はスナックに連れて行ってくれるし良い仕事だと思って、進学を止めて調理師になりました。
 

 1年ほど経った頃、2ケ月間意識不明になる飲酒事故を起こして、生死の境を彷径ったのに、意識が戻り動けるようになると院内で飲酒して看護師に怒られました。
 
8ケ月ほどで退院して調理師に復帰しましたが、23歳の頃に父が肝臓がんで他界し、自宅に戻って毎夜の晩酌が始まりました。
 

 28歳で結婚し3人の子どもに恵まれましたが、44歳の頃離婚をしてしまい、3人の子どもを連れて行かれ、朝の出勤時に登校する学生を見ると思い出され、酒に頼るようになりました。
 
徐々に酒の量もふえ、度数も高くなり、75.5度もあるラム酒をがぶ飲みするようになり、吐血して救急入院を3回しました。
 
子ども(兄弟)が父が良いと帰ってきた時、酒を止めなければと思い断酒を誓いましたが、何故か飲んでしまっている自分がいて、止めなければ身体を悪くする、死んでしまうと分かっていながらも止められなかったのです。
 
救急搬送された病院で専門病院につながり、断酒会に入会し、現在があります。
 
これからも断酒会に通い断酒を続けて行きます。



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命をかけてのんできた酒だ、命をかけてやめ抜こう
 

149.お酒の履歴書   (甲賀支部)





 私が初めてお酒を飲んだのは高校卒業時の友人達との飲み会でした。
 
高卒で会社勤めをはじめて以来、30年以上飲酒を続けていました。
 
当初は、帰宅後に入浴、夕食をすました後の寝酒でどちらかと言うと楽しむお酒でしたが、元来お酒が強いこともあり当時から酒量は多かったように思います。
 

 そんなお酒の飲み方が変わったのが、入社5年目で所属部署の責任者を任されて1年くらいたった頃でした。
 
今までの楽しいお酒が仕事のストレスを解消するため、プレッシャーから逃れるためのお酒に変わっていったのです。
 
仕事の不安や怒りをお酒の力で抑え込み、仕事をこなすためにどうすればいいのか、悩み考えながらお酒を飲む。
 
今でこそ過労死などで社会問題になっていますが、当時は長時間労働やサービス残業に対しての会社の認識も甘く、朝6時過ぎに出社、帰宅するのは日付が変わってから。
 
そんな状況で飲むお酒が良いはずもなく、心と体に変調をきたし胃潰瘍で入院しました。
 
2か月の入院後も原因不明の体調不良に悩まされ、当時は精神科ではなく内科での診断で自立神経失調症と言うことで薬の処方を受けていました。
 
しかし、症状は改善せず、徐々にそれまでなかった精神的な症状が現れるようになりました。
 
そして入院中から控えていたお酒をその不安を解消するために再び飲むようになっていきました。
 
最初はつらくなったとき、不安になったときにその状況から逃れるためのお酒がエスカレートしていき、最終的にはその状況になる前に飲酒するようになっていきました。
 
その後、転職、結婚をし精神的にも安定してきたこともあり、酒量も落ち着き、以前のような異常な飲み方をすることはなくなりました。
 
しかし、37歳で再び転職し最初の就職先で経験してきたような仕事上でのストレスやプレッシャーを感じるようになり徐々に酒量が増えていきました。
 
そうなると、家族での約束が守れない等、家庭内でのトラブルも増えるようになり、妻からもお酒を控えるように何度も注意されるようになっていきました。
 
しかし、そういったストレスや精神的な苦痛から逃れるように飲酒を続け、とうとう昨年の夏に急性肝炎で緊急入院する事態にまでなってしまったのです。
 

 10日間はどの入院と20日間の自宅療養を経て職場に復帰するのですが、入院中に妻と約束をしました。
 
『1か月後の検査まで飲酒しないこと。その後もお酒はひかえること』しかし、検査までの飲酒は守れたものの、その後は精神的なつらさに耐えきれず帰宅前にコンビニで飲酒して帰ることを繰り返す最悪の状況に陥っていたのです。
 
そんな私を見ていてくれた妻がある日、『パパはアルコール依存症やないかな?』と言ってくれたのです。
 
妻は何もわからないのに、ネットで調べ私に教えてくれたのです。
 
その後、病院を調べて診察を受け、アルコール依存症と診断され断酒会への参加を勧められました。
 
現在、断酒してまだ半年足らずの駆け出しですが、病気のことを気づかせてくれた妻やこれまで迷惑をかけた人たちのために肩肘張らず、無理せず、自然体でこれからも断酒を続けて行きたいと思います。
 




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酒害は素直な心を失わせ、人格を低下させる
 

150.私と酒   (守山支部)





 もともと私は酒に弱く、すぐに頭が痛くなるような人間でした。
 
2007年に転職するまでは、忘年会やその他飲み会など車で参加したこともあります。
 
当然付き合い程度に飲んだこともあります。
 
転職を機に仕入先や、お客さんと飲む機会が多くなりました。
 
転職先には父親もいたことから、営業が初めての私に『取引先とお酒を飲むときは絶対に酔うたらアカン』『酒ぐらい飲めないとアカン』などと言われ、飲み始めました。
 
すると接待の場では乱れることもなく、かなりのお酒を飲めました。
 
3年後くらいには、何か機会を見つけては進んで取引先とお酒を飲むようになりました。
 
その時にはかなりの量を飲むようになっており、土曜日や日曜日は朝からお酒を飲むような日もありました。
 
酒は飲まなアカン=@という事に取りつかれていたように思います。
 

 2010年秋に体調が悪くなり、微熱が続くようなことがあり、風邪だと思ってましたが実際は肝炎の症状でした。
 
病院で血液検査をしたところ肝臓の数値が異常に高く劇症肝炎と診断され即入院してくださいとの事でした。
 
その時、父親には50%は死に至りますのであきらめて下さいと告げられたようです。
 
幸いにも1ケ月程度の入院で退院できました。
 
しかし2010年の暮れにはお酒を飲んでました。
 
この頃にはすでに異常な飲酒が始まっていたと思います。
 
それからは、いわくら病院に入院するまで内科への入院は5回。
 
退院するたびにお酒を止めようとしましたができませんでした。
 
2015年春頃にどうにかしてお酒を止めようと飲酒欲求がなくなるという薬をネットで見つけ、早速会社近くの精神科を受診しに行きました。
 
5ケ月くらい断酒できましたが、いつのまにか異常な飲酒に戻っていました。
 

 金曜日の夜から日曜日まで飲んで、月曜日に会社へ行けないことが多々あり、2016年の夏にはどうにもならなくなり、いわくら病院に入院しました。
 
その後2回いわくら病院に入院しました。
 
現在はなんとなく断酒しています。
 

 断酒会には自分が想像できない期間、断酒されている方がいらっしゃいますので自分にもできるかもしれないという希望が持てます。
 
断酒会には週1回しか参加できませんが気負わず、焦らず1日でもながく断酒をしていきたいと思います。
 




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ほめられているうちは未だ信用されていない証拠、自惚れてはいけない
 

151.人生の軌道修正    (草津支部)





 私は41歳の時に京都から滋賀へと引っ越してきました。
 
高層マンションに住んでいましたが庭付きの家を持つことが私の夢でした。
 
これからは酒も控えて頑張ると妻を説得し、滋賀に一戸建ての家を購入しました。
 
子どもが高校一年、中学一年になったときです。
 
しかし営業職で売り上げ数字に追われる毎日、プレッシャーで酒量は益々増える一方でした。
 
妻からお酒の飲み方で叱責されても、お酒が私を支配している毎日でした。
 
家族と酒のどちらを取るのかと聞かれたときも迷うことなく「酒」と答えていました。
 
わしから酒を取ったら何が残る、酒で死ねたら本望やと咳呵を切る私がいました。
 

そんな時某病院で神経内科の診察を受けるように言われました。
 
診察の結果、あなたはアルコール依存症です。
 
専門病院の治療を受けなさいとの診断でした。
 
最初は入院を拒んでいましたが、自分の力ではどうすることも出来なく平成元年12月アルコール専門病院に入院しました。
 
三ケ月の入院後断酒会に入会しますが、酒への未練はなかなか断ち切れず5月の連休に、再飲酒をしてしまいました。
 
朝、抗酒剤飲むのですが洗面所で吐き、帰宅時にはまた一升瓶をぶら下げて帰っておりました。
 

平成2年8月13日支部長さんご夫妻、大先輩の方が家まで来てくださり深夜に及ぶまでコンコンと諭してくださいました。
 
その翌日から先輩の方との毎日例会が始まりました。
 
例会の中では飲んでいたときの自分を語り、又他の人の体験談を聞くことで長い間飲んできた酒が不思議に止まっています。
 
例会では年齢の違う方、色々な職業の方が夫々の人生経験を話されます。
 
私自身断酒会の中で多くのことを学ばせて頂きました。
 
私が断酒会の中で一番胸に響くのは、家族の方の体験発表です。
 
ご主人の飲酒していた時の苦しみや悲しみを聞くたびに、自分の妻にも同じ思いをさせていたのだと悔やみます。
 
断酒継続できましたお陰で子ども達も成人になり無事巣立っていきました。
 
断酒会の中で軌道修正させて頂いた私の人生です。
 
周りの多くの皆様に支えられ、今の自分があります事深く感謝致します。
 
これからも断酒に精進して参ります。



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酒害者にとっては一滴の酒でも多すぎる、しかしのみ出したら一升の酒でも少なすぎる
 

