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 信じるということ


 
                  (故人)新阿武山病院理事長 今道裕之(全断連顧問)  
  

『人には必ず信頼にこたえようとする心がある、―ということを忘れたとき、治療は失敗に
 
終わる。感情のレベルでなく、信じられない人を信じきるのはその人の意志の問題である。
 
信じる意志を強くもって信じ続けているうちに何かが変わってくる』(今道先生)
 
                                                 

 人間関係につまづいてアルコール症になることも多いが、アルコール症者自身も自分とまわりの人たちとの関係を崩していきます。
 
だから、この病気ほど、患者さんやその家族の人たちやまわりにいる人たちから「信用」とか「信頼」という言葉を、よく耳にする病気はありません。
 

 繰り返しそんな言葉を聞かされているうちに、人と人との間にある「信頼」とは、本来一体どんなものだろうか、と考えるようになります。
 

 信頼とは人と人との間に生まれてくるものですから、信頼する側とされる側とに分かれます。
 
人は本来自分以外の人を信頼したいと思い、また信頼されることを願っています。
 
最初から人を故意に疑ってかかろうとする人はいないでしょうし、誰からも信頼されたくないと思っている人もいません。
 
私たちはいつも誰かを信頼し、誰かに信頼されることを願いながら生きています。
 
信頼がなくなれば、私たちは健康で生きていくことができなくなります。
 

 精神病の世界では、しばしばこの信頼がまったく失われています。
 
たとえば道を歩いているとき、偶然向うの方で見知らぬ人同士が話し合っているのを見ると、自分の悪口を言っているように感じてしまいます。
 
側を通りかかった車がたまたまクラクションを鳴らすと、それが自分を襲うための合図のように感じたりします。
 
まわりの人はすべて敵に見えてきます。
 

 このような病になる人は、元来非常に繊細な心の持ち主ですからごく仔細な事柄から人への信頼を失い、それがやがては、まわりの世界全体への信頼を失わせることになっていくのでしょう。
 

 心を病む人は、健康と呼ばれる人よりもそれほど信頼というものに敏感で、それをとても大切に考えている人たちだと思います。
 
言い換えれば、人を疑い、また人から疑われることをあまりにも恐れるため、自分自身の心の中に一旦疑念が生じると、それをもはや普通の精神で肯定し、受け止めることができなくなります。
 
そして、一挙に破局へと向かわざるを得なくなってしまうのでしょう。
 

 そんな点では、いわゆる健康な人は信頼というものに対して鈍感だといえるし、少し見方を変えれば、信頼と疑念とを要領よくバランスを保っているともいえるでしょう。
 

 まだ断酒することのできない酒害者や、断酒生活に入って日の浅い酒害者の心は、信頼という点からみれば、心を病む人と本質的にさほど差がないようです。
 

 長い間の常軌を逸した飲酒行動のために、周囲の信頼を失い、自分自身もまわりを信頼することができず、自らさえも信頼できなくなっています。
 
こんな心の状態の人に、「信頼されるようにしなさい」といくら声を大きくして言っても、それがまったく無駄でしかないことは、酒害者のまわりにいる人なら誰でも経験しているところです。
 

 治療的に大切なことは、信頼されるようになることを患者に求めるのではなくて、まずまわりにいる人達が患者さんを信頼することです。
 
人が、信頼できる人を信頼するのは当たり前のことですし、簡単なことです。
 
しかし、信頼できない人を信頼することは、容易なことではありません。
 
しかし、これまで信頼されなかった人が信頼されると、その人は、必ずその信頼に応えようとするようになります。
 

 以前、精神病院では、アルコール中毒の患者は、外に出れば必ず酒を飲むからと言って、滅多に外出もさせず、閉鎖病棟に隔離していました。
 
しかし最近では、患者さんの治療意欲を信頼して病棟は開放され、院内からどんどん地域の断酒会に出席するため、ひんぱんに外出できるようになりました。
 
こうして患者さんを信頼すれば、案に相違して、飲酒せずに帰院する患者さんの数が圧倒的に多くなりました。
 

 それでもある患者さんは、外出する度に必ずと言ってよいほど飲酒して帰ってきました。
 
半年もそんな状態が続いたので、私の力ではどうすることもできないと絶望し、一旦退院してもらうことになりました。
 
しかし、その後も地域の保健所の保健婦さんが諦めず、その患者さんと共に断酒会に出席し、励まし続けました。
 
数ヶ月を過ぎた頃、その患者さんは遂に断酒に踏み切ったのです。
 
私はその患者さんを信頼する意志が足りなかったことを恥じました。
 
こんなケースはたくさんあります。
 


 
<梅>
阿武山の坂に登れば ウグイスの
 
  声のどかなり 断酒の喜び
 
 

