体験談(家族の立場から) 


【家族の気持ちは家族会(家族のみ)で十分聞いてもらい、そして楽になりましょう】
 
  Aさん:「主人との暮らしは生き地獄なんです」
 
  Bさん:亭主の言い訳を聞いて「ふざけんじゃねえ!私をなめとんのか!」
 
  Cさん:「例会で、主人の酷いことを言ってまた飲まれたら困る。」
 

【この世の地獄を見たければ酒害者の家族を見ればよい】
 
  原因は全て私にある。家族さんの話を読ませていただき、己の姿を振り返ります。(酒害者)             




 1.「おかげさまで」・・・感謝の気持ち (栗東支部)
 2.回 復               (瀬田支部)
 3.断酒の道は夫婦同道         (信楽支部)
 4.父の断酒に感謝           (草津支部)
 5.夫を信じて13年           (甲南支部)
 6.アルコール依存症と付き合って25年 (八日市支部)
 7.断酒会に感謝            (栗東支部)
 8.断酒会に入会して        (近江八幡支部)
 9.主人の過去を振り返って     (近江八幡支部) 
 10.断酒20年を迎えて          (草津支部) 
 11.妻の断酒4年が過ぎて        (高島支部) 
 12.新 生              (八日市支部) 
 13.アルコール依存症の辞書       (瀬田支部) 
 14.家族の思い             (甲南支部) 
 15.例会で回復してます         (草津支部) 
 16.また飲んだ             (守山支部)
 17.断酒会に入会して          (草津支部) 
 18.断酒会に感謝           (栗東支部) 
 19.断酒会に入会して          (彦根支部) 
 20.息子の断酒             (長浜支部) 
 21.止め続けて16年           (瀬田支部)
 22.24年・・・今の思い         (草津支部) 
 23.断酒会を大切に           (彦根支部) 
 24.夫の断酒              (守山支部) 
 25.仲間と家族会の皆さんに支えられながら(長浜支部) 
 26.夫の断酒に向けて          (栗東支部) 
 27.アルコール依存症を理解していなかった私(彦根支部) 
 28.妻と共に回復を           (大津支部) 
 29. 



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<ザゼンソウ>



「酒」
 
酒害者の家族にとってこれ程
 
恐ろしいものはない
 
辛いものはない
 
苦しいものはない
 
悲しいものはない
 
恥ずかしいものはない
 
大嫌いなものはない
 


 









1.「おかげさまで」・・・感謝の気持ち(栗東支部) 





 主人がお酒を飲んでいた頃、そのお酒がだんだん酷くなり肝臓を悪くして入院。
 
その後も出張や休日明けには会社を休む。
 
又私がうるさくて家で思うように飲めないので会社帰りに車の中で飲んで帰り、飲酒運転。
 
車を溝にはめたり、キーを差し込んで無理に回したのか折ってしまったり、その度に夜中でも「迎えに来てほしい」と電話をかけてきます。
 

 そんな毎日の生活の中で初めは大丈夫かと主人の心配をしていたのに、その内に主人に対しての怒りで私の心の中は一杯になっていました。
 
「あんたと別かれて田舎に帰りたい」と言いながら別れる事もままならず、次には泥酔して寝ている主人の首を絞めようか、庖丁を持ってきて刺してやろうか、と考える様になっていました。
 
小さい二人の子どもの事を考えるとそんな事も出来ず、いつも飲酒運転をしている主人に「人を巻き込まず自分だけ死んできてー」と言うようになっていました。
 

 昭和五十九年に私が田舎に帰っている時、飲みすぎで具合が悪くなり、同僚の方が救急で成人病センターに運んでくれました。
 
その時先生が 「こんな人は精神科に行かなあかん」と言っていたと教えてくれました。
 
その後、大津日赤の精神科に行き「今、こんな人は増えているので、断酒会を紹介してあげる」と言われました。
 
私は治療して貫えるとすごく期待していたので、その時はがっかりしました。
 
でも、そのお蔭で断酒会の方に専門病院を教えてもらい入院する事が出来ました。
 

 入院中は外泊の度に飲酒し反省室へ、二度目の反省室から無理やり退院してしまったので、私はとても不安でした。
 
しかし退院後の主人は会社を定時に終わり、毎日例会に通い日曜日には県外の記念大会にと先輩の方と一緒に参加しました。
 
会場に着くまでの車中で皆さんと話す事で親しくなれ、会に馴染めたのではと思っています。
 

 断酒会に入会して早二十六年になろうとしています。
 
沢山の方にお世話になってきましたが、最初のきっかけを作ってくださった成人病センターの先生、大津日赤の先生には「あの頃どうしようもなかった主人、今断酒会で頑張っています。
 
ありがとうございました」直接言うことはできませんので、この場をおかりして伝えさせて下さい。
 
そして断酒会の皆様ありがとうございます。
 
これからもどうぞ宜しくお願い致します。
 




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<うぐいす>
阿武山の坂に登れば ウグイスの 声のどかなり 断酒の喜び  









2.回復(瀬田支部)





 結婚した時から帰宅は遅く、いつも夜中に飲んで帰って来る毎日でした。
 
会話もかみ合わず家族で出掛ける事もほとんどありませんでした。
 
そのうち子ども達も大きくなり、主人の居ない生活があたり前になっていました。
 

 53歳の頃、思いもよらなかった転勤命令、主人は仕事は辞めると言いました。
 
びっくりして「私もついて行くから辞めないで」と頼み、一緒に行く事になりました。
 
仕事場と住まいが同じで、はじめて酒の飲み方の異常さに気づき、怒っても、泣きわめいても、なだめても、何をしても酒は止まりませんでした。
 

 アルコール依存症と診断され、6カ月の入院、−年後には再飲酒で、3カ月の入院となり、慣れない長い入院生活で、見当識障害と言われ、自分の家に帰れなくなったり、年齢、日付がわからず、今の事を忘れる、覚えられない状態になってしまいました。
 
もともと大の苦手だった、人と話したり、行動したり、自分の考えを述べたりが、増々苦手となり、例会で一番大切な体験談も未だに話した事がありません。
 
断酒さえ続けていれば解決していくと思っていた私は、回復のおそい主人に、苛立ち、人と比べて落ち込み、毎回私達は無力であると唱和しながら、自分の力でなんとかしようと、あがく自分に腹が立つといった、悪循環が長い間続きました。
 
年を取ってきたせいか、最近は、これも個性で性格なんだろうと思えるようになってきました。
 

 時間がかかりました。
 
一緒に例会出席が出来、買物に行き、食事の用意をして、笑顔で元気に一日過ごせた事に感謝して「こんな幸せも、ありかなあ」と思えるようになりました。
 
これも、例会出席、一日断酒のおかげ、主人のおかげです。
 
ありがとうございます。
 




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<ハナミズキ>
楽しみの趣味もつゆとり なかりけり 主人の酒に心はなれず  



3.断酒の道は夫婦同道(信楽支部) 





 結婚式の記念撮影の時に、お酒臭い息を吐く夫に「?」と感じた時からの酒害のつき合いなので、三十年余になります。
 
始めの三年、飲酒に振り回されました。
 
まずは、酒器にも心配りして晩酌の用意をしていましたが、すでに出来上がって帰ってきて、飲酒運転を注意すると、暴言から口論の繰り返し、どんどんエスカレートしていきました。
 
