上村千賀志断酒道場長の体験談 


(和歌山断酒道場の設立と児玉正孝前道場長を交えての体験談)
 
 於:奈良若草断酒会平成11年7月第4回一泊研修会            




 1.あいさつ
 2.和歌山断酒道場の設立と児玉断酒理念の設立
 3.和歌山断酒道場への入所と自分の現実との出会い
 4.児玉断酒道場長の教えと、我執への気付き
 5.児玉道場長婦人との確執と感謝の心の芽生え
 6.「一日一日を大切に生きること」、一日断酒の教え


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<ザゼンソウ>



「酒」
 
酒害者の家族にとってこれ程
 
恐ろしいものはない
 
辛いものはない
 
苦しいものはない
 
悲しいものはない
 
恥ずかしいものはない
 
大嫌いなものはない
 


 

1.あいさつ





 お早ようございます。
 
上村でございます。
 
貴重な時間を頂きまして恐縮しております。
 
5月には皆さんもご存じの、岡山の山方名誉会長さんが亡くなられました。
 
私も告別式に参列させて頂きましたが、お顔を拝まして頂きまして、まったく仏さんの顔をしておられました。
 
非常に感銘を受けた訳でございます。
 

 人間は生きてきたようにしか死ねないと申しますが、山方さんの様にありたいものだなあと考えたわけでございます。
 




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<ノアサガオ>
命より家庭よりもの酒捨てし 強き勇者の君を仰ぎぬ  



2.和歌山断酒道場の設立と児玉断酒理念の設立





 今日は道場のことなども話してほしいということですが、この4月道場は創立30周年を迎えました。
 
申し遅れましたけれども、そのおりには皆さんにもご参列頂き、また記念事業に際しましてもご協賛を頂きまして高い席からではございますが、厚くお礼申し上げます。
 

 道場の創立の経緯でございますが、昭和30年代の終わり頃、和歌山の中村欝次郎さん、創立者の中村先生と私は申し上げておりますけれども、この方が、息子さんの酒害で随分苦しまれた。
 
当時のことですから、いまでも誤解と偏見はありますが、当時はもっと強かった。
 
専門の医者もいなければ、断酒会もない時代でございます。
 
たまたま先年亡くなられた大野さん(全断連元理事長)との出会いがあり、大野さんのご紹介で久里浜病院に入院しました。
 
そこで、なだいなだ先生との出会いがありまして、「退院したら和歌山に断酒会を作るように」と、そう言うことで、当時大阪の南の方で断酒会を作る準備をしておられました米田先生を紹介して頂きました。
 

