体験談(家族の立場から) 


【家族の気持ちは家族会(家族のみ)で十分聞いてもらい、そして楽になりましょう】
 
  Aさん:「主人との暮らしは生き地獄なんです」
 
  Bさん:亭主の言い訳を聞いて「ふざけんじゃねえ!私をなめとんのか!」
 
  Cさん:「例会で、主人の酷いことを言ってまた飲まれたら困る。」
 

【この世の地獄を見たければ酒害者の家族を見ればよい】
 
  原因は全て私にある。家族さんの話を読ませていただき、己の姿を振り返ります。(酒害者)             




 1.「おかげさまで」・・・感謝の気持ち (栗東支部)
 2.回 復               (瀬田支部)
 3.断酒の道は夫婦同道         (信楽支部)
 4.父の断酒に感謝           (草津支部)
 5.夫を信じて13年           (甲南支部)
 6.アルコール依存症と付き合って25年 (八日市支部)
 7.断酒会に感謝            (栗東支部)
 8.断酒会に入会して        (近江八幡支部)
 9.主人の過去を振り返って     (近江八幡支部) 
 10.断酒20年を迎えて          (草津支部) 
 11.妻の断酒4年が過ぎて        (高島支部) 
 12.新 生              (八日市支部) 
 13.アルコール依存症の辞書       (瀬田支部) 
 14.家族の思い             (甲南支部) 
 15.例会で回復してます         (草津支部) 
 16.また飲んだ             (守山支部)
 17.断酒会に入会して          (草津支部) 
 18.断酒会に感謝           (栗東支部) 
 19.断酒会に入会して          (彦根支部) 
 20.息子の断酒             (長浜支部) 
 21.止め続けて16年           (瀬田支部)
 22.24年・・・今の思い         (草津支部) 
 23.断酒会を大切に           (彦根支部) 
 24.夫の断酒              (守山支部) 
 25.仲間と家族会の皆さんに支えられながら(長浜支部) 
 26.夫の断酒に向けて          (栗東支部) 
 27.アルコール依存症を理解していなかった私(彦根支部) 
 28.妻と共に回復を           (大津支部) 
 29.アルコール依存症          (近江八幡支部) 
 30.望んでいた普通の生活        (甲南支部) 
 31.穏やかな日々            (大津支部) 
 32.私と断酒会             (長浜支部) 
 33.比べない、焦らない、あきらめない  (甲賀支部) 
 34.断酒会で学んだこと         (甲賀支部) 
 35.断酒会とともに           (甲賀支部) 
 36.夫婦の絆              (大津支部) 
 37.主人と酒              (彦根支部) 
 38.主人と私              (長浜支部) 
 39.私の生きる道            (栗東支部) 
 40.父による酒害を経た私の望み     (大津支部) 
 41.夫はアルコール依存症         (高島支部) 
 42.心の傷は深かった           (大津支部) 
 43.主人とのあゆみ            (大津支部) 
 44.私の回復               (大津支部) 
 45. 



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<ザゼンソウ>



「酒」
 
酒害者の家族にとってこれ程
 
恐ろしいものはない
 
辛いものはない
 
苦しいものはない
 
悲しいものはない
 
恥ずかしいものはない
 
大嫌いなものはない
 


 









1.「おかげさまで」・・・感謝の気持ち(栗東支部) 





 主人がお酒を飲んでいた頃、そのお酒がだんだん酷くなり肝臓を悪くして入院。
 
その後も出張や休日明けには会社を休む。
 
又私がうるさくて家で思うように飲めないので会社帰りに車の中で飲んで帰り、飲酒運転。
 
車を溝にはめたり、キーを差し込んで無理に回したのか折ってしまったり、その度に夜中でも「迎えに来てほしい」と電話をかけてきます。
 

 そんな毎日の生活の中で初めは大丈夫かと主人の心配をしていたのに、その内に主人に対しての怒りで私の心の中は一杯になっていました。
 
「あんたと別かれて田舎に帰りたい」と言いながら別れる事もままならず、次には泥酔して寝ている主人の首を絞めようか、庖丁を持ってきて刺してやろうか、と考える様になっていました。
 
小さい二人の子どもの事を考えるとそんな事も出来ず、いつも飲酒運転をしている主人に「人を巻き込まず自分だけ死んできてー」と言うようになっていました。
 

 昭和五十九年に私が田舎に帰っている時、飲みすぎで具合が悪くなり、同僚の方が救急で成人病センターに運んでくれました。
 
その時先生が 「こんな人は精神科に行かなあかん」と言っていたと教えてくれました。
 
その後、大津日赤の精神科に行き「今、こんな人は増えているので、断酒会を紹介してあげる」と言われました。
 
私は治療して貫えるとすごく期待していたので、その時はがっかりしました。
 
でも、そのお蔭で断酒会の方に専門病院を教えてもらい入院する事が出来ました。
 

 入院中は外泊の度に飲酒し反省室へ、二度目の反省室から無理やり退院してしまったので、私はとても不安でした。
 
しかし退院後の主人は会社を定時に終わり、毎日例会に通い日曜日には県外の記念大会にと先輩の方と一緒に参加しました。
 
会場に着くまでの車中で皆さんと話す事で親しくなれ、会に馴染めたのではと思っています。
 

 断酒会に入会して早二十六年になろうとしています。
 
沢山の方にお世話になってきましたが、最初のきっかけを作ってくださった成人病センターの先生、大津日赤の先生には「あの頃どうしようもなかった主人、今断酒会で頑張っています。
 
ありがとうございました」直接言うことはできませんので、この場をおかりして伝えさせて下さい。
 
そして断酒会の皆様ありがとうございます。
 
これからもどうぞ宜しくお願い致します。
 




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<うぐいす>
阿武山の坂に登れば ウグイスの 声のどかなり 断酒の喜び  









2.回復(瀬田支部)





 結婚した時から帰宅は遅く、いつも夜中に飲んで帰って来る毎日でした。
 
会話もかみ合わず家族で出掛ける事もほとんどありませんでした。
 
そのうち子ども達も大きくなり、主人の居ない生活があたり前になっていました。
 

 53歳の頃、思いもよらなかった転勤命令、主人は仕事は辞めると言いました。
 
びっくりして「私もついて行くから辞めないで」と頼み、一緒に行く事になりました。
 
仕事場と住まいが同じで、はじめて酒の飲み方の異常さに気づき、怒っても、泣きわめいても、なだめても、何をしても酒は止まりませんでした。
 

 アルコール依存症と診断され、6カ月の入院、−年後には再飲酒で、3カ月の入院となり、慣れない長い入院生活で、見当識障害と言われ、自分の家に帰れなくなったり、年齢、日付がわからず、今の事を忘れる、覚えられない状態になってしまいました。
 
もともと大の苦手だった、人と話したり、行動したり、自分の考えを述べたりが、増々苦手となり、例会で一番大切な体験談も未だに話した事がありません。
 
断酒さえ続けていれば解決していくと思っていた私は、回復のおそい主人に、苛立ち、人と比べて落ち込み、毎回私達は無力であると唱和しながら、自分の力でなんとかしようと、あがく自分に腹が立つといった、悪循環が長い間続きました。
 
年を取ってきたせいか、最近は、これも個性で性格なんだろうと思えるようになってきました。
 

 時間がかかりました。
 
一緒に例会出席が出来、買物に行き、食事の用意をして、笑顔で元気に一日過ごせた事に感謝して「こんな幸せも、ありかなあ」と思えるようになりました。
 
これも、例会出席、一日断酒のおかげ、主人のおかげです。
 
ありがとうございます。
 




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<ハナミズキ>
楽しみの趣味もつゆとり なかりけり 主人の酒に心はなれず  



3.断酒の道は夫婦同道(信楽支部) 





 結婚式の記念撮影の時に、お酒臭い息を吐く夫に「?」と感じた時からの酒害のつき合いなので、三十年余になります。
 
始めの三年、飲酒に振り回されました。
 
まずは、酒器にも心配りして晩酌の用意をしていましたが、すでに出来上がって帰ってきて、飲酒運転を注意すると、暴言から口論の繰り返し、どんどんエスカレートしていきました。
 
家族会議をしてお酒を切って、仕事に行って、職場で倒れ、黄葉病院の広兼先生の診察を受けました。
 
職場の上司に呼び出されて、私が注意され、情けない思いもしました。
 
一ケ月も経たないうちに、また職場で倒れました。
 
しばらく断酒していたのに、再飲酒して二回目のアルコールてんかん発作が起こったのです。
 
従兄に黄葉病院へ送ってきてもらい、私と合流しました。
 
広兼先生が、前回のと脳波を比較しながら、「完壁なアルコール依存症ですね。入院しましょう」と一時間がかりで説得してくださいました。
 
そして、そのまま三ケ月入院しました。
 
その頃の私は、誰を頼ることもできず思いつめ、悲劇のヒロインでした。
 
入院中につながった同友会の事務局長に「一年間は、がんばって断酒のためにできるだけのことはするけれど、それでも失敗を繰り返したら、離婚する」と話したら「そんな考えなら今離婚した方がいい」と言われ、帰りの車中で涙があふれ、土砂降りの雨の中だったこともあり、同じ所を二度も回って、怖さで涙が止ったこともありました。
 
退院前から不安で「快気お礼」はがきに断酒協力のお願いを書き添えて準備したり、「断酒会がよいの運転は、Sさんに」などいろいろ考え、退院後一ケ月、私の方にチック症状が出たぐらいでした。
 

 三年間苦しめられたから、三年断酒したら許せるかと思いながら、極力二人で断酒会がよいをしました。
 
先輩家族やアメシストの方たちから、「家族も病気」ということを教わり、例会の最後に唱和する「家族の誓い」のことばが「断酒会の皆様とともに、しあわせになることを誓います」に変わり、私の方が業が深いのではないかと思うようになりました。
 

 お陰さまで、断酒を継続し、定年後は、姑の介護に勤しんでいます。
 
私も持病を抱え、手伝ってもらわないとできないことも多く、「二人の面倒見んならん」とぼやかれていますが、少しずつ本来の優しさが行動に出てきているのはありがたいことで、断酒のお陰と感謝しています。
 
定年後は、二人で全国の断酒会の研修会などに出かけようと楽しみにしていました。
 
どこへ行っても、初めて出会った人なのに、だれとでも打ち解けて悩み・辛さが分かり合えほっとできるので、全国大会は楽しみです。
 
今のところ全国大会で精一杯ですが、楽しみながら肩の力を抜いて、こつこつ「断酒の道は夫婦同道」歩み続けたいものです。
 




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<バビアナ>
テレビのみ笑う種なき我が家は 既に死におり家庭であらず    



4.父に断酒に感謝(草津支部) 





 5年の断酒を貫き、10カ月前、父は3人の娘達に囲まれ「自分はほんまに幸せ者や」と笑顔で最期の言葉を遺し、64歳でこの世を去りました。
 

 真面目で誠実で仕事熱心、深い愛情で家族を守ってくれる、大好きで尊敬していた父がアルコール依存症を患ったのは、母が他界した数年後。
 
まだ学生だった私達を、父は男手一つで立派に育て上げてくれましたが、私達が成長する喜び寂しさと共に、最愛の妻を亡くした深い悲しみ、孤独、絶望感から、酒量が増え、私達の地獄の様な壮絶な生活が何年も続きました。
 
懸命に築き上げた仕事も、愛し守り続けた家族も、父の人生そのものが崩壊寸前でした。
 
廃人の様な父を何とか救うべく様々な事を試みましたが、事態は悪化の一途。
 
親戚に助けを求めても逆に責められ、私達の悲痛な叫びは誰にも届かず‥・。
 
愛情一杯育てて貰った記憶が刻まれていて見捨てられない・‥。
 
このまま死んでくれたら皆楽になるのに‥・何度も思いながら、排泄物を垂れ流し泥酔する情けない父の後始末を泣きながら繰り返す日々でした。
 

 6年前、姉の結婿話を機に改心を決心した父と、センターに辿り着いたのは奇跡。
 
私達の苦しみを初めて理解して下さった看護師さんの言葉に張りつめたものが緩み、涙が溢れました。
 

 全ては病気のせいだったと知り、父も私達も大変救われました。
 
当初は病気の事も3カ月の入院治療にも抵抗と反発心が強かった父も、先生の御指導や他の患者さんと過ごす内、病気や自分と向き合える様になり変っていきました。
 
スリップの不安は私達の中に常にあり、悪夢や、缶ビールを開ける幻聴は数年続きましたが、父は通院と断酒会と繋がりながら、家族のために頑張って断酒を続けてくれました。
 
孤独や絶望ではなく、身辺の沢山の幸せを感じてほしくて、父が笑顔になれる些細な時間を家族で増やしました。
 
早く母のそばに行きたいと嘆いて飲んでいた父が、最高に幸せでいつ死んでもいい!と言う様になりました。
 
癌の再発で辛い闘病生活を強いられながらも、スリップする事なく最期の1カ月前まで断酒会に通い続けました。
 

 苦悩多い父の人生でしたが、死の淵で幸せと感謝の言葉を笑顔で言えたのは、苦しいアルコール依存症を患い、失ったものも多いけれど、断酒を貫く中でかけがえのない多くの事を得たから言えた言葉でしょう。
 

 遺影の穏やかな優しい笑顔も、5年前迄はなかった事、父のアルコール依存症の話を私はあえて喪主挨拶で打ち明けました。
 
壮絶な時代を乗り越え、生き直して頑張った父は立派で誇りに思うし、懸命に生きた父の生き様をお世話になった方々に伝えたかったのです。
 

 母亡き後15年目でやっと訪れた我家の平穏もわずか5年でしたが、最後の5 年の幸せな想い出と、大好きだった昔の笑顔に戻った父を、念願の母のもとへと見送れた事が慰めです。
 
父が断酒を貫けたのは、家族だけでなく、断酒会の皆様の存在は大変大きく心強い支えだったと思います。
 
最期まで父を支えて頂き、父の心に寄り添って頂き、本当に有難うございました。
 
家族を代表し、そして父に代わり、深い感謝と御礼を申し上げます。
 




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<ハボタン>
咎めれば咎める我が 惨めなり 隠れ酒見るも口には出さず  



5.夫を信じて13年(甲南支部)





 断酒の道を歩み早十三年になります。
 
夫もたいへんだったと思いますが、飲酒歴二十五年そのうちあとの十年ぐらいは、私達家族も壮絶な闘いの日々を過ごしてきました。
 
どの家族の方々も同じ苦しみを味わっていらっしゃったと思いますが、今思えば、私自身夫と酒とを相手によくがんばってきたなと自分をほめてやりたい気持ちです。
 

 義父がお酒が好きで家庭内で酒が原因でトラブルがひんぽんにあったようで何も知らないでその中に嫁いだ私「父のような酒飲みにはならない。あんな父は父親でもない」と父を見下して批判してきた夫自身親子で仲よくお酒をくみ交わせたらいいのにと思っていましたが、主人が父と同じ酒のレールの上を走るのは時間の問題でした。
 

 義母もずっと一人でこの家をささえてがんばってきたみたいで、家庭は夫をたて子供達も父を尊敬出来るようにしていかなくては、と思っていたのが母の言葉「おまえも酒で苦労するのか、何とか父みたいならないでしっかりしてほしいのだが、おまえもかわいそうに女二人でがんばらなくては」といつも母が私をなぐさめはげまして下さっていたからたえられたと思います。
 
よく夫に「私を取るか、酒を取るか」と言い争った事もあり、酒以外の事を考えてくれていたらもう少し家族の事、自分の事も考えられたと思いますが、「今飲んでいる満足だ。次の酒をどうして手に入れようか」しか頭の中にはなかったようです。
 
この事は後で皆さんの体験発表を聞いてわかった事です。
 
私達家族も「酒を止めてとは言わないから、きめて飲んでとか、節酒してとか」隠し酒をしているのを見付けたら又それを隠し、いかにして飲まさないようにする事ばかり考え、まるでシーソーゲームをしているようで親二人「酒飲みたい」「飲んでほしくない」しか頭になかった。
 
子供達の発育盛りの年月、子供達にはたいへん迷惑をかけ親として二人で導びいてやれなかった事が申し訳なく思います。
 

 酒が原因で入退院が続き職も転々と代わり、不安定な日々が続いていました。以前から主人の行動がおかしいと気づいていましたが、ある日とんでもない行動をしたり、口ばしるようになり私自身この夫(当時四十六才)を一生もりしなくてはならないのかと失望と不安でいっぱいでした。
 

 内科の先生が以前アルコール専門病院があるとおっしゃっていた事を思い出し、いやがる主人を病院に連れていってもらいました。
 
そこで診察されたのが「アルコール依存症」と「アルコール性痴呆症」でした。
 
アル中だと思っていたのが、病気だと聞かされびっくりしました。
 

 いやがっていた夫も病院に入院する事に同意し、やっと気が楽になったと思ったら先生は「入院した人の何%しか止まりませんよ」とおっしゃった時には、安堵の気持ちがまたどん底に落とされた気がしました。
 