 「人間には必ず信頼に応えようとする心があるのだ」ということを忘れたとき、治療は失敗に終わります。
 

 これに似たようなことは、患者と家族の間にもみられます。
 
「退院してもどうせまた飲むに決まっている」と信頼できないし、仕事から帰ってくれば、「ひょっとして飲んで帰ってきたのではないだろうか」とそれとなく近づいていって、酒の匂いを確かめようとする。
 

 信頼されていないことを知った夫は、それに腹を立てて酒をあおってしまう。
 
夫婦の間でこのような繰り返しが見られることがあります。
 
そんな家族に対して、「ご主人を信じなさい」と言えば、「夫が悪いのに、なぜ私が忠告されねばならないのか」と腹を立てられる。
 

 そんなとき私は、奥さん方によく言います。
 
「感情のレベルで信じられないのは当然でしょうから、その気持ちはよく分かります。
 
信じられる人を信じるのは誰にでもできることです。
 
しかし、信じられない人を信じきるのは、その人の意志の問題ではないでしょうか。
 
信じきれない心を抑えて、信じきってみるのです。
 
この場合、信じることは感情の問題ではなくて、意志の問題であることを知らなければなりません。

 

 信じる意志を強く持って、信じ続けているうちに何かが変わってきます。
 
これまで酒の問題にばかりふりまわされていた自分の姿や、頭から疑ってかかっていた自分が、恥ずかしく思えてきたりします。
 
同時に、相手の良い面や、相手が信頼に応えようとして懸命に努力している姿が見えてきます」と。
 

 アルコール症の治療は、治療者側が一方的に患者を信じるところから始まります。
 
そして、信じることによって、病気は治る方向に向かい始めるのです。
 
信じる意志を失えば、治る病気も治らなくなる―というのは、決して心理学的に根拠のないことではないのです。

 

 断酒会でも同じことがいえます。
 
新しく入会してきた人が本当に断酒できるか、断酒会に続けてきてくれるのか分かりません。
 
しかし、先輩たちはその人を信じます。
 
それでも何回かみんなの期待を裏切っているうちに、先輩たちはその人を信じられなくなりそうになります。
 
ときには、いよいよ駄目だということになると、「この人は単なる酒害者じゃない、他に病気があるのではないか」と諦めにかかろうとします。
 
大切なのはこのときです。
 
断酒会に見放された酒害者はどうなるでしょう。
 

 行く末は明らかに見えています。
 
どうしようもない、と思う前に、信じるとは、相手によって影響されるようなものではなく、信じることへの自らの意志をどれだけ強く持ち続けるかの試練であることを、自覚しなければならないのではないでしょうか。
 

 信頼は、必ず表情や言葉や態度になって表れます。
 
これまで誰をも信頼することができなかった酒害者が、人の信頼に心を打たれて、自分の心を開くようになるのはこのときです。
 

 酒害者の言葉に、謙虚に、根気よくじっと耳を傾けることが、まず第一に重要なことでしょう。
 
そのとき新しい酒害者は、「こんな俺でも信頼して話を聴いてくれる人がいるのだ」と感じ、それに応えようと一生懸命努力するようになるのです。

 

 信頼されるというのは、相手の信頼を待つのではなく、自らが相手を徹底的に信頼することから生まれてくるものではないでしょうか。
 
信頼が意志の問題であることには、まだほとんどの人が気づいていないようです。
 




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   断酒会「松村語録」より

       自分の断酒の道を見出そう
     

                        *松村春繁 全日本断酒連盟初代会長(S38.11設立) 
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