152.酒と煙草と家内    (守山支部)





 私が酒を飲み始めたのは22歳、煙草を吸い始めたのは18歳でした。
 
6カ月前に断酒会への入会を機に断酒を継続していますが、煙草は止められない状態でいわゆる「ニコチン依存症」です。
 
家内に言わせれば酒と煙草を一緒に止めなくても良いので、「酒だけは絶対に飲まないでくれ!」と言います。
 
現在、その言葉に甘えています。
 

酒は会社を定年退職するまで「アルコール依存症」と言われる状態ではなく毎日、晩酌する程度でしたがどちらかと言えば「大酒飲み」の部類でした。
 
「二日酔い」で会社を欠勤する事は一度もありませんでしたが、同僚・上司等と酒を飲みに行くと大阪に勤務していた関係上、家に帰らない又は父親に迎えに来て貰う事が多々ありました。
 
大阪環状線に乗れば電車の中で眠ってしまい大阪環状線を何周も回ったり、大阪駅を最終電車(新快速)に乗れば終着駅の米原駅まで行ってしまったり、大阪駅から普通電車に乗れば眠ったままで京都駅で降りずに、そのまま眠り続け大阪方面に引き返していたり、京都駅で降りて何を思ったか湖西線に乗り換えて終着駅まで行ってしまう事等々で、電話もせずに家に帰らず家内と両親に心配ばかり掛けていました。
 

そうこうしている内に定年退職の5年程前から朝4時頃に目が覚め酒を飲んで再度眠り込む事が多くなりました。
 
かつ出勤前に酒をもう一杯飲み気分良くなってから出社する毎日でした。
 
朝から飲んでいるため会社では同僚から「本馬さん酒臭いぞ!」と言われる事が多くなりました。
 
そんな時は「昨日の酒が残っているだけ!」と無視し集中して仕事を継続していました。
 
幸いな事に私の職務は単独執行型のシステムエンジニアであった為、それなりの結果を出していれば会社内で問題たなる事はありませんでした。
 

定年退職して間もなく父親の体の具合が悪くなり亡くなってしまいました。
 
父親の死が私のアルコール依存症の始まりでした。
 
親孝行をしなかった後悔、父親を亡くした寂しさから朝昼夜の関係なく家で毎日毎日、酒を飲む目が続きました。
 
やがて私の体は次第に具合が悪くなり起き上がることも出来なくなりました。
 
それでも酒を飲み続ける毎日でした。
 
家内があまりにも酒の量の多さに心配し、家から酒を隠し1日500mlのペットボトルの配給制になってしまいました。
 
配給分の酒だけでは足らなくなりコンビニへ酒を買い求める日が続き、酒のパックの後始末に困り家の前の川に捨てるようになりました。
 
とうとう家内は辛抱を切らし精神医療センターへ私を連れて行き診断の結果、アルコール依存症と診断されました。
 
入院については父親の1周忌がある関係上断固として応じませんでしたが、断酒会に入会して断酒(亡くなった父親が「清和よ、もう酒は止めとけよ!」と言わんばかりに)を約束し現在まで1滴たりとも酒を飲んでいません。
 
断酒会を通じて誓った目標は以下の2点です。
 

@80歳になる迄は断酒する事。
 
家内との約束では80歳になったら毎日ビール1本だけ飲ましてもらう事。
 
(80歳まで生きていれば!)
 

A今年中に煙草を止める事。
 
(そろそろ喫煙の限界で吸った後は喉が痛い)
 
断酒会を通じて上記2点の目標を達成し長生きしようと頑張っています。
 
どうぞ宜しくお願いします。



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自分のみじめな過去を認めてくれて、
 
それをこれからの糧にしてくれるところ、それが断酒例会だ
 

153.近況報告    (大津支部)





 私は大津支部の田中英明です。
 
当年とって69歳と5ケ月<これは先日、大津市民病院の総合内科を受診した折の血液検査票に記されていました>。
 
昨年の10月16日に市民病院から京都のいわくら病院に転入院し、今年の1月7日に退院し、入院時から大津支部の例会に参加させて頂くようになり、2月1目付けで滋賀県断酒同友会に入会し、今日に至っております。
 
この5月には断酒3ケ月の表彰状を頂き8月には断酒6ケ月の表彰が予定されていると聞きました。
 
正直な所、タカダカ断酒3ケ月で表彰されるなんて恥ずかしい思いで一杯でした。
 
でもその頃から体調がすぐれず疲れやすく、2度寝、3度寝が常態化し庄助さんじゃないですが、朝シャン・朝湯が気付け薬になっています。
 
支部例会は休まずお酒のほうも一日断酒を重ねられています。
 
ここになって思いますに、体調不良は依存症のせいか、季節の変わり目か、この暑さか年のせいか、それともまだ隠れた病気のせいかと不安な毎日ですが、断酒が続けられているのは家族を初め多くの人達に助けられ自分も結構頑張っているんやなと自画自賛している毎日です。
 
退院時は「ムショ」から「シャバ」への受刑者のようで喜びよりも不安一杯でお先真っ暗でした。
 
その時私はこれからの生活指針じゃないですが、自分の心構えみたいなものを3つ決めています。
 
T.1日 24時間をシラフで上手にうめる。
 
T.身勝手だと言われようと自分のペースで過ごす。
 
T.楽しく前を向いて活動する。
 
以上3点です。
 
自分勝手な心構えですが、今思い返すと悪くは無かったと思います。
 
今もこの3点は大事にしています。
 
入院中に教えて貫ったT.通院を続ける・・・<医者の都合や!> 
 
T.自助会に参加する・・・<断酒会、AAがナンボのもんや!> 
 
T.抗酒剤(私の場合はうつのクスリ一錠)の服用‥・<飲酒の恐怖を植えつける>このアホンダラ!
 
それが回復・治療にナンボのもんや、ようはキク、ナオス手段がないんや!と心の中で毒づいていました。
 
でもこの3つは今も続けています。
 
私は酒を飲み続ける限りアルコール依存症は「死」を約束された病気だと認識しています。
 
私はアルコールをコントロールできると自負しておりましたが、アルコール依存症は私の心身を共にコントロールし自分自身ではどうにもならない、コントロール不能でそれも手強く、しぶとくやっかいな不治の病だと教わりました。
 
私はアルコールに脱帽し白旗を揚げました。
 
でもT.入院1ケ月程で目覚めた食事のウマさ(摂取量は不十分)
 
T.こころ穏やかな日々(今もつづいています)
 
T.失うものも多くありました。
 
5感は衰える一方ですが、精神は研ぎ澄まされ第6感が敏感に成ってきました。
 
ETC、一緒の光明・希望も感じています。
 
新しい人生、自分を見つけたいと思っています。
 
小さな叫びですが「アルコールさんサヨウナラ!」 −



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酒害者は止めねばならないと思いながらのんでいる
 

154.居場所   (彦根支部アメシスト)





 飲んでいるとき、信じられないくらい、私の居場所がなかったのです。
 
私は妻であり、母親である事に、反発して余計に沢山のアルコールに手を出していたのです。
 
夫からの暴力、夫の女性問題、夫の怠け者に腹を立てて、自分自身を見失っていたのです。
 
とうとう幼い子ども二人を連れ、着の身着のままで大阪へ逃げました。
 
それは母子寮という限られた世界でした。
 
けれど母子3人がホッとできる日々を暮らせたのです。
 

 次第に家庭が落ち着いた頃、私はアルコールを飲み始めたのです。
 
仕事も出来ず、お金もない状況の中、実家の母親に仕送りを頬むという日々を暮らしていたとき、母は私の様子を彦根から、大阪府にある母子寮まで来てくれました。
 
止めるという言葉はその時だけ、母が帰ると呑み続ける私でした。
 
とうとう、母子寮の先生に頼み込み、「酒を止めるから、子どもを助けてほしい」と伝えたのです。
 
歩くことも困難な私は、支えられ天王寺でアルコール専門のクリニック小杉院長に出会うことが出来ました。
 
初めての言葉が「北見さん辛かったね!私と一緒に治して行きましょう!」という言葉を聞かせて頂いた時、涙が止まらない私でした。
 

 その後、クリニックを毎日通院しました。
 
ある時は二人の子どもを連れて行き、仲間やスタッフの方々に声を掛けていただき、私の心の中は行き場所がある事が嬉しかったです。
 
体のなかからアルコールが抜けていくうちに仲間の話が聞けるようになってきました。
 
断酒会へも足を運ぶようになった時、どこかへ所属したいと思ったのです。
 
院長先生に相談したとき太鼓判を押してくださった大阪市平野断酒会へ入会しました。
 
その時ホッとした気持ちになり、子ども達の学校が休みの時に一緒に行きました。
 
やっと居場所が見つかった思いがしました。
 
今の私が生かされてるのは先生や仲間のお陰です。
 
ありがとうございます。



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酒害をうらんではいけない、酒をやめてさえいれば、酒害に感謝する日がきっとくる
 