どうぞその何%に主人が入りますようにと祈る気持ちで主人を信じ病気だからなおさなければ又なおす事が出来ると思い入院中は、出来るだけ協力し私達家族も勉強会にも参加しました。
 
でも父は息子の前で堂々と酒を飲みはげます言葉一つも言いませんでした。
 
私はひどい父だと思いましたが、今思えば「人が飲んでいる姿をさけてばかりではなく、前にして、それも我慢出来ない人は本当に断酒出来ないぞ。」と父が主人に言い聞かしていた姿だったかもしれません。
 
退院後断酒会に入らせていただき、たくさんの仲間がいらっしゃり、私達家族だけが苦しかったのではなかったのだと、仲間の方々のはげましや今まで主人の酒に関して他人には言えなかった事も聞いていただく事も出来、心身ともに安らぎの場所をいただきました。
 
夫も酒でたくさんの信用も友もなくしましたが、たくさんの断友も出来、ありがたいと思っています。
 

 あれから十三年長いようであっという間にすぎ去りましたが、あれだけ心配してくださった母は昨年の一月に、厳しかった父も十二月に、酒なしでりっばに送らしていただき、父も母も喜んでいてくれると思います。
 

 今後も皆様の輪からはずれないよう二人で頑張っていきたいと思います。
 

 よろしくお願いします。
 




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<ハマナス>
正月の来るを悲しむ 幼子は まだあどけなき満五才なり    



6.アルコール依存症と付き合って25年(八日市支部) 





 主人がアルコール依存症と診断されたのは昭和58年でした。
 
それまでは、内科入院を3回しています。
 
最後の入院の時には病院から酒を買いに行く様になっていました。
 
会社の方が保健所に相談に行って下さり、京都の黄葉病院を紹介され入院する事になりました。
 
見舞いに行くと、こんな病院に入院させたと怒られました。
 

 主人は3ケ月もたたない内に退院して来ました。
 
会社から今度酒を飲んだら「クビ」と言われた様でした。
 
断酒会には八日市支部に入会しました。
 
毎週水曜日に二人で通い続けました。
 
昭和63年に安土に家を建て、仕事も三交替制と忙しくなり、断酒会を辞めました。
 
会社で働いている間は断酒を続けることが出来ましたが、55歳定年で会社を辞めた途端もう酒を飲んでいました。
 
12年間断酒出来ていたので私も安心していましたが、気付いた時には元のアルコール依存症になって、自分では止める事が出来なくなっており、病院に連れて行きました。
 
先生も「12年も止めることが出来ていて惜しいね!」とおっしゃいました。
 
やっと酒が切れて働くことができる様になり、以後5年間は止める事が出来ました。
 

 2回目の失敗は60歳の時。
 
年金生活になると仕事をしなくてもよいので毎日家に居る様になり、私が仕事に行っている間に1杯の酒が始まりました。
 
外で飲む事ばかりで、家に帰って来ない日もありました。
 
今度は病院に行くより断酒会と思い、八日市支部に連れて行きました。
 
昔の仲間がいて、「また頑張り」と声をかけてくれました。
 
平成11年から断酒会通いが始まりました。
 
今度は退会しない様に頑張るつもりでいます。
 

 私も2年前に定年となり、毎日二人で居る事になってケンカばかりですが、飲んでいる頃の事を思えば楽になりました。
 
仕事をしながらの25年間は言葉に表せないくらいの事もありましたが、今は自分の好きな事が出来る様になりました。
 
手芸、ボランティアと毎日忙しく過ごしています。
 
でも私には一番が断酒会です。
 
2 回の失敗を忘れる事なく、断酒会に通い続けようと思います。
 
これからも皆様にお世話になると思いますが宜しくお願いします。
 




 
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<バラ>
母なりて父にもなりて 柱にも 代わりぬ我は誰にもたれん  



7.断酒会に感謝  (栗東支部) 





 JRの車窓から見た満開の桜は、私にとって忘れられない景色です。
 

 漠然と離婚を考えながら病院の院内例会に参加していました。
 
入院して治療を受けると治る病気かと思いましたが、十数回入退院を繰り返した方の体験談を聞き、アルコール依存症の恐ろしさや根深さを知り、これから先続く戦いに暗澹とした思いでした。
 
帰りの電車で満開の桜を見ながら涙がとまらなくなり、そのうち寝てしまい野洲迄乗り越してしまいました。
 

 あれから30年近く経ちますが、桜を見ると当時を思い出します。
 

 結婚当初は、親、兄姉、同僚と皆お酒好きが多く、休日の度に集まって飲んで騒いで、楽しかったのですが、主人だけが二日酔いで欠勤する様になりました。
 
夜勤のある会社に転職してからは、大型連休はもちろん土日の休みあけも連続飲酒になり、しまいに勝手に仕事をやめてきました。
 

 急いで勤めから帰って食事の用意をしても、ろくに箸もつけず、風呂も入らないで髭だらけで、毎日酒浸りの生活です。
 
寝ている主人に、大声で、私が正しいとばかりに責めたてたり、酒瓶を取り上げて庭にたたきつけたり腹が立つやら、悲しいやらで家に帰るのが嫌でたまりませんでした。
 

 そんな時、主人の姉からケースワーカーの方を紹介してもらい、専門病院から断酒会へと、つながる事ができました。
 

 心の中にいつもあった鉛のような重苦しい魂が、仲間の中で徐々に溶けていく様でした。
 
36歳という若さのせいか、底付き感もなく、3年位失敗を繰り返しましたが、最後の飲酒の時、初めて自分から先輩に助けを求めて助けていただきました。
 
断酒が数年続いた頃から誕生日と結婚記念日に花束(現在は現金)を贈ってくれるようになりました。
 
過ちを償っていると、当然の様な顔で受け取っていました。
 
入会当時生涯断酒という大きな荷物を背負った感じでしたが少し軽くなってきました。
 
日々の飲まない生活の感謝を忘れがちになりましたが、5月10日の入会日や断酒記念日、わたしも感謝を形にしようかなと思います。
 
今後共よろしくお願い致します。
 




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<パンジー>
テレビにて酒の事件を報じれば 次は我が家と覚悟でふるえり  



8.断酒会に入会して(近江八幡支部) 





 平成20年12月に断酒会に入会させて頂きました。
 
それまでは断酒会についての知識は、あまりなく主人が入りたくないと言ってましたので、私もそれでよいと思っていました。
 

 しかし毎週近江八幡支部へ通うようになって、皆様の体験談をお聞きすることが重なっていく中、断酒ということを余りに知らなかったことに強い衝撃を受けました。
 
主人は平成13年6月の半ば通院している内科医院の待合室の壁に貼ってあったアルコール講座の資料を見て、自分のお酒の飲み方がおかしいことに気づき、先生に相談して、滋賀県立精神保健総合センターへ通院するようになりました。
 
その日から3年3ケ月断酒が続きました。
 
毎週通院をし、時には私も一緒に先生のお話を伺ったり、アルコール講座も受けて勉強していましたが、平成16年の秋の取り入れの時、暑さが続くなか頂き物の、缶ビール1本が冷蔵庫の底に入っているのを目にして、「1本ぐらい」の思いで口にしたのでしょうが、再飲酒が始まりました。
 

 それからは堰を切ったように酒量が増えていったように思います。
 
体がしんどくなると内科へ通って点滴を続け乍ら農作業をしておりました。
 

 平成20年11月、体がだるいからと内科へ入院したのをきっかけに「酒をやめるワ」と言うようになりましたが、守山こころのクリニックの明神先生に、断酒を続ける為にも断酒会へ行きなさいと指導され、紹介状を書いて頂き、近江八幡支部へ入会させて頂くことになりました。
 

 毎週断酒会に通い、皆様のお話を聞かせて頂き又自らの体験を語ることで、今まで何をしていたんだろうという思いでいっぱいです。
 
7月の本部例会で6ケ月の表彰を頂きました。
 
まだまだ油断はできませんが、二人で皆様のお力を支えに、一日断酒を続けていきたいと思います。
 
これからもよろしくお願いいたします。
 
有難うございました。
 




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<ヒアシンス>
勤め終え重き心を 引きずりて 家路に着けば酒の夜始まる  



9.主人の過去を振り返って(近江八幡支部)





 桜の蕾がつき、これから美しく咲こうとしています、今日この頃です。
 
私と主人が断酒会にお世話になりましたのは平成11年4月です。
 
月日の経つのは早いもので、もう11年になります。
 
入会させて戴くまでは、毎日が大変なものでした。
 

 お酒を飲んでいるというより何かにとりつかれたみたいに、あびるほど飲み、暴力、暴言、説教、飲酒運転。
 
交通事故は何回かあり、車は5台程買い替えました。
 
それでも毎夜の様に飲みに歩いていました。
 
私は、この様に飲んでいる主人といつまで生活していかなければならないのだろうか、と毎日が不安でなりませんでした。
 
誰に相談する事もできず悩んでいました。
 
事業をしていましたので、お酒を飲んでは、高い機械を買い、飲んで電話をかけたりするので信用もなくなり、段々借金も多くなっていきました。
 
気の小さい主人は、飲まないとしゃべったりできなくなっていて、益々お酒の量が増えていきました。
 
主人も、もうどうしたらいいのかわからなくなり、とうとう自殺を考える様になり、最初は車で排気ガスで死のうとしましたが死に切れず、お酒を大量に飲んでいた主人を助ける事が出きました。
 
その時は、5日間家族は仕事の方やあちらこちらと一生懸命さがし回り、見つける事が出きました。
 
今からその時の事を思い出しますと、無事でいてくれた事、本当に全員が喜んだことを思い出します。
 
その時に主人がお医者さんに、もう酒は飲みたくないので、お酒が飲めない様になる所を捜してほしいと頼んだのです。
 
先生は育樹会病院へ入院させて下さいました。
 
病院に入ってから、今までの自分のしていた事に気付き、また借金がたくさんある事で悩み、また自殺を考える様になり、2回目の自殺を試みます。
 
それでも死に切れず自分自身を責め、苦しんでいました。
 

 私は、これからは2人で助け合い頑張って生きていこうと、一生懸命主人に話しかけました。
 
病院から断酒会という会がありますが、行きませんかと言って下さり、現在の主人と私がいます。
 
断酒会に入会させて戴き、たくさんの方と出会わせて戴き、一滴のお酒も口にせず毎日仕事に頑張っていてくれます。
 
夫婦して断酒会に出会わせて戴けた事で、幸せな毎日を過ごさせて戴いてる事に感謝しております。
 
これからも皆さまにお力を戴き頑張っていきます。
 
ありがとうございました。
 




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<ビオラ>
こんなにも痩せて細き ウエストに 九号のスカートゆるゆる回る    



10.断酒20年を迎えて(草津支部) 





早いものです。
 

 主人が断酒してから今年20年を迎えます。
 
主人は結婚当初からお酒の好きな人で多々問題行動がありました。
 
子どもが高1、中1の時に京都から滋賀へ引っ越して来ました。
 
もう一度やり直すと言う言葉を信じてついて来たのですが、その一年後、私達はどん底を味わうことになります。
 

 度重なる交通事故、手の震え、幻覚症状などひどい状態でした。
 
アルコール専門病院があるとは知らず、内科の病院を転々と受診していました。
 
厄年の頃の主人は、「酒で死ねたら本望、太く短かく50年生きたらいい」と言い乍ら飲んでいました。
 
今時々いじめてやるんです。「とうに50を過ぎたけど」って。
 
又酒と家族のどちらを選ぶのかと聞いた時のことです。
 
主人の答えは、迷うことなく 「酒」でした。
 
呆れて物が言えませんでしたが、野暮な質問をしたものです。
 
私は、何にも解っていなかったのですね。
 

 平成元年の12月岩倉病院に入院し、平成2年に断酒会に入会させて頂きました。
 
3ケ月入院したら治ると思っていましたが、まだまだお酒への未練があった様です。
 
何度かの再飲酒で路頭に迷っていた頃、断酒会の大先輩3名の方が家に来て下さり、夜が更ける迄説得して下さいました。
 
その後毎日例会が始まり、現在迄断酒が続いています。
 

 私も断酒会に行くと、ほっと心が和みます。
 
体験談を聞いていると、あの立派な方が過去に、そんな辛いことがあったとは思えませんが、お酒が過ぎると誰もがなり得る病気ということも解りました。
 

 主人も無茶飲みで痛めた身体を労って長生きをして欲しいと思います。
 
大声で笑い乍ら孫と遊ぶ姿を見ていると、お酒を止めてくれて本当に良かったと思います。
 
これからも断酒会の輪の中から、こぼれることのない様二人で歩み続けたいと思います。
 




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<ヒマラヤユキノシタ>
「もう止めた」流しに捨てし ビンの酒 いつものパターンに心躍らず  



11.妻の断酒4年が過ぎて(高島支部) 





 妻が滋賀県立精神医療センターでアルコール依存症と診断され、治療が終わり退院したのは4年前の2月のことでした。
 
それから遡ること2年弱の間、地元の内科医院に4回入退院を繰り返していました。
 
診断は肝臓に水がたまって肝硬変になりかけており、アルコールによる肝機能障害が見られるとのことでしたが、妻も私も内科的な治療で体がよくなったらもとの生活に戻れる程度にしか考えていませんでした。
 
しかし、4回の入院を繰り返す中、アルコールの量が次第に増えているようになり、入院する周期もだんだん速くなっているように思われました。
 

 このままでは治らない。
 
ほっておくと死の危険性もあるのではと感じられましたが一向に良化することなく、飲酒を控えるように説得しても「なんで飲んでいるのかわからない」との返事が返ってくるようになりました。
 
内科の治療を受けていても治らないのではと考え始めたころ、娘の通っていた大学の先生からアルコール専門の病院があることを聞き、嫌がる妻を説得し精神医療センターへ入院しました。
 

 約3ケ月の入院で、最初は薬のない治療プログラム中心で治るのかと心配していたものの、次第に妻の飲酒に対する考え方が変わっていき、最初嫌がっていた断酒会にもつながり、自分がお酒を飲んではいけないという自覚ができたように思います。
 

 ようやく4年が経ち、いくらか気持ちの中では落ち着いてきたものの、また元に戻るのではないかという不安も残っています。
 
断酒は家族がなんぼやめろと言っても本人の意思がないとやめることはできません。
 
それを支えていただいている医療関係の皆様、そして何より同じ気持ちを持って断酒に取り組まれている断酒会の皆様の活躍が一番の刺激になり継続できているのではと考えます。
 
これからも妻の断酒が継続できるよう家族も支えていきたいと考えますので、今後ともよろしくお願いします。
 




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<ヒマラヤユキノシタ>
なぐられる母を庇いて 前に立ち 父に向かいぬ娘は小五  



12.新生(八日市支部) 





 主人は田舎の長男で、大事に育てられました。
 
大学は県外で一人暮らし、その時にお酒を覚えました。
 
飲み方が変わってきたのは5年前からで、休みはお酒お酒でした。
 

 それが2年はど前からはお酒で会社を一週間行けなくなる生活を再々繰り返し、その度に主人を責め、泣きわめき失望してお互いに疲れ果ててしまいました。
 
やっとの思い、すがる思いで県精神医療センターに行きました。
 
そこで断酒会を勧められ夫婦で初めて参加しました。
 

 初対面の私達を暖かく迎え入れてくださり、又皆さんの話はまさしく自分達の事であり自分と同じ思いの人達の話に涙がとまりませんでした。
 

 それから約半年、例会通いが続いています。
 
「あせったらあかん、長い目で気長に頑張ろう」
 
「お酒だけ止めてくれたら多少のことはいいやん」
 
「ここにいる皆、あなたと同じ思いをしてきたよ。あきらめたらあかん、あきらめたら終りやです断酒会辞めたら終りやで!一緒に頑張ろう」の言葉にどんなに励まされたか。
 

 お酒で裏切られ、ウソをつかれ、責められ私は主人に失望し、恨み、責め、泣く。
 
何十回も何百回も涙を流しました。
 
でも又主人が「これでお酒は最後、明日からお酒は飲まない」と聞けば、喜び、信じ優しくなれ……でも又裏切られ。
 
子どもにとってはまだまだ父親母親でいなければいけない私達は、主人は主人、私は私という考え方がなかなかできず、1日飲んでる主人、働かない主人、飲んだら暴言暴力の主人と責めていました。
 

 私も共依存、主人が飲んでいる時は私も不機嫌になり、怒り苦しみ情けない気持ちのやり場を子どもに向けて母親という仕事を放棄し自暴自棄な生活をしていました。
 
お酒を止めてくれている今、もう一度家族を取り戻し、色々あったけれど、明るく元気で頑張っている姿を子ども達にみせたいと思います。
 




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<ヒメキンギョソウ>
夏の日に長袖通しぬ 両腕に 昨夜殴らるアザの残れり  