 この米田先生は、いまでも道場の顧問をしていただいている訳でございます。
 
息子の中村公彦さんは、米田先生のご指導で、当時阪和断酒会というものが作られていまして、その会長を16年され、現在は名誉会長、道場の理事長をしておられます。
 
お父さんは、自分の所だけ助かればいいものではない。
 
自分も、人知れず泣いてきたのだ。
 
本当に辛かった。
 
全国には、自分のように困っておられる家族が、たくさんおられるのに違いない。
 
そう言うことから断酒道場が作られることになりました。
 
当時のことですから、産みの苦しみというのがあったように思うのですが、 道場の特徴というのは作ったのは家族、創立したのは家族でございます。
 
運営しているのは理事長と私、両方とも体験者でございます。
 

 時の道場長は児玉正孝先生で、広島県のご出身、作り酒屋の息子さんです。
 
この方がアルコール中毒になられ、(昔は、アル中と言われておりました)精神科に23回入られたそうです。
 
そして八丈島に渡られた。
 
当時、八丈島にキリスト教矯風会で断酒療養所というものを作っておったんです。
 
そこに行かれたわけです。
 

 前道場長の体験談をうかがっていると、いろんなことをやっておられるのですが、赤ん坊の頃ですね、お爺ちゃんが初孫だというので、えらい喜んで、抱っこされる。
 
お酒の好きなお爺ちゃんです。箸にお酒を付けて赤ん坊に、児玉先生になめさせた。
 
そしたら、ニタニタ喜んで笑っておられた。
 
さすがにわしの孫じゃと、えらい喜んでおられた。
 
そう言う話を、お伺いしたこともございます。
 

 奥さんも随分苦労をされて二人のお子さん、男の子を育てられたわけです。
 
そして児玉先生は、八丈島でピーマンの移植をされるときにピーマンの根を見られて気付かれたのです。
 
悟られたのですね。
 
「洒だけ止めても駄目なんじゃないか」。
 
このピーマンの根みたいなものが、何か残っているのではないか、これが児玉断酒理念と申しますか、教え、お考えの始まりであるように思うのですね。
 

 そして八丈島で修行されて、酒との縁も切れまして、しばらく広島にも帰っておられた。
 
かつて入院した病院を訪ねて、とにかく酒が止められたので嬉しくてしょうがない。
 
そこの院長に断酒、断酒と話しておられたそうです。
 
そうすると先生が、 児玉さん、あなたは断酒、断酒と言っているけれど、それは種を断つことか?去勢のことか?と」。これはある意味では正解であるわけですが、「酒を止めているだけでは駄目なんだ」。
 
「酒を止めて、そして人間的にも成長しなければ断酒の意味はないんだ」と、そう言う忠告を受けられたわけです。



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<ノースポール>
家庭(いえ)あるも命あるも職あるも 断酒の道を歩きてこそぞ  



3.和歌山断酒道場への入所と自分の現実との出会い





 その先生の教えも児玉断酒理念が、生れるきっかけになっているように思います。
 
私は精神病院を7回、自殺未遂を3回やりまして、昭和52年に道場との縁があったわけでございますが、入所前に、私に体験談によく出てきますけれども、母親が「安心して死にたい」と言ったんですね。
 

 それがひとつの大きな、私にとってのきっかけになっているわけです。
 
その一書で仏の御眼、半眼はんがん)と言うそうですが、あれになったのです。それまでの私は、両眼とも外を見ておりました。
 
いわゆる他罰性という奴です。
 
なんでもうまくいかない原因を人のせいにする。
 
あいつが悪い。
 
こいつが悪い。
 
あいつがこういうから俺は酒を飲むんだ。
 
そういう私でしたけれども、r安心して死にたい」という一言を聞いた時に、半眼になったんです。
 

 半分は内を見て、半分は外を見る。
 
半分は己れの心を見て、半分は自分の現実を見るというらしいですね。
 
そして道場に入ったわけでございますが、そこで始めて前道場長の断酒道『反省・感謝・報恩』との出会いがあったわけです。
 
私もある体験を通じて、反省しないと酒が止まらんなあとうっすら分かってきたわけですが、ああ、やっぱりそうだと、昔は反省じゃなくて後悔ばかりしておりました。
 

 反省と後悔は全然違います。
 
反省は前向きで前進といいます。後悔は後向きで後退、これは米田先生に教わったことなんです。それまでの私は誰かがなんとかしてくれるでしょぅ症候群。
 
アルコール依存症者のことを、こういう風に表現しますが、どんなに困ったことがあっても、経済的に行き詰まっても、誰かがなんとかしてくれるでしょう。
 
まさに、私がその通りであった訳です。
 

 俺は、まだそこまでいっていない。
 
自分で底を掘っている訳でございます。
 
鏡のない世界にいると表現された先生もいますが、家族に色々言われるがぴんとこない。
 
なぜ、そんなに飲むの。
 
なぜ、家族の辛い気持ちを分かってくれないんだろうと言ったところで、本人は鏡のない世界にいるから、自分を写して眺めることのできない世界にいるわけですから、ぴんとこない。
 
そんなことを言われるとおもしろくないから、余計に酒を飲む。
 
ちょうど私が、そういう状態にありました。
 
現実から遊離した世界にいたわけです。
 

 なんとかなると、いろんなことをなんとかなるでやってきました。
 
なんともなっていない訳ですねえ。
 
道場で反省をして始めて鏡のある世界に入ったんです。
 
自分の現実に自覚めたんです。
 
自分の不様な姿を見たんです。
 
その時見たのは、家族の地獄でございます。
 
私の地獄というより、家族の地獄でございます。
 

 私の年とった母親は、その地獄でのたうちまわっておった。
 
助けてちょうだい。
 
お母さんはもう限界だと、その姿が見えたのです。
 
その悲惨な叫び声が、聞こえたのです。
 
そこから初めて私は、素直になれたのです。
 
このままでは駄目だ。
 
なんとかしなくてはいかん。
 
自分でなんとかしなくては、そういう積極的な姿勢になってきたんです。
 

 その、どん底体験の時に始めて酒も、本当に腹の底から止めようと、その辺がやっぱり曖昧であったように思うのですね、最初の頃は。
 
どん底というのは有り難いもので、何よりも自分がおふくろの立場であれば気が狂ったであろうと。
 
とても、兄貴に土下座までして道場にやってくれなかったろうと。
 
現実に私が、道場に入るにあたって経済的にも行き詰まって、反対する長兄に土下座して道場に入所する費用を捻出してくれたわけでございます。
 




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<ノジスミレ>
あの地獄思えば遠き水口も うれしき集いの元旦例会  



