奉  仕


 
                   (故人)新阿武山病院理事長 今道裕之(全断連顧問)  
  

「人のためにやってやるんだ、なんて自惚れは、本当に人のためにならない。この人は私と同じ
 
だ、この人が救われたいように私もこの人によって救われたいという気持ちになったとき互いの
 
心が通じ合う。人はお互いの心が通じ合うことによって互いが救われる」(酒害者)
 
                                                 

 断酒会とは、と聞かれれば、自らの酒害に悩み、酒をやめたいと願っている人達が集まって、励ましあいながら酒をやめ続けている会、ひと言でいえば、アルコール症からの回復を目的とする会、というのが一般的な答えでしょう。
 

 しかし、断酒会にはその他に、簡単な言葉では言い尽くせない重要な事柄―心の宝物―が含まれています。
 
その中でまず挙げねばならないのは「奉仕の精神」でしょう。
 

 断酒会が素晴らしい奉仕団体であることは、少しでもこの会を知った人なら、誰にでもすぐ分かることです。
 
奉仕活動が日常生活の中にごく自然に浸透している西欧の国々とは違って、日本人のわれわれにとって、奉仕という言葉はさほど身近なものにはなっていないようです。
 
広辞苑を開いてみますと、奉仕とは、「献身的に国家、社会のために尽くすこと」と書かれています。
 
広辞苑を書き変えようなどという大それた気持ちはありませんが、断酒会の人達の日ごろの活動ぶりを見ていると、この定義ではどうも満足できません。
 

 ある会員さんが、こんな話をしてくれたことがあります。
 
「長年酒をやめていると、誰からともなく話が伝わっていくのか、まったく知らないいろいろの酒害者の家族から電話があって、主人の酒で困っている、一度きて話をしてみてもらえませんか、と言うんです。
 
自分が調子のよいときには、よし頑張って何とかその人の酒をやめさせてやろう、と張り切って出かけます。
 
しかし、こちらが力めば力むほどうまくいかないのですね。
 
かえって結果は逆になり、こちらまで腹を立ててしまいます。
 
後でふり返ってみると、熱意だけはあるんですが、その人を何とか助けてやろうと言う気負いが、相手から見れば説教者のように見えたり、自分の気持ちも分からないくせに押し付けがましい話ばかりしやがって、と反発したくなるんでしょうね。
 

 そう言えば、飲んでいたときは私だってそうでした。相手が何も言わなくても、酒をやめている人間が目の前にいるだけで、一層自分が惨めな気持ちになりましてね。
 
ちょっと酒をやめているからといって何を偉そうな顔をしてやがる、と反撥したくなってしまうんです。
 
そんな過去の自分の姿を忘れてしまっている状態では、相手の気持ちを変えることができないのは当たり前ですよね。
 

 意気込んで出かけたときよりも、今日はどうも自信がないなあと思いながら、半ば仕方なしにいったときの方が案外うまくいくんです。
 
近頃になってやっと気づいたのですが、そんなときは私も自信がないものだから、自然にあまりこちらから一方的に話しかけないんですね。
 
相手が屁理屈を交えながら話しているのをじっと聞いていると、ああ自分も昔はこうだったな、と当時の気持ちを思い出してくるんです。
 

 聞いているこちら側には少し余裕がありますから、そこの家の中の情景なんかも目に入ってきます。
 
横で奥さんが不安な表情でオロオロしている。
 
隣の部屋では子供も心配そうにこちらの会話に耳をそば立てている。
 
家具や食器なんかがあちこちに散らばり、ついさっきまで主人が暴れていたことが歴然としている。
 
そんな情景が想像されると、俺も昔はこんなだったな、こんなに家族はオドオドしていたのか、家中がこんなに酒臭かったのか、ひどいもんだったなあ、と思い出しながら相手の話を聞いているんです。
 

 俺もまったくあんたと同じだったよ、と思うとますます何も言えなくなる。
 
そんな私の気持ちが相手に通じるのか、言葉遣いも優しくなり、自然に相手から話しかけてくれるようになります。
 
そんな雰囲気の中では、もう自分の昔こと、体験しか喋れなくなってしまうんですね。
 
私もあなたと同じで、飲んでいたときはね・・・という話から、長い間自分が酒のためにどんなに苦しんできたか、惨めな思いをしてきたか、家族を泣かせてきたか、といったようなことが、次から次へと口をついて出てくるんです。
 

 懺悔するような気持ちでそんな話をしていると、その人をもう何年も前からよく知っている友人のように思えましてね。
 
いつの間にかその人も私の話に耳を傾けてくれていて、涙をにじませているんですよ。
 
そして、最後に私は言うんです。
 
私はあなたを助けようと思ってきたんじゃない。
 
説教しようと思ってきたんでもない。
 
こうしてあなたの家にきて話していると、昔飲んでいた頃の自分を思い出すし、それが私の励みになり、酒をやめ続けていく気持ちを強くするんですよ。
 
私にとって、とても有難いことなんです。
 
私がこれまで酒をやめてこられたのも、あなたのような仲間がいたからなんです。
 
私達は仲間なしでは酒はやめていけないし、生きてもいけないですものね、と。
 
そんな風に話ができるときは、むしろ自分も調子悪いときなんですね。
 
だからそんなとき、私は本当にその人のお蔭で救われていることを、つくづく感じることができるんです」と。
 

 そして最後に、その人はこう言いました。
 
「人のためにやってやるんだ、なんて自惚れは本当に人のためにはならないんですよね。
 
この人は私と同じなんだ、この人が救われたいように、私もこの人によって救われたいんだ。
 
この人が仲間を求めているように、私もこうして仲間を求めてやってきたんだ、という気持ちになったとき互いの心が通じ合うんですよね。
 
人と人は心が通じ合うことによって互いが救われるんですよね』と。
 

 この会員さんの話は、私に「奉仕」の真髄を教えてくれたように思います。
 
分かってみれば当然のことですが、奉仕とはひと言でいえば、愛から生まれるのだということです。
 
愛によって心と心が通じ合うところにしか、「奉仕の心」は生まれてこないように思います。
 
逆にいえば、愛のないところに奉仕も生まれてきようがありません。
 

 医療は、もともと人類の生命を尊び、人間への深い愛から生まれてきたはずですが、現在医療に従事している私の目からみても、残念ながら、医療者の間で奉仕をその本分と心得ている人は、少なくなってきているように思います。
 
そんな世界で働いている私達の目に、断酒会の精神がことさら素晴らしいものとして映るのは、私達医療者が失いかけている「人間の愛」を、そこにみることができるからでしょう。
 

 人は愛の力でお互いを支え合うことによってしか生きることはできません。
 
そしてそれは、私達がすべて「同じ人間」であり「同じ人生」を生きているという共有体験の意識化なのです。
 
職業の違い、身分の違い、国の違い、人種の違いなどは、往々にして私達が同じ人生を生きていることを忘れさせ、はげしく憎みあったり、戦争にまで発展させてきました。
 

 酒害者にとって「断酒」とは「愛」を自らに取り戻すことであり、断酒会員以外の人もそこに断酒会の真髄を見出し、自分の中にある愛を点検する手本にすべきだと思います。
 
人間にとって、奉仕こそ最高の生きがいではないでしょうか。
 




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   断酒会「松村語録」より

       断酒会員であることを誇りに思え
     

                        *松村春繁 全日本断酒連盟初代会長(S38.11設立) 
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