13.アルコール依存症の辞書(瀬田支部) 





 肝硬変寸前で二度の入退院、自転車通勤途中の転倒による大怪我、東京出張先でのベッドよりの転落、お酒によるアクシデントが重なって、私達家族は、辛い日々を送っていた平成10年。
 

 思い起こせば、家庭内は心身共に地獄のような日々でした。
 
ただでさえ、私自身は乳癌の術後の養生中に転移して苦しんでいた時期でした。
 
そして、長男も網膜剥離を患い、入院、手術の世話に振り回されていました。
 
そのような中、とうとうどうにもならなく苦しむ主人を滋賀医大へ連れて行き、精神医療センターへと繋がり、10年10月19日に入院となり、3カ月の入院後断酒会に入会させていただくことができ、落ちつくことが出来ました。
 

 それから13年経ちました。
 
この間、お蔭さまで、一滴もお酒類は口にせず、今日に至っております。
 
このことは本心より誉めてあげたいと思いますが、その前に断酒会に入会させていただき、多くの仲間の皆様が仲良く接していただいたからこそ、断酒に励ませていただいたと感謝しております。
 

 我々のような経験をしていない人達は「もう大丈夫だ、もう治った」等と言って下さいますが“もうよい”という言葉はアルコール依存症の辞書にはありません。
 
例会でもいつも唱和する断酒の言葉にあるように、片時も“断酒”を忘れず「真剣」に努力することを痛感しています。
 
このことは、生ある限り、何が起こるか分からないということに通じるからです。
 

 幸せが続きますように家族としても、あたたかく見守らなければと思います。
 
医療関係の方々、断酒会の方々、これからもよろしくお願い申し上げます。
 




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<ヒメキンセンカ>
夢にまで飲みて我を 悲します 目覚めば頬に涙つめたし  



14.家族の思い  (甲南支部) 





 うちの主人は、平成7年12月に断酒会に入会させて頂き、早17年が過ぎてしまいました。
 
主人との出会いは42年前、主人は気の小さな優しい気持ちの人でしたので、アルコールで問題を起こすとは思いませんでした。
 
主人の父親も大酒飲みで何かあるごとに主人と酒の上での大喧嘩、何という親子だろうと思いました。
 
食事になると喧嘩が始まって私は夕食の時間が一番嫌いでした。
 
結婚した当時、酒癖の悪い家とは知らず大家族に嫁いだ私は大変でした。
 
主人のことは後回しで、家族のことをしなければなりませんでした。
 
又、子どもが出来れば子ども優先、今思えば、たぶん主人は寂しかったのかも知れません。
 

 国鉄職員だったのですが、国鉄からJRになり仕事で悩み又、親との葛藤等色々あったのか酒の量も多くなり夜の晩酌だけだったのが、その当時交代勤務だったので、朝帰りに一杯、お昼に一杯、眠れないから一杯とどんどんエスカレートして行き、何か言っては酒を飲む機会を作っていたようです。
 
結婚して24年、私にはあまりいい思い出がありません。
 
親の反対を押し切って結婚したので逃げては帰れず、私が我慢すれば何とかなる。
 

 我慢、我慢の日々でした。
 
いっぽう、酒飲みの父親を見て「あんな父親にはなりたくない」と口癖のように言って親を見下していた主人がいつの間にか親の姿と同じ様になって行き、自分が父親になったとき「子どもたちの前だけでも尊敬される様な人になって」と私が言うと「子どもの尊敬される様な父親にはなりたくない、子どもがどの様に思っていてもいい、ほっとけ‥」その言葉に私は愕然としました。
 
結婚したことも子どもを持ったこともますます後悔の毎日でした。
 
私にとって人生一番不幸な時でした。
 

 断酒する数年前内科にかかった時、「酒を止める病院ってあります?」と尋ねると、草津に精神保健センターがあるから、そこに行ってみればと言われました。
 
主人に言うと「何でわしが酒を止めなければならないのか、体は何ともないアホか」と言う言葉が返って来ただけでした。
 
その後数年たって主人の行動が益々おかしくなり、見ていなければ何をしでかすか判らないと言う時期に来ていました。
 
数年前に聞いた病院を思い出し、いやがる主人を連れて病院の門を叩きました。
 

 病名はアルコール依存症。
 
アルコール痴呆症になりつつあるその当時、主人は47歳。
 
52歳でおそらく命は無いと言われ、本人も家族もびっくりしました。
 
酒飲みに病名があるんだ。
 
病気だったら入院して治さなければと思い、主人も酒を自分でコントロール出来なくなったのか入院すると言ってくれ、永かった24年間、主人と共に酒の苦しみを味わい暮らしてきた私、もうこれからは解放されるのだと喜びましたが、その後先生に入院しても止められる人は2・3割と聞き本当にガッカリしました。
 
でも入院するといった主人に賭け、子どもたちが成人したら家を出ようと思っていたのを思い留まり、主人は酒を止めると言う言葉は聞きませんでしたが協力しようと思いました。
 
私も共依存で病気になっていたみたいです。
 

 あれから17年間断酒生活が続く中、子どもたち3人をみな片付け、孫も授かり親2人も送ることが出来ました。
 
52歳であの世行きの主人も、今64歳益々元気で毎日を送っています。
 

 今後も断酒会の皆様とともに歩ませて頂きたいと思いますので、どうかよろしくお願い致します。
 




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<ヒメジョオン>
憂きし日は心あざむき 尚さらに 濃い目に紅を引きて出勤す  



15.例会で回復してます      (草津支部) 





 アルコールと無縁の家庭で育った私は、幼い頃、楽しそうにお酒を飲んでいる親類のおじさんを見て、微笑ましいなあと思ってました。
 

 成人して主人と出会い、男らしい所に魅かれ、この人と明るく楽しい家庭を築きたいと思い結婚しました。
 
10年位は理想に近い生活が続きました。
 
つりに、野球にマージャンにと多趣味でした。
 
お酒もよく飲みました。
 
勿論仕事もバリバリしてました。
 
少しの間共働きして、草津に小さな一戸建を買いました。
 
3人の息子も出来て静かな日々を送ってました。
 

 前厄でくも膜下出血で大手術をして、左の目が不自由になり、主人には焦りが出たのか酒の飲み方が変わりました。
 
無趣味になりただ酒に走りました。
 
家の中も一転して暗くなりました。
 
1年半後に胃潰瘍で又、大手術をしました。
 
その時はお医者さんから、近い身内を集めるようにとまで言われました。
 
麻酔から覚めた主人は、「これで酒もタバコもあかんなあ」と、言いました。
 
もしかしたら我が家が酒地獄から抜け出れるのではと、期待しました。
 
それも束の間、退院の翌日から又飲み始め、前よりひどくなり、朝酒も始まりました。
 
金曜の夜から深酒して週初めに出勤出来ない日が有りその間隔が、段々短くなり、10年近く共依存の苦しみを嫌と言う程味わいました。
 

 長男が大学、二男が高校に入った年にどうにも出来なくなり琵琶湖病院に入院して、断酒会へつながる事が出来ました。
 
「回復は有るけど、生涯完治しない病」と知りびっくりしました。
 
2人3脚で例会に通い13年半の月日が流れました。
 
その間にはドライドリンカーの時期が何度も有り、辛かったです。
 
そんな時は飲まれてる頃を想い出し「いつか、いつか」と自分に言い聞かせて例会に通いました。
 

 今では小刻みに震える手、血走った目、血管の浮き出た額、酒焼けした首筋等すっかり主人の体から消えました。
 
例会で飲酒時の止めたくても止められない辛さ、断酒継続の難しさを家族の立場で学ばしてもらってます。
 
最近は仲良く、普通の生活が送れています。
 
これからも例会出席で、健康に留意し回復の日々を送っていきたいと思っています。
 




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<ヒメツルソバ>
暴れ狂う昨夜の悲しみ 抱きつも 仕事に入れば顔には出さず  



16.また飲んだ (守山支部) 




  
 4月のある日、家によっばらいがいました。
 
俺は酒をやめたいんやと騒いでいました。
 
私は、飲んでるのにと冷ややかな目で見ていました。
 

 誰かにお酒を止めたかったら電話したらと言ったら、しんどそうな顔で仲間に電話してた。
 
うちの人は飲んだら電話する。
 
飲む前には絶対電話しない。
 
私は心の中で飲む前に電話したらいいのに、飲んで電話かけたかて一緒やんと腹を立てていました。
 
後少しで一年やのにこの人は何を考えて飲んだんやろ。
 
仲間の顔が浮かばんのか。
 
家族の気持ち考えたことあるんか。
アホかと思いながら、むなしい気持ちでいっぱい。
 
腹だたしい。
 
悔しい。
 
悲しい。
 
さまざまな思いが心の中からあふれてきました。
 

 お金がないから専門病院を断られ、やっと一般病院で解毒だけして右も左も私はわからんうちに断酒会につながって、二人で回って悔やみながら10ケ月。
 
やつと社会復帰して、これからやと思った時の再飲酒は応えた。
 
私の心の中はズタズタ、うらむ気持ちでいっぱい。
 
それでもお酒は止まらない。
 
毎日仕事から帰るとよっばらってる。
 

 突然へラへラ笑ったり、泣いたり、常軌を逸した状態が続いていきました。
 
一週間飲み狂い、私は腹立ちを抑えきれないのでこの気持ちを吐き出すために毎日例会に通い、心の中を吐き出し続けた。
 
それしか逃げ場がなかった。
 
私までおかしくなりそうだったから、なんとかつぶれて、クリニックから新生全病院につながりました。
 
その間私は自分の心の回復のために回ってました。
 

 今回入院してあらためてこの病気の恐ろしさ、底の深さを思い知らされました。
 
なんで飲んだんやろうとは思いますが、結局飲みたかったんだろうなと思ってます。
 

 これからもこの病気と向き合っていかなあかんのやな。
 
本人がやめる気にならなければどうしようもないし、家族もお酒の前では無力ということを今回は思い知らされ、もう一度二人で、回っていきたいと思います。
 




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<ヒメツルソバ>
「這ってでも出勤せよ」と 呼びに来し 上司にそむく御用始めの朝    



17.断酒会に入会して   (草津支部)





 今振り返って、「主人のお酒はどうだったのかなァ」と思いだすと結婚した当時は、家族と共に食事をする楽しい団欒の中でのお酒でした。
 
ところが、父が事故で入院し動けない体になった為、今まで父に任せていた事が全部、主人や私に回って来ました。
 
私は家事、子育てに追われ、主人のお酒について気になりませんでした。
 
しかし、お酒の量が少しづつ増えていき、又一人気ままに飲んでいる姿が気になりました。
 
それでも仕事に頑張っているし、ゆっくり家で飲んでいるお酒で、他の人に迷惑かけてないし、“大丈夫だろう”とあまり気にせずにいました。
 

 それから何年かすると、お酒に対する様子が変わり、毎日飲み、量もすごく多くなりました。
 
この頃から、会社をよく休む様になりました。そして62歳6カ月で退職しました。
 

 益々お酒にのめり込み、手の振るえや幻聴、幻覚が少しづつ表われ、自分でどうする事も出来なくなりました。
 
私は焦りました。「どうしよう、どうしたらいいのか」悩み、内科受診していた病院に相談しました。
 
そして県立精神医療セン ターを紹介して頂き、すぐに医療センターに行きました。
 
結果はすぐ「あなたはアルコール依存症です」と言われました。
 
なかなか本人が入院すると言わなかったのですが、平成24年8月14日から2カ月入院することになりました。
 

 入院中に家族研修を受け、その中で断酒会のことを知り、草津支部にお世話になることになりました。
 
断酒会はどこの支部に伺っても温かく迎えて頂き本当にありがたく思いました。
 
今後も互いに健康に気を付け家族と共にゆったりとした日々を過ごし、断酒会の皆様と共に”あきらめず あせらず”あなどらない気持ちを忘れず持ちつづけ、生きて来て良かったと思える人生を歩んで行きたいと思います。
 




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<ビヨウヤナギ>
気に病みし事済まずして 五月雨 降りて憂うつな午後  



18.断酒会に感謝    (栗東支部) 





 私は、主人とは見合い結婚です。
 
結婚する時主人のお母さんから「何かあったら、お母さんに言わずに私に言ってや」と言われました。
 
その時は意味が解りませんでした。
 
昭和54年に高槻から工場移転で滋賀に越して来、長男が生まれました。
 
出産の時は休みの日で、夫が病院に連れて行ってくれました。 なかなか生まれなくて、夕方やっと誕生しました。
 
ほっとしたのも束の間、看護婦さんが「ご主人病院にもいないし、家に電話しても出ないです」と言われ、それを聞いた私の頭の中は子供がうまれた嬉しさより「どこで呑んでるのやろ、大丈夫やろうか」と不安で一杯になっていました。
 
主人は病院のベッドで寝ていたそうです。
 
次の日に主人の両親が、田舎から来てくれました。
 
お兄さんのいる尼崎に一泊して、滋賀に来る予定でした。
 
それを聞いた主人は、「行かんといて!」と言う私の言葉を振り切って行ってしまいました。
 
案の定、両親はお兄さん達と車で着いたのに主人は何時間たっても帰って来ません。
 
やっと帰って来た主人に私の母が「正さんどこへ行ってたん」と思わず言いました。
 
3年後に下の子が生まれた時も、病院に来た 主人はかなり酔っていたので、車のキーを取り上げ、母に「家に帰ってから渡して」と頼んでいました。
 
主人が断酒して何年か経ったとき、母があの時は連れて帰ってやりたかったと言っていました。
 

 その後もお酒の飲み方が酷くなっていくばかりで、休み明けには会社を休む、出張に行けばまともに帰ってこない。
 
肝臓も悪くなり、私が飲み方をうるさく言うと家で充分飲めないので、仕事の帰りに沢山買い込んで空き地を探して飲むという事を繰り返す様になりました。
 
初めて家に帰らなかった時、泣きながら主人のお母さんに電話しました。
 
新聞店をしていて大変なのに、次の日には福山から家に来てくれました。
 
それ以後70歳過ぎた主人の両親に心配かけるのも辛いと思いそんな電話はしなくなりました。
 
それでも両親は心配していた様で、漢方の高い薬を買ったり、子供のお祝いを沢山贈ってくれたりもしました。
 
そんなに良くしてもらっても、小さい子供2人抱えて主人に振り回される生活は辛く不安な毎日で「おかあさんが甘やかすから、こんな人間になったんや」と主人に言い、感謝の気持ちを持つことも出来ませんでした。
 
夜中に泥酔状態の飲酒運転で帰ってくる主人の姿を見たとたん、怒りがこみ上げてきて小さい子が目に一杯涙をためてこちらを見ているのも構わず、私は主人に怒りをぶつけていました。
 
会社からは「このままでは、辞めてもらわなくてはいけなくなる」と言われ、辛い毎日でした。
 
私の口から出てくるのは「あんたとは別れたい」という言葉です。
 
別れる事も出来ず、「殺してやりたい」と思っても出来ず、飲酒運転をやめない主人に「ひとを巻き込まず、自分だけ死んで来て」と言う様になっていました。
 
その頃断酒会を知り専門病院に入院しました。
 
入院中は外泊できるようになると、1回目は無事帰ってきましたが、2回3と続けて呑み反省室入りです。
 
反省室から「わしは仕事をしたいから退院をする」と言いだし、私は絶対に退院して欲しくなかったのですが、ケースワーカーの方と3人で話し合い「これだけ言わはるのやし、退院してもらいましょう。何かあったらその時考えましょう」と言われ仕方なく承知しました。
 
退院後は、お酒をやめるのは無理だと思っていましたが、出社するようになると、「断酒会に行くので定時に終わらせて下さい」と毎日断酒会に通うようになりました。
 
それでも私は飲んでいないかと不安な気持ちで待っていました。
 
玄関に入って来た主人に、お帰りと抱きつき、不安な気持ちを悟られないようにお酒の匂いがしていないか確かめていました。
 
他にも入院中の心理テストの時、「一度も仕事変わってないのか、凄いな」と言われたと嬉しそうに話をしていた事を思い出し、些細な事でも、大げさに褒めまくっていました。
 
半年経ったころ「わしは人に褒められんと動けん人間と違う」と言うのでそれ以後は、大袈裟に褒める事はやめました。
 
主人の断酒を喜んでいる両親がよく「お酒を止められたのは律ちゃんのおかげや」と言ってたので「病院も断酒会も私が探してきたし、本当に私のお陰だ」とその頃は思っていました。
 
子供も少し大きくなり私も断酒会に出席するようになると、断酒会に入会し皆さんに声を掛けて頂いたお陰だと気づきました。
 
本当に断酒会に入会させて貰って良かったと思っています。
 
これからもどうぞ宜しくお願いします。
 




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<フクジュソウ>
いつ何時酔って帰りぬ 君の為 錠をはずして「お帰り」と待つ  