4.児玉断酒道場長の教えと、我執への気付き





 それから、やる気満々になってきたわけですね。
 
そして私が道場に入った頃、前道場長はご病気で、体の具合が悪くて広島の病院に入院中でございました。
 
朝の講話なんかも、雑音の入るテープで聴いたりしていたんです。
 

 ただ、児玉語録と言うのがあったんですね。
 
その児玉語録は、第2の否認を取り扱った本なんです。
 
ご存じのとおり、アルコール依存症は否認の病気であるとよく言われるのですが、第1の否認。
 
「自分の酒には問題はない」という否認でございます。
 
要するに、アルコール依存症じゃないという否認です。
 
もうひとつは、「酒に問題があることは認めるが、酒以外には問題がない」。
 
酒さえ止めたらすでに、俺は立派な人間だと。
 
この、第2の否認の問題がある。
 

 第1の否認があるかぎり、酒止められる訳がない。
 
第2の否認の問題が残っているかぎり、断酒は継続しない。
 
特に人間関係が破綻するとよく言われる訳でございますが、道場で修行しまして、いろんな気付きがありました。
 
児玉語録の中には、色々なるほどなあ、なるほどなあと領くものがあった訳です。
 

 そういえば、私も頭の次元では分かっているのですね。
 
偉い坊さんに聴いたところによりますと、修行とかお悟りというのは、最初は、「そんなもんかなあ」と思うんだそうですね。
 
次の段階は、「そう言えば、そんなもんかなあ」と思うそうです。
 
しかし、これも本物じゃない。三番目に「なるほどそうだ、これなんだ」「なるほどそうだ、これなんだ」。
 
これが、お悟りであるんだそうですね。
 

 いろんな教えがありますが、「足元を照らして見なさい」。
 
照顧脚下と言う青葉があります。
 
私は最初、それに注目したわけです。
 
いわゆる、履物を出船方式にそろえるということですね。
 
みんな人間には責任義務があるけれど、みんなそれを忘れていると。
 
人の足元に目がいって、人の足元がやたら気になるわけですが自分の足元を見ていない。
 
人の一寸は見えるけれども我が一尺は見えず、まことに昔の私がそうであったわけです。
 

 いろんな教えの中でひとつ感銘を受けたのは甘柿・渋柿の問題です。
 
これは、非常に味のある言葉で、私自身が現実に目覚めた時に本当に自分がこんなに嫌われていたのかと、始めて気付いてびっくりしたんです。
 
自分は上村家の厄介者だなあ。
 
癌だなあと思ったのですね。
 
寄生虫だなあとも思った。
 
また恐怖の存在でもあった。
 
そういう自分の姿を見て、誠に自分は渋柿だと。
 
ぺっ、ぺっ、と唾を吐きかけられたようなもんだと。
 

 しかし、渋柿も吊し柿にすれば味のある素晴らしいものになる。
 
そういうことも書いてありまして、非常に希望を持ったわけですね。
 
ただ児玉語録の中でひとつだけ、どうしても納得できないことがある。
 
人間、一人では生きられないと言うのです。
 
「生かされて、生きている」、なにか宗教や信仰の世界のような話で、私はもともと宗教や信仰嫌いで、東京におる24才の頃、酒を飲んで救世軍に噛みついたことがある。
 
「神がおったら見せろ」と、そういう暴言を吐いているわけですが、いま言いました「生かされて、生きている」なんてぴんとこない。
 
俺は自分の力で生きてきたんだと、自分一人のカでやってきたんだと。
 
いま考えてみると、恐るべき我執でございます。
 
思い上りでございます。
 

 西洋流に言うと、自己愛と言うんだそうですね。
 
人間は、みんな自分が可愛い。
 