家族会議をしてお酒を切って、仕事に行って、職場で倒れ、黄葉病院の広兼先生の診察を受けました。
 
職場の上司に呼び出されて、私が注意され、情けない思いもしました。
 
一ケ月も経たないうちに、また職場で倒れました。
 
しばらく断酒していたのに、再飲酒して二回目のアルコールてんかん発作が起こったのです。
 
従兄に黄葉病院へ送ってきてもらい、私と合流しました。
 
広兼先生が、前回のと脳波を比較しながら、「完壁なアルコール依存症ですね。入院しましょう」と一時間がかりで説得してくださいました。
 
そして、そのまま三ケ月入院しました。
 
その頃の私は、誰を頼ることもできず思いつめ、悲劇のヒロインでした。
 
入院中につながった同友会の事務局長に「一年間は、がんばって断酒のためにできるだけのことはするけれど、それでも失敗を繰り返したら、離婚する」と話したら「そんな考えなら今離婚した方がいい」と言われ、帰りの車中で涙があふれ、土砂降りの雨の中だったこともあり、同じ所を二度も回って、怖さで涙が止ったこともありました。
 
退院前から不安で「快気お礼」はがきに断酒協力のお願いを書き添えて準備したり、「断酒会がよいの運転は、Sさんに」などいろいろ考え、退院後一ケ月、私の方にチック症状が出たぐらいでした。
 

 三年間苦しめられたから、三年断酒したら許せるかと思いながら、極力二人で断酒会がよいをしました。
 
先輩家族やアメシストの方たちから、「家族も病気」ということを教わり、例会の最後に唱和する「家族の誓い」のことばが「断酒会の皆様とともに、しあわせになることを誓います」に変わり、私の方が業が深いのではないかと思うようになりました。
 

 お陰さまで、断酒を継続し、定年後は、姑の介護に勤しんでいます。
 
私も持病を抱え、手伝ってもらわないとできないことも多く、「二人の面倒見んならん」とぼやかれていますが、少しずつ本来の優しさが行動に出てきているのはありがたいことで、断酒のお陰と感謝しています。
 
定年後は、二人で全国の断酒会の研修会などに出かけようと楽しみにしていました。
 
どこへ行っても、初めて出会った人なのに、だれとでも打ち解けて悩み・辛さが分かり合えほっとできるので、全国大会は楽しみです。
 
今のところ全国大会で精一杯ですが、楽しみながら肩の力を抜いて、こつこつ「断酒の道は夫婦同道」歩み続けたいものです。
 




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<バビアナ>
テレビのみ笑う種なき我が家は 既に死におり家庭であらず    



4.父に断酒に感謝(草津支部) 





 5年の断酒を貫き、10カ月前、父は3人の娘達に囲まれ「自分はほんまに幸せ者や」と笑顔で最期の言葉を遺し、64歳でこの世を去りました。
 

 真面目で誠実で仕事熱心、深い愛情で家族を守ってくれる、大好きで尊敬していた父がアルコール依存症を患ったのは、母が他界した数年後。
 
まだ学生だった私達を、父は男手一つで立派に育て上げてくれましたが、私達が成長する喜び寂しさと共に、最愛の妻を亡くした深い悲しみ、孤独、絶望感から、酒量が増え、私達の地獄の様な壮絶な生活が何年も続きました。
 
懸命に築き上げた仕事も、愛し守り続けた家族も、父の人生そのものが崩壊寸前でした。
 
廃人の様な父を何とか救うべく様々な事を試みましたが、事態は悪化の一途。
 
親戚に助けを求めても逆に責められ、私達の悲痛な叫びは誰にも届かず‥・。
 
愛情一杯育てて貰った記憶が刻まれていて見捨てられない・‥。
 
このまま死んでくれたら皆楽になるのに‥・何度も思いながら、排泄物を垂れ流し泥酔する情けない父の後始末を泣きながら繰り返す日々でした。
 

 6年前、姉の結婿話を機に改心を決心した父と、センターに辿り着いたのは奇跡。
 
私達の苦しみを初めて理解して下さった看護師さんの言葉に張りつめたものが緩み、涙が溢れました。
 

 全ては病気のせいだったと知り、父も私達も大変救われました。
 
当初は病気の事も3カ月の入院治療にも抵抗と反発心が強かった父も、先生の御指導や他の患者さんと過ごす内、病気や自分と向き合える様になり変っていきました。
 
スリップの不安は私達の中に常にあり、悪夢や、缶ビールを開ける幻聴は数年続きましたが、父は通院と断酒会と繋がりながら、家族のために頑張って断酒を続けてくれました。
 
孤独や絶望ではなく、身辺の沢山の幸せを感じてほしくて、父が笑顔になれる些細な時間を家族で増やしました。
 
早く母のそばに行きたいと嘆いて飲んでいた父が、最高に幸せでいつ死んでもいい!と言う様になりました。
 
癌の再発で辛い闘病生活を強いられながらも、スリップする事なく最期の1カ月前まで断酒会に通い続けました。
 

 苦悩多い父の人生でしたが、死の淵で幸せと感謝の言葉を笑顔で言えたのは、苦しいアルコール依存症を患い、失ったものも多いけれど、断酒を貫く中でかけがえのない多くの事を得たから言えた言葉でしょう。
 

 遺影の穏やかな優しい笑顔も、5年前迄はなかった事、父のアルコール依存症の話を私はあえて喪主挨拶で打ち明けました。
 
壮絶な時代を乗り越え、生き直して頑張った父は立派で誇りに思うし、懸命に生きた父の生き様をお世話になった方々に伝えたかったのです。
 

 母亡き後15年目でやっと訪れた我家の平穏もわずか5年でしたが、最後の5 年の幸せな想い出と、大好きだった昔の笑顔に戻った父を、念願の母のもとへと見送れた事が慰めです。
 
父が断酒を貫けたのは、家族だけでなく、断酒会の皆様の存在は大変大きく心強い支えだったと思います。
 
最期まで父を支えて頂き、父の心に寄り添って頂き、本当に有難うございました。
 
家族を代表し、そして父に代わり、深い感謝と御礼を申し上げます。
 




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<ハボタン>
咎めれば咎める我が 惨めなり 隠れ酒見るも口には出さず  



5.夫を信じて13年(甲南支部)





 断酒の道を歩み早十三年になります。
 
夫もたいへんだったと思いますが、飲酒歴二十五年そのうちあとの十年ぐらいは、私達家族も壮絶な闘いの日々を過ごしてきました。
 
どの家族の方々も同じ苦しみを味わっていらっしゃったと思いますが、今思えば、私自身夫と酒とを相手によくがんばってきたなと自分をほめてやりたい気持ちです。
 

 義父がお酒が好きで家庭内で酒が原因でトラブルがひんぽんにあったようで何も知らないでその中に嫁いだ私「父のような酒飲みにはならない。あんな父は父親でもない」と父を見下して批判してきた夫自身親子で仲よくお酒をくみ交わせたらいいのにと思っていましたが、主人が父と同じ酒のレールの上を走るのは時間の問題でした。
 

 義母もずっと一人でこの家をささえてがんばってきたみたいで、家庭は夫をたて子供達も父を尊敬出来るようにしていかなくては、と思っていたのが母の言葉「おまえも酒で苦労するのか、何とか父みたいならないでしっかりしてほしいのだが、おまえもかわいそうに女二人でがんばらなくては」といつも母が私をなぐさめはげまして下さっていたからたえられたと思います。
 
よく夫に「私を取るか、酒を取るか」と言い争った事もあり、酒以外の事を考えてくれていたらもう少し家族の事、自分の事も考えられたと思いますが、「今飲んでいる満足だ。次の酒をどうして手に入れようか」しか頭の中にはなかったようです。
 
この事は後で皆さんの体験発表を聞いてわかった事です。
 
私達家族も「酒を止めてとは言わないから、きめて飲んでとか、節酒してとか」隠し酒をしているのを見付けたら又それを隠し、いかにして飲まさないようにする事ばかり考え、まるでシーソーゲームをしているようで親二人「酒飲みたい」「飲んでほしくない」しか頭になかった。
 