155.私と酒   (栗東支部)





 私がお酒を飲み始めたのは16歳、高校2年の頃でした。
 
文を読んだり、音楽の聴き始めでもあり、それらに酔うと共にあったものが酒でした。
 
最初に自分の小遣いで買ったのはラム酒です。
 
30年前近くになりますが、受験勉強の傍らにFMラジオを聴きながらラム酒とコーラ割りというキーワードを覚え、近所に買いに行くも値段が高く、それが京都の酒屋へ行くと(円高の影響もあり)半額近い値段で買えました。
 
高校卒業の頃には京都のレコード屋めぐりの帰りにラム酒を買うのが習慣になっていました。
 
京都の大学へ進学したのですが、入学まもなく同棲生活が始まりお互いのツマシイ予算で酒が飲めれば有り難いという生活でした。
 
酒に関しては身体への害などは、当時は微塵も感じず、飲めれば良いやという感覚で全く気にしていませんでした。
 

 その後、おおよそ10年近く輸入レコード店社員やカフェ店長として京都で生活し、30歳を機に実家に帰る事になり地元の酒蔵で営業勤務として働き始めました。
 
仕事としては安定したものへ変わった訳ですが、酒の飲み方は変わらず、というかむしろ仕事としての飲酒が増え月曜の朝まで遊んで、そのまま勤務ということも少なくありませんでした。
 

 ある日、取引先からの誘いで飲みに出かけた帰りに酒気帯び運転で警察に捕まりました。
 
仕事先の同僚からは「よくあること」程度に言われましたが、免許がない生活や仕事に影響がありました。
 
売り込み一方な当時の現状から、色々上司との意見のもつれが後を引き、うつ状態になり休職扱いとなり精神科に通い始めました。
 
その1年半後に自宅にて連続飲酒が始まりました。
 
欝な気分はずっと引きづっていました。その後、職場は退職しました。
 

 アルコール依存に関しては、WEB関連を含めて資料を漁り始めました。
 
又は誰とも知れない人々のブログ等を読み始めました。
 
その作業は、アルコール依存症についての、少しばかりの検証にすぎませんでしたが「自分はアル中である」という事を回避したい気持ちもありましたが、確信へと変わって行きました。
 
ただ、酒は止まず問題飲酒についての学びと自らの飲酒行為との距離が激しくなっていきました。
 
「やはり医者に頼るしかない」と思ったのは7年前です。
 
すでにアルバイトすらままならず、吐き気で何も喉を通らない状態でした。
 
 まず内科には行きましたが、自覚もあったのでかかり付けの内科医から紹介状を薫ってアルコール依存症専門の外来に行きました。
 
医者からは「貴方は完全にアルコール依存症です。既に鬱ではありません」と宣告され本当に頼るのは医者やクスリではなく自助会に通うことですと言われ、重い気持ちを持ちつつ通い始めました。
 
自助会にはいける範囲で通い始めたのですが、「何となく通っている」という状態になり年月だけが過ぎました。
 
ただ、通っている中でも胸が突き破れそうな体験談があったことは憶えています。
 
軽いスリップなどはありましたが、すぐに立ち直れたのはその体験談が頭に残っていたからだと思います。
 

 その後、再就職し仕事が激しく自分にのしかかる様になり自助会からは離れていきました。
 
皮肉なことに、誰も自分の代役がない環境で、日に18時間勤務で年間の休日が8日という仕事のストレスが心にのしかかり、言い訳的ですが、自分ではどうにもならなくなり再飲酒となりました。
 
ここで初めてARP関連の入院となり今に至ります。
 

 個人的には、仕事から離れリラックスした状態で過ごせると考えていましたが、そうはいかず「じっ」としてられない性分なので、図書館通いも兼ねた散歩を満喫しました。
 
院内での学び、院外での学び、この期間は人生にとっての貴重な時間だったと思います。
 
例会出席と一日断酒で頑張ります。



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体験発表を聞いて泣く人はあっても笑う人はいない
 

156.平成から令和 断酒の誓い  (信楽支部)





 平成も終わりを告げ新しい元号の始まりの年、私の断酒履歴も20年の節目の年となります。
 

 今から思えば、20年ながい様でアッという間に過ぎ去ってしまった様な気がします。
 
思えば平成11年の県断酒同友会記念例会に壇上にて体験発表の経験をさせていただき、緊張するもこれから断酒をと誓いをさせてもらえることになりました。
 
そして本年の記念例会に再度貴重な経験をさせていただけることになり、心より嬉しく思っています。
 

 私も連続飲酒・大量飲酒・隠れ酒様々な事をやってきました。
 
昭和から平成に成るころは、アルコール依存症真最中、職場では早朝勤務の時にちょっと一杯、コーヒーの中にウイスキーを少し落として飲み、夜には嫁が風呂に入っている間に、隠れて貰い物のウィスキーをラッパ飲み、何食わぬ顔をしての隠れ酒の毎日、そのような生活を続け、数年し大きな事故を起こし、職場を変わらざるを得なくなりました。
 
少しは酒量も減ったような気もしましたが、どっこいそれは勘違い、一人職場という環境の中、通勤の途中で自販機を見つけカップ酒を飲み職場へ、帰りは電車の中で一人宴会と徐々に酒量も増えて、職場の同志から「お前の酒の飲み方はおかしい」その言葉で精神医療センターへとそこで明神先生と出会い「あなたはアルコール依存症です、一緒に回復していきましょう」と、しかし、私はその時は自分の酒の飲み方がおかしいのは分ってはいても酒をやめることに関して消極的でした。
 
毎週の診察が苦痛でそのうちにセンターへ行かなくなって、しばらくして再飲酒「元の木阿弥」であっと言う間に大量飲酒へと逆戻り、一人職場からまた元の調理職場へと復帰したのですが、止まらない酒への執念、この酒を飲むのは「今の職場に慣れないから」「同僚からもっと出来るだろう」の言葉を理由としていた私ですが、それは、2回目のセンターにつながった時に否認・逃避であることが今となって分ったことです。
 

 調理現場に復帰したその時の上司がとても良く「お前の酒の飲み方がおかしい、入院してしっかり治してこい」と声をかけてくれたのと同時に家族(娘)からの一言「こんなお父さん要らん」で再度センターの門をたたいたのが、平成10年11月入院依頼で訪れたのですが、部屋が一杯で2週間後ということで、その日は本当にこれで最後とセンター近くのコンビニでワンカップを2本買い飲みながら帰宅の途にその途中車を横転させ、センターへの入院より先に整形外科に入院となってしまいました。
 
そこを退院後、自宅にて嫁が仕事に行ったのを見計らい、自転車で酒屋に行きカップ酒を買って家で少し飲んでみました。
 
そうすると天井が回り始め……これが抗酒剤の副作用であることが分かり、それから20年一滴の酒も飲まずに今日に至っています。
 

 私は今回令和元年の記念例会にて体験発表を経験させて頂くことで、再度一日断酒を継続して行くことをここに誓いたいと思います。
 
これからもみなさんよろしくお願いします。



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三ヶ月であってもやめてさえいれば褒められる、しかし、
たとえ十年やめていてものんでしまえば軽蔑される
 

157.断酒8年目を迎え  (甲賀支部)





 20歳の時から色々な酒を買い楽しんでいました。
 
会社の寮で夕食後、自動販売機で500mlの缶ビールを2〜3本買い、飲んでから酒屋で買ってきたジンやウオツカ、ウイスキー、ワイン等を飲んでいました。
 
部屋で飲むだけでなく、近所のスナック、居酒屋にも行くようになり、飲みすぎて金も払わず店を出て路地で寝てしまい、気がついて店に戻ると、店主にもう酒を飲まさないと怒られたことがありました。
 

 25歳からアパート住まいになり休みの日は大阪、京都の繁華街を排梱し、居酒屋、屋台などで飲み、意識を無くして路地裏で寝ていたり、帰りの電車を乗り過ごし、駅前に居酒屋があれば、又、カンパンまで飲み、終電車を逃して駅前をうろついたり、始発が出るまで駅のベンチで寝たりすることもありました。
 