自分が大事であるわけなんですが、ご多分にもれず私もそれが強かったわけです。
 

 話は前後しますが、私は、最初道場に行った時は体調が悪かったんで町の医者に2,3回、先輩に連れられていったわけです。
 
これは、薬を切ったときの離脱症状だったんですね。
 
イライラ、不眠、下痢までして最悪の状態、ご飯も食べられない状態だった。
 
その時、タクシーで町の医者に行く時に、やたらに酒の看板が目に付くわけです。
 

 自分は酒を止めるつもりで、酒を諦めて道場に来たつもりだけど、なんでこんなに酒の看板が目に付くんだろうと思ったんですね。
 
約6カ月間修行させていただき、そこで一回挨拶のために、当時、道場に残ることが決まっておりましたんで、田舎に帰ったんですね。
 
その時なにか酒と自分との間に距離ができたと感じるんですね。
 
昔は自分の側で誰かが酒を飲んでいるだけでイライラしたのですが、非常に酒そのものをクールに見れるようになった。
 
アルコール依存症者が酒を飲んでいる時は、酒と自分との関係ですが、自分と酒との関係になったと言うのでしょう か、そういう感じがしました。
 

 田舎に帰って、自分の非を一人一人に詫びたんです。
 
親、兄弟に、俺は間違っていたと。
 
「そこまで、せんでいい〜」、「いや、俺の気持ちだと自然に頭を下げられた」。
 
礼、敬礼、最敬礼といいますか、本当に土下座できたんですね。
 
その時始めて、自分の責任義務、使命と言うのがはっきり分かった気がしたんです。
 

 そして道場に残ることになるのですが、その年の7月でしたか、奈良の本部例会に出たんです。
 
ちょうど昼ご飯の前でしたから、ラーメン屋さんに寄ったんです。
 
中年の方が、隣でビールを飲んでおられる。
 
変な表現ですが、そのビールが私から逃げていくような感じがする。
 
しめたと、思ったですね。



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<ハオルチア・ファスキアタ>
日日の小さき幸せ喜ぶも あの日の苦しみ忘れ得ぬこそ  



5.児玉道場長婦人との確執と感謝の心の芽生え





 そういう体験もあって道場に残ったわけなんですが、最初のうちは意気がっておりましたね。
 
俺が、俺が、俺がみんなを鍛えてやる。
 
俺が教えてやる。
 
そういう時期は、やっぱりしんどかったですね。
 
児玉道場長はだんだん体が弱くなられまして、急に引退されることになった。
 
辞任されまして、最初から私は道場長などやる器ではないと、その時点で分かっておりましたので、ただ児玉先生のお考えに非常に共感するものがありました。
 
修行すればするほど、噛めば噛むほど味があるなあという思いがありましたし、おまけに失業しておりました。
 
そして悪いことを一杯やっておりますし、自分のような極悪アル中は道場のような環境の中に置いとったほうがいいだろう、おふくろも安心するだろうと、そういう想いで道場に残ったんです。
 

 道場では、3カ月たった人は、社会復帰する前に、修了式というのを執り行ないます。
 
私に修了式をやってほしいということを児玉先生の奥さんに言われまして、始めて修了式を執り行ったときに、そこで問題が発生してきたわけです。
 

 私が修了書を読み上げて、渡して祝辞を述べた後に、その修了生が挨拶をするわけです。
 
その中で児玉先生の奥さんの批判をやりだした。「和歌山断酒道場は、児玉道場長、上村場代、その一本の線があれば言い訳で、脇からもう一つ余計なものが出てきてゴジャゴジャ言われたらかなわん。修行なんかやっとれん」と。
 