子供達の発育盛りの年月、子供達にはたいへん迷惑をかけ親として二人で導びいてやれなかった事が申し訳なく思います。
 

 酒が原因で入退院が続き職も転々と代わり、不安定な日々が続いていました。以前から主人の行動がおかしいと気づいていましたが、ある日とんでもない行動をしたり、口ばしるようになり私自身この夫(当時四十六才)を一生もりしなくてはならないのかと失望と不安でいっぱいでした。
 

 内科の先生が以前アルコール専門病院があるとおっしゃっていた事を思い出し、いやがる主人を病院に連れていってもらいました。
 
そこで診察されたのが「アルコール依存症」と「アルコール性痴呆症」でした。
 
アル中だと思っていたのが、病気だと聞かされびっくりしました。
 

 いやがっていた夫も病院に入院する事に同意し、やっと気が楽になったと思ったら先生は「入院した人の何%しか止まりませんよ」とおっしゃった時には、安堵の気持ちがまたどん底に落とされた気がしました。
 
どうぞその何%に主人が入りますようにと祈る気持ちで主人を信じ病気だからなおさなければ又なおす事が出来ると思い入院中は、出来るだけ協力し私達家族も勉強会にも参加しました。
 
でも父は息子の前で堂々と酒を飲みはげます言葉一つも言いませんでした。
 
私はひどい父だと思いましたが、今思えば「人が飲んでいる姿をさけてばかりではなく、前にして、それも我慢出来ない人は本当に断酒出来ないぞ。」と父が主人に言い聞かしていた姿だったかもしれません。
 
退院後断酒会に入らせていただき、たくさんの仲間がいらっしゃり、私達家族だけが苦しかったのではなかったのだと、仲間の方々のはげましや今まで主人の酒に関して他人には言えなかった事も聞いていただく事も出来、心身ともに安らぎの場所をいただきました。
 
夫も酒でたくさんの信用も友もなくしましたが、たくさんの断友も出来、ありがたいと思っています。
 

 あれから十三年長いようであっという間にすぎ去りましたが、あれだけ心配してくださった母は昨年の一月に、厳しかった父も十二月に、酒なしでりっばに送らしていただき、父も母も喜んでいてくれると思います。
 

 今後も皆様の輪からはずれないよう二人で頑張っていきたいと思います。
 

 よろしくお願いします。
 




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<ハマナス>
正月の来るを悲しむ 幼子は まだあどけなき満五才なり    



6.アルコール依存症と付き合って25年(八日市支部) 





 主人がアルコール依存症と診断されたのは昭和58年でした。
 
それまでは、内科入院を3回しています。
 
最後の入院の時には病院から酒を買いに行く様になっていました。
 
会社の方が保健所に相談に行って下さり、京都の黄葉病院を紹介され入院する事になりました。
 
見舞いに行くと、こんな病院に入院させたと怒られました。
 

 主人は3ケ月もたたない内に退院して来ました。
 
会社から今度酒を飲んだら「クビ」と言われた様でした。
 
断酒会には八日市支部に入会しました。
 
毎週水曜日に二人で通い続けました。
 
昭和63年に安土に家を建て、仕事も三交替制と忙しくなり、断酒会を辞めました。
 
会社で働いている間は断酒を続けることが出来ましたが、55歳定年で会社を辞めた途端もう酒を飲んでいました。
 
12年間断酒出来ていたので私も安心していましたが、気付いた時には元のアルコール依存症になって、自分では止める事が出来なくなっており、病院に連れて行きました。
 
先生も「12年も止めることが出来ていて惜しいね!」とおっしゃいました。
 
やっと酒が切れて働くことができる様になり、以後5年間は止める事が出来ました。
 

 2回目の失敗は60歳の時。
 
年金生活になると仕事をしなくてもよいので毎日家に居る様になり、私が仕事に行っている間に1杯の酒が始まりました。
 
外で飲む事ばかりで、家に帰って来ない日もありました。
 
今度は病院に行くより断酒会と思い、八日市支部に連れて行きました。
 
昔の仲間がいて、「また頑張り」と声をかけてくれました。
 
平成11年から断酒会通いが始まりました。
 
今度は退会しない様に頑張るつもりでいます。
 

 私も2年前に定年となり、毎日二人で居る事になってケンカばかりですが、飲んでいる頃の事を思えば楽になりました。
 
仕事をしながらの25年間は言葉に表せないくらいの事もありましたが、今は自分の好きな事が出来る様になりました。
 
手芸、ボランティアと毎日忙しく過ごしています。
 
でも私には一番が断酒会です。
 
2 回の失敗を忘れる事なく、断酒会に通い続けようと思います。
 
これからも皆様にお世話になると思いますが宜しくお願いします。
 




 
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<バラ>
母なりて父にもなりて 柱にも 代わりぬ我は誰にもたれん  



7.断酒会に感謝  (栗東支部) 





 JRの車窓から見た満開の桜は、私にとって忘れられない景色です。
 

 漠然と離婚を考えながら病院の院内例会に参加していました。
 
入院して治療を受けると治る病気かと思いましたが、十数回入退院を繰り返した方の体験談を聞き、アルコール依存症の恐ろしさや根深さを知り、これから先続く戦いに暗澹とした思いでした。
 
帰りの電車で満開の桜を見ながら涙がとまらなくなり、そのうち寝てしまい野洲迄乗り越してしまいました。
 

 あれから30年近く経ちますが、桜を見ると当時を思い出します。
 

 結婚当初は、親、兄姉、同僚と皆お酒好きが多く、休日の度に集まって飲んで騒いで、楽しかったのですが、主人だけが二日酔いで欠勤する様になりました。
 
夜勤のある会社に転職してからは、大型連休はもちろん土日の休みあけも連続飲酒になり、しまいに勝手に仕事をやめてきました。
 

 急いで勤めから帰って食事の用意をしても、ろくに箸もつけず、風呂も入らないで髭だらけで、毎日酒浸りの生活です。
 
寝ている主人に、大声で、私が正しいとばかりに責めたてたり、酒瓶を取り上げて庭にたたきつけたり腹が立つやら、悲しいやらで家に帰るのが嫌でたまりませんでした。
 

 そんな時、主人の姉からケースワーカーの方を紹介してもらい、専門病院から断酒会へと、つながる事ができました。
 

 心の中にいつもあった鉛のような重苦しい魂が、仲間の中で徐々に溶けていく様でした。
 
36歳という若さのせいか、底付き感もなく、3年位失敗を繰り返しましたが、最後の飲酒の時、初めて自分から先輩に助けを求めて助けていただきました。
 
断酒が数年続いた頃から誕生日と結婚記念日に花束(現在は現金)を贈ってくれるようになりました。
 
過ちを償っていると、当然の様な顔で受け取っていました。
 
入会当時生涯断酒という大きな荷物を背負った感じでしたが少し軽くなってきました。
 
日々の飲まない生活の感謝を忘れがちになりましたが、5月10日の入会日や断酒記念日、わたしも感謝を形にしようかなと思います。
 
今後共よろしくお願い致します。
 




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<パンジー>
テレビにて酒の事件を報じれば 次は我が家と覚悟でふるえり  



8.断酒会に入会して(近江八幡支部) 





 平成20年12月に断酒会に入会させて頂きました。
 
それまでは断酒会についての知識は、あまりなく主人が入りたくないと言ってましたので、私もそれでよいと思っていました。
 

 しかし毎週近江八幡支部へ通うようになって、皆様の体験談をお聞きすることが重なっていく中、断酒ということを余りに知らなかったことに強い衝撃を受けました。
 
主人は平成13年6月の半ば通院している内科医院の待合室の壁に貼ってあったアルコール講座の資料を見て、自分のお酒の飲み方がおかしいことに気づき、先生に相談して、滋賀県立精神保健総合センターへ通院するようになりました。
 