19.断酒会に入会して   (彦根支部) 





 私は、実家の父の大量飲酒で悩んでいた頃、この病気を治すことができるのは、断酒会ではなく、精神医療センターで長期入院するしかないと思っていました。
 

 当時、大量にお酒を飲まないように、家族がお酒やお金を隠しても、父は見つけ出しお酒がなくなるまで昼夜を問わず飲み続けていました。
 
保健所の勧めで 精神医療センターを受診するようになり、医師より何度も入院を勧められ、渋々入院を承諾した矢先に、慢性硬膜下血腫や脳梗塞をおこし、結局は精神医療センターに入院することができませんでした。
 

 私は、同じ頃保健所の勧めで断酒会に一人で参加するようになり、自分の考えは甘いと気付くことができました。
 
アルコール依存症は、他の病気と違って本人がその病気を受け入れるのにとても時間がかかります。
 
「止めようと思えばいつでも酒は止められるから、わしはアル中と違う」と父は思っていました。
 

 精神医療センターの入院は、自分の病気に気づき、受け入れ、断酒のきっかけをつくるのにとても有効な手段であり、入院中はお酒とは全くかけ離れた生活ができます。
 
しかし、退院後スリップしてしまうこともあると聞き、断酒を継続させようという意志を持ち続ける…つまりこの病気を完全に治すためには入院だけでは難しいと思いました。
 
断酒会に参加し、お酒にまつわるみなさんの体験談を聞き、また自分の辛い体験も話し、仲間と共に断酒を誓いこの病気と向き合っていくことが、治すことにつながるのだと思いました。
 

 父は、残念ながらアルコールが原因で脳梗塞を2度もおこし、現在は入院中です、退院のめどはたっていませんが、退院しても介護なしでは生活することが出来なくなってしまいました。
 
介護という新たな問題に不安で一杯ですが、断酒会のみなさんに支えてもらったことを思い出し、自分に出来ることを精一杯やって生きたいと思います。
 




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<フジ>
今頃はどこで何をしてるやら 編み物止めて時計見上げる  



20.息子の断酒    (長浜支部) 





 息子が依存症と診断され、最初の入院は草津、2度目は今年2月10日まで3ケ月程、新生会病院に入院し断酒の固い決意で退院してきました。
 
以後断酒を続けております。
 
私はとても嬉しいです。
 
主人は平成11年に亡くなりました。
 
主人が息を引き取る前日息子は主人の枕元で「親父心配せんでいいで、安心してまかしといて」と声を掛けてくれ、私はとても心強く思い頼りにしてきました。
 
男の子3人の長男として頑張って良くして呉れました。
 
その後息子に胃がんが見つかり、全摘手術を受け、幸い命を助けて頂きましたが、それからが大変でした。
 
本人は辛くてしんどかったと思います。
 
私も生きた心地がしませんでした。
 
お陰さまで元気に働けるようにして頂きましたが、気の休まる時は無く次々と心配な事が出てきました。
 
パチンコ、アルコール依存、うつ、給料以上に使ってました。
 
怒ったり暴れたりする飲み方ではないのですが、部屋で酔いつぶれて寝ていました。
 

 酔ってる息子に小言を言ったり八つ当たりしたり、私の手が痛いほど息子のお尻を叩いたりした事もありました。
 
黙ってうなだれている姿をみてかわいそうな事をしたと悔やみ泣きもしました。
 
この先この家はどうなるんやろ、この子はどうなるんやろ、と心配が募り恐ろしい事を考えた事も度々ありました。
 
一番心配したのが飲酒運転です。そんな時、アディクションセミナーに参加させてもらい、そこで依存症とはどういうものかを知りました。
 

 家族の対応も教えて下さいました。
 
易しいことではありませんでした。
 
セミナー終了時にも落ち込んでいました。
 
帰り際断酒会の方を紹介して頂きました。
 
藁をもすがる思いでした。
 
以後遠方の所を、何回か家まで来て頂いたり、相談に乗って頂きました。
 
そんな中、私は一昨年秋、朝転倒し骨折しました。
 
2階で息子は寝ていましたが、携帯で救急車を頼みました。
 
私は入院を拒んでましたが、私の姉に仕事を休んで貰い、病院まで迎えに来て入院の準備をして貫いました。
 
夕方家に着き姉の「よっちゃんお母さんがえらい事や」の声で息子が初めて知るような情けない状態でした。
 
それから3ケ月入院しました。
 
その後息子も仕事が決まり、毎日病院に寄り洗濯もしてくれました。「この子が居てくれてよかった」と思いました。
 
初めて息子におんぶもして貰い、忘れられない良い思い出です。
 
けれど仕事も飲みながらですので続くわけがありません。
 
段々表情が変わってきました。気がかりですので一週間はど早く退院しました。
 
退院して少しは優しく思いやってくれると思いきや、痛くて十分歩けない私に、今迄通りああして、こうしてと頼ります。
 
もう専門病院に入院するしか、息子も私も救われないと思い助けを求めました。
 
入院が決まった時の息子の言葉が耳から離れませんでした。
 
「一生恨むからな」これで良かったんやろかと悩みました。
 
一生恨まれても元気な息子に戻ってくれたらその方が良いと思いました。
 
初めて家族教室に出席し不安でドキドキしながら面会に向かう時ガラス越しに息子の姿を見つけたら自分でもなぜか分かりませんが、廊下で号泣してしまいました。
 
看護士さんが優しく肩に手を掛けてくださいました。
 
涙を拭いて落ち着いてから外でタバコをすっている所に行き、声を掛けました。
 
びっくりしてました。
 
話したい事、聞きたい事一杯有りましたが、泣けてきそうで言葉に出来ませんでした。
 
心の中で「頑張ってな、元気になろうな」とつぶやいていました。
 
それが精一杯でした。
 
断酒会に通い始めた当初は家族だけが断酒会に通っていて何になるんやろと思っていました。
 
今でも皆さんのように断酒され幸せな日が来るやろかと落ち込む目もあります。
 
けれど気持ちが楽になる目も有ります。
 
家族の方々には、キット辞めてくれはるから家族だけでも例会に出席するよう励まして貰っています。
 
退院後は、息子と二人で出席しております。
 
ありがたいです。
 
断酒会の方にいつか聞かせて貰った言葉です。
 
「人の出会いによって人生は変わる」本当やと思います。
 
いい人生に変わる良い機会を頂きました。
 
断酒会の人々に出会えたことを感謝致します。
 
ありがとうございます。



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<フヨウ>
しんしんと更け行く夜に 聞こえ来る 胸高鳴りぬ救急車の音    



21.やめ続けて16年   (瀬田支部) 





 「いくら酒を飲んでも顔色の変わらない」そのような飲酒の仕方をしていた夫に、アルコール依存症の病名がついて、早や16年の歳月が経ちました。
 
定年を3 年後に控えていた時期で、毎日しんどい、などと言いながら、真冬なのに寝汗をかいていたり、自転車で転んで大怪我をしたり、そんな様子を見て、私は「家計の事は何とかするさかい。仕事辞めて!」とよく言ったものです。
 

 思い起こせば天井裏、縁の下、本棚の後ろ、押入れの中など、家中のあらゆる所から「酒」と名のつく空瓶、空箱がでてくると「こんなにも内緒で飲んで!!」と怒りが渦巻いていました。
 
飲むなと言えば「飲まんとあかん理由がある」と言う始末。
 
酒瓶を片手に、持ち帰った残業をしていたあの異様な光景、私には考えられませんでしたが、もう必死でした。
 

 朝、普通に出勤して行った夫から、夕方に「肝臓が悪いので今晩から入院や」と電話が入り、これが一度ならず二度までも、そのたびに乳癌手術後の精神不安定な私なのに、自分の事どころか夫の入院を看とりに行く日々が続いていました。
 
退院に際して栄養指導を受けて帰ってきても何の効果もありませんでした。
 
2度の入院後も又飲酒の日々が続きました。
 

 怒りっぽい夫、家の中はいつも暗い雰囲気に包まれていました。
 
息子たちは無言でしたが雰囲気は感じていたと思います。
 
どうにもならなくなった夫は「病院へ連れて行ってほしい」と言い。
 
県立精神保健総合センターへ入院する事になりました。
 
3ケ月入院の後、断酒会守山支部の例会を皮切りに、夕方から夫婦二人三脚で例会周りが始まりました。
 
話す事は2人とも苦手ですが、行かなければお酒をやめ続けることができないと、センターの家族ミーティングで教わりましたので、使命だと思い通いました。
 
主婦が夕方から家を出ることは大変でした。
 

 断酒会の色々な行事に参加させていただきましたが、私たち夫婦は車の運転が出来ませんでしたので、多くの方々が行事が終わるとマイカーで帰宅されるのを目の当たりにして、悔しい思いをしました。
 
色々悩みましたが、車の運転をしようなど思いもよらなかった私が、55歳にして、この断酒する夫のために、己のためにも免許を取り怖い思いをしながらここまで来ました。
 

 おかげさまでこの16年間、例会はじめ県の大会、他府県の大会、あらゆる断酒にかかわる会、勉強会に足を運んできて一滴も口にすることなくやってこられました。
 
このことに拍手を送ります。
 

 お酒の事以外にも人生はいろんな困難や不幸に遭遇します。
 
思い出すたび涙を流す事もありますが、この調子で残された少ない人生を生かされてゆけばそれでいいと思います。
 

 私は私の体を大切にするよう頑張ります。



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<ホウセンカ>
また一つ近所の灯り 消されゆく 帰らぬ君に今夜も寝れず    



22.24年・・・今の思い   (草津支部) 





 平成3年、私達一家が主人の病魔により、どん底だった頃の初夏に専門病院を知り、断酒会に入会できて早や24年が過ぎました。
 

 飲酒運転での数回の物損(幸いにも人身はなし)事故、暴言、家族はもとより他人への迷惑は数えきれません。
 

 主人の顔色を見ながらの例会通いで、私はなかなか酒害体験を語れず辛かったです。
 

 そんな中、家族例会は本音を語れる救いの場所でした。
 
当時酒の止まっている主人に感動し、私はハイテンションでした。
 
息子たちに「いずれ飲むやろうから、その時のショックも考えときや!」と、よく言われました。
 

 例会に通う中、10年後くらいから家族の心も少し和らいでいきました。
 
私は幸せでした。
 

 主人が70歳を過ぎた頃から、体調を壊したのか、以前の活気が無くなりしんどそうです。
 
夜眠れないらしくて、昼間はずっとうとうと……その姿はまるで飲酒時代と同様です。
 
私の心中はフラッシュバック、辛かった日々が戻ってしまいます。
 
主人への視線も変り優しさもなくなりそうです。
 

 今、「幸せですか?」と聞かれたら「不幸ではありません」としか答えられません。
 

 断酒会に出会えてよかった事は、主人の断酒は勿論ですが、ここ5年くらい色々な所へ出かけられる事です。
 
出不精で旅の計画をする人でもないので、家族旅行の想い出は殆んど有りません。
 
3人の息子たちも成人して、父を反面教師としてお酒は飲みません。
 
又、 家庭を大切に暮らしているのは母親孝行だと喜んでいます。
 

 これからも”幸福≠ニいう終着駅に向かって2人で例会に通い続けたいと思っています。
 




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<ホオズキ>
いくたびも時計見上げて案じ待つ 雪降る夜更けはいと心細き    



23.断酒会を大切に   (彦根支部)





 断酒会に入会して16年、すぐに止めることが出来ず、飲みながら先輩に、毎日例会に連れて回ってもらって、止めることが出来、「私は断酒会のお陰で幸せです」と言っていましたが、その毎日例会を行かなくなり、再飲酒。
 
「主人が飲みました」とは言えず、「心配です」としか言えなかった。
 
本当に情けない、惨め、それでも断酒会、家族研修会と参加し、再入院し止めることが出来ました。
 

 そして再々飲酒、「なんでやめられないの断酒会に行ってるのに、今度は、命が危ない、お婆さんと後先さかさまになる」、6年前の彦根支部30周年記念例会の日、本当に情けない、お酒の匂いがする中、隠すことも出来ず、私は家族の方に「飲んでいるのよ」といったら「何も言わなくても、良くわかっているよ」ある人は「もうほっとき」と言われました。
 
県外の家族研修会に行った時、「又飲んだのよ」と言ったら、その人も「ほっとき、断酒会知って飲んでいるから、それよりも断酒会通い、家族会通いを続けたら良い」と、でも家族はほっとく事も出来ない。
 

 1週間後、私は電車を待っていた時、ふと、「今死んだら楽になる」と思った。
 
でも飛び込むことは出来なかった。
 
迷惑になると思い・・・その日が家族会だったのでその気持ちを言って助けてもらった。
 
例会で話させて貰ったお陰だと思います。
 

 再飲酒したときも、再々飲酒した時も、飲みながらだったけれど、断酒会だけは離れず通い続け、今断酒できているのも仲間のお陰、断酒会のお陰だと思います。
 

 今は止めている幸せを喜んで、次の幸せに向かって断酒会を大切に通い続けたいと思います。
 
今後とも宜しくお願い致します。



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<ボケ>
ふっくらと肥えて笑顔の親友に 我にはつかめぬ幸せ羨む  



24.夫の断酒   (守山支部)





 今から思うと主人は結婚した時からアルコール依存症でした。
 
最初は家で飲む静かな酒でしたが、次第に酒の量が増え自分の都合が悪くなるといつも人のせいにし、物に当たり、腹が立つと殴りかかってくる状態でした。
 

 子供は中学の時不登校でした。
 
娘が進路の事で相談した時も飲んだ勢いで怒鳴りつけ、それから娘との仲は最悪状態です。
 
飲酒により家族はギクシヤクし我が家には一家団欒と言うものはほとんどありません。
 

 朝から飲酒するようになり「酒を飲んで死ねたら本望や」と言っている時は『このまま死んだらええのに』と思う日々でした。
 

 2009年には腹水がたまり、足が腫れ、初めて病院に受診し“アルコール性肝障害”“アルコール依存症”と診断されました。
 
しばらくは断酒していましたが症状が治まれば、また飲酒。
 
憂鬱な日々の始まりです。私は不安一杯で“うつ”になり、気持ちを落ち着ける為に安定剤を飲む日々でした。
 
次第に暴言暴力は酷くなり、一時期家を出た事もあります。
 
離婚の話もしました。
 
その後2年間は断酒しましたが、2012年御神酒がきっかけで再飲酒。
 
今度は隠れ酒。
 
飲酒は拍車をかけるように酷くなり、味醂、料理酒も飲む様になって、朝から飲酒し勢いをつけて出勤すると言う状態でした。
 
私は飲酒運転の事がすごく気になり、精神的にも疲れ果てていました。
 
どこか相談場所はないかとやっとの思いで家族会にたどり着き、アルコール依存症がどういうものかを知りました。
 

 2014年末、主人は“アルコール性うつ’になり心療内科を受診し断酒会を勧められ入会しました。
 
何度か飲酒をし、例会に行かなくなった時は仲間の方から声をかけて頂き断酒会に戻る事ができました。
 
また「他の支部も回ってみては」と助言を頂き他支部にも回り始め、私はすっかり安心していました。
 
所がまた飲酒!診察帰りに飲んだと。
 
これはショックで、崖っぷちでいい景色を見ている所を後ろから突き飛ばされた心境でした。
 
私の心はズタズタ。
 
巻き込まれているのは分かるんですが、中々抜け出せません。
 
あせりと不安、うつ状態まっしぐらでした。
 
フラッシュバックもあり、どうしようもない気持ちになって仲村さんにSOSし、家族会に行き救われました。
 

 例会で家族の方がご主人を褒めながら発表されているのには心打たれました。
 
今回の自分を振り返ると「結果を急ぎすぎたんだなあ−」と反省です。
 
腹を立てず気を長くと助言して頂いたことを忘れず、これからも例会回りを続けて行きます。
 
主人がアルコール依存症になったお陰で沢山の仲間が出来、助けて頂いた事は大変嬉しかったです。
 
感謝、感謝です。
 
これからもどうぞよろしくお願い致します。
 




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<ボタン>
クラブ終え疲れて帰る 息子(こ)の耳に くだ巻く父の荒声かなし    



25.仲間と家族会の皆さんに支えられながら  (長浜支部)





 内科、日赤の精神科、黄檗病院への入退院の後、断酒会に入会させて頂きました。
 

 しかし、どうしても断酒継続が出来ない夫を、夫の両親と責め続けました。
 
何の返事もしないで虚ろな目で俯いている夫に私たちは苛立ちと、大きな不安を覚えました。
 
断酒も出来ず、例会も参加しない夫、日々の生活費も苦しく、先の見えな い生活、続く言い争い、大きな声で怒鳴り、泣き叫ぶ声、幼かった息子はきっと幼い心に大きな不安と悲しみがあったろうに、本当は母親の私が息子をしっかりと抱きしめて「大丈夫だよ」って言ってあげなくてはいけなかったのに、その時の私は夫の酒を止めさせる事で頭がいっぱいで、母親らしいことはできませんでした。
 