さあ、えらいことになったなあ。
 
途中で止めさせるわけにもいかん。
 
そのまま修了式を続けて、彼は修行生の挨拶も受けずに出ていった訳でございます。
 

 それからが、問題です。
 
その話はやすらぎの記念例会で一回触れたことがあると思うのです。
 
もうそろそろ時効だと思うので、皆さんの前で申し上げるのですが、いわゆる児玉夫人と私との確執という奴ですね。
 
「上村さん、あなたはなんであそこで修了式を止めさせなかったんですか。こんな恥ずかしい想いをしたのは生まれて始めてです」と言われだしたんです。
 

 さあ、大変なことになった。
 
そして奈良の古谷さんとか、いま植松クリニックにおられる栗原先輩、両方とも先輩でございます。
 
それから関谷さん方に、もう、しょっちゅう電話されて、「あの上村をなんとかせにやあかん。もう、道場を出ていってもらわないかん」、そういうことになった。
 
そこで先輩がた。
 
関谷さんなど奥さん同伴、古谷さんも奥さん同伴で道場に来てくれたんですね。
 

 「上村さん、どうしましたか」「いやいや、ややこしい問題になりましてね」古谷さんが聞くわけです。
 
「ちょっと待ちなさい。今、話を付けてきます」。栗原さんは栗原さんで、あんなぶっきらぼうな人ですが、「おうどうした。そうか。ちょっと待っとけ、今話し合ってくるよ」てなもんです。
 

 で、場長室で話し合いが持たれたわけです。
 
ところが、なかなかうだつがあがらない。
 
段々、段々夕方も近づいてきますんで、で私は「そうだ、俺がひとつ頭を下げれが済む問題じゃないか」と、つかつかと私が出ていって、奥さんの前で頭を下げたんです。
 
「私が悪るうございました」、その途端に、私は姉と言いますが、古谷の姉とか、関谷の姉がワ〜ンと泣きだしたんです。
 
それで、一件落着でございます。
 
つまり、私にも我執というものが残っておった。
 
俺が、俺がというのが残っておったわけです。
 
みんなには、裸になるといいぞお。
 
馬鹿になるといいぞお、と偉そうに言っているくせに、自分のことができてないわけですねえ。
 

 で、そのことで、また大事な気付きがありました。
 
児玉先生の奥さんは、私みたいなものが道場長になるために、ひとつチャンスをくださったのだと。
 
鍛えてくださったのだと。
 
私は当時、その確執のあった当時、「なんで俺が、こんな苦労をせなあかんのか。別に俺が道場に残こらんでもいいじやないか」そんな考えを持っておった。
 

 外の先輩方は、上村は気が狂うんじゃないかと思ったそうです。
 
その時に、先輩の有り難さというのをつくづく感じたわけです。
 
現在の理事長さんは、理事長さんで、児玉先生 不在の時は上村にまかしとけばいいんだ。
 
先輩方は先輩方で、陰で支えてくれているのですね。
 
その友情といいますか、それより以前に有難うの心、感謝の心、お陰さん、これになれたのです。
 

 感謝というのは、すべてを癒すのですねえ。
 
改めて、その時点でこの感謝、有り難い、お陰さまが本物になったように私は思うのです。
 

 我執というのは、自分の考えが絶対に正しいと思っている。
 
自分の小さな考えに執着しているといいますか、西洋流に言えば自己愛。
 
自分を非常に可愛がって、大切にする。
 
さらに、我執を言葉を換えて言えば、思い上がりだそうです。
 
私はもともと自分を過大評価しとったわけです。
 
これは幼少時の親子関係に問題が見られるのですけれども、そういうことで、わしが、わしがと言うのが、お陰さんで、お陰さんでに段々なってきたわけです。
 

 だから道場でよく申し上げるのですが、「わしが、わしがの“が”を捨てて、おかげ、おかげの ”げ”で暮らしましょう」。わしが、わしがと言うのが酒飲ませるのですねえ、考えてみると。
 
お陰さん、お陰さん、これが極楽を招いてくれるわけですねえ。
 
そういうことなども体験させていただいたわけです。
 




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<ハゴロモルコウソウ>
この父の元に生まるを 恨む娘(こ)が 初月給にてライター贈りぬ  