その日から3年3ケ月断酒が続きました。
 
毎週通院をし、時には私も一緒に先生のお話を伺ったり、アルコール講座も受けて勉強していましたが、平成16年の秋の取り入れの時、暑さが続くなか頂き物の、缶ビール1本が冷蔵庫の底に入っているのを目にして、「1本ぐらい」の思いで口にしたのでしょうが、再飲酒が始まりました。
 

 それからは堰を切ったように酒量が増えていったように思います。
 
体がしんどくなると内科へ通って点滴を続け乍ら農作業をしておりました。
 

 平成20年11月、体がだるいからと内科へ入院したのをきっかけに「酒をやめるワ」と言うようになりましたが、守山こころのクリニックの明神先生に、断酒を続ける為にも断酒会へ行きなさいと指導され、紹介状を書いて頂き、近江八幡支部へ入会させて頂くことになりました。
 

 毎週断酒会に通い、皆様のお話を聞かせて頂き又自らの体験を語ることで、今まで何をしていたんだろうという思いでいっぱいです。
 
7月の本部例会で6ケ月の表彰を頂きました。
 
まだまだ油断はできませんが、二人で皆様のお力を支えに、一日断酒を続けていきたいと思います。
 
これからもよろしくお願いいたします。
 
有難うございました。
 




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<ヒアシンス>
勤め終え重き心を 引きずりて 家路に着けば酒の夜始まる  



9.主人の過去を振り返って(近江八幡支部)





 桜の蕾がつき、これから美しく咲こうとしています、今日この頃です。
 
私と主人が断酒会にお世話になりましたのは平成11年4月です。
 
月日の経つのは早いもので、もう11年になります。
 
入会させて戴くまでは、毎日が大変なものでした。
 

 お酒を飲んでいるというより何かにとりつかれたみたいに、あびるほど飲み、暴力、暴言、説教、飲酒運転。
 
交通事故は何回かあり、車は5台程買い替えました。
 
それでも毎夜の様に飲みに歩いていました。
 
私は、この様に飲んでいる主人といつまで生活していかなければならないのだろうか、と毎日が不安でなりませんでした。
 
誰に相談する事もできず悩んでいました。
 
事業をしていましたので、お酒を飲んでは、高い機械を買い、飲んで電話をかけたりするので信用もなくなり、段々借金も多くなっていきました。
 
気の小さい主人は、飲まないとしゃべったりできなくなっていて、益々お酒の量が増えていきました。
 
主人も、もうどうしたらいいのかわからなくなり、とうとう自殺を考える様になり、最初は車で排気ガスで死のうとしましたが死に切れず、お酒を大量に飲んでいた主人を助ける事が出きました。
 
その時は、5日間家族は仕事の方やあちらこちらと一生懸命さがし回り、見つける事が出きました。
 
今からその時の事を思い出しますと、無事でいてくれた事、本当に全員が喜んだことを思い出します。
 
その時に主人がお医者さんに、もう酒は飲みたくないので、お酒が飲めない様になる所を捜してほしいと頼んだのです。
 
先生は育樹会病院へ入院させて下さいました。
 
病院に入ってから、今までの自分のしていた事に気付き、また借金がたくさんある事で悩み、また自殺を考える様になり、2回目の自殺を試みます。
 
それでも死に切れず自分自身を責め、苦しんでいました。
 

 私は、これからは2人で助け合い頑張って生きていこうと、一生懸命主人に話しかけました。
 
病院から断酒会という会がありますが、行きませんかと言って下さり、現在の主人と私がいます。
 
断酒会に入会させて戴き、たくさんの方と出会わせて戴き、一滴のお酒も口にせず毎日仕事に頑張っていてくれます。
 
夫婦して断酒会に出会わせて戴けた事で、幸せな毎日を過ごさせて戴いてる事に感謝しております。
 
これからも皆さまにお力を戴き頑張っていきます。
 
ありがとうございました。
 




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<ビオラ>
こんなにも痩せて細き ウエストに 九号のスカートゆるゆる回る    



10.断酒20年を迎えて(草津支部) 





早いものです。
 

 主人が断酒してから今年20年を迎えます。
 
主人は結婚当初からお酒の好きな人で多々問題行動がありました。
 
子どもが高1、中1の時に京都から滋賀へ引っ越して来ました。
 
もう一度やり直すと言う言葉を信じてついて来たのですが、その一年後、私達はどん底を味わうことになります。
 

 度重なる交通事故、手の震え、幻覚症状などひどい状態でした。
 
アルコール専門病院があるとは知らず、内科の病院を転々と受診していました。
 
厄年の頃の主人は、「酒で死ねたら本望、太く短かく50年生きたらいい」と言い乍ら飲んでいました。
 
今時々いじめてやるんです。「とうに50を過ぎたけど」って。
 
又酒と家族のどちらを選ぶのかと聞いた時のことです。
 
主人の答えは、迷うことなく 「酒」でした。
 
呆れて物が言えませんでしたが、野暮な質問をしたものです。
 
私は、何にも解っていなかったのですね。
 

 平成元年の12月岩倉病院に入院し、平成2年に断酒会に入会させて頂きました。
 
3ケ月入院したら治ると思っていましたが、まだまだお酒への未練があった様です。
 
何度かの再飲酒で路頭に迷っていた頃、断酒会の大先輩3名の方が家に来て下さり、夜が更ける迄説得して下さいました。
 
その後毎日例会が始まり、現在迄断酒が続いています。
 

 私も断酒会に行くと、ほっと心が和みます。
 
体験談を聞いていると、あの立派な方が過去に、そんな辛いことがあったとは思えませんが、お酒が過ぎると誰もがなり得る病気ということも解りました。
 

 主人も無茶飲みで痛めた身体を労って長生きをして欲しいと思います。
 
大声で笑い乍ら孫と遊ぶ姿を見ていると、お酒を止めてくれて本当に良かったと思います。
 
これからも断酒会の輪の中から、こぼれることのない様二人で歩み続けたいと思います。
 




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<ヒマラヤユキノシタ>
「もう止めた」流しに捨てし ビンの酒 いつものパターンに心躍らず  



11.妻の断酒4年が過ぎて(高島支部) 





 妻が滋賀県立精神医療センターでアルコール依存症と診断され、治療が終わり退院したのは4年前の2月のことでした。
 
それから遡ること2年弱の間、地元の内科医院に4回入退院を繰り返していました。
 
診断は肝臓に水がたまって肝硬変になりかけており、アルコールによる肝機能障害が見られるとのことでしたが、妻も私も内科的な治療で体がよくなったらもとの生活に戻れる程度にしか考えていませんでした。
 
しかし、4回の入院を繰り返す中、アルコールの量が次第に増えているようになり、入院する周期もだんだん速くなっているように思われました。
 

 このままでは治らない。
 
ほっておくと死の危険性もあるのではと感じられましたが一向に良化することなく、飲酒を控えるように説得しても「なんで飲んでいるのかわからない」との返事が返ってくるようになりました。
 
内科の治療を受けていても治らないのではと考え始めたころ、娘の通っていた大学の先生からアルコール専門の病院があることを聞き、嫌がる妻を説得し精神医療センターへ入院しました。
 

 約3ケ月の入院で、最初は薬のない治療プログラム中心で治るのかと心配していたものの、次第に妻の飲酒に対する考え方が変わっていき、最初嫌がっていた断酒会にもつながり、自分がお酒を飲んではいけないという自覚ができたように思います。
 