今とても悔いております。
 

 それからも先輩のお世話で何度か専門病院の入退院を繰り返しても断酒が続かず、私の精神状態もボロボロになって行きました。
 
そんな私を支えて下さったのは断酒会の先輩や仲間の皆さん、そして家族の皆さんでした。
 
家族会では辛い思いを聞いて頂きました。
 
いろんな体験も聞かせて頂きました。
 
家族が酒害者の酒を止めさせる事は出来ない、だけど断酒しようとする酒害者の手助けは出来る。
 
もっとアルコール依存症のことを理解しなければ、そのためにもまず家族の為の研修会に参加してはどうか等いろいろ教えて頂き、学ぶ機会を頂きました。
 
やがて夫も断酒を始めてくれましたが、しばらくするとイライラが始まり、ずいぶん私や息子に辛くあたってきました。
 
そんな時も先輩、仲間のみなさん、家族会の皆さんにずいぶんお世話になりました。
 
家族として夫にどう接したらいいのか教えて頂きました、今夫は穏やかに断酒を続けてくれています、ありがたいことです。
 
そんな中、訳あって私達は今息子と孫二人と一緒に暮らし始めました。
 
いろいろあった彼らをどう受け止めてやればいいのか、夫と共に随分悩みました。
 
家族会で話し、アデクション講座に参加し、カウンセリングを受けたりしながら1年、最近家族の中で少しずつ笑顔で語り合う事が出来る様になってきました。
 

 今思います、私達は仲間の皆さん、家族会の皆さんに本当に助けられました。家族会は私にとって大切な場所だと実感しました。これからもいろんなことが起きてくるかもしれません。でも私達は断酒会を大切にし、仲間の皆さんに、家族会の皆さんに感謝をしながら前を向いて共に一歩ずつゆっくりと歩んで行きたいと思っております。



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<ホテイアオイ>
「楽しくもなくていいから普通の家庭欲しい」と息子呟きにけり    



26.夫の断酒に向けて    (栗東支部)





 主人は定年後アルバイトをしていましたが、全ての仕事を終えてしまい、暇をもてあまし、お酒の量も段々と多くなりました。
 
定年まではお酒は好きでしたが、飲んだら寝てしまうという私にとっては大変楽なお酒でした。
 
決めて飲んでいたお酒がもう一杯もう一杯といって段々と増えていき、私も残っているお酒を隠すという事を度々していました。
 

 その内おふとんに失禁してしまう事も度々あり、トイレまで間に合わず畳の上に子供のように垂れてしまうような事が重なりました。
 
こんな姿をみて、私も情けないやら腹立たしいやら、こんな事は今までの人生で初めてで、どうしたら良いか判りませんでした。
 

 なんぼ本人を叩いたり(私の手の方が痛くなりましたが)大きな声で叱り飛ばしたりしても応えている様子はありませんでした。
 
1昨年、お正月の2日にもお神酒がありましたが、今迄日本酒は置いていても飲まなかったので安心していたところ、知らぬ間に飲んで酔っ払い、2階の階段から、真っ逆さまに滑り落ちてしまうということがありました。
 

 私も近所に聞こえる位の悲鳴を上げてしまいました。
 
頭が少し切れて血が出ていましたが、幸い意識はあったので救急車も呼ばず、一晩傷の様子を見ながら過ごした事がありました。
 
親しい友達にこの事を話したところ、友達のご主人も階段から落ちて救急車で病院へ運んだ事があると聞いて「私だけと違うんや」と気持ちが少し楽になったことを覚えています。
 
又夜に酔っ払ってその辺の家具に頭をぶつけては、朝起きて顔から血が出ている事も度々ありました。
 
「何処で打ったん?」と聞いても主人にもわからず、又トイレのタンクにおでこをぶつけたり、ある時には、トイレットペーパーの金属で耳が直角に3センチはど切れていて病院で縫って貰った事もあります。
 
枕カバーはいつも血だらけでした。
 
プラスチックのゴミ箱は全て潰れていたり衣装ケースも倒れ込んで壊したりしていました。
 
これらの出来事は家の中の事で済んでいましたが、主人は毎日の様に自分の車でお酒をコンビニへ買いに行きます。
 
今年の5月8日、私は出かけていて留守だったのですが、まだお酒が残っている状態の中、車で買いに行き家まではどうにか 帰って来たのですが、駐車場に車を入れる際バックする所、誤って前進し水の入っている田んぼに車ごと突っ込んでしまいました。
 
本人は夢の中の出来事のようにはっきりと覚えていないようですが、私が出先から帰って来ると救急車、パトカーが来ているし、日曜日だったので近所の人達もたくさん寄っていて大騒ぎになっていました。
 
今迄家族が一番恐れていた事が目の前に現実となっていました。
 
私は気が動転して頭が真っ白になりました。
 
救急車で病院に連れて行き、そこで警官からお酒を飲んだ量とかの調査があり、その後入院する事になりました。
 
今迄いくらお酒を止めるか、病院へ行くよう勧めても本人は拒否していました。
 
これでやっと病院につながることが出来ました。
 
その病院を3日間で退院後、「このまま家に帰ればまた元の木阿弥だ」と思い。
 
私がお世話になっていた守山こころのクリニックの明神先生に連絡して連れて行き、説得して頂いたお陰で岩倉病院へとつながることが出来ました。
 
最後の最悪の状態で神様が救いの手を授けて下さったのだと、私は感謝の気持ちで一杯になりました。
 
そして3ケ月という、今迄経験したことのない長い入院生活を経て8月に退院いたしました。
 
退院後は断酒会にも繋がり今は一歩一歩ですが、お酒を止める生活が続いています。
 

 私も一緒に断酒会に通わせていただき、自分の気持ちをその都度吐き出すことにより気持ちがすっきりとして帰ることが出来「ありがたいな−」と思っております。
 
ここまで来れたのも断酒会の皆様方のお陰です。
 
これからも宜しくお願い致します。



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<ホトトギス>
「疲れた」と遺して逝きたき 我の苦を 君は知らずや今日も飲み行く    



27.アルコール依存症を理解していなかった私   (彦根支部)





 今から3年程前に近江八幡総合医療センターで、すでに肝硬変になっている肝臓にがんができ手術してもらいました。
 
その時、先生よりお酒は飲まないようにと言われていました。
 
3カ月ごとの検査、診察受診のたびごとに、「アルコール飲んでるでしょう」と言われ注意されていました。
 

 その間に、静脈瘤破裂を2回し手術してもらい、3度も命を助けて頂きました。
 
なのに断酒できないでいる主人に、だんだん先生も呆れるやら、言葉も冷たく感じるようになりました。
 
もう主人一人の力では断酒は、出来ないと思い、「禁煙外来のような、断酒できる外来がありませんか」と、先生に尋ねました。
 
すると県立精神医療センターを紹介して頂きました。
 
そこで主人はアルコール依存症ということを知りました。
 
最初は薬で欲求を抑えて通院を選びましたが、なかなか断酒につながらず入院する事になりました。
 
退院しても、最初は1週間に1回、次に1週間に2〜3回と飲酒が続きました。
 
その間に断酒会に入会し、週に1回通っていたのですが、皆さんの話も右から左へという感じでした。
 

 断酒会の家族の方に相談したところ、守山こころのクリニックの明神先生を紹介してもらり、診察をして「あなたこのままだと、死ぬか脳が萎縮するよ」といわれ、即、2回目の入院そして退院してからは、本人の意識も変わって断酒会も週に3 〜4回、退院してから3回ほど飲酒してしまいましたけれど2回目の入院する頃とは、ぜんぜん変りました。
 
今は断酒2ケ月目を目標に夫婦で頑張っています。私が断酒会につながる前は精神医療センターで、家族のセミナーが有ります。それには診察の予約をしてから聞き、私は病気じゃない、関係ないなどと思っておりました。
 
断酒会へ入会してもらう為、最初だけのつもりで、私も断酒会に行ったら「奥さんも入り」と言われて仕方なく入会しました。
 
だんだんと回を重ねる毎に主人に対して思っていた軽蔑や不信感が、「これは病気なんや、ここに来ている人は皆、同じような事をして来てるんや」と理解すると、私はいっぺんに気持ちが軽くなり、前向きに生きていけると断酒会で気付かせて頂きました。
 
これからも宜しくお願い致します。
 




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<マルバルコウ>
真心を持ちて当たるも届かなき 酒に曲がりぬ心悲しや      



28.妻と共に回復を   (大津支部)





 私の妻は、酒をどれだけ飲んでも一晩眠れば二日酔いする事はなく、頭痛がしたり吐いたりした事がないという事もあり酔いつぶれてしまうまで飲み続けるのが日常でした。
 
家で飲むのはもちろん外に一人で飲みに行くのも大好きで、真夜中に「迎えに来て」と電話をかけてくるので「どこにいるんや?」と聞くと「どこかわからへん」と言うので車で探し回って結局飲み屋街の道の真ん中にひっくり返ってるのを連れて帰ったと言う事もありました。
 
やがてみるみるうちに体調が悪くなっていき約1年は毎朝微熱があり、頻繁に大量の鼻血を流したりしていました。
 
それでも毎日酒を飲むことを私はよく叱り怒鳴り散らしながら家中の酒を捨てたりしていました。
 
やがて食道静脈瘤が破裂して大量に吐血して大津市民病院に緊急入院したのですが、驚いた事に妻は私にばれてしまわないようにトイレも掃除して3日以上も血を吐き続けてたそうです。
 
私が病院に駆けつけた時には妻はいろんな管に繋げられ輸血もされていました。
 
本当にショックを受けた姿でした。
 

 以前からの病院で担当して頂いていた医師に「あなたの奥さんは間違いなくアルコール依存症なので、この病院を退院したら紹介する専門の病院に行きなさい。
 
このまま飲み続けると今すぐにでも肝硬変になり辛い人生になります。
 
でも今、完全に酒をやめられれば健康な体に戻れます。
 
今がその崖っぷちにいると思ってください」と言っていただき、断酒への大きなターニングポイントだったと思います。
 
なんとか自力で歩けるようになった頃、市民病院を退院した妻に私は「もう酒をやめなあかんの分るよな?」と聞くと妻は「うん、わかってる。もうあんなしんどい思いするの嫌やし、飲む気にならんわ」と言ってくれ嬉しかったです。
 
しかし翌日の夜、私が家に帰ると妻はベロベロに酔っ払ってました。
 

 私は正直その時が一番ショックで「この先どうなるんやろう」と不安でたまらなかったです。
 
その後、いわくら病院に入院してアルコールに真剣に向き合うようになって退院してきた妻と一緒に、断酒会に入会させて頂きました。
 
出来る限り例会に出席して皆様の話を聞いて勉強をしていければと思いますので宜しくお願い致します。
 




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<マンリョウ>
酔う父を 見る目は辛く悲しそう 子等は黙りて二階へ上がる    



29.アルコール依存症    (近江八幡支部)





 主人は結婚した当初からお酒の量が多かったです。
 
性格も常にイライラしていて、家族に対して気に食わない事があると怒鳴る、物に当たる、手が出ることもありました。
 
何年も一緒に過ごすうちに家族は徐々に、関わらないようにして過ごすようになりました。
 

 そんな生活の中お酒の飲み方が変わり、仕事が休みの日には、早い時間から飲むようになりました。
 
本当におかしいと思い始めたのは、2014年の春に、病院で検査を受ける日の朝からお酒を飲んでいた時です。
 
しかし、その後も仕事には行っていたので大丈夫だろうと気づかないふりをしていました。
 

 2016年の年初め頃から仕事から早く帰ってきていて、お酒の匂いがしていたので何度か聞いた事がありました。
 
その度に睨まれ怒鳴られ機嫌が悪くなるので聞くこともしなくなりました。
 
その年の4月には肝臓を悪くして入院しました。
 
常にイライラしている主人に話す事すら出来なくなっていきました。
 
お盆明けにはとうとう朝から仕事に行く事が出来なくなり、アルコールの専門病院を受診しました。
 

 私は専門医にかかるだけでお酒を止める事が出来ると思っていましたが、お酒を止めることが出来ず、9月には別居しました。
 
別居後5か月が過ぎた2017年2月に連続飲酒になり、入院する事になりました。
 
私は主人が入院中に断酒会に入会させていただきました。
 
入会後、断酒会の研修会や例会に出席して主人のイライラがアルコールによるものだとわかり、アルコール依存症のことも少しずつわかる事が出来たと思います。
 

 主人は退院してからすぐと、職場復帰後、今年の2月と3回スリップしましたが、断酒会に通い断酒会の皆さんの助けのお蔭で連続飲酒にならず、今は断酒が出来ています。
 

 私も子どもの受験や多感な時期と主人のイライラがひどかった時期が重なり、精神的に参っていたのですが、断酒会の皆さんの助けのお蔭で立ち直ることが出来ました。
 
最近では一家団欒も出来るようになりました。
 
断酒会に入会してたくさん学ぶことが出来、皆さんに助けて頂いて回復出来ていると感じています。
 
断酒会の皆さんに本当に感謝しています。



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<ミセバヤ>
節酒など出来る筈ない病とは 知らずに節酒を泣いて頼みぬ    



30.望んでいた普通の生活    (甲南支部)





 私が断酒会に入会させてもらって、早いもので8年が過ぎました。
 
でも最初の5年間は私一人が断酒会に足を運び、本人は全くダメでした。
 
否認の病と言いますが、なかなかアルコール依存症を認められず、私自身も最初の頃はまだそんなことはないと思っておりました。
 
何回か足を運ぶうち、体験談を聞くうちに、「やっぱりそうなんや、アルコール依存症やってんな」と思わされました。
 

 毎日、毎日が先が見えないトンネルの中を歩いているようで、いつここから出られるのか、当時長男がうつを患い、今思えば毎日どうして生活してたかはあまり思い出せません。
 
断酒会の方は、徐々に足は遠のいてしまい、皆様に迷惑をかけていました。
 
でもどんな時でも支部の方たちは家の方に電話をかけて下さり「来れる時に来てくれたらいいわ」と励まして頂きました。
 
本当に心が離れそうになったら引っ張って頂き、そのおかげで何回か「もうやめよう」と思っていた気持ちを救っていただきました。
 
電話がかかってきた時に私は適当なウソをついてごまかしていました。
 
本当に申し訳ないと思っています。
 

 そして3年前の年末に、前支部長さんが家の方に来て下さり、明神先生への受診をすすめて下さいました。
 
私は、わざわざ来て頂いているのですが、心の中ではムリやと思っていました。
 
でも帰られてから一週間程して、本人自身もこの辺でもうムリやと思ってたみたいで、「行く」と言ってくれました。
 
本当に奇跡です。
 
ありがたかったです。
 

 あれから2年半、お酒は止められています。
 
あれだけ望んでいた普通の生活を送らせていただいています。
 
断酒会に入会させて頂いたおかげで今日があります。
 
皆様のおかげで毎日過ごさせていただいております。
 

 最後に、昨年の7月に実家の母が亡くなりました。
 
元気な時にお酒を止められた姿を見せられて良かったなと思っています。
 
本当に母には心配を掛けました。
 
少しだけ、親孝行出来ました。



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<ミツバツツジ>
職場にて銀婚式を祝わるも 我が結婚は長くも浅し      



31.穏やかな日々    (大津支部)





