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体験を語ることの意味
(故人)新阿武山病院理事長 今道裕之(全断連顧問)
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「いい体験談を聴かして貰えるのなら、
握り飯と煎餅布団があればどこへでも行こうと思う。何故だろう。
心のうちを正直に語れたとき、身体の芯から温まる。体験談て不思議だ。」(酒害者)
断酒会における例会は、「体験談にはじまって体験談に終わる」といわれています。
この言葉にはいろいろな意味が含まれていますが、ここでは、そのもっとも重要な意味について考えてみたいと思います。
初めて例会に出席する人は、断酒会に限らず、何らかの期待と戸惑いと緊張感を持って参加します。
その上、酒害者の場合には、まだアルコールの入った頭で、あるいは酒が切れていてもまだ日が浅く、もうろうとした頭で出席する人がほとんどです。
また、長い間の常軌を逸した飲酒のために孤独に陥り、すっかり人の話が素直に耳に入らなくなってしまっている精神状態でもありますから、初めて出席した例会については、ほとんど何も理解できない人たちが多いようです。
中には、例会に参加している多くのメンバーや家族の話を素直に受け入れ、そこに自分の体験との多くの共通点を見出し、もう自分は到底酒なしで生きることはできないと信じ込んでいたのに、自分と同じような体験をしてきた人たちが、実際に酒をやめている姿を目の当たりにして驚き、それなら同じ人間である自分にもできないはずはない、と希望を抱くようになる人もいますが、そのような人は、実際にはそんなに多くはありません。
むしろ、初めて例会に来た人の多くは、多少は酒をやめたい気持ちがあっても、家族や職場の人々の説得や圧力によって、わけも分からないまま仕方なしに出席した人たちですから、素直に他のメンバーたちの話が耳に入るはずもありません。
否認症状が作用して、「俺はまだあの人よりもましだ」、「妻に逃げられたりするようなことはない」、「酒は飲んでも誰にも迷惑はかけていない」、「俺の酒はやめようと思えばいつでもやめられる」などと、他のメンバーたちとの相違点ばかりが頭に浮かんできて、むしろ、「ここは俺なんかが来るところではない」と考えてしまう人たちがほとんどでしょう。
このような人たちが一日も早く例会に溶け込んで、その中に希望や喜びを見出すようになるには、どんなことが必要なのでしょうか。
まず 彼らのほとんどは、自分が酒をやめられるなんて思ってはいません。
酒なしで生きていくなどということは、まったく考えられなくなっています。
友人を失い、家族からも相手にされず、完全に孤独になっている自分を救ってくれるものは、ただ酒でした。
彼等には、酔いの世界にひたすら沈殿して、その中で現実をも、われをも忘れ去ってしまっている瞬間だけしか存在しないのです。
「ずっと以前には幾度か、酒をやめなければ生きていけなくなることを直感し、繰り返し断酒に挑戦してみたこともある。
しかし、それもことごとく失敗に終わってしまった。今はもうそんな無駄な努力をしようとも思わない。
もう生きることも、死さえもどうでもよくなった。
ただ酒さえあれば、それで十分なのだ。そんな私が断酒会に来てみたところで、一体何が変わるというのだ。
断酒会なんて、自分と同じくらい酒を飲んできた人間が酒をやめているなんて、そんな馬鹿なことがあろうか。
確かに例会に来ているときは飲んでいないかもしれないが、帰りには一杯ひっかけているに違いない。
断酒会に入ったぐらいで酒がやめられるなら世話はない」と思っています。
こんなに言う人でも、じっくり話を聞いてみると、「そりゃ無理だとは分かっているが、本当に酒がやめられるものならやめたいですよ。
やはりこのままでは死にたくない。
まだしなければならないことが沢山ありますからね」と、その心の奥底を打ち明けてくれます。
まだまったく希望を失ってしまっているわけではないのです。
このような人が何度か例会に出席しているうちに、そこにいる先輩、仲間たちが本当に「私の仲間」だと肌で感じるのは、どんなときでしょう。
勿論、そこにいる仲間たちが心を開いて暖かく自分を迎え入れ、「人」として相対し、励ましてくれたときでしょう。
と同時に、仲間たちがその新しいメンバーに対して、自分たちが「仲間」であることを、自らの体験を通して感じとってもらわねばなりません。
体験談が必要とされる理由の一つはここにあります。
もう説教や叱責は聞き飽きています。
それは仲間でないことを証明しているようなものですから、そのことで酒害者はますます心を閉ざし、結果的には飲酒を促すことになってしまいます。

<うぐいす>
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真剣に断酒に取り組む先輩の
真似して歩きて一年断酒
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先輩である仲間たちが、自分もかつてそうであったときの苦悩や、仲間を得たときの感激を体験として語るとき、新しいメンバーはその人の中に「仲間」を見出すのです。
「この人たちなら私の気持ちも分かってくれる。