 ようやく4年が経ち、いくらか気持ちの中では落ち着いてきたものの、また元に戻るのではないかという不安も残っています。
 
断酒は家族がなんぼやめろと言っても本人の意思がないとやめることはできません。
 
それを支えていただいている医療関係の皆様、そして何より同じ気持ちを持って断酒に取り組まれている断酒会の皆様の活躍が一番の刺激になり継続できているのではと考えます。
 
これからも妻の断酒が継続できるよう家族も支えていきたいと考えますので、今後ともよろしくお願いします。
 




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<ヒマラヤユキノシタ>
なぐられる母を庇いて 前に立ち 父に向かいぬ娘は小五  



12.新生(八日市支部) 





 主人は田舎の長男で、大事に育てられました。
 
大学は県外で一人暮らし、その時にお酒を覚えました。
 
飲み方が変わってきたのは5年前からで、休みはお酒お酒でした。
 

 それが2年はど前からはお酒で会社を一週間行けなくなる生活を再々繰り返し、その度に主人を責め、泣きわめき失望してお互いに疲れ果ててしまいました。
 
やっとの思い、すがる思いで県精神医療センターに行きました。
 
そこで断酒会を勧められ夫婦で初めて参加しました。
 

 初対面の私達を暖かく迎え入れてくださり、又皆さんの話はまさしく自分達の事であり自分と同じ思いの人達の話に涙がとまりませんでした。
 

 それから約半年、例会通いが続いています。
 
「あせったらあかん、長い目で気長に頑張ろう」
 
「お酒だけ止めてくれたら多少のことはいいやん」
 
「ここにいる皆、あなたと同じ思いをしてきたよ。あきらめたらあかん、あきらめたら終りやです断酒会辞めたら終りやで!一緒に頑張ろう」の言葉にどんなに励まされたか。
 

 お酒で裏切られ、ウソをつかれ、責められ私は主人に失望し、恨み、責め、泣く。
 
何十回も何百回も涙を流しました。
 
でも又主人が「これでお酒は最後、明日からお酒は飲まない」と聞けば、喜び、信じ優しくなれ……でも又裏切られ。
 
子どもにとってはまだまだ父親母親でいなければいけない私達は、主人は主人、私は私という考え方がなかなかできず、1日飲んでる主人、働かない主人、飲んだら暴言暴力の主人と責めていました。
 

 私も共依存、主人が飲んでいる時は私も不機嫌になり、怒り苦しみ情けない気持ちのやり場を子どもに向けて母親という仕事を放棄し自暴自棄な生活をしていました。
 
お酒を止めてくれている今、もう一度家族を取り戻し、色々あったけれど、明るく元気で頑張っている姿を子ども達にみせたいと思います。
 




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<ヒメキンギョソウ>
夏の日に長袖通しぬ 両腕に 昨夜殴らるアザの残れり  



13.アルコール依存症の辞書(瀬田支部) 





 肝硬変寸前で二度の入退院、自転車通勤途中の転倒による大怪我、東京出張先でのベッドよりの転落、お酒によるアクシデントが重なって、私達家族は、辛い日々を送っていた平成10年。
 

 思い起こせば、家庭内は心身共に地獄のような日々でした。
 
ただでさえ、私自身は乳癌の術後の養生中に転移して苦しんでいた時期でした。
 
そして、長男も網膜剥離を患い、入院、手術の世話に振り回されていました。
 
そのような中、とうとうどうにもならなく苦しむ主人を滋賀医大へ連れて行き、精神医療センターへと繋がり、10年10月19日に入院となり、3カ月の入院後断酒会に入会させていただくことができ、落ちつくことが出来ました。
 

 それから13年経ちました。
 
この間、お蔭さまで、一滴もお酒類は口にせず、今日に至っております。
 
このことは本心より誉めてあげたいと思いますが、その前に断酒会に入会させていただき、多くの仲間の皆様が仲良く接していただいたからこそ、断酒に励ませていただいたと感謝しております。
 

 我々のような経験をしていない人達は「もう大丈夫だ、もう治った」等と言って下さいますが“もうよい”という言葉はアルコール依存症の辞書にはありません。
 
例会でもいつも唱和する断酒の言葉にあるように、片時も“断酒”を忘れず「真剣」に努力することを痛感しています。
 
このことは、生ある限り、何が起こるか分からないということに通じるからです。
 

 幸せが続きますように家族としても、あたたかく見守らなければと思います。
 
医療関係の方々、断酒会の方々、これからもよろしくお願い申し上げます。
 




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<ヒメキンセンカ>
夢にまで飲みて我を 悲します 目覚めば頬に涙つめたし  



14.家族の思い  (甲南支部) 





 うちの主人は、平成7年12月に断酒会に入会させて頂き、早17年が過ぎてしまいました。
 
主人との出会いは42年前、主人は気の小さな優しい気持ちの人でしたので、アルコールで問題を起こすとは思いませんでした。
 
主人の父親も大酒飲みで何かあるごとに主人と酒の上での大喧嘩、何という親子だろうと思いました。
 
食事になると喧嘩が始まって私は夕食の時間が一番嫌いでした。
 
結婚した当時、酒癖の悪い家とは知らず大家族に嫁いだ私は大変でした。
 
主人のことは後回しで、家族のことをしなければなりませんでした。
 
又、子どもが出来れば子ども優先、今思えば、たぶん主人は寂しかったのかも知れません。
 

 国鉄職員だったのですが、国鉄からJRになり仕事で悩み又、親との葛藤等色々あったのか酒の量も多くなり夜の晩酌だけだったのが、その当時交代勤務だったので、朝帰りに一杯、お昼に一杯、眠れないから一杯とどんどんエスカレートして行き、何か言っては酒を飲む機会を作っていたようです。
 
結婚して24年、私にはあまりいい思い出がありません。
 
親の反対を押し切って結婚したので逃げては帰れず、私が我慢すれば何とかなる。
 

 我慢、我慢の日々でした。
 
いっぽう、酒飲みの父親を見て「あんな父親にはなりたくない」と口癖のように言って親を見下していた主人がいつの間にか親の姿と同じ様になって行き、自分が父親になったとき「子どもたちの前だけでも尊敬される様な人になって」と私が言うと「子どもの尊敬される様な父親にはなりたくない、子どもがどの様に思っていてもいい、ほっとけ‥」その言葉に私は愕然としました。
 
結婚したことも子どもを持ったこともますます後悔の毎日でした。
 
私にとって人生一番不幸な時でした。
 

 断酒する数年前内科にかかった時、「酒を止める病院ってあります?」と尋ねると、草津に精神保健センターがあるから、そこに行ってみればと言われました。
 
主人に言うと「何でわしが酒を止めなければならないのか、体は何ともないアホか」と言う言葉が返って来ただけでした。
 
その後数年たって主人の行動が益々おかしくなり、見ていなければ何をしでかすか判らないと言う時期に来ていました。
 
数年前に聞いた病院を思い出し、いやがる主人を連れて病院の門を叩きました。
 

 病名はアルコール依存症。
 
アルコール痴呆症になりつつあるその当時、主人は47歳。
 
52歳でおそらく命は無いと言われ、本人も家族もびっくりしました。
 
酒飲みに病名があるんだ。
 
病気だったら入院して治さなければと思い、主人も酒を自分でコントロール出来なくなったのか入院すると言ってくれ、永かった24年間、主人と共に酒の苦しみを味わい暮らしてきた私、もうこれからは解放されるのだと喜びましたが、その後先生に入院しても止められる人は2・3割と聞き本当にガッカリしました。
 
でも入院するといった主人に賭け、子どもたちが成人したら家を出ようと思っていたのを思い留まり、主人は酒を止めると言う言葉は聞きませんでしたが協力しようと思いました。
 