 主人と結婚して21年になります。
 
結婚して飲酒量にとても驚きました。
 
家計や身体の事を考えて、お酒を控えるように言うと、暴言を浴びせられるようになりました。
 
保健所に相談に行くと、アルコール依存症だと言われました。
 
私は本を読んでアルコール依存症という恐ろしい病気を知り、絶望的な気持ちになりました。
 
主人にそのことを告げると激怒して、とても酷い暴力を振るわれました。
 
肋骨にひびが入り、歯は欠けて眼鏡は壊れました。
 
とても恐ろしくて、こんな人と一緒に暮らせないと思いました。
 

 主人を説得して専門病院に受診しましたが、否認が強く自分は依存症ではないと言い張りました。
 
もう離婚するしかないと思ったとき、子どもが出来たことが分かりました。
 
主人はとても喜んで、会社の飲み会の時以外はほとんど飲まないようになりました。
 
性格はみるみる穏やかで優しくなりました。
 
とても子煩悩でおむつを替えたりお風呂に入れたりして育児に協力してくれました。
 
私は主人と結婚してよかった、機会飲酒が出来るのだから誤診だったのだと思いました。
 

 穏やかな日々は数年しか続きませんでした。
 
私の父が末期がんであることがわかり、主人が養子に入ってくれました。
 
滋賀に移り住んで、慣れない土地でストレスが溜まったのだと思います。
 
また飲酒が始まりました。
 
それからはあっという間でした。
 
以前よりも暴言はひどくなり、私はうつ病になりました。
 
少し良くなっても、主人の暴言を聞いているうちにまた悪化して、さらに酷くなりました。
 
あまりにも辛くて最後は自殺未遂を起こし、救急車で運ばれました。
 
あと少し遅ければ命が危なかったそうです。
 
本当に子ども達には心配や不安な思いをさせてしまったと、今でも申し訳なく思っています。
 
その後周りの方の支えもあり、うつ病は良くなっていきました。
 
その頃やっと、主人はやっぱりアルコール依存症なのだと心から認められた気がします。
 

 私は自分がなんとかしなければと思い、色々な本を読み、家族教室に通い、通信講座を受けました。
 
断酒会の事も知りましたが、主人に暴力を受けた時の恐怖感から、お酒をやめているとはいえアルコール依存症の方がいる例会に一人で行く勇気がありませんでした。
 
主人はお酒で仕事にも支障をきたすようになりました。
 
何度も転職を繰り返し、連続飲酒になりました。
 
親戚にお願いして、専門病院に入院するように主人を説得してもらいましたが、結局しばらく通院しただけでやめてしまいました。
 
隠れ飲みが始まり、仕事帰りに車で飲むようになりました。
 
帰宅時間はどんどん遅くなり、家に帰らずそのまま出勤することもありました。
 
飲酒運転で誰かを轢いてしまうのではないか、また仕事をやめてしまうのではないか、借金をしているのではないか…不安でつらい毎日でした。
 

 主人は急性膵炎になり、二度入院しました。
 
退院したら専門病院に行く、もうわかったと言っていましたが、結局退院した日に飲んでいました。
 
私はもう無理だと思いました。
 
主人はお酒をやめることは出来ない、このまま死んでいくのだと思いました。
 

 3年前の3月6日、主人は失踪しました。
 
会社から出勤していないと電話がかかってきました。
 
家にも帰っていないことを伝えて謝罪し、それからは毎日会社に電話して謝罪しました。
 
警察に届け出てから数日後、保護された主人を派出所まで迎えに行くと、本当にポロポロの状態でした。
 
私は主人と離婚することにし、最後の優しさのつもりで専門病院に入院させました。
 
後でわかったことですが、受診する日の早朝に主人は自室で首を吊り、自殺を図ったそうです。
 
運よく助かったことで決心がついたのか、入院中から真面目に自助グループに通っていたそうです。
 
主治医に最後のチャンスをあげてと言われ離婚しないまま退院の日を迎えました。
 

 退院した主人に、断酒会に入ろうと思うから一緒にきて欲しいと言われました。
 
なぜ私か、もうこれ以上主人の為に何もしたくないというのが本音でした。
 
それでも断酒会に一緒に入会し、毎日例会を始めました。
 
酒害体験を聞いてこの人が?と驚き、回復されている姿を見せていただいて、希望が持てるようになりました。
 
今まで誰にもわかってもらえなかった幸い気持ちを、先輩家族の方に受け止めていただいて、重い荷物を下ろせたような気がしました。
 

 断酒会の皆様に支えていただいて、主人は今お酒をやめ続けてくれています。
 
あんなにお酒をやめることを拒否していた主人が、今ではお酒をやめて幸せになれた、もっと早くやめていれば家族をここまで苦しめなくても済んだのに…と言います。
 
その言葉を聞いて、幸いのは家族だけだと思っていましたが、主人もとても辛かったのだと分かりました。
 
今では穏やかな生活を取り戻すことができ、本当に感謝しています。
 

 今、お酒で苦しんでいるご本人やご家族の方たちが、一人でも多く断酒会に繋がり、幸せな生活を取り戻してくださることを、心より願っています。



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<ミヤギノハギ>
「酒飲むな」「ハイ、飲みません」といかぬ故 二十五年をもがき苦しむ    



32.私と断酒会    (長浜支部)





 主人が、各務原病院を退院して、4年目に入りました。
 
まだ主人はアルコール依存症だとは認めていません。
 
入院したのは腰痛を治す為だと言い張ります。
 
そのためお酒を止められていたのは、10ケ月ぐらいでお酒の量は少ないですが、今でも飲んでいます。
 
救いは1ケ月に1回の病院行きと準備してあるクスリだけは飲んでくれます。
 
お酒を飲むこと以外はクスリのおかげで歩行や精神面では改善されていますので喜んでいます。
 
ただ春先の3月〜4月ぐらいはちょっとした事で怒り出したりします。
 
また目つきも変わり怖いです。
 
だからおかしいなと思ったら逆らわないように気をつけています。
 
今年の町総会で言われたことがあります。
 
隣の席になったAさんから「まだお酒を飲んでいるんやろ」と言われました。
 
私が「少し飲んでいるみたいで、飲んだら歩行困難の症状が出るから駄目なんや」と返事したら、Aさんから「それは知ってる、飲んでいるのに断酒会に通う意味があるんかいな」と言われました。
 
総会が始まったので話は中断しましたがショックでした。
 
主人がお酒から遠ざかれるよう、誘惑の多い総会、法事は私や子どもが出席し、老人会への入会も断っています。
 
努力していることが否定されているようで言葉も出ませんでした。
 
身近には病気を知っている人と分かっている人に分かれていると思います。
 

 知ってる人は、アルコール依存症の病名も内容も知っているが、以前より良くなっているんだから1杯ぐらいはとお酒を飲ませ、「止めておきない」とは言って頂けません。
 
気にかけて頂けるようで、話のネタにされているような気がします。
 
分かっている人は病気を理解して頂いてお酒から遠ざかれるよう協力して頂けるし見守って頂いています。
 
もちろん病気について触れられないので気が楽です。
 
私は長浜支部の例会にしか出席できません。
 
例会に出席して病気の内容も理解できましたし、本人の人格が変わったのもお酒によるものだと教えて買い、例会は無駄ではないと思います。
 
残りの人生、贅沢はのぞみません。
 
ただ子どもや孫に囲まれて穏やかに生活したいと思っています。
 
断酒会を否定される人がいても頑張って出席していきたいと思います。
 
宜しくお願いします。
 




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<ミヤコワスレ>
「もうイヤ」と大きな声で叫びたき 我の苦しみ君は知るかや    



33.比べない、焦らない、あきらめない  (甲賀支部)





 夫が1回目の専門病院を退院した15年前に断酒会に繋がりました。
 
断酒継続せずに入退院を繰り返して体を壊していく姿を見て、いつか断酒してくれると信じることはできなくなって行きました。
 

 酒を止めない夫を責め続け、隠している酒を必死で探してみたり、証拠をつかむためにゴミ箱をあさったりと、私の行動もエスカレートして行き、どんなことにもイラついている状態でした。
 

 “アルコール依存症は病気”と理解しようと努力するのですが、酒の気配を感じるとどうにもならない感情に逆戻りして軽蔑していました。
 
専門病院や内科の先生には「入院しても酒を飲める身体にしてくれるだけ。
 
どうして本人をあまやかすのか!突き放してくれればいいのに!
 
こんな最低な夫の命なんか助けてくれなくていいのに!」と食って掛かっていました。
 
そして家には夫の居場所を与えませんでした。
 

 家族の方から「比べない・焦らない・あきらめない」と教えて貰っても、私はなかなかその気持ちを受け入れる余裕がありませんでした。
 
夫が職を失い落ち込んでいる姿に「今頃、酒をやめても遅い」と罵り、「治喜は泣きながら酒を飲まないと約束してくれた。あんたひとりで当てつけのように断酒会に行っても意味がない」と義母から言われた時は、「私が一生懸命やっているのに!こんなことで酒をやめるな。もっと飲め!!」と腹を立てる状態でした。
 

 夫のことに無関心なはずなのに夫の酒は気になって気になって仕方なく、目を見るだけで足音を聞くだけで、酒の量が分かるようにもなっていました。
 
満開の桜であろうと世間が陽気になろうと飲み続ける夫と戦っている間は、何かを楽しむなんて全くできなかったように思います。
 

 私が病気になったときに初めて“私には夫の酒をやめさせる事はできない”と分かりました。
 
5年かかりました。
 
今では当時の辛かった時期が土台となっています。
 
これからも体験談を聴かして頂き、また語らせて貰うことで、少しずつ前に進んで行きます。
 
ありがとうございました。



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<ミヤマカイドウ>
家という建物あるも家庭なき中に育つも子等は曲がらず    



34.断酒会で学んだこと   (甲賀支部)





 主人は、11年前に飲酒運転でつかまり、職を失って精神医療センターに入院しました。
 
退院後、私が再就職を促したこともあって、仕事が決まると、主人は断酒会を一般参加のまま離れていきました。
 
その2,3か月を過ぎてから、主人は新しい仕事のストレスと、お酒への未練から、再飲酒し、徐々に前の隠れ酒、飲酒運転の生活へと戻っていきました。
 
私は、「どうしよう、このままでは前と同じことになる」と悩み、そして頭に浮かんだのが甲賀の断酒会でした。
 

 「私と一緒に断酒会に行こう」と主人に頼み、2年ぶりに断酒会に入会させていただきました。
 
私は、「断酒会に行くと決心したのだから、もうこれで、絶対酒をやめてくれる」とほっとしたものでした。
 
毎週金曜日、主人は休むことなく通い続けてくれました。
 
でも、「どうも、飲んでいるみたい。職場の帰りにまた、飲んで帰ってきている」と気づいてから、「断酒会に入ったら、酒がやめられるのではないのか。このままでは、前と同じようになる」とまたまた主人に失望し、腹も立ち、焦る日々が続きました。
 
「主人は本当にやめる気があるのだろうか」と毎回主人の体験談を疑心暗鬼で聞いていました。
 
家では、飲んで帰ってきた主人に、「飲酒運転の怖さはもう十分わかっているはずや。酒はやめて当たり前やろ」と、イライラして感情的になり、「また飲んできたやろ!」と抑えきれない気持ちを主人にぶつけていました。
 
甲賀支部の方から、「いつか、青木さんが酒をやめられる時がきっとやってきますよ」と優しく声をかけていただいたことがあります。
 
その時は、「今すぐやめてはしいのに。悠長になんか待っていられない!」と複雑な思いでした。
 

 主人は、断酒会に入って半年後、また飲酒運転で事故を起こし再入院しました。
 
私は、「この先、自分で生き方を変えない限り、きっとまた同じことを繰り返すだろう。
 
同じであれば、私は、もう一緒に生活はできない」と考え、入院中も私の態度は冷たいものでした。
 
でもなぜか主人は退院後、断酒し、断酒会も週3日に増やして断酒会通いを続けました。
 
そして、もうすぐ丸8年になります。
 

 それでも私は、当初、断酒会では先輩方の体験談と主人の話とを常に比較して、「本当に断酒を続ける気があるのか。どうして、酒を飲んだ理由や言い訳ばかりしか話せないのだろう。先輩方の様に、自分がしてきた事、自分の酒害を話してほしい」と思い、一向に酒で迷惑をかけてきた事を話そうとしない主人にまた苛立っていました。
 
その後、主人は体験談で「他支部の家族の方から、『青木さん、家族への償いは、断酒継続しかないよ!』と言われた」と語るようになりました。
 
その時主人は、「家族の方にそう言われて、素直に受け止められた」とも言っていました。
 
気づけば、主人も断酒会通いを続ける中で、少しずつ、自分が酒でしてきた事を話すようになっていました。
 

 私の方は、2年前の家族の研修会で、講師の方から、「断酒の始まりが、断酒を続けていくスタートなのですよ」と教えていただき、「主人は断酒会の中で、主人のやめ方で、断酒を模索し、断酒を継続してきたのか。誰もがすんなりと断酒し続けられるのではない」とやっと気づかされました。
 
私は、断酒会に入って6年もたって、「主人も頑張ってきたんだ。断酒会の皆さんの励ましや体験談を聴く、話す行いが、継続の力なんだ」と気づくことができました。
 
思い起こせば、医療と断酒会に繋がるまでは、「主人のお酒を私がなんとかしなければ!」と、主人に期待し、裏切られ、腹を立て、それでも諦められない自分勝手な試行錯誤の連続だったのです。
 
今やっと私も、断酒会に通い続けて、「一人の力では、ましてや家族だけでなんとかできるものではなかった!同じような思いを持った仲間の中で続けることで、可能になる」と実感しています。断酒会に感謝!です。
 

 これからも、断酒会の皆様と一緒に、断酒継続に努め、主人と二人で断酒会の為に力を尽くしていきたいと思っています。
 
これからも宜しくお願いいたします。



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<ムクゲ>
深き雪 耐えて芽を出す春を待ついじらし花に我重なりぬ    



35.断酒会とともに   (甲賀支部)





 平成18年 主人はうつ病と診断されました。
 
先生からは「今、ご主人の心は悲鳴をあげている状態です。
 
仕事の事は忘れてゆっくり休ませてあげて下さい」と言われました。
 
1ケ月半休職し元気になって復職するのですが、3ケ月後には状態が悪くなり休職、それからは休職、復職を繰り返すようになり、いつの間にか晩酌とは別に、寝室でお酒を飲むようになっていました。
 

 平成20年 主人は意識がなくなり、救急車で病院へ運ばれ「劇症肝炎」と診断されました。
 
生死の境をさまよい、両親、息子に多くの心配をかけました。
 
「これでもうお酒を止めてくれる」と思ったのもつかの間、健康な体にしてもらい退院した主人は、しばらくするとまた、飲み始めていました。
 

 本人は会社へ行こうと思って家を出るものの、会社の前を通り過ぎて帰ってくる。
 
そしてお酒に逃げる。
 
1日に3回もお酒を買いに行き、寝室にこもって飲み続ける。
 
またうつ病の診断書を書いてもらって休職する。
 
その繰り返しでした。
 
私は、「いつになったら会社に行けるようになるのだろう」「本当に治るのだろうか?」という不安と情けなさと訳のわからない怒りで、自分の気持ちを抑え切れなくなっていました。
 
主人も自分の気持ちを言わない。
 
私も自分の気持ちを言わない。
 
お互いの気持ちをわかろうとしない。
 
向かい合って食事をしていても相手の目を見て話すこともなく、本当に不気味な生活だったと思います。
 
背中合わせで180度見ている方向が違う生活をしていました。
 
そんな私たちが断酒会に入会し、「断酒継続」という目標に向かって学び歩んでいること、本当に良かったと思っています。
 
主人がアルコール依存症になり、あれだけ好きだったお酒が飲めなくなったのは「ちょっとかわいそうかな?」と思う時もありますが、代わりに多くの仲間と知り合い、生きる力、励ましをもらい、仕事だけでは得られない新しい道を模索している姿を見て、私も一緒に頑張ろうと思わせてもらっています。
 

 断酒会に繋がって9年。今は何とか断酒が続いていますが、いつ悪魔の囁きに耳を傾け、足をすくわれるかわかりません。
 
そのささやきから逃れるには例会に出席し、体験談を語るしか無いと教わりました。
 
一方で今、お酒に苦しんでいる本人、家族の方がたくさんいらっしゃいます。
 
私たちが断酒会で救われた様に、今度は私たちが少しでもお役に立てればと思っています。
 
特に私は、家族会の存在の大きさを実感しています。
 
私が初めて例会に参加したのは家族会の日でした。
 
話を聞いてもらい、共感してもらい、励ましてもらい、「ここでなら何を話しても受け入れてもらえる」と思えました。
 
アルコール依存症は、お酒を飲んでいる本人より、周りにいる家族の方が苦しんでいる病気だと思います。
 
そんな家族の方の気持ちが少しでも楽になり、明るくなり、上を向いて歩いて行けるように活動していきたいと思います。



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<ムラサキナツフジ>
いくたびも賭けし主人に背かれて二十五年をむなしく流さる    



36.夫婦の絆   (大津支部)





 大津支部に夫婦で入会させて黄いちょうど3年がたちました。
 
色々なことを最近思い返しています。
 
最初飲んでいたときはよく喧嘩していたと体験談で語っていたのですが、よく考えると喧嘩ではなく一方的に私が怒り狂ってただけではないのかと思います。
 

 断酒会に入ってからも「俺は色々協力したってるのに」「勉強して、やるべき事をしたってるのに」「こんなに心配したってるのに、おまえは何故ちゃんとやらないのか」と本人のしんどさも全然理解せずに、上から目線で責め続けていたんだと気付き始めたのは最近になってからです。
 
飲んでるか、飲んでないか?身体は大丈夫なのか?ばかり気にしてて、彼女の辛さやしんどさをちゃんと見てなかったと思います。
 

 一年半前に、目の前で吐血され救急車を呼んだ目、なんとか持ちこたえて、1カ月後に新阿武山病院に転院しようと、向かう途中でまた吐血して、大雪の中、大阪から救急車で一緒に戻ってきた日、どれもかつて経験したことのない恐怖に襲われて、トラウマになって頭から離れません。
 