6.「一日一日を大切に生きること」、一日断酒の教え





 前道場長のお考えには、いろんなものがあります。
 
「断酒道とは、人間復活と見付けたり」とか「断酒は酒にこだわるより、感謝の心で生きることから始めましょう」とかですねえ。
 
私、昔はよく兄弟に「おまえはろくでなし、人でなし、情け知らずだ、死んじまえ」と言われて死に方まで教わった男です。
 
ああ、間違っていたなあとつくづく思わせて頂きました。
 
兄貴の言うたとおりで、当時は反発しておりましたが、確かに、人でなしになっていました。
 

 薬物には、みんな副作用があるといいます。
 
アルコールという薬物は、我々にとっては、子供返りをさせる。
 
私は、それは、副作用だと思っています。
 
飲むごとに自己中心的になる。
 
俺が、俺がになっていく。
 

 もともと私は、アルコール依存症になる前から問題があったのです。
 
人様を、高いところから見下げるようなものがあった。
 
親兄弟の威光をかさにきて、必要以上に自分を飾り、大きく見せておりました。
 
これは承るところによると幼少時の親子関係によって出来た傷に問題があるらしいですね。
 
その傷は自分でも見えない、周りの人も気付かない。
 
表現すれば、淋しさ、虚しさ、うつ、罪悪感、罪責感、孤独感、孤立無縁感とか、7つか8つある。
 
そういう心に大きな傷を持った人は、何か大きな出来事があったときに酒にのめり込むとか、あるいは人によっては博打にいくか、女性狂いになるか、薬物狂いになるか、私はたまたま酒に狂ったわけです。
 

 やっぱり道場も、いろんなタイプの方が来られます。
 
酒を止めていても神経症がきついために、社会復帰できない。
 
神経症にも色々ございますねえ。
 
対人恐怖症、不安神経症とか、不眠症でもそうです。
 
潔癖症とかですねえ。
 
そういう人たちの発症の原因も幼少時の親子関係にあるそうです。
 
今来ている人なんか、お父さんが小さい頃厳格すぎた。
 
言いたい事も、言えなかった。
 
押さえ込まれているわけですね。
 
それが、その発症に原因になっとる訳ですねえ。
 
ですから、アルコール依存症者は十把一かげらには、いかないわけです。
 

 昔はみんな私の言うとおりやっとけば、間違いなく断酒は成功しますよ、なんて偉そうなことを言っていた。
 
とんでもない間違いです。
 
発症の原因だって色々ある。
 
人によっては時間のかかる人もある。
 
私の家内なんかは一緒に歩くと、あなたは歩きが鈍いなんて言います。
 
「俺は大地に足を着けて、しっかりと歩いているんだ」なんて事を言うわけです。
 

 色々ありますね。
 
早く気付く人、時間のかかる人、色々あります。
 
人間というのは、自分が見えてくると人を見下げるわけです。
 
そういうところが、あります。
 
私にも、やっぱり出てきました。
 
一生懸命やっている人は、そうでない人を舐めてかかるとか、こういうものがやっぱり出てきます。
 

 児玉先生は、もう時間もなくなりましたけれど、一日断酒というものをどういうふうに考えておられたかと言いますと、ただ一日酒を止めればいいというものではない。
 
パチンコでもして、時間を潰して、「とにかく酒を飲まなければいい」、そんなのは一日断酒ではない。
 
一日断酒と言うのは、その日、その日をしっかり生きることだと。
 

 「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉がありますが、武士というのは死ぬのが武士ではないのです。
 