私も共依存で病気になっていたみたいです。
 

 あれから17年間断酒生活が続く中、子どもたち3人をみな片付け、孫も授かり親2人も送ることが出来ました。
 
52歳であの世行きの主人も、今64歳益々元気で毎日を送っています。
 

 今後も断酒会の皆様とともに歩ませて頂きたいと思いますので、どうかよろしくお願い致します。
 




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<ヒメジョオン>
憂きし日は心あざむき 尚さらに 濃い目に紅を引きて出勤す  



15.例会で回復してます      (草津支部) 





 アルコールと無縁の家庭で育った私は、幼い頃、楽しそうにお酒を飲んでいる親類のおじさんを見て、微笑ましいなあと思ってました。
 

 成人して主人と出会い、男らしい所に魅かれ、この人と明るく楽しい家庭を築きたいと思い結婚しました。
 
10年位は理想に近い生活が続きました。
 
つりに、野球にマージャンにと多趣味でした。
 
お酒もよく飲みました。
 
勿論仕事もバリバリしてました。
 
少しの間共働きして、草津に小さな一戸建を買いました。
 
3人の息子も出来て静かな日々を送ってました。
 

 前厄でくも膜下出血で大手術をして、左の目が不自由になり、主人には焦りが出たのか酒の飲み方が変わりました。
 
無趣味になりただ酒に走りました。
 
家の中も一転して暗くなりました。
 
1年半後に胃潰瘍で又、大手術をしました。
 
その時はお医者さんから、近い身内を集めるようにとまで言われました。
 
麻酔から覚めた主人は、「これで酒もタバコもあかんなあ」と、言いました。
 
もしかしたら我が家が酒地獄から抜け出れるのではと、期待しました。
 
それも束の間、退院の翌日から又飲み始め、前よりひどくなり、朝酒も始まりました。
 
金曜の夜から深酒して週初めに出勤出来ない日が有りその間隔が、段々短くなり、10年近く共依存の苦しみを嫌と言う程味わいました。
 

 長男が大学、二男が高校に入った年にどうにも出来なくなり琵琶湖病院に入院して、断酒会へつながる事が出来ました。
 
「回復は有るけど、生涯完治しない病」と知りびっくりしました。
 
2人3脚で例会に通い13年半の月日が流れました。
 
その間にはドライドリンカーの時期が何度も有り、辛かったです。
 
そんな時は飲まれてる頃を想い出し「いつか、いつか」と自分に言い聞かせて例会に通いました。
 

 今では小刻みに震える手、血走った目、血管の浮き出た額、酒焼けした首筋等すっかり主人の体から消えました。
 
例会で飲酒時の止めたくても止められない辛さ、断酒継続の難しさを家族の立場で学ばしてもらってます。
 
最近は仲良く、普通の生活が送れています。
 
これからも例会出席で、健康に留意し回復の日々を送っていきたいと思っています。
 




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<ヒメツルソバ>
暴れ狂う昨夜の悲しみ 抱きつも 仕事に入れば顔には出さず  



16.また飲んだ (守山支部) 




  
 4月のある日、家によっばらいがいました。
 
俺は酒をやめたいんやと騒いでいました。
 
私は、飲んでるのにと冷ややかな目で見ていました。
 

 誰かにお酒を止めたかったら電話したらと言ったら、しんどそうな顔で仲間に電話してた。
 
うちの人は飲んだら電話する。
 
飲む前には絶対電話しない。
 
私は心の中で飲む前に電話したらいいのに、飲んで電話かけたかて一緒やんと腹を立てていました。
 
後少しで一年やのにこの人は何を考えて飲んだんやろ。
 
仲間の顔が浮かばんのか。
 
家族の気持ち考えたことあるんか。
アホかと思いながら、むなしい気持ちでいっぱい。
 
腹だたしい。
 
悔しい。
 
悲しい。
 
さまざまな思いが心の中からあふれてきました。
 

 お金がないから専門病院を断られ、やっと一般病院で解毒だけして右も左も私はわからんうちに断酒会につながって、二人で回って悔やみながら10ケ月。
 
やつと社会復帰して、これからやと思った時の再飲酒は応えた。
 
私の心の中はズタズタ、うらむ気持ちでいっぱい。
 
それでもお酒は止まらない。
 
毎日仕事から帰るとよっばらってる。
 

 突然へラへラ笑ったり、泣いたり、常軌を逸した状態が続いていきました。
 
一週間飲み狂い、私は腹立ちを抑えきれないのでこの気持ちを吐き出すために毎日例会に通い、心の中を吐き出し続けた。
 
それしか逃げ場がなかった。
 
私までおかしくなりそうだったから、なんとかつぶれて、クリニックから新生全病院につながりました。
 
その間私は自分の心の回復のために回ってました。
 

 今回入院してあらためてこの病気の恐ろしさ、底の深さを思い知らされました。
 
なんで飲んだんやろうとは思いますが、結局飲みたかったんだろうなと思ってます。
 

 これからもこの病気と向き合っていかなあかんのやな。
 
本人がやめる気にならなければどうしようもないし、家族もお酒の前では無力ということを今回は思い知らされ、もう一度二人で、回っていきたいと思います。
 




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<ヒメツルソバ>
「這ってでも出勤せよ」と 呼びに来し 上司にそむく御用始めの朝    



17.断酒会に入会して   (草津支部)





 今振り返って、「主人のお酒はどうだったのかなァ」と思いだすと結婚した当時は、家族と共に食事をする楽しい団欒の中でのお酒でした。
 
ところが、父が事故で入院し動けない体になった為、今まで父に任せていた事が全部、主人や私に回って来ました。
 
私は家事、子育てに追われ、主人のお酒について気になりませんでした。
 
しかし、お酒の量が少しづつ増えていき、又一人気ままに飲んでいる姿が気になりました。
 
それでも仕事に頑張っているし、ゆっくり家で飲んでいるお酒で、他の人に迷惑かけてないし、“大丈夫だろう”とあまり気にせずにいました。
 

 それから何年かすると、お酒に対する様子が変わり、毎日飲み、量もすごく多くなりました。
 
この頃から、会社をよく休む様になりました。そして62歳6カ月で退職しました。
 

 益々お酒にのめり込み、手の振るえや幻聴、幻覚が少しづつ表われ、自分でどうする事も出来なくなりました。
 
私は焦りました。「どうしよう、どうしたらいいのか」悩み、内科受診していた病院に相談しました。
 
そして県立精神医療セン ターを紹介して頂き、すぐに医療センターに行きました。
 
結果はすぐ「あなたはアルコール依存症です」と言われました。
 
なかなか本人が入院すると言わなかったのですが、平成24年8月14日から2カ月入院することになりました。
 

 入院中に家族研修を受け、その中で断酒会のことを知り、草津支部にお世話になることになりました。
 
断酒会はどこの支部に伺っても温かく迎えて頂き本当にありがたく思いました。
 
今後も互いに健康に気を付け家族と共にゆったりとした日々を過ごし、断酒会の皆様と共に”あきらめず あせらず”あなどらない気持ちを忘れず持ちつづけ、生きて来て良かったと思える人生を歩んで行きたいと思います。
 




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<ビヨウヤナギ>
気に病みし事済まずして 五月雨 降りて憂うつな午後  



18.断酒会に感謝    (栗東支部) 





 私は、主人とは見合い結婚です。
 
結婚する時主人のお母さんから「何かあったら、お母さんに言わずに私に言ってや」と言われました。
 
その時は意味が解りませんでした。
 
昭和54年に高槻から工場移転で滋賀に越して来、長男が生まれました。
 
出産の時は休みの日で、夫が病院に連れて行ってくれました。 なかなか生まれなくて、夕方やっと誕生しました。
 
ほっとしたのも束の間、看護婦さんが「ご主人病院にもいないし、家に電話しても出ないです」と言われ、それを聞いた私の頭の中は子供がうまれた嬉しさより「どこで呑んでるのやろ、大丈夫やろうか」と不安で一杯になっていました。
 