アパートで友達3人と飲んでいて、朝、目が覚めると右目が見えなくなり血が畳上に落ちていて、何事かと思い洗面所の鏡で見ると右目は真っ赤になり、鼻の穴から血が出ていたので横で寝ていた友人に聞くと、先に手を出して殴られ、眼底骨折し京都医大に3週間入院しましたが、完全には治らず今でも焦点が合わないときがあります。
 

 他にも色々とありましたが、30歳初めに滋賀に新しい工場ができるということで転籍することになりました。
 
40代半ばのこの頃から会社の方も当日届けや無断欠勤をすることが多くなり、上司から注意される様になりました。
 
夏場の会社で、異常に汗をかくようになり、倒れることが度々あり、滋賀医大に入院したのですが、2日目の夜に幻覚が見え、怪しい人間がうろついていると警察に通報して騒ぎを起こし病院の中庭を走り回り、朝、気がつくと手足をベッドに縛り付けられていました。
 
この頃、酒害に気付けばよかったのですが飲み続け、50代に入ると手の震えが激しくなり字が書けなくなり、何を書いているのか分からないと上司に叱責されました。
 

 とうとう52歳の時に草津の県立精神医療センターに入院し、同じような依存症の人達に出会い、依存症について教えられ、断酒会を知りました。
 
その後1年間の休職の間に酒をやめる決意をし、今は甲賀支部に入り平成24年11月17日に酒を止めてから8年目に入ります。
 
昔の生活に戻らないように1日断酒の教えを守って生きて行きます。



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単身者だから孤独なのではない、酒害にかかれば誰だって孤独になってしまうのだ
 

158.感謝   (長浜支部)





 この夏で長浜支部に入会して4年目になります。
 
私の酒歴は約16年間、1日も飲まない目はなく、眠る為に毎晩飲み続ける日々でした。
 
自分がアルコール依存症だと自覚はありながらも止められませんでした。
 
そして、祖父母が立て続けに亡くなった事がきっかけで、飲酒コントロールを失い連続飲酒状態になり、仕事にも支障をきたすようになりました。
 
隠れ酒だったのが家族に全て知られてしまいました。
 
私はこのままでは駄目だ、両親に仕事を辞め、入院したいと頼みました。
 
とにかくお酒から隔離して欲しかったのです。
 

 岐阜県のARPを行う精神病院に入院し、病院から長浜支部長、彦根支部長に連絡をとり、退院した足で例会通いを始めました。
 
その後、うつ病のために1度スリップをしてしまうのですが、今年4月に断酒継続2年の表彰を頂きました。
 

 私は両親と同居の3人暮らしなのですが、両親は家族会には入っていません。
 
でも断酒会の話はよくします。
 
何故かというと、そうしないと両親が、私がアルコール依存症だということを忘れてしまうからです。
 

 先日CRAFTのセミナーでアルコール依存の傷や影響がなくなるのに掛かる時間の話で、酒害者本人は最低でも3年以上、家族の人にいたっては6年から10年以上掛かる場合がある、ということを父に話した時に、実にキョトンとした顔でお父さんは「何も傷なんて受けてないぞ」と言いました。
 
「でも私、おかしくなって暴れたりしたよ」と言うと「そんな事もあったけど、もう忘れた。あのことで1番傷ついたのはおまえやろ。人と比べんでいい、人より時間が掛かってもいいからゆっくり病気を治して、お前のペースで人生をやり直せば良いよ」と言ってくれました。
 

 母は普段からよく話をするのですが、なぜかお酒のことは何も言いません。
 
でも一度「なんで?」と聞きました。
 
「信用してるから。毎日毎日、習慣にしてたことを辞めるのは幸いし、大変やと思う。でも私はあんたが強い子やって知ってるから。信じてる」と言ってくれました。
 
ああ、これからは意地でも飲まれへんなあと思いました。
 

 アルコール依存症にならなければ、両親とこんな話をすることもなかったと思いますが、父母が私の事をこんなふうに思っていてくれてることがわかって本当に嬉しかったです。
 
家族や周りの人達に感謝し、期待を裏切ることなく断酒を続けていきたいです。



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断酒は明日からでは遅すぎる、止めるのは今からだ
 

159.感謝    (草津支部)





 私達家族4人は、昭和63年4月に滋賀県に転居して来ました。
 
私は41歳で子どもは高校一年生、中学一年生でした。
 
当時私は営業職で売上数字に追われる毎日。プレッシャーで酒量は増える一方、身も心も限界に達していました。
 
その頃妻から「貴方は家族と酒のどちらをとるの」と聞かれたことがあります。
 
私は迷うことなく「酒、太く短く生きる。酒で死ねたら本望だ」と答えていました。
 
妻もこの時点で真剣に離婚を考えていたと言います。
 

 内科病院を転々と回っている時、某病院で神経内科の診察を受けるように言われ、受診しました。
 
そこで初めて「貴方はアルコール依存症です」との診断を受けました。
 
平成元年12月にアルコール専門病院に入院することになります。
 
3ケ月の入院後、断酒会に入会しますが、酒への未練は中々断ち切れません。
 
飲酒欲求を抑えるのに四苦八苦しておりました。
 
そんな私の様子を見て助けて下さったのが断酒会の先輩の方でした。
 
平成2年8月草津支部長夫妻そして大先輩の方が家まで来て下さり、深夜に及ぶまで懇々と私を諭して下さいました。
 

 その翌日から支部長夫妻との毎日例会が始まりました。
 
例会場では皆さんの体験談を聞き、又自分の飲酒時のことを話しました。
 
やはり一番身に堪えるのは、家族の方の体験発表です。
 
もしあの時お酒を止めることが出来ていなければ、家庭は崩壊し私自身仕事も命さえ失っていたかもしれません。
 

 何より良かったことは子供が大学進学等で一番お金が必要な時期に酒を止めることが出来、父親の役目を果たせたことです。
 
又中学生だった息子が、昨年二世帯住宅を建ててくれ同居することになり、幸せな老後を過ごさせてもらっています。
 
私自身断酒会の中で少しはまっとうな判断が出来るように成ったと感謝しております。
 
これからも断酒に精進して参ります。



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今日のめば明日はもっと苦しくなる、今日我慢すれば明日はきっと楽になる
 

160.後悔   (瀬田支部)





 私はいくら飲んでも顔に出ないので「強い、強い」と言われていました。
 
また、「殺して飲む」とも言われ良い気になっていました。
 
飲み始めの頃は晩酌もしていたが、あまりにも早く飲んでしまうので、晩酌はなくなり買い置きも止まり「勝手にし!」と怒られ、以降小遣いとして2千円(昼食、交通費、酒代含み)を貰っていました。
 
徐々に飲酒量、酒の種類も変わって来ていました。
 
52歳頃、職場の健康診断でひっかかり入院しました。
 
急性アルコール肝炎と言われていました。
 
生まれて初めての入院でした。
 
「肝臓はなかなか悪くならない臓器なのに、それが悪いとは」と心配をかけました。
 
2〜3ヶ月余り養生していたと思うがいつの間にか、また飲酒していました。
 
今思うとこの時に真剣に止めるようになっていればよかったのにと後悔していますが、この病気の怖さを知らなかったので、軽く考えていたと思います。
 
その後56歳の年末年始では気兼ねなく飲める時なので、連続飲酒に陥った。
 
年始明け4日は病院を受診して即時入院するよう告げられました。
 
当日から何時までだったか分かりませんが、幻覚幻聴の世界に入っていたようです。
 
1か月ほど入院するも、間もなく又また飲酒してしまいました。
 
その頃の朝の様子は醒めたらその日の飲酒の段取りを考えていました。
 
酒がなければ不安でした。
 
手が届くところに酒があること。
 
1日の量は1合パック酒7〜8個、何酒でもよかった。
 
早朝からコンビニを回り買い集めていました。
 
1店舗で全数買う勇気はまだありませんでした。
 
集まればホツとしていました。
 
2時間ほどすると飲酒欲求が湧いてくる。
 
ポケットに隠し持っている。
 
トイレに行く。
 
等間隔で動くので周囲の人に知られてしまう。
 
同僚から諭され注意、上司からも叱責を受け「そんなことしていたら離婚し、家庭崩壊になるぞ」と言われていました。
 
仕事もえらい、身も心もしんどい、酒も飲みたいけれども飲酒するのもしんどい、自分だけがこんな辛い目にあっているのだと思っていました。
 
「楽になりたい、どこかへ逃げたい」と思っていました。
 
57歳、平成10年10月19日精神医療センターに人院することが出来ました。
 
仕事も家庭もどうなっても良い、これで楽になれるとホツとしました。
 
小心者の私には断酒会の言っぱなし聞きっぱなしは良い場所であります。



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酒害者だからこそ断酒できるのだ
 

161.酒歴   (瀬田支部)





 飲みだしたのは、16歳頃に仲間の家に集まって、覚えたての麻雀を打ちながらのビールが最初だと思います。
 
うまいと思うわけでもなく、ただ悪ぶって背伸びしていただけでした。
 
それでも飲み続けているうちに、子どもなりに飲み上がって、ウイスキーや焼酎の味を覚えていきました。
 
ごく若い頃から酒飲みの素養はありましたが、成人後就職した後は、毎日欠かさず飲むものの、気分が悪くなると杯を置き、後に頻繁に経験するブラックアウトなど想像もできないほど穏やかな飲み方でした。
 

 転機は10年ほど前、滋賀から京都に転勤となり少人数のリーダーからある程度まとまったグループを管理することとなり、張り切っていたことを覚えています。
 
その頃から仕事に行き詰まると酒、夜勤明けに晩酌と称して朝酒、たまの休みくらいと昼酒と一気に酒量が増えて行きました。
 
またこの頃から気軽に買えてアルコール度数の高いストロング系チューハイが出まわり出しました。
 
そこからは、家族や職場にも迷惑をかけながらなんとか9年ほど持ちこたえたが、昨年、お決まりの連続飲酒に陥り、県立精神医療センターに人院することとなりました。
 
転勤後間もなく、自分がアル中予備軍であるとの自覚があり、連続飲酒の最中に「助けてくれ」と思いながらも「とうとうくるべきものが来たか」と冷静に考えたことを、今でも覚えています。
 
思い返すと心の底から酒をうまいと思った事は果たしてあっただろうか?
 