武士は、いつ戦があるかわからない。
 
だから平素を大切にしている。
 
平素、家族が安泰に暮らせるように、ちゃんと段取りをしておく。
 
体の悪い家族がいたらそれを治してあげて、いつ死んでも悔いの無いような生き方をすることが、これが、武士道とは死ぬことと見つけたり。
 

 なるほどなあと、思ったですね、これは。
 
後悔しない一日一日を送ること。
 
後悔しない一日とは、人や仕事に忠実であれということ。ですから私も断酒に最初は取り組んだのですが、いつのまにか人生に取り組んでおった。
 
人生という大きな視点に、取り組んでおりました。
 
先程の山方さんの例を見ましても、実にしっかりと生きておられる。
 
後悔しないような一日を、生きておられる。
 
ですから私も一日一日が、いつのまにか、そういうものになってしまった。
 

 今日一日を、しっかり生きよう。
 
感謝の心を持って、しっかり生きようと。
 
そういうような生きざまにならないと、人間というのは成長しない、と言う事だみたいですね。
 

 だが私は、性格的に色々問題を持っていました。
 
自分の性格を、直そうなんて考えなかった。
 
生きざまが変わってきたと申しましょうか、善玉増えれば、悪玉引っ込むで、そう言う生きざまに変わったときに、私の嫌な性格もいくらかなくなっているわけですね。
 
そこで私自身も山方さんの例を見習って、一日一日をしっかり生きようと。
 
人間は生きてきたようにしか死ねないと。
 
よく生きてきた人は、よく死ねる。
 
まったく、その通りだと思うのです。
 

 私には、42才で結婚して一人娘がおるわけですが、高校2年生でございます。
 
ああいうところにおりますとお金とも縁がないし、娘に財産とて残すことができません。
 
またアル中の娘に財産でも残すとアル中になる可能性もございます。
 

 昔はアル中には足跡がないと、よく先輩方がおっしゃっていました。
 
そりゃあ現実から離れているわけですから、足跡が出来るわけがない。
 
空回りしている。
 
一生懸命努力しても、空回りして前に進まないわけですから、私は娘に対して足跡を残してやろうかと思っているのです。
 
お父さんは、最後まだしっかり頑張ってくれた。
 
酒も飲まずに人間らしく、生きてくれた。
 
この足跡なら自分でも残せるんじゃないか。
 
また娘が、これを一番喜ぶんじゃなかろうかとそう言うことで、その足跡を残すべくやっているわけなんです。
 

 道場の断酒誓約の中に、「同僚の失敗、及び行動については決して批判、非難いたしません」という項目がある。
 
さすがに、いいところに児玉先生は目を付けられた。
 
つくづく、特に最近は、そう思うのですね。
 
昔の私は、人の批判、非難、悪口ばっかり言っていたんですね。
 
ところがよく考えてみると、許されているからこそ、ここまで来れた。
 
あるいは自分では気付かなかったかも知れないが、自分が批判、非難している人でも、陰では支えてくれているんですね。
 
あいつは嫌だなあと思う人でも、陰では支えてくれているんですね。
 
そう考えると、人の批判とか、非難とか出来るものではない。
 

 みんな一人一人が大事な命なんだ。
 
道場でも本当にそういう気持ちで、もう私は教えることもできないのだ。
 
彼らが自分で気付かなければ、どうしょうもありません。
 
もう祈るしかない。
 
なんとか目覚めてほしいなあ。
 
気付いてほしいなあ。
 
教えることなど、出来るわけがないです。
 
酒を止めた人は、分かった人じゃない。
 
気付いた人だと言いますね。
 
自分に気付いた人。
 
自分に気付いた人は、全部に気付く。
 
家族にも気付く。
 
自分が見えてきたら、一切が見えてくるわけです。
 

 まあ、そおいうことで、私は祈るわけです。
 
道場の一日の日課が終わったら、観音様のところにいって、こうして拝むのです。
 
合掌の意味というのは、尊敬と信頼、感謝があるのだそうですね。
 
私のおふくろも、私を拝んでいてくれたわけです。
 
私もおふくろを拝み続けています。
 

 申し遅れましたけれども、やっぱり人は、尊敬できる存在がないと成長しないと言いますが、山方さんなんかの例をみても松村先生という、尊敬できる存在があったわけですね。
 
最近、香川の岩崎さんご夫婦の体談を聞く機会がございましたけれども、やはりそいいう存在があったんですね。
 
岩崎さんにとっても、松村先生というね。
 

 私は、親でもべたべたした関係、まあ親ばなれ出来ていなかったんですけれど、考えてみると敬うと言う精神に欠けておった。
 
人を敬い、感謝するという心が無かったわけです。
 
それがいつのまにか、親を拝むようになってきた。
 
創立者の中村先生も私にとって、親なんです。
 
それが、自立していくということだろうと思うんですね。
 

 親を敬い、感謝できる関係にならないと、人間的に成長しないということですねえ。
 
まあ、そお言うことで、今日始めてお会いした方もたくさんおられるわけですが、私にとっては、一人一人が大事な仲間でございます。
 

 私も高い席から、偉そうに話しておりますけれども、一番頼りない極悪アル中でございます。
 
だから、道場に残っているわけです。
 
最低でございます。
 
全然、人間的に成長しないわけでございます。
 
どうしても、皆さんの支えが必要であるわけです。
 
お助けが、必要であるわけでございます。
 

 まあ、そう言うことで、皆さんと仲良く、手をつなぎあって、おかげさん、おかげさんの生活をしたいと、死の準備をしたいな、よく死ぬためにはよく生きようと、そう言う覚悟で日々を生活しているわけでございます。
 

 今後とも、宜しくお願いします。有難うございました。



 
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<ハナウリクサ>
保障なき明日に心ゆらぐとも 今日一日の断酒を喜ぶ  


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