それでも彼女は何度死にそうになっても泣き言は言わず常に前を向いて生き続けました。
 
それどころかいつも他人の心配ばかりしていました。
 
誰よりも傷ついてきた人生と向き合ってきた彼女だからこそ他人の痛み、悲しみ、辛さを感じる繊細で心優しい人でした。
 

 この一年ほど彼女はいろんなことを語ってくれました。
 
「今迄しんどいとか言えないで生きて来たけど、しんどい時にしんどいと言わせてくれてありがとう」とか「私は死んだらあんたはもちろん悲しむと思うけど、やっと楽になってよかったと思ってや」とか「私44歳でまだ若いのにって言われるけど、めちゃくちゃ頑張って生きてきたんやで、だから何の悔いもないねん。ただあんたにだけはごめんな」とか。
 
2月28日これ以上はもう止めてくれと思う位、苦しんで苦しんで彼女は亡くなりました。
 
本当にやっと楽になれたと心から思えたのは彼女のお陰です。
 
もう彼女の酒害に悩むことも苦しむことも心配することもできない事でさえ、今はただただ寂しいです。
 
アルコール依存症だろうが何だろうが僕にとって世界一の妻でした。
 
一緒に過ごせた幸せな時間をありがとう。



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<モッコウバラ>
ようやくに入院させて主なき静かな家に手足伸ばせり    



37.主人と酒    (彦根支部)





 私の主人は、今は普通の人に戻ってくれています。
 
昨年7月10日頃までは暴言を吐き毎日怒鳴ってイライラして怒っていました。
 
戸や壁をパンパン叩いて、私には「お前とはしゃべらん向こうへ行け」と言って怒鳴っていました。
 
私も怖く、なるべく会話しないようにしていました。
 
「しょうもないテレビを見てる。テレビを消せ、電気を消せ」と命令して自分は2階で真っ暗な所で懐中電灯を照らし、酒を飲んでいました。
 
決して楽しそうには飲んでいませんでした。
 
いいちこをアクエリアスで薄めて飲んでいました。
 
何時になったら主人は普通の人になるのだろう。
 
穏やかな人に戻るのだろうかといつも思っていました。
 
こんな人じゃなかった。
 
どうしたら戻ってくれるのかと毎日悩んでいました。
 
一息つける家庭がまったく気の休まらない毎日でした。
 
元々主人は仕事が好きな人でいつも会社のことを考えていました。
 
私も仕事が好きで職種は違うけど同士だと思っていました。
 
完全週休2日制の会社でしたが、いつも週末1日しか休まず、会社の休みの目には機械のメンテや機種の交換、製品の開発をしていました。
 
徹夜もしてダンボールの上で寝ていて、朝出勤してくる社員に起こされる事もあったようです。
 
製品の開発が成功して会社が黒字になったときは、自慢もしていました。
 
しかし段々と仕事の量が増え、現場の仕事と管理業務、責任が付いてきた様に思います。
 
ストレスから不眠になり酒量が増えて行きました。
 
とつぜん両耳の耳鳴りと難聴、会議でも人の話が聞こえなかったようです。
 
私にも耳が聞こえへんのやと言っていましたが、私も仕事が忙しく、耳鼻科に行ったらというだけで真剣には受け止めてはいませんでした。
 
そして、会社の方針が変わり、現場の仕事は下請け会社に任す請負制に変わり、社員は現場にはいけませんでした。
 
自分が10年かかって手掛けた現場の仕事を他人に任せる寂しさと責任だけは付いてきて問題が発生すると、現場に行って見ていました。
 
現場から来てくれるな、上司からは行くなと言われ、居場所が無くなったように思います。
 

 益々酒量は増えていき今迄休まなかった主人が会社をよく休むようにもなりました。
 
しかし、毎朝7時に出勤して夕方帰って来るのが、時々17時前に帰って来るのでおかしいなと思っていました。
 
毎日パーキングで過ごしていたようです。
 
平成27年の5月に会社から「仕事に来られていません」と電話が掛かり、ビックリしてあわてて主人のお兄さんに電話をしました。
 
「それは欝や」といわれ、翌日お兄さん夫婦がこられ、心療内科を受診するように説得されました。
 
そして彦根の菜の花クリニックを受診して「欝、適応障害」と診断を受けました。
 
会社は辞めたらあかんと先生から言われ、病気休暇をとることになりました。
 
お酒は飲んでいましたが、わしにはこれしか出来んと、草むしりや掃除をしてくれていました。
 

 しかし、平成28年4月ごろから酒を昼間を問わず呑む様になり、よく転倒するようになりました。
 
何時もふらふらで田んぼに行ってはこけて帰ってきました。
 

 急に立てなくなることもありました。
 
おかしいと思って神経内科に受診しました。
 
特に異常なく酒を控えるように言われました。
 
これはアルコール依存症による
 
末梢神経障害だと思いました。平成28年11月に精神医療センターに電話をして 平成29年1月に入院しました。
 
入院後は元気になり元の主人に戻りました。
 
わたしはこれで病気は治ったと思いましたが、退院後数日で連続飲酒に戻りました。
 
その後は段々とおこりっぼくなり、平成29年6月にせん妄が出て入院、入院中もよくイライラして怒ってハンガーストライキをしたりしておかしかったです。
 
11月に自己退院し車を車庫に入れようとして前進し前の家に当り廃車にしたり、2階の階段から2回落ちました。
 
身体も動けなくなりました。
 
私も介護休暇を取りました。
 
動けなくなった時は、2週間酒が飲めず普通の穏やかな主人に戻りましたが、それも続かず段々おかしくなっていきました。
 
私もどうすることも出来ず病院にも相談しましたが、解決策は見当たりませんでした。
 
(4回入院のチャンスを貰いましたが、全て主人が断りました)酒が教えてくれる。
 
怖がることはないと本に書いており何もいわないでおこう、ほっておこうと思いました。
 

 今年平成30年5月主人が中々断酒を出来ないんですと診療時に訴え先生から、じゃあ断酒計画を立てよう、いつから断酒できる?と中々返答できず9月からと応えました。
 

 しかし一向に酒量は減らず、怒りイライラする毎日が続きました。
 
2日に1本いいちこを飲み食事も一食、ついに酒も受け付けず薬だけ飲んでスマープに行きました。
 
7月10 日頃から自分で少しずつ減らし穏やかになっていきました。
 
やっと普通の人に戻ってくれました。
 
もうあの出口が見えない黒いトンネルには入ってほしくありません。
 
このままずっと普通の人でいてください。
 
家族の方から、いつかは止めてくれる時があるから諦めたらあかんと言われ、心配して声を掛けてくださり、普段いえないことも家族の方には聞いて貰える断酒会は、今は何かホッとする場になっています。
 
何か断酒会には不思議なパワーがあると思います。
 
これからも主人と共に断酒会に参加し研修会、体験発表を聞いて少しずつ元気になっていきたいと思います。
 
これからもよろしくお願い致します。



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<モモ>
長き年苦しまさるるこの酒を「病」と一言主治医は告げり    



38.主人と私   (長浜支部)





 私の主人は、現在 74 歳です。
 
若い時からお酒が好きで1日も晩酌を欠かしたことはあり ませんでした。
 
銀行員でした。
 
その当時の勤務は、帰宅が、毎日 11 時・12時は、ほとんどで、夜遅くても晩酌を欠かしません。
 
少し早く終わればお酒を飲む会が続き、そんな生活でしたが、仕事の責任感は強く、アルコール依存症まででは、ありませんでした。
 

 銀行を退職して、第2・第3の職場を経て、その頃に大きな病気をしましたが家族の為に働いてくれました。
 
66歳で仕事を辞めました。
 
勤めていた間は、家族はお酒で辛い思いもしましたが、そんなに悩むほどの飲酒ではありませんでした。
 
しかし全ての仕事がなくなった時、ここからが地獄でした。
 
仕事、仕事で何の趣味のない主人は退職してから何もすることがなく、主人の父と母がしていました畑をする様になったのですが、最初は自分が作った野菜が出来てとても楽しそうでした。
 
でも畑は、人相手ではないので気楽で、チョコチョコと、昼間から飲む様になりました。
 
特に冬場や雨が降れば朝からの飲酒も増え、エスカレートしていきました。
 
そんな時、体の不調を訴え、肝臓の数値が異常だと言われ、半年ほど禁酒が出来たのですが、調子がよくなると又飲み続け、又禁酒すると言うパターンの繰り返しでした。
 
これが半年くらい続きましたが、段々とコントロールが出来なくなり、間隔が詰まっていきました。
 
ただ、主人はおとなしく飲んでいるタイプで暴力を振るうことはなかったので、我慢が出来たのかも知れません。
 
お酒が切れてくると昼夜関係なく近くのコンビニに車で買いに行き、事故を起こし、警察のお世話にもなりました。
 
又動けなくなり救急車で運ばれる事も何度かありました。
 
今迄家族のために一生懸命だった主人がこんなにも変わってしまうのか、と社会生活がほとんど出来ないだらしない生活が、私には段々と耐えられなくなりました。
 
アルコールに関して何の知識もない私はお酒の中に水を入れたり、隠したり、お金を取り上げ たり必死でした。
 
私のほうが暴力を振るっていたかも知れません。
 
ひたすら他人に知られまいと一人で抱え込んでおりました。
 
そのうち段々と私の精神状態がおかしくなり人と会う事も厭になり家の中でだらしのない主人といることが多くなり、喧嘩の耐えない家庭になっていました。
 
私が精神科に掛かるようになりました。
 
子供も二人いるのですが、幸いにも家から離れて暮らしていましたので見苦しい喧嘩など知らなかったと思います。
 
しかし同居の母は一代働いてきたのに何をそんなに嫁に遠慮しているのかと、すぐにお金を渡してしまい私を叱責しました。
 
母もアルコールに関して何の知識もないので反発する元気もなかったです。
 
やはり唯一の相談相手は娘でした。
 
娘には心配させたくなかったのですが、相談できる人もなく話してしまいました。
 
うすうす感じていたので娘夫婦も一生懸命考えてくれ、一人で悩んでいないで誰かに相談するように言ってくれました。
 
今から6年前の平成25年、市の広報誌に長浜保健所の「アルコールで悩んでいませんか」という欄を見て訪れました。
 
保健所の方は親切に「よく勇気を出してこられましたね」と長浜の断酒会を紹介していただきました。
 
2回ほど見学をさせて頂きました。
 
程なく、又主人は飲んだり飲まなかったりと、交互の生活で、この会にも出席する事もなかったのですが、またまた飲酒が始まり、その頃の主人はしようもなく最悪の状況で正式に2年前に入会させて頂きました。
 
家族会にも参加させて頂き同じような悩みを持った方々がおられ、自分だけではないのだと今迄人にも言えず悩んでいたことが少しホッとしました。
 
又アルコール依存症は病気だと教えて頂き、病気だから治さなければいけないと病院も紹介していただき現在草津の精神医療センターに2ヶ月ごとに通院しています。
 
主人も私の事はなかなか聞きませんが、お医者さんのことは聞いてくれます。
 
きっと自分でも何とかしなければと思っていたのだと思います。
 
主人は昔からお医者さんに掛かる時は、褒められるような数値で見てもらうので、先生もあまり酷い状態のときをご存じないと思います。
 
主人も飲まなければ自分は依存症ではないと思い込んでいるので、先生から断酒会をすすめられても絶対に参加しようとしません。
 
最近では1ヶ月に2週間ほどの飲酒が続き買ってきたお酒が無くなると夜中でも、雪が降っていても自転車でコンビニに、もうなんともたとえようのない姿で買いに出かけていきます。
 
この間トイレも間に合わずその場でしてしまう事も度々になり、目を覆いたくなるような姿になるのです。何度家を出て行きたいと思ったか。
 
でも病気だと思い何とかして治してあげないと考え、今迄私のやって来た事は全て逆効果の行いだったと思い、とにかく主人が少しでもお酒を飲まない時間が多くなるようにしようと考えました。
 
主人の母は97歳で施設のお世話になっていますが洗濯物を一週間に2回取りに行くのをまとめて取りに行って貰ったり、又畑作りしか趣味がなかったので、あなたの野菜はすばらしい地元の産直に出そうかと持ちかけてみたところその気になってくれて先月から出すようになりました。
 
その結果皆さん買ってくださるようになり、主人も自信が出て来て今はそちらの方に気が向いています。
 
孫にも嫌われたくないし今までの飲み方では駄目だと自覚しているはずです。
 
とにかくひと時でもお互いが喜べる時間が長く続くように願っている所です。
 
そして主人自らが、断酒会に出てくれることを願っています。
 




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<ヤナギバルイラソウ>
我が胸に灯り点せし主治医の言葉「回復可能な病」と聞けば    



39.私の生きる道   (栗東支部)





 私の父は私が幼稚園の頃からアルコール依存症で、お酒を飲んでは暴れていました。
 
父もその当時 30代で体力もあったので、テレビ・冷蔵庫・テーブル等を壊したりして、私は父が怖くてブルブルと震えていました。
 
父がお酒を飲んで暴れた時は手におえずに、母と兄と私とですぐに車に乗り込み、親戚の家に逃げていました。
 
親戚の家は自宅から離れていたので、次の日は学校を休んだり、親戚の家から学校に通ったりしていました。
 

 父はお酒とパチンコ狂いで、借金もたくさんして、私達を苦しめてきました。
 
子ども心に何でお酒があるんだろう、誰が何のためにお酒を作ったんだろうと思い、父もお酒も大嫌いでした。
 
私は、今を生きているので、過去の嫌なことや怖かったことは思い出したくないので、これ以上、父がああだったとか、こうだったとかは言いたくありません。
 
私達兄妹にとって、そんな父の存在以上に母の存在が大きくて、父から親らしいことをしてもらわなかった分、母からはたくさんの愛情をもらって、大事に育ててもらいました。
 
母は私達が幼いころから包み隠さず、家族の一員として、一人の人間として何でも話をしてくれました。父がアルコール依存症という病気であること、父の給料が少なくてボーナスもなくて生活が苦しいこと、だから母が頑張って働かなければならないことなど、いろいろな話をしてくれました。
 
そんな話を聞いて、私も兄もこの家に生まれた子どもとして、家族の一員として、今、私に何ができるかということを子どもながらに考えてきました。
 

 お正月になると、父の親元に行き、私から言うと祖父母の所に行き、お年玉をたくさんもらいました。
 
父は兄弟や親戚が多く、一人あたり5千円や1万円のお年玉をもらいました。
 
お年玉をくれる人数が多いので、私だけでお年玉を10万円以上もらっていました。
 
それが兄の分も足すと20万円以上になり、それに手をつけずに母に全額渡していました。母は『ああ、これで生活ができる。ごめんね。ありがとね』と笑顔いっぱいで喜んでくれました。
 
私達は大好きな母が喜ぶ顔が見たくて、笑顔が見たくて、お年玉をもらい続ける中学生ぐらいまで全額母に渡していました。
 
そのお年玉で自分のために何かを買おうと思ったことは一度もなく、お年玉を自分で使ったことがありません。
 
それよりか、ただ母を喜ばせたい一心でした。
 

 兄と一緒に読売新聞の奨学金制度を利用して、朝4時に起きて新聞配達をしながら大学に行きました。
 
そんな私達の努力が報われて、兄妹そろって公務員になりました。
 

 私は父には恵まれなくて悲しい思いをいっぱいしてきましたが、母には恵まれて愛情いっぱいに育ててもらい、母には心から感謝しています。
 
今、振り返ると、幼い頃から母がいろいろな話をしてくれたこと、また逆に私の話も家事の手をとめて聞いてくれたこと、そして何 かあっても母が私の絶対的な味方になってくれたことが私の人生にとって大きかったと思 います。
 
子どもだからわからないとか、言っても仕方ないとかいうのではなく、包み隠さず、ありのままの現実を伝えてくれた。
 
そのことによって今、私に何ができるのかを子どもながらに一生懸命考えてきました。
 
そして、自分ができることを実際に行動に移してきました。
 
その積み重ねが今の私をつくっているのだと思います。
 
 父も元をただせば、父には両親がいましたが、幼い頃から親との会話もなく、何も考えることなく、家族のことを思うことなく生きてきたようです。
 
実際に今も話す力・考える力・家族を思いやる力がとても弱いです。
 
父の場合、このアルコール依存症は病気と家庭環境が原因しているのだと思います。
 

 父が問題を起こし、家族会議を開いてもすぐにケンカになってしまうので、時々、断酒会におじゃまして、断酒会のメンバーさんから父に話をしてもらうようにしています。
 
父も家族が言うよりも断酒会のメンバーさんから言ってもらった方がよく聞いてくれるので、私達家族にとっても断酒会はとても大切な存在です。
 
以前、支部長をされていた太田さん、また妹背さんにも大変お世話になりました。
 
現在の支部長の西浦さん始め栗東支部の皆様には、いつも温かい目でご支援・ご指導をいただき、深く感謝しています。
 
まだ父と一緒に暮らしているので、次々と起こる苦労の連続ですが、いつか『ああ、そんなこともあったね。ある意味、破天荒な父がいたから今の自分がいるのかな~』と、いつか笑って振り返れるように、自分の未来のために一日一日を大切に頑張って生きていきたいです。エイエイ、オーッ!!
 