思春期の頃の悪ぶって背伸びしていた延長線上に、今もいるだけではないのかと思います。
 

 自分には耽溺癖(たんできへき)があると思い込み、何でもないことに「こうなったら“やたけた”で行ったる」を合言葉にストロングチューハイをがぶ飲みしていた自分が浅ましく身の縮む思いです。
 
断酒後、半年以上経過しましたが、この後の人生で酒を飲めないと考えるといまだに残念だと考えてしまいます。
 
酒の一杯も飲めない索漠たる人生が死ぬまで続くと思うと寂しいことだと、つくづく思います。
 
しかし酒を飲んでいた時期も含めて自分の人生は、変化に富んだ面白おかしいものではなかった。
 
そもそもやり切れないものであった。
 
これを理解し子どものような自己愛を捨てれば、酒の一杯も飲めない寂しい人生の中にも、一抹の滋味のようなものを感じることができるのではないか。
 
そう思って昨今を過ごしています。
 

 反省や謝罪もなく自分の頭の中を書き散らかしているのが、自己愛が溢れている証拠と突っ込まれそうなので、最後にご迷惑をかけた方々へのお詫びとお礼を申し上げてペンを置きます。
 
ありがとうございました。



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酒害の恐ろしさは酒害者にならなければわからない
 

162.酒との決別そして回復に向けて   (大津支部)





 平成27年の3月、私は当時44歳。「もう、どうでもいいや。ただ酒が飲みたい」と、家も仕事も放りだし失踪をする。
 
人気のない駐車場を転々としながら1週間、ビールを買い足しに行く時と用を足すとき以外は一切車外に出ることもなく、ただひたすら黙々と飲み続けた。
 
失踪したその日の服装のままで風呂など入るわけもなく、髭は伸び放題フケは浮き放題全身はヌルつき、心のどこかでずっと見下していた汚いアル中の浮浪者になっていた。
 
最初こそは少しの解放感と好きなだけ飲める喜びも感じたが、三日も経てば悲壮感と空虚感だけになり、もう死んで消えることぐらいしか何も考えることはできなかった。
 
タブレットで際限なく課金しながら遊んでいたスロットの、永遠に続く音と回り続けるドラムの映像だけは今でも頭にこびりついている。
 

 好奇心から始まった飲酒もあっという間に常習的な飲み方になり、大学4年間は酒たばこパチンコ麻雀と、アルコール依存症を定着させ歪んだコミュニケーションや考え方の基礎を作つた期間でしかなかった。
 
そのまま何となく就職し成り行きで結婚もし、子どもももうけ外見上は普通の幸せそうな家庭を持つた。
 
しかしそれも最初から不協和音を奏で、結婚早々に殴り合いの喧嘩から妻に大怪我を負わせ、酒をやめなければ離婚すると渋々専門病院を受診。当時27歳だったか「アルコール依存症」とはっきり診断された。
 
しかし、そこで鳴りを潜めたのも1年ぐらい、すぐまた常に酒ありきの生活に戻つて行つた。
 
しかも前科があるため家では節制した飲み方をしているフリをしなければならず、帰宅前にほぼ満足値まで達するよう職場やファミレスなどで酒を流し込むようになった。
 
更生したように見えた期間のギャップが余計仇になったのだろう、家族の中でも本当のことが言えないやれない生活になって行き、酒を飲ませてもらえない怒りと支配や強要への反発も膨らみ、かえって酒を飲むことで何かを納得させるようになり酒量も増えて行く。
 
その後新卒で10年務めた会社をアルコール性の鬱で辞めてからは、転落するばかり。
 
何度もクビになっては転職を繰り返し収入も心もすさみ、妻とその母それから子どもたち3人対私1人の図式が確立する。
 
もはや家に帰ることが苦痛になり、近所のスーパーや公園の駐車場で気が済むまで飲み明かし、寝に帰ることもままならないようになっていた。
 
車の後部座席に常備したクーラーボックスがいつも冷えているように、氷を入れ替えたりする作業がむしろ生き甲斐のようになっていた。
 
そして、5年前の失踪へとつながった。
 

 1週間後のある晩、窓の外から複数の警察官がこちらをライトで照らし様子をうかがっている。
 
「しまった、見つかってしまった」という死に損なった思いとともに、「やっと来てくれたか」という安堵感もあった。
 
しかし、今さら家に帰つたところで居場所があるわけでもなく、妻に殴る蹴るの暴行を受けながら子どもたちのなんとも言えない悲しい恨めしい視線を浴びて、ようやく死ぬ覚悟が決まった。
 
すでに飲めば飲むほど頭が冴えるような状態になっていたこともあり二日ぐらいは恐怖から決行できなかったが、最後はあっさりと首にかけたヒモに全身を預けた。
 
死にたいと言うより、もう死ぬしかないだった。
 
尾てい骨を強打して我に返つた時、ちょうど目の前に飲みかけの缶ビールがそのまま置いてあったが、それをぼんやり見つめながら「もういいや、酒」と心の中でつぶやいた。
 
酒に振り回されながらもそれを正当化しコントロールしようとしていた自分が、一番疲れていたのかもしれない。
 
身体がとろけて床や壁と一体化していくような不思議な感覚を感じながら、生きていられることの本当の喜びを知つたような気がする。
 
生きていればなんとかなる、もう一度やり直してみようと、数十年来なかった前向きな方向に気持ちが切り替わった瞬間だ。
 
と同時に、自分の無力さも認められた気がする。
 
どんなに背伸びしても、所詮自分はこんなもんと良い意味で割り切れた。
 
生きるためには誰かの助けが必要だし、きっと自分を助けてくれる人が周りにはいっぱいいるはずだ、だから自分ももう少し人と協調して生きてみよう。
 
そんな気持ちになれた。
 

 しかし、そんな当たり前な事に向き合い人として成長して行く過程をすべて酒にすり替えて来た代償は大きかった。
 
断酒させていただいてから5年経過したが、止めてからの方がその被害者である子どもたちの苦悩が露呈し被害が深刻化し表面化している。
 
なにも言えずただじっと狂つた両親のもとで生きて行くしかなかった彼らは、私が酒を止めた安心感からか今不満を爆発させている。
 
償いと言う言葉では覆いつくせない心の傷をだ。
 
不登校・引きこもり、間違いなく私が親として健全に導くことが出来なかった証である。
 
それを巻き返し幸せな家庭を再構築しようという働きにも、心ならず足を引っ張られることが次々と起こり前途は多難だ。
 

 だが、必ず誰か助けてくれる人はいる、自分一人では無理だけど仲間と共にならなんとかなる。
 
そう、あの時感じた感触を今こそあらたに、親としての責任と思いを子供たちにぶつけて行きたい。
 
過去を振り返り反省しながらも、もう二度と取り戻すことは出来ない過去に縛られ続けることなく、新しい人生を一日一日積み重ねることでいつか彼らの心が本当の意味で開放される日を目指したい。
 
自分さえ良ければいい、自分さえ酒が飲めればいい。
 
それだけでしかなかった自分が今、多少人間らしい心を取り戻せたようで心地よい。
 
自己満足だけでもなく、近いうちにまずは長男との新しい生活をスタートできそうだ。
 
本当に少しずつではあるが、心を開いてくれている。
 
教育の相談・支援の方たちとも連携して、新しい人の輪の中で私も含め生かされて行きたい。
 
 そのためには、酒で心の隙間を埋めるようなことは言うまでもなく、断酒会という居場所をもらえたからこそ、新しい居場所ももらえていることを忘れず、断酒会にもちょっとずつ恩返しをして行きたい。
 
そうすることでいつか必ず、私と同じように自分も家族もズタズタにしてしまった人たちが、再生のチャンスを掴んでくれることがあるはずだ。
 




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断酒例会は宝の山、しかし通い続けなければその宝は見つからない
 

163.退院後3ヶ月目の頃を思いて   (大津支部)





 いわくら病院に入院中も含めて、ボヶた頭では実のあることは学べないかもしれないだろうからとにかく何でも手帳に記録することにした。
 
退院して2年半、今もその手帳生活は続いている。
 

 断酒生活の中で最もよく思い返す時期が退院3ヶ月ぐらいたった頃だ。
 
その時点での家族プロフィールは、私54才、妻52才、娘18才、息子が14才と10才である。
 
当時の手帳には次のようなことが書き殴ってある。
 

 アルコールに侵された精神は癒えることがあるのだろうか。
 
癒えるというのは、どのようにして分かるのか?
 