私の周りにいたこれまでの人たちとはまったく違う」と感じることができます。
無論、先輩の体験談を聞く側である新しいメンバーの聞く耳、姿勢も大切です。
「酒をやめるために、折角昔のいやな思い出を忘れようとしているのに、断酒会の人たちはそのような忘れたい事柄を思い出すような話ばかりする。
いつまでも過去のことにこだわるのではなく、昨日までのことはきれいさっぱり忘れて、新しく出直すというような前向きの姿勢でなければ意味がない」と言ったりする人もいます。
もっともらしい理屈ですが、人は過去から逃避することはできても、決して過去を忘れ去ってしまうことはできません。
むしろ、過去から逃避するために酒を飲んできたのではないでしょうか。
過去を忘れようとすれば、「酔う」以外にないのです。
そして。「酔う」ことは過去だけでなく、現在もまた未来をも忘れさせてしまうのです。
希望は逆の方向からしか生まれてきません。
つまり、忘れたい過去に向かって正面きって対決し、深く内省した心をエネルギー源にして、現在の自分の中に、未来を創造していく希望を芽生えさせていくのです。
人は過去を切り捨てることはできませんが、過去の体験を現在に、そして、未来に活かしていくことはできます。
人間の強さ、弱さは、酒を飲んだか飲まないかで決まるのではなく、じっと正面から過去を見据える勇気があるかないかで決まってくるように思えます。
初めて断酒会に参加する人は、少なくともこれだけのことは覚悟した上で参加する心構えが必要でしょう。
そうすれば、仲間の体験談が自らの体験談を映し出してくれ、今の自分の心に大きく響くものを感じ出させてくれます。
次に、例会の中で体験談を語り続けることの意味は、断酒を続け、その決意を日々新たにしていくためには、常にあの飲んだくれていた頃の「どん底」を繰り返し思い起こして、深く胸に刻みつけておくことにあると思います。
時間は人の記憶から感情を拭い去り、体験を色褪せたものに変えていきます。
あれほど苦しかった体験も、年月の経過とともに苦しさは消え、懐かしさがそれにとって代るようになります。
このような感情の移り変わりがしばしば初心を忘れさせます。
何とかして酒を断ちたいと必死に願う心は、どん底におけるあの深い苦しみの中から湧き上がってきたものです。
体験を真に体験として、いつまでもそのままに持ち続けていくには、まさに今ここに再びその体験を甦らせ、あの苦悩の中にもう一度我が身を沈めなければなりません。
そして、これを絶えず繰り返すのです。
もう二十年以上も断酒しているあるメンバーは、可能な限りほとんど毎日のようにあちこちの例会に出席して、体験談を語り続けています。
そして今でも、体験を語っているその人の目には涙が溢れているのです。
二十年以上も過ぎた今も、あの酒害の体験は、きのうのことのように新鮮な体験として甦ってくるのです。
こうした酒害の体験を、深い苦悩とともに再び呼び起こすことによって、いま生きていること、新しい生を創造してきたことの喜びを、今日もまた深い感動をもって噛みしめることができるのです。
体験を「語る」には相手が必要です。
酒害という固有な体験を共感できる人たちに聞いてもらうことが、孤独を解放し、喜びを大きくしてくれます。
例会の中で体験を語ることは、何よりもまず自分自身のためです。
例会は、人のために演説をする場でもなければ、自らの断酒を自慢する場でもありません。
自らを孤独から解放し、自らを許すために心を洗うところです。
そしてまた、この喜びを人に伝えていく場でもあります。
体験を語ることは、自分自身への救いであると同時に、他の人への奉仕でもあるのです。
わが国の断酒会の礎を築いた高知県断酒新生会の初代会長であり、全日本断酒連盟の初代理事長でもあった松村春繁氏は、優れた洞察力をもった人でした。
彼が断酒例会の中で残していった数々の名言は、会員の手によって五十の言葉に集約され、松村語録として今も全国各地の断酒会員に語り継がれています。
その中に、「例会の二時間は断酒の話のみ真剣に」という言葉があります。
この言葉は他の言葉と同様に、彼自身の長年にわたる例会運営の貴重な経験から生まれてきたものです。
断酒会初期には数多くの人たちが入会しましたが、その翌年にはほとんどの人たちが飲酒して会から脱落していきました。
そして、断酒を続けている数少ない人たちと、脱落していった人たちの違いに気づかれたそうです。
すなわち、脱落した人たちは、例会の中で自己の体験を語ることなく、単なる近況報告やかけ声だけの決意表明に終始していた人たちで、断酒を続け、成功している人たちは、例会の中で自己の酒害にまつわる体験を、深くざんげするような気持ちで語り続けていることに気づかれたのです。
こうして、この時から松村さんは、例会の間は「飲酒と断酒にまつわる体験」だけを真剣に語ることが、いかに大切であるかを説くようになったそうです。
松村さんのこの貴重な経験から生まれた真理を忘れたとき、その人は再び飲酒に走り、例会は衰退していくでしょう。
人生は体験です。
体験の重みを知らない人は、真に人生を生きることはできません。
人間として生まれてきてよかった、とその深い喜びを感じるのは、過去の体験が現在の生の中に脈打って生かされていることを、実感するときではないかと思います。
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