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<ユスラウメ>
「家族より己の為に酒断て」と見舞い来し娘(こ)は父に諭さん    



40.父による酒害を経た私の望み   (大津支部)





 忘れられない一本の動画があります。
 
アルコールに溺れる人が脅威であることを、その人の子どもの立場から大胆に可視化したもので、つまりは「『アル中の親』は子どもにとってどんな風か」を描いています。
 
セリフはなく、その尺僅か1分。
 
5〜8歳くらいの子どもとそれぞれの親が数組出てきます。
 
テーブルをはさんで食事する親、買い物帰りに子の手を引いて歩く親、車に子を乗せてシートベルトを着ける親。
 
「普通の親」みたいですよね? ただ、映像の中では親たちはいずれもホラー・パニック映画の敵役のような姿です。
 
子どもたちは視線を逸らし、ただ耐えるように身を固くしています。
 

 文末にURLを記載しますので、読者の方はぜひその目でご覧になり、自分なりの感想をまとめてみてください。
 

 私自身についていえば、父の飲酒とそれに伴う行動の変化がはっきりと結び付いたのは中学生以降でした。
 
しかしその時期にはすでに、父の飲酒行動から受けた、私にとっては傷ともいうべき影響が、私の性格として表れていたように思います。
 
すなわち、真っ向から否定されることへの恐怖による自閉、度重なる失望や落胆のための悲観主義、周囲の(特に両親の)期待を裏切ってはならないとの思いからくる過度な深読み・先回り思考です。
 
 父が飲酒中、最もよく飲んでいたのはビールでした。
 
断酒すると言って以降、父はノンアルコールビールを「偽ビール」と呼んで毎日飲みます。
 
夕食時はほぼかならず、入浴時とその他気が向けば飲んでいます。
 
先日はノンアルコールチューハイも買ってきました。
 

 そんな父に、私は気を付けてもらいたいことがあります。
 
ため息です。
 
誰にでもある癖ですよね。
 
完全に抑えろと言いたいのではありません。
 
ただ、これが喫煙直後だと数メートル先までタバコの匂いが飛んできます(これはこれで大変苦手にしています)。
 
「偽ビール」を飲んでいるときは…やはりその匂いが漂うのです。
 
これはただ嫌いな匂いであることとは別な効果を生みます。
 
 「いいですか。いつか家族が『偽ビール』をついビールと言うとあなたは怒りましたね。
 
でもね、その両者の匂いというのは、実によく似ているのです。
 
あなたがかつて深酒をして、私をまるで無視したときと、同じ匂いの中に私は今もいます」
 
 喉から出かかっては押しとどめてきた言葉です。
 
どうして口に出せるでしょう。
 
酒で迷惑をかけたと思っていない、と公言する父なのです。
 
父にとって迷惑とはなんなのでしょう。
 
誰が見てもわかるような暴行、傷害、破壊でしょうか?警察のお世話にならなければ迷惑ではないのでしょうか。
 

 面と向かってそんな議論をして疲れたくないので、頭の中の父としばしば喧嘩します。
 
そんなことで開き直るのなら、もうこの家族に馴染む気持ちもないのではないかと思えてきます。
 
たまたま手近にいるから仕方なく一緒に暮らしているのではないかと。
 
それなら引き留めやしないから、どこでも好きな所へ行き、誰でもお好みの、
 
「飲んでも警察沙汰に至らない程度とは偉かったね。匂い如きで迷惑面して娘さんは酷い人だね」
 
と言ってくれる人と暮らせば、などと考えて眠れない日が週一でやってきます。
 

 話を頭の外へ戻しましょう。
 
父は起きているときは大抵リビングにいます。
 
私は父が偽ビールを開けたときとタバコを吸いに行ったときはなるべく自室に引き上げて、しばらくはリビングには戻らないことにしています。
 
ただ食事中などその場を動くわけにいかない場合も1日最低1回は発生します。
 
ちょっとだけ意識して、深く息を吐く前に自分に向かってストップをかけられないものでしょうか。
 

 家族ってそれぐらいの注文と配慮のやりとりでやっていくんじゃないの、と思っていても言えません。
 
私は父からの注文を受けたら何をしていても一旦手をとめて応対します。
 
そうしないと後で面倒だから、という思いもあれば、頑張って断酒を続けている努力に報いたいとも思っています。
 
そのことが間接的に、たとえ小さなことでも周りの、断酒道を行く人々の一助にもなればいいとも。
 
でも父につけた注文はどうなるでしょう。
 
ピアノの上に本を積んで置かないでほしい、もし置いてもすぐに撤去してほしいと言ったとき、父は分かったと言って本の山の中腹に「一時保管」と書いた付瀋を貼りました。
 
もう3年ほど経とうとしていますが本も付僕もそのままです。
 
思えばその昔父が酔って帰宅した際の対処が負担だと訴えた(その訴えの中に匂いの話も入っていました)ときも、「まあ気を付けます」と請け負った翌日に、飲み友達が誘うからとやっぱり出かけて行ってしまいました。
 

 父にとって私の訴えは飲み友達よりも、本よりも下でした。
 
しょうがないじゃんと笑っていた、かつての父と同じかどうか、話してみればわかります。
 
同じかもしれない。
 
それが判明するのがつらくてずっと躊躇っています。
 
今は飲んでいなくても、「かつて飲んでいたことによる酒害」というものが今も続いていること、そしてそれを本人に通達することは相当に困難を伴うことがあるということをご紹介しました。
 

 結局のところ、父の手に持つ缶飲料が変わっても、私はどこかまだ父を得体のしれない敵のように考えていて、今この時何を考えているのだろうか?
 
私がいるのに気付いているだろうか?
 
怒ってやしないだろうか?
 
この後怒りだしはしないだろうか?
 
…と常に巡らす思いは変わっていません。
 

 アルコール依存症からの回復ということを、依存症以前の元の通りになることではなくもう一歩前進することとして、私は「父による酒害を経た私」、父は「依存症を経た父」と向き合って成長していくこととして考えたいと思います。
 
私たち家族はその途上にいるのです。
 
https://m.youtube.com/watch?v=XwdUχS94yNk&time_continue=2&feature=emb_title  「Monsters」フィンランドのNGO団体による、「ガラスの子供時代」シリーズより



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<ラッパズイセン>
同室の仲間の話を聞き分けて善きを見習い悪きは真似ぬ    



41.夫はアルコール依存症  (高島支部)





 私は、大阪の箕面市で生まれました。
 
主人と知り合ったのは、ある会社の私の新人歓迎会の2次会でのスナックでした。
 
結婚1年目までは本当にしあわせ一杯でした。
 
しかし、1年たって私は卵巣のう腫という病気をしてしまい、子供がほしかったので、大阪にある有名な先生の病院に行くため、豊中駅で待ち合わせをしたのですが、主人が真っ赤な顔をしてフラフラしながらやってくるではありませんか。
 
私は腹が立ってしまい、主人と別れるとその足で九州の叔母の家に行ってしまいました。
 

 その後も主人は、酒を飲むことがひどくなり、どんどん量が増えていきました。
 
私はどうしたら止めてくれるのか悩みました。
 
フラフラになって帰ってきて玄関を開けた時に、私は頭にきてバケツの水を頭からぶっかけてしまいました。
 
しか し、ぜんぜん効き目がありません。
 
休みには朝からビールを飲むようになりいくら注意しても無駄でした。
 
からだが悲鳴をあげているのに、それもわからず飲み続けていました。
 

 主人の様子がだんだんとおかしくなって、手がふるえてくることもありました。
 
ここにいたら主人はもっとひどくなる。
 
家庭がつぶされると思っていたときに、滋賀県高島市の建売住宅の広告が入っていました。
 
大阪の会社は遠くなるのですが、滋賀県は空気がいいし、自然も豊かなので家族3人で見に行きました。
 
きれいなおうちに子供と私はいいなーと思い、主人も気に入ってくれたので高島へ移住することに決めました。
 

   主人の会社は大阪なので、酒を飲むのも減るだろうと期待していましたが、なんと会社の帰りに電車の中でも飲むようになり、またしても同じことの繰り返しです。
 
休みには朝から車に乗ってビールを飲むようになっていました。
 

 16年前の1月4日、警察の方から電話があり、酒気帯び運転で主人を逮捕したとの連絡がありました。
 
私は、当時主人が自律神経失調症で通院していた医師に相談したところ、アルコール依存症ですと言われ、京都の広兼医院を紹介してくれました。
 
広兼医院では岩倉病院への入院をすすめられました。
 
入院中は断酒会へも行くようになり、金曜日は外泊の許可が出て、高島の断酒会に参加して家に 帰り、翌日の朝に病院へ帰っていきました。
 
3月18日退院の日に高島支部に入会し、大阪の会社につとめながら、今日までスリップをしないで断酒を続けている主人を見ていると、あらためて断酒会の皆様のあたたかい励ましとご指導に感謝いたします。
 
これからも、主人と二人三脚で酒のない生活を希望をもって歩んでいきたいと思います。



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<リキュウバイ>
この部屋でこのベッドにて悟らされ断酒に目覚めん第五病棟の    



42.心の傷は深かった  (大津支部)





 全く飲まなかった主人が飲酒し始めたのは今からちょうど4年前、初めは週末少しだけで、楽しい時間のように見えました。
 
それから徐々に飲酒量が増え、1年後には毎日多量飲酒。
 
普段は温厚な主人が飲んだら人は変わります。
 
当時5年生だった息子に暴言暴力の日々、「お前は生きる価値がない。殺したる」と、包丁を振り回すこともありました。
 
急性アルコール中毒で倒れ、救急車を呼んだこともありました。
 
本来ならここで病院に受診し、断酒会とも繋がっておくべきだったのかもしれませんが、当時は仕事のストレスで飲んで息子に当たっているだけだと、軽視していました。
 
昨年、中1になった息子が不登校になりました。息子は不登校支援のカウンセリング中に、「酒を飲んだお父さんが怖い」とカウンセラーさんに打ち明けました。
 
私にも話したことがなかったので、大変驚きました。
 
息子は人一倍敏感気質の持ち主で、発達の特性から映像記憶能力が優れているため、傷つき体験をすると、鮮明に記憶に残り、トラウマを抱えやすいタイプだとわかっています。
 
「お前は生きる価値がない」と言われ続け、その受けた傷は相当深い。
 
これは時間がかかるとカウンセラーさんからご指摘を受けました。
 
やっと私も覚悟ができ、アルコール依存症を調べているうちに断酒会にもつながることができました。
 
家族はまず理解するところからと教えて頂き、問題があると認めない主人に、なんとか変わってもらおうと悩む日もありました。
 
唯、先輩の体験談を聞いていると、本人が自覚しない限り解決に向かうことは難しいことを知り、家族の関わりの難しさを思い知りました。
 
現在は、幸い抗うつ薬服用をきっかけで、5ヶ月間、断酒を継続しています。
 
飲まないと優しく子煩悩な主人。
 
息子への暴言、暴力 はアルコールのせいだったことにも気づきました。
 
喜んでいるのは、私だけで息子は例えばテレビ CM で酒の映像が流れると、表情が凍りつき、主人と私の顔色を伺います。
 
トラウマで怖い思いをしています。
 

 心の傷はまだまだ癒えませんが、私は、家族みんなが、心身ともに自分のことを大事にしてほしいと願っています。
 
私が断酒会に通うことで、主人の継続断酒に繋がると信じています。
 
また、私自身の心の回復のためにこれからも断酒会に通い続けます。



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<リムナンテス>
他人事と思いし断酒夢ならぬ長きトンネルに光射し込む    



43.主人とのあゆみ  (大津支部)





 10年前、東京から実家の滋賀にUターンしてより、主人は仕事をせず、毎日連続飲酒をし、暴力はしないものの、ソファで横になり、テレビ/ iPad を見ています。
 
現在49歳ですが、6年前に重症急性膵炎を患い、入院中に再飲酒が発覚し強制退院。「減酒する」といいつつできず、今に至ります。
 

 昨年の4月頃から、ベッド代わりにしているソファで衰弱し、いつの間にか腕や脚のあちこちで内出血、眼も痛い、下血、爪が薄くなり、外でご飯を食べても、2 時間半程かかり、炭水化物を摂取できず、やせ細っていきました。
 
夫は体調が悪いのを「歳のせいだ」と話し、私は嘆いて泣いてばかりいました。
 
そんな状況に突破口が欲しかった私と義母は、藁をもすがる思いで、昨年断酒会に入会させて頂きました。
 

 飲酒ペースは、遅くてもウィスキー4リットルが10日くらいでなくなります。
 
なんとか飲酒できる状況から遠ざけようとしますが、外出する目標もあまり持てず、交通機関で移動もできず、出先で待ち合わせができません。
 
また、予定が立て られず、当日その時間にならないと機嫌次第でどうするか決められず、施設予約・人との約束などに困ります。
 
買い物や家事をしてくれますが、自分のお金ではないし、その中からお酒を購入、家事をするにも景気づけに飲酒しています。
 
本人は 泥酔時、記憶がないでしょうが、家族は何倍も、我慢している時間は長く感じ、人生空しくなります。
 

 しかし、分かったことや感謝もありました。
 
別居し、離婚調停していた折「誠意が あれば、何もいらない・・・。幸せなのだな」地位やお金や見栄より、人として向き合う のに大切なことに気がつかせてもらうことができました。
 
また、自分の過去を省みると、円満な家庭環境に育ったものの、両親を気遣い自分の気持ちをなかなか伝えることができない自分を夫は受け止めて続けてくれたのだと思いました。
 

 夫は、現在、昔のような健全なパートナーではなく、頼りたくても、肝心なところを避けるので、頼りにできません。
 
素晴らしいところもあるのに、それを生かそうとせず、周囲のせいに何十年もし続け、もったいないことだと思います。
 
少しでも今の生活から抜け出し、外に出て、人と接触して、仕事をしてほしいと願っています。



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<リュウキンカ>
ホームにて酒に崩れし人見れば「あの日の己」と恥じつ呟く    



44.私の回復  (大津支部)





 断酒会を訪れたきっかけは、弟の飲酒運転事故です。
 
2年前、精神医療センターへ入院したものの通院・禁酒とならず、車での隠れ飲みが毎日となった挙句でした。
 
本人、妻、姉の私、妹の4人のグループラインで禁酒報告・サポートしようとなりましたが、3ヶ月程で毎日飲酒、書き込みもなくなり、励ましても怒っても手応えなし、正論を言えば人格否定で攻撃してくる。
 
CLAFTも知りましたが「本人 が悪いのに何で周りが努力せんならんのよ」と怒りが湧くばかりで、試す気にもなりませんでした。
 

 ネットで体験談を読む内に断酒会に辿り着き、参加した初回「どうしたらいいか分からない」と声を振り絞ったのを覚えています。
 
例会は皆さんが己の弱さを話し、聞く、とても正直で懸命な方々の集まりでした。
 
参加を続け、聞く内に話す内に、聞くだけで話すだけで、不安や苦しさがどんどんほどけて楽になり、思いに 余裕が生まれてきました。
 

 CLAFTも出来る事から始めてみる気になり、「批判・非難・攻撃を止めれば家族関係は劇的に良くなる」と聞いて「黙るしかないやん」と毒づきながらも実践してみれば喧嘩はなくなり、「言い過ぎない」「起こっていないことで不安にならな い」など自分が落ち着く為の行動を増やせていく内に、年末最後の例会の帰り、バス停でばったり出会った弟が「何が楽しくて断酒会行ってるの?」と尋ねてくるではありませんか!。
 

 だからといって例会に参加するようにはなっていませんが、グループラインで 「今日はこんな人のこんな話を聞いた」など書くと「それ俺の話やん」など、以前とは違う反応があるようになりました。
 
そんな中、つい昨日、地域の内科医師と産業医と職場との連携で精神医療センターに再入院の話が出てきました。
 
本人は非常に反発して入院となれば今度こそ離婚になると心配しています。
 
(それが嫌なら 飲まへんかったらええのに)など思いつつ「そうか、あんたは入院は嫌なんやな」と本人の思いを受け止められていました。
 
不安で一杯で怒り倒していた半年前とえらい違いです。
 
弟の回復はまだまだこれからですが、誰にでも回復の可能性はあると知ったし、少なくとも私は例会参加で落ち着いた気持ちを増やせました。
 
会に感謝し、今後もお世話になりたく宜しくお願い申し上げます。



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<リンゴ>
入院の十月4日を切りにして断酒で迎える今日十月4日    



45.









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<ルコウソウ>
真剣に断酒に取り組む先輩の真似して歩きて一年断酒    
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