主人は病院のベッドで寝ていたそうです。
 
次の日に主人の両親が、田舎から来てくれました。
 
お兄さんのいる尼崎に一泊して、滋賀に来る予定でした。
 
それを聞いた主人は、「行かんといて!」と言う私の言葉を振り切って行ってしまいました。
 
案の定、両親はお兄さん達と車で着いたのに主人は何時間たっても帰って来ません。
 
やっと帰って来た主人に私の母が「正さんどこへ行ってたん」と思わず言いました。
 
3年後に下の子が生まれた時も、病院に来た 主人はかなり酔っていたので、車のキーを取り上げ、母に「家に帰ってから渡して」と頼んでいました。
 
主人が断酒して何年か経ったとき、母があの時は連れて帰ってやりたかったと言っていました。
 

 その後もお酒の飲み方が酷くなっていくばかりで、休み明けには会社を休む、出張に行けばまともに帰ってこない。
 
肝臓も悪くなり、私が飲み方をうるさく言うと家で充分飲めないので、仕事の帰りに沢山買い込んで空き地を探して飲むという事を繰り返す様になりました。
 
初めて家に帰らなかった時、泣きながら主人のお母さんに電話しました。
 
新聞店をしていて大変なのに、次の日には福山から家に来てくれました。
 
それ以後70歳過ぎた主人の両親に心配かけるのも辛いと思いそんな電話はしなくなりました。
 
それでも両親は心配していた様で、漢方の高い薬を買ったり、子供のお祝いを沢山贈ってくれたりもしました。
 
そんなに良くしてもらっても、小さい子供2人抱えて主人に振り回される生活は辛く不安な毎日で「おかあさんが甘やかすから、こんな人間になったんや」と主人に言い、感謝の気持ちを持つことも出来ませんでした。
 
夜中に泥酔状態の飲酒運転で帰ってくる主人の姿を見たとたん、怒りがこみ上げてきて小さい子が目に一杯涙をためてこちらを見ているのも構わず、私は主人に怒りをぶつけていました。
 
会社からは「このままでは、辞めてもらわなくてはいけなくなる」と言われ、辛い毎日でした。
 
私の口から出てくるのは「あんたとは別れたい」という言葉です。
 
別れる事も出来ず、「殺してやりたい」と思っても出来ず、飲酒運転をやめない主人に「ひとを巻き込まず、自分だけ死んで来て」と言う様になっていました。
 
その頃断酒会を知り専門病院に入院しました。
 
入院中は外泊できるようになると、1回目は無事帰ってきましたが、2回3と続けて呑み反省室入りです。
 
反省室から「わしは仕事をしたいから退院をする」と言いだし、私は絶対に退院して欲しくなかったのですが、ケースワーカーの方と3人で話し合い「これだけ言わはるのやし、退院してもらいましょう。何かあったらその時考えましょう」と言われ仕方なく承知しました。
 
退院後は、お酒をやめるのは無理だと思っていましたが、出社するようになると、「断酒会に行くので定時に終わらせて下さい」と毎日断酒会に通うようになりました。
 
それでも私は飲んでいないかと不安な気持ちで待っていました。
 
玄関に入って来た主人に、お帰りと抱きつき、不安な気持ちを悟られないようにお酒の匂いがしていないか確かめていました。
 
他にも入院中の心理テストの時、「一度も仕事変わってないのか、凄いな」と言われたと嬉しそうに話をしていた事を思い出し、些細な事でも、大げさに褒めまくっていました。
 
半年経ったころ「わしは人に褒められんと動けん人間と違う」と言うのでそれ以後は、大袈裟に褒める事はやめました。
 
主人の断酒を喜んでいる両親がよく「お酒を止められたのは律ちゃんのおかげや」と言ってたので「病院も断酒会も私が探してきたし、本当に私のお陰だ」とその頃は思っていました。
 
子供も少し大きくなり私も断酒会に出席するようになると、断酒会に入会し皆さんに声を掛けて頂いたお陰だと気づきました。
 
本当に断酒会に入会させて貰って良かったと思っています。
 
これからもどうぞ宜しくお願いします。
 




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<フクジュソウ>
いつ何時酔って帰りぬ 君の為 錠をはずして「お帰り」と待つ  



19.断酒会に入会して   (彦根支部) 





 私は、実家の父の大量飲酒で悩んでいた頃、この病気を治すことができるのは、断酒会ではなく、精神医療センターで長期入院するしかないと思っていました。
 

 当時、大量にお酒を飲まないように、家族がお酒やお金を隠しても、父は見つけ出しお酒がなくなるまで昼夜を問わず飲み続けていました。
 
保健所の勧めで 精神医療センターを受診するようになり、医師より何度も入院を勧められ、渋々入院を承諾した矢先に、慢性硬膜下血腫や脳梗塞をおこし、結局は精神医療センターに入院することができませんでした。
 

 私は、同じ頃保健所の勧めで断酒会に一人で参加するようになり、自分の考えは甘いと気付くことができました。
 
アルコール依存症は、他の病気と違って本人がその病気を受け入れるのにとても時間がかかります。
 
「止めようと思えばいつでも酒は止められるから、わしはアル中と違う」と父は思っていました。
 

 精神医療センターの入院は、自分の病気に気づき、受け入れ、断酒のきっかけをつくるのにとても有効な手段であり、入院中はお酒とは全くかけ離れた生活ができます。
 
しかし、退院後スリップしてしまうこともあると聞き、断酒を継続させようという意志を持ち続ける…つまりこの病気を完全に治すためには入院だけでは難しいと思いました。
 
断酒会に参加し、お酒にまつわるみなさんの体験談を聞き、また自分の辛い体験も話し、仲間と共に断酒を誓いこの病気と向き合っていくことが、治すことにつながるのだと思いました。
 

 父は、残念ながらアルコールが原因で脳梗塞を2度もおこし、現在は入院中です、退院のめどはたっていませんが、退院しても介護なしでは生活することが出来なくなってしまいました。
 
介護という新たな問題に不安で一杯ですが、断酒会のみなさんに支えてもらったことを思い出し、自分に出来ることを精一杯やって生きたいと思います。
 




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<フジ>
今頃はどこで何をしてるやら 編み物止めて時計見上げる  



20.息子の断酒    (長浜支部) 