新しい人生を高らかに謳ったところで、オギャーと新しく生まれ、何もかも新しく始まるわけではない。
 
新生といえども呑んできた自分も呑まないでいた自分も哀しさも嬉しさも一緒に引き継ぐ。
 
例会で何かを言えば癒えるのか?全部って何だ。といった具合である。
 

 そんなことを思いながら、当時の手帳からいくつかを引っ張ってみることにする。
 
 (最後の酒から165日目、2017.10.21土)ほとんど終始機嫌が悪く、心の奥底がざわついている。
 
そこではいつも、何かのスイッチが勝手にオンに入っていて電流がビビビビーと流れていて、それを自分からはオフにできない。
 
些細なことがきっかけで僅かなコントロール容量をすぐに超えてイラ立ちが爆発して人前に出る。
 
底流のところで焦燥感や不安があるということなのだろうか?
 
ずっとジリジリジリと迫って来るような不安の正体を突き止めて、そいつと闘ってすぐに決着をつけてやるぞと思うのだが、ずっとそれが何であるかを問い詰めても、結局わからないままで、考えることがずっと止まらない。
 
こいつの正体さえ突き止めれば何か手当てができるかもしれない。
 
考えるのは止めて、そいつを無視してやり過ごす精神的な態度がどうもとれない。
 
産まれもっての個性なのか、性分なのか?
 
なんでも無視せずに受け止めて、あれやこれやと考察する態度を幼いころから自分でよしとしているせいか、スィッチをオフにして心が安らぐことができない。
 
気持ちの切替が恐ろしくへ夕なわけである。
 

 (181日目、2017.11.6月)キッチンの片づけを終えて夕食の支度を何とかほぼ終えた午後6時頃、妻が仕事から帰ってきた。
 
妻が階段をドスドスドスと二階に上がってきた。
 
これだけで神経の底流のところが氾濫しそうになってしまう。
 
さらに夕飯支度を整え、さあいただきますの直前、妻が「今日は残りご飯を食べようと思っていたから白ご飯は炊かないつもりだったのに」と小言。
 
これは耐えた。
 
続いて「餅巾着を入れ忘れている」と小さく小言。
 
これは限界を越えてしまった。
 
私は「できてることとできてないことがある。できてないことを次々と詰るように指摘するのはやめてほしい、そういう神経の状態なんだとわかってほしい。とてもしんどい」と説明した。
 
どうも私の 心を平静に保てる範囲が非常に狭く、この程度のことで、ショツクと怒りで訳がわからなくなるらしい。
 
この時は、夕食を食べずにリビングを離れて安定剤を飲んでベッドに行くことにした。
 
翌朝には、妻が「やさしい言い方をしなくてゴメン」と言ってくれた。
 
ビリビリ感が一晩消えなかったが、心の奥底のイラつきがようやく少し収まることとなった。
 

 (186日目、2017.11.11、土)ダビング事件勃発。
 
録画のダビングをしようということになったが、妻はダビングとは別の操作をしだして終わらずダビング作業ができず、イラついた状態で悲しく寝る。
 
翌日「邪魔した訳じゃない」と反省していないようであることにさらにイラ立つ。
 
187日目、娘の私立大学受験先の相談を妻とするが、非常に細部のことに拘り、受験先の選択という方向に話が進まない。
 
それでイラ立つ。
 
188日目、とにかく一日中、気も体も重い。
 
頭痛までする。
 
これでほとんど3日イラ立ちが収まらず、憂鬱に過ごす。
 
土日は妻といる時間が多くなるため、衝突も増える。
 
土日で私の鬱がひどくなり、月火でなんとか寝て立て直す。立て直るまでに、何度か強烈な飲酒欲求がやってくる。
 
そんなとき、一日一日が大切ですよと支部の方からお手紙をいただいたり、やさしく見守ってくださって、包まれている感じがして心を安定させることにつながっている。
 

 (199日目、2017.11.24、金)新書、文庫の壁作り付けの棚がのべ巾23m(約2,000冊)ある。
 
その日の午後にその本棚を眺めていて、ふと、ある一冊を並べ替えた。
 
そうしたら、私のそれぞれの本への関心にしたがって、これはこっち、あれはあっちと本を並べ替える作業が止まらなくなった。
 
そうしないと心穏やかでなかった。
 
そのうち15歳の時に読んだ本を手に取った。
 
その中にメモが挟んであって、「思考方法の発達史が必要となるだろう」と書いてあって、のちの自分を予感するような感覚がもうあったんだとわかった。
 
どうもこのことからは逃れられない。
 
もはや宿命である。
 

 このようにして、いわくら入院時より、何かしら書き留めたメモ帳が現在12冊目になっている。
 
手帳には、性分のこと、妻とのコミュニケーションのこと、若い時から学問研究に関心が強かったこと、何かしらイラついていることなどが日々綴られている。
 

 現在の日々のことだが、妻は妻で優先順位がつけにくかったり、ただちにすべきことかどうかの判断がしにくかったりする性向が強い。
 
片付けがとても苦手だったりもする。
 
診断はないもののADHDによく当てはまるようだと妻本人も私も感じている。
 
仕事も家事も負担が強い。
 

 自分の肉体と精神の経過を生まれてから今に至るまでを、手帳を頼りにしながら折に触れて考えている。
 
現在は、足の血管の病で両足が常時痛怠く、頭痛も毎日のようにやってくる。
 
なぜか聴覚が過敏で急な音は苦手である。
 
これらをケアしつつ、冒頭の退院後2年半が経過、家族は私57才、妻55才、娘21才、息子が17才と13才となった。
 




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反省はしても後悔はするな、しかし実行なき反省なら後悔にしかすぎない
 

164.「うつ」の思い違い   (瀬田支部)





 私がアルコール依存症であると認めたのは、平成17年の60歳になった時です。
 
私と酒との関わりは13歳の時、酒飲みの父親を突然亡くしてからです。
 
以来一人息子の私は父親の実家等との付き合いで酒を飲むことを知りました。
 
18歳でサラリーマンとなり、仕事が終わると毎日のように酒屋の立ち飲みから、数人で満席の止まり木の居酒屋へのハシゴ酒でした。
 
酒自体が好きだったので、女性が接客する金のかかる店にはあまり行きませんでした。
 
それと飲酒運転の恐れがある免許証も取りに行きませんでした。
 
28歳で結婚し、その後は外での飲酒は減りましたが、家では飲み続けていました。
 
家内は結婚前から私の酒飲みは知っていましたので、飲酒それ自体の注意はありません。
 
ただ金銭面での文句は当然の如くありました。
 
その点は長く迷惑をかけたと反省しています。
 
長い間酒を飲み続けていましたが、肝臓に関しての病院の経験はありません。
 
ただ糖尿と高血圧は30歳頃から現在も通院加療中です。
 
52歳の頃、全社的な方針で職場が変わり、そのことが原因で「うつ」になったと思いました。
 
精神医療センターで5年あまり通院加療を受けましたが完治せず、57歳で早期退職しました。その後3年間でアフターファイブが四六時中の酒になり、1日1升が2升になりました。
 
平成17年5月のある朝死ぬ夢を見て、父親を亡くした時と医療センターに通院していた頃を思い出しました。
 
仕事上の「うつ」ではなくアルコール性「うつ」だったと自覚しました。
 
45年間飲み続けた酒、人の一生分飲んだ酒に別れを告げ、断酒会に入会させてもらいました。
 
以来15年間一度も再飲酒することなく断酒継続できています。
 
これも断酒会に身を置くことで、自分がアルコール依存症である自覚を持ち続けられると思っています。
 
今後ともよろしくお願いします。



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断酒して初めて見えるひとの道(例会とは人生を学ぶところ)
 

165.私と酒   (甲南支部) 





 私は 1975 年、昭和 50 年生まれで 45 歳です。
 
家族は妻と子ども3人で普通の家族です。
 
私が酒を飲んだのは中学生の頃で親戚のおじさんに少し飲まされたのが初めてでした。
 
高校生になると週末に友だちと飲みに行くのが楽しみだったのを覚えています。
 
高校卒業後、就職で大阪から滋賀に来ましたが、最初は友達もいないので、寮の食堂でご飯を食べながらビールを1本飲み、週末になると大阪へ帰り、飲みに行く生活をしていました。
 
それから結婚をし生活していきますが、酒の量はたまにビールを1本、週末に 2、3本程度飲んでいた位で問題はありませんでした。
 
飲みに行くと何を飲んでもあまり酔わないので「酒強いなぁ」と言われ、飲んでカラオケに行くのが楽しみでした。
 
普段飲む量も多くはなかったですし、用事があるときは飲みませんでしたので、アルコール依存症ではなく、楽しい酒を飲んでいました。
 

 よく酒を飲むようになったのが 30 歳位の頃で、沖縄旅行に行ったのがきっかけです。
 
朝に出発して飛行機に乗りますが、一緒に旅行に行った人にビールをもらい飲んだ時に、「朝から、酒を飲んでもいいんや」と思ったのが始まりだったと思います。
 
それからは毎日飲むようになってしまい、休みの日も何もなければタ方から飲むようになりましたが、酒を飲むのを我慢できないことはありませんでした。
 
そんな生活を続けていましたが、段々と朝に起きるのが辛くなってきました。
 
暫くは頑張って仕事に行ってましたが、どうしても起きれなくなり、仕事を休んでしまう日もありました。
 
あまりにも体調が悪いので病院へ行くと“うつ 病”といわれ休職することになりました。
 
ここからが最悪の日々の始まりです。うつで苦しいので酒に逃げるようになります。
 
休職しているので朝から酒を飲むようになり、飲み過ぎて気絶するように寝て、起きるとまた酒を飲むようになります。
 
この頃はチューハイがぬるくても、酒であれば何でも飲んでいました。
 
飲んでいた酒はビールからストロングチューハイを飲み、日本酒、焼酎とあるだけ飲み、四六時中酔った状態でした。
 
酒がなくなるとコンビニに酒を買いに行き、また飲むを繰り返し、そんな事をしていると妻に怒られるようになり、隠れ酒をするようになります。
 
部屋のタンス、車庫、エアコンの室外機の上等あらゆる所に酒を隠し分からないように飲んでいました。
 
休職する前も会社で「酒臭いな」と言われた事があるので、だいぶ前から酒の量が多かったと思っています。
 
もう酒の事以外は何も考えられなくなっていました。
 
妻の財布から金を取って酒を買いに行った事もありました。
 
そんな生活をしている内に会社の永年勤続で家族旅行に行ける事になり、和歌山へ旅行に行く事にしました。
 
家族は楽しみにしていますが、私はどうやって酒を飲もうかしか考えていませんでした。
 
旅行の前日も酒を飲み続けていたので、当然、当日の朝も酔っ払っています。
 
それでも起きて出発する迄、酒を飲み、和歌山へ着くまで酒を飲めないことが嫌で、旅行に行きたくありませんでしたが、隠していた日本酒を持って行く事にしました。
 
もちろん私の運転で行きますので、もしかすると事故を起こして家族の命、それから他人の命を奪っていたかも分からないと考えるとすごく怖いですが、その時は何も思わず運転をしました。
 
酒に飲まれるようになってからは、ほとんど何も食べずに飲むばかりでしたので、すぐにトイレに行きたくなります。
 
30分毎ぐらいにサービスエリアに寄りトイレに行きました。
 
和歌山に着き、子ども達は海で遊ぶのを楽しみにしていましたが、私は酒の事しか考えていないので、コンビニへ行き子どもと遊ぶ事もせず酒を飲んでいました。
 

 一応アドベンチャーワールド等も行きましたが、ほぼ旅行の思い出はありません。
 
食欲がないので旅館のご飯も食べず、旅行の最初から最後まで酒ばかりでした。
 
今考えると最悪な父親だと思っています。
 
それから家族に変化が起こり、酒ばかり飲み続けていた事で、私があまり話を聞かないので会話が少なくなり、酒を買いに行く以外はほとんど外に出ることがなくなりました。
 
酒を飲んで寝る毎日を過ごしていました。
 
その結果倒れて救急車で病院へ運ばれ入院しました。
 

 この時の血液検査の結果がY GTPの数値が 1900 位ありました。
 
退院するまでに娘が精神医療センターを探してくれて外来受診しましたが、倒れてから外来受診するまで飲んでいなかったのと、依存症という事を自分の中で認めてなかったので、入院はお断りしましたが、また飲んでしまい妻からも入院を言われました。
 
アルコールで入院は本当に嫌でしたが、息子と風呂に入った時、今まで一度も言った事のない言葉を言われました。
 
それが「今度サッカーの大会があるから見に来てな!見に来てくれるだけでいいから!」と言われた時、私が酔ってフラフラして見に行っていた事、もしかすると友だちにも「酒臭いお父さんやな」と言われていたかもわからないと思ったとき、目が覚めた気がしました。
 

 それから酒を飲まなくなりましたが、離脱症状が酷く、発汗、眠れない、手足の震え、いない虫が見えたり、いるはずのないおじいさんが横に立っていて、私を見ている等、経験したことのない苦しみが続きました。
 
苦しさが少しましになった時に外来受診し入院させて頂きました。
 
入院しても治ることはありませんが、回復はできるという事を入院中のプログラムと断酒会で教えていただきました。
 
現在は3本柱の中の2つで断酒会へ参加と通院、それから周りの人たちの力が助けになり、自分の中ではたかがと思っていますが、約1年半断酒できています。
 
それと酒を飲んでいた時と現在の気持ち、それから考え方ですが、飲んでいた時は全てネガティブに考え酒を飲んで逃げてきましたが、断酒してからは少しずつ前向きに行動するようになり、何に対しても考えて主張出来る様になってきたと思っています。
 
アルコール依存症はゴールのない病気で逃げることはできませんが、これからどう生きていくかは選べると思っています。
 
それから家族にはごめんというような言葉では許してもらえると思っていませんので、酒を飲まないという行動を見せていきたいと思っています。



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豊かだから与えるのではない、与えるから豊かになるのだ
 

166.Hさん、アル中です(守山支部アメシスト)





 2019年1月25日、腎臓内科の先生から告げられました。
 
 精神医療センターへの紹介状、2月4日内科への受診。
 
「その時は必ず家族の 方に、付き添ってもらって下さい」アル中と告げられた衝撃もですが、家族の付 き添いが必要だと言われたことが一番堪えました。
 

 4人の息子たちに打ち明けなければならない辛さ恥ずかしさ申し訳なさ、私がお酒をお茶代わりに飲み始めたきっかけといえば、子どもたちがそれぞれに成長し4男も10年前に独立しました。
 
「やった!!」生まれて初めての一人暮らし。
 
時間を気にせず出かけられる自由、本を思う存分読むことができる自由、一日中音楽を聴いていてもいい自由と色々思い描き浮かれ騒いでいました。
 
が、いざ一人になると何もすることがないのです。
 

 「まー、いいか一杯飲んでゆっくりしよう」1杯が2杯、2杯が3杯と飲み進み、おさだまりの依存症一直線コースに突入。
 
お酒を止めなければならないのかという自覚はありましたがそれは、ほれ、私の性格の良さ?。
 
「明日止めればいいや、とりあえず今日は飲んじゃおう」で10年、ついに私の体は悲鳴をあげました。精神医療センターの先生、こころのクリニックの明神先生からの強い勧めがあり、2月の守山支部記念例会に参加させて頂くことになりました。
 
断酒会というものが有るのは、知識としては知っていましたが、はっきり言って、会に出席 したところで、お酒を断てるとは、さらさら思っていませんでした。
 
ましてや寒がりで出不精な私が真冬の夜に出かけること自体、今持って不可解。
 
体験談を聞きながらこんな感じなのかと一人ぽつんと座っていました。
 
会も終わりになり、皆で合唱、連鎖握手ということになり、両隣の方が手をつないで下さいました。
 
その瞬間、私の体にすーっと入ってくるものがありました。
 
「大丈夫だよ」「頑張れるよ」「止めることができるよ」手が言葉を喋った訳ではないのですが、その場にいた方々の思い、願い、支え合う力?、何がどんな風に作用したのか私には分かりませんが、とても暖かな心地いいものが私の中に本当に静かにすーっと入ってきました。
 

 お陰様で「アル中です」と宣告された日から、今日に至るまで一滴のお酒も飲まずに過ごさせて頂いています。
 
あの日断酒会に出席したからこその事と思います。
 
断酒会に出席したからといって、毎回心が震えるような体験談があるのではなく、会の人が励ましや慰めの言葉をかけて下さる訳ではないのですが、その場に座り、皆さんの中にいることだけで、支えられ力づけて頂いています。
 

 3ヶ月、6ヶ月、1年断酒の表彰をして頂き周りの方から「おめでとう」と言葉をかけられた時は、それこそオリンピックで金メダルを取ったような誇らしさでした。
 
先日も勤め先から健康診断を受けに行き、問診票の記入に「お酒を飲みません」の欄に印をつけられたことは、私の大きな喜びでした。
 
これからも皆さんとともに 1 日断酒を続けていきます。



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断酒とは口や頭でするものではなく、足でするものである
 

167.私と酒   (守山市)





 私とお酒との出会いは、遅く大学に入学してからでした。
 
実家を離れての生活でしたが、下宿仲間やゼミやサークルなどの集いで、外に飲みに出かけてましたが、毎日飲むわけではなく、仲間が集まり意気投合するとワイワイと飲む楽しいお酒でした。
 
教師として就職してからも仲間と飲む陽気な酒でした。
 
結婚した後だんだんと仲間と飲みに行くことは減ってきましたが、ひとり自宅で飲むのも週に1〜2回程度でした。
 
しかし30代の頃からか、寝酒として日本酒を1合飲むようになり、それがだんだん習慣化してきました。
 
そして55歳の時、最後の転勤となる学校に移ったのですが、そこは今までの職場と違い人間関係が殺伐としていて職員室での会話は少なく、パソコンを打つ音だけが響いている。
 
若手の教員達は若い者同士でコミュニティを作っていましたが、年配の教員ぱ我が道を行ぐという教員が多くとにかぐ人と交わりたい”私にとっては職場が辛いところになってきました。
 
その上、学校まで片道1時間以上かかり通勤ストレスが重なり、そのストレスの逃げ場として仕事から帰って今日1日頑張ったご褒美と称して、帰ってすぐに日本酒を1合飲むことが習慣化し、寝酒の一杯も欠かすことはありませんでした。
 

 そして2020年度に入りコロナ禍での3月の緊急事態宣言で生徒が学校に登校しなくなると、職場では教師(大人)との関係が主になりストレスが頂点になり酒量が一気に増えました。
 
そして酒量が増えるにつれ考え方がネガティブになりがちになってきました。
 
5月のゴールデンウィークにはコロナの為、実家に帰ることなく朝から毎日のように酒を煽って連続飲酒を繰り返し、連休明けの週は職場に行かず朝から飲み上がっていました。
 
このような状態を見ていた妻に引っ張られて病院に行き血液検査をしたところ、γGTPが800を超えており専門病院への入院を勧められ、妻の強い意向もあり入院しました。
 
入院中は断酒のためのプログラムを受けましたがそれほど心に響くことはなく、タバコを吸う私にとっては夕方4時から翌朝9時まで外に出られずそれが大きなストレスとなりました。
 
そんな心持ちで退院した私にとってぱカゴ”から解き放たれた鳥のようにタバコを吸い、酒もあっという間に元通りに戻ってしまいました。
 
このような姿を見た妻は、落胆しその怒りをぶつけてきました。
 
そこでハッと気づかされたのは、このままでは家庭がなくなる。
 
体が持たないということに気づきました。
 
そしてその日に断酒会の門をたたきました。
 

 そこでは当たり前のことですが、お酒を止め続けている人達が自らの飲酒体験や断酒を続けている現状が語られ、どれも自分が納得できる話で心の中に“スーツ”と入ってきました。
 
それと同時に同じような飲酒体験をした人が断酒し続けている。
 
その姿に羨望感すら覚えました。
 
断酒してまだまだ3ヶ月ですが、体のメンテナンスは抗酒剤を服用することで、精神的なメンテナンスは断酒会の仲間との語らいの中で続けていきたいと思います。
 
私にとって断酒会は心のオアシスであり、活力の基で、なくてはならないものになってきています。
 
これからもよろしくお願いいたします。



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断酒の危機五態 我慢の断酒
 

168.私とお酒  (高島支部)





 僕がお酒を飲み始めたのは、高校3年生の時で、それまで頑張っていた部活動も引退して、何か一生懸命取り組むことも無くなった時期でした。
 
休みの日は、友達の家に集まってみんなで飲んだりしていました。
 
はじめのうちは、みんなと飲 む時しか飲まなかったのですが、段々一人でも飲むようになっていきました。
 
20 歳になる迄には、毎日のように晩酌をするようになります。
 
外に飲みに行くにも、家からお店までは、車移動でも15分くらいかかるところに住んでいるので、外飲みは、結婚するまで飲酒運転が当たり前でした。
 
結婚してからも、晩酌はもちろん 続いていて、その量もどんどんと多くなっていきました。
 
仕事もいつも二日酔いのような状態で行っていました。
 
当時の僕の職場では、年に1回健康診断があり、血液検査もあったのです。
 

 そこでガンマの数値が、1500近くになっており、すぐに病院で検査するように言われました。そして、やはりお酒をやめるよう言われ、家族にももう飲まないように言われ、僕も約束しました。
 
ともかく、家では飲めなくなったのですが、お酒自体は止められず、外で飲むようになりました。
 
暫くしていなかった飲酒運転もまた始まり、いつも仕事が忙しいと言っては、夜中の12時すぎまで、車の中などで飲んで帰る日が続きました。
 

 ずっと3年ほどそんな日が続きます。
 
外飲みも、最初は仕事が終わってから始めていましたが、徐々に飲む為に、仕事を早く終わらせて、昼から深夜まで、漫画喫茶等で飲み続けるようになりました。
 
そんな時、飲酒運転で事故を起こしました。
 
警察に捕まり、妻は当時まだ0歳の3女を背中におぶって、警察まで迎えに来てくれました。
 
もう、本当にお酒はやめないといけない。
 
家族も僕もその意思でしたが、翌日には、また隠れ酒が始まりました。 兄弟と友人のすすめで、専門病院を受診し、断酒会を紹介してもらい、今に至ります。 今のこの大変な時期ですが、一日断酒、1日、1日をどう過ごしていくか、考えて、充実した日だったなと思えることが積み重ねていけるよう、今は生きていこうと思い ます。



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断酒の危機五態 不安の断酒
 

169.じかく「自覚」ということ  (大津支部)





 私、大津支部の〇〇と申します。
 
昭和 21年9月生まれ、74歳6ヶ月の寺院住職です。
 
仕事柄、お経を読んだり、お説教をしたり人前で声を出します。
 
しかも大声で。学生時代はスポーツ系のサークルで声を出していました。
 
私の経験の中では、僧侶の資格を取るための修行があったり、専門職のため百日の行に入ったりして大声を出してきました。
 
なぜ?と問われると、寒い中、水行をするからです。
 
その百 日間、禁酒、禁煙、禁色、禁肉食、禁五辛、ただ只管(ひたすら)読経水行、お粥2食、睡眠3時間の百日です。
 
ご祈祷修法師(ごきとうしゅうほっし)の免許皆伝を取得するのに15年かかりました。
 

 この修行を終了した方は全国で現在250人以上おられますが、滋賀県内は2人、私はその第1号で、私の自慢です。
 
この15年のつながりでは、私の断酒歴なのです。
 
この15年と3ヶ月、私の周りにおられる人々、同友、朋友、家族お寺の檀信徒の方々に支えられてきましたし、現在も支えられています。
 
生活の中では自分一人では生きていられないことを分かっています。
 
自覚しています。
 
国語辞典で「じかく」を引きますと自覚、字画、寺格、耳殻、痔核とあります。
 
自己の状態を意識することを覚悟、自分でわかることが自覚です。
 
おかげさまで日赤病院でのすい臓炎の治療後、依存症を理解された看護師さんの紹介で県立精神医療センターに入院、依存症克 服カリキュラムと自助グループへの参加を勧められ、自分が依存症である事を自覚しました。
 
その当時大津支部は川北さん、熊澤さん、井上さん、山元さんの先輩がおられ、導いて頂きました。
 
感謝しています。
 
特に熊澤さんには、私の家内共々お世話になりました。
 
私が断酒会に繋がる以前からのお知り合いでした。
 
お寺にこられ 大きな声で、「奥さんおられますかあ、熊澤です」と家内と、福祉の関係で話しておられました。
 
断酒会の中では、“困った時は、ぼちぼちゆこか”、の言葉が印象的でした。
 
そういう人々とのつながりで、今も住職としての仕事を続けさせております。
 
感謝、感謝です。
 
すい臓組織が全滅した以外健康そうに見えます。
 
頭が少し悪いだけで、インシュリンを注射しながら、カロリー計算して食事をし普通に生 きております。
 
いや生かされております。ひとえに断酒しなければ仕事が出来ない、家族が自分が守れない、と「自覚」させて貰ったからです。
 
感謝です。
 
これからも 15ヶ月前に倒れた、要介護3の家内を要介護1の本人と 35歳独身の三男と新婚 6ヶ月で無理やりに戻ってきた長女と4人でお寺を護っております。
 
これからもボチボチがんばりますのでよろしくお願いします。



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断酒の危機五態 自慢の断酒
 

170.      





 



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酒の危機五態 不満の断酒
 
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