 息子が依存症と診断され、最初の入院は草津、2度目は今年2月10日まで3ケ月程、新生会病院に入院し断酒の固い決意で退院してきました。
 
以後断酒を続けております。
 
私はとても嬉しいです。
 
主人は平成11年に亡くなりました。
 
主人が息を引き取る前日息子は主人の枕元で「親父心配せんでいいで、安心してまかしといて」と声を掛けてくれ、私はとても心強く思い頼りにしてきました。
 
男の子3人の長男として頑張って良くして呉れました。
 
その後息子に胃がんが見つかり、全摘手術を受け、幸い命を助けて頂きましたが、それからが大変でした。
 
本人は辛くてしんどかったと思います。
 
私も生きた心地がしませんでした。
 
お陰さまで元気に働けるようにして頂きましたが、気の休まる時は無く次々と心配な事が出てきました。
 
パチンコ、アルコール依存、うつ、給料以上に使ってました。
 
怒ったり暴れたりする飲み方ではないのですが、部屋で酔いつぶれて寝ていました。
 

 酔ってる息子に小言を言ったり八つ当たりしたり、私の手が痛いほど息子のお尻を叩いたりした事もありました。
 
黙ってうなだれている姿をみてかわいそうな事をしたと悔やみ泣きもしました。
 
この先この家はどうなるんやろ、この子はどうなるんやろ、と心配が募り恐ろしい事を考えた事も度々ありました。
 
一番心配したのが飲酒運転です。そんな時、アディクションセミナーに参加させてもらい、そこで依存症とはどういうものかを知りました。
 

 家族の対応も教えて下さいました。
 
易しいことではありませんでした。
 
セミナー終了時にも落ち込んでいました。
 
帰り際断酒会の方を紹介して頂きました。
 
藁をもすがる思いでした。
 
以後遠方の所を、何回か家まで来て頂いたり、相談に乗って頂きました。
 
そんな中、私は一昨年秋、朝転倒し骨折しました。
 
2階で息子は寝ていましたが、携帯で救急車を頼みました。
 
私は入院を拒んでましたが、私の姉に仕事を休んで貰い、病院まで迎えに来て入院の準備をして貫いました。
 
夕方家に着き姉の「よっちゃんお母さんがえらい事や」の声で息子が初めて知るような情けない状態でした。
 
それから3ケ月入院しました。
 
その後息子も仕事が決まり、毎日病院に寄り洗濯もしてくれました。「この子が居てくれてよかった」と思いました。
 
初めて息子におんぶもして貰い、忘れられない良い思い出です。
 
けれど仕事も飲みながらですので続くわけがありません。
 
段々表情が変わってきました。気がかりですので一週間はど早く退院しました。
 
退院して少しは優しく思いやってくれると思いきや、痛くて十分歩けない私に、今迄通りああして、こうしてと頼ります。
 
もう専門病院に入院するしか、息子も私も救われないと思い助けを求めました。
 
入院が決まった時の息子の言葉が耳から離れませんでした。
 
「一生恨むからな」これで良かったんやろかと悩みました。
 
一生恨まれても元気な息子に戻ってくれたらその方が良いと思いました。
 
初めて家族教室に出席し不安でドキドキしながら面会に向かう時ガラス越しに息子の姿を見つけたら自分でもなぜか分かりませんが、廊下で号泣してしまいました。
 
看護士さんが優しく肩に手を掛けてくださいました。
 
涙を拭いて落ち着いてから外でタバコをすっている所に行き、声を掛けました。
 
びっくりしてました。
 
話したい事、聞きたい事一杯有りましたが、泣けてきそうで言葉に出来ませんでした。
 
心の中で「頑張ってな、元気になろうな」とつぶやいていました。
 
それが精一杯でした。
 
断酒会に通い始めた当初は家族だけが断酒会に通っていて何になるんやろと思っていました。
 
今でも皆さんのように断酒され幸せな日が来るやろかと落ち込む目もあります。
 
けれど気持ちが楽になる目も有ります。
 
家族の方々には、キット辞めてくれはるから家族だけでも例会に出席するよう励まして貰っています。
 
退院後は、息子と二人で出席しております。
 
ありがたいです。
 
断酒会の方にいつか聞かせて貰った言葉です。
 
「人の出会いによって人生は変わる」本当やと思います。
 
いい人生に変わる良い機会を頂きました。
 
断酒会の人々に出会えたことを感謝致します。
 
ありがとうございます。



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<フヨウ>
しんしんと更け行く夜に 聞こえ来る 胸高鳴りぬ救急車の音    



21.やめ続けて16年   (瀬田支部) 





 「いくら酒を飲んでも顔色の変わらない」そのような飲酒の仕方をしていた夫に、アルコール依存症の病名がついて、早や16年の歳月が経ちました。
 
定年を3 年後に控えていた時期で、毎日しんどい、などと言いながら、真冬なのに寝汗をかいていたり、自転車で転んで大怪我をしたり、そんな様子を見て、私は「家計の事は何とかするさかい。仕事辞めて!」とよく言ったものです。
 

 思い起こせば天井裏、縁の下、本棚の後ろ、押入れの中など、家中のあらゆる所から「酒」と名のつく空瓶、空箱がでてくると「こんなにも内緒で飲んで!!」と怒りが渦巻いていました。
 
飲むなと言えば「飲まんとあかん理由がある」と言う始末。
 
酒瓶を片手に、持ち帰った残業をしていたあの異様な光景、私には考えられませんでしたが、もう必死でした。
 

 朝、普通に出勤して行った夫から、夕方に「肝臓が悪いので今晩から入院や」と電話が入り、これが一度ならず二度までも、そのたびに乳癌手術後の精神不安定な私なのに、自分の事どころか夫の入院を看とりに行く日々が続いていました。
 
退院に際して栄養指導を受けて帰ってきても何の効果もありませんでした。
 
2度の入院後も又飲酒の日々が続きました。
 

 怒りっぽい夫、家の中はいつも暗い雰囲気に包まれていました。
 
息子たちは無言でしたが雰囲気は感じていたと思います。
 
どうにもならなくなった夫は「病院へ連れて行ってほしい」と言い。
 
県立精神保健総合センターへ入院する事になりました。
 
3ケ月入院の後、断酒会守山支部の例会を皮切りに、夕方から夫婦二人三脚で例会周りが始まりました。
 
話す事は2人とも苦手ですが、行かなければお酒をやめ続けることができないと、センターの家族ミーティングで教わりましたので、使命だと思い通いました。
 
主婦が夕方から家を出ることは大変でした。
 

 断酒会の色々な行事に参加させていただきましたが、私たち夫婦は車の運転が出来ませんでしたので、多くの方々が行事が終わるとマイカーで帰宅されるのを目の当たりにして、悔しい思いをしました。
 
色々悩みましたが、車の運転をしようなど思いもよらなかった私が、55歳にして、この断酒する夫のために、己のためにも免許を取り怖い思いをしながらここまで来ました。
 

 おかげさまでこの16年間、例会はじめ県の大会、他府県の大会、あらゆる断酒にかかわる会、勉強会に足を運んできて一滴も口にすることなくやってこられました。
 
このことに拍手を送ります。
 

 お酒の事以外にも人生はいろんな困難や不幸に遭遇します。
 
思い出すたび涙を流す事もありますが、この調子で残された少ない人生を生かされてゆけばそれでいいと思います。
 

 私は私の体を大切にするよう頑張ります。



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<ホウセンカ>
また一つ近所の灯り 消されゆく 帰らぬ君に今夜も寝れず    



22.24年・・・今の思い   (草津支部) 





 平成3年、私達一家が主人の病魔により、どん底だった頃の初夏に専門病院を知り、断酒会に入会できて早や24年が過ぎました。
 

 飲酒運転での数回の物損(幸いにも人身はなし)事故、暴言、家族はもとより他人への迷惑は数えきれません。
 

 主人の顔色を見ながらの例会通いで、私はなかなか酒害体験を語れず辛かったです。
 

 そんな中、家族例会は本音を語れる救いの場所でした。
 
当時酒の止まっている主人に感動し、私はハイテンションでした。
 
息子たちに「いずれ飲むやろうから、その時のショックも考えときや!」と、よく言われました。
 

 例会に通う中、10年後くらいから家族の心も少し和らいでいきました。
 
私は幸せでした。
 

 主人が70歳を過ぎた頃から、体調を壊したのか、以前の活気が無くなりしんどそうです。
 
夜眠れないらしくて、昼間はずっとうとうと……その姿はまるで飲酒時代と同様です。
 
私の心中はフラッシュバック、辛かった日々が戻ってしまいます。
 
主人への視線も変り優しさもなくなりそうです。
 

 今、「幸せですか?」と聞かれたら「不幸ではありません」としか答えられません。
 

 断酒会に出会えてよかった事は、主人の断酒は勿論ですが、ここ5年くらい色々な所へ出かけられる事です。
 
出不精で旅の計画をする人でもないので、家族旅行の想い出は殆んど有りません。
 
3人の息子たちも成人して、父を反面教師としてお酒は飲みません。
 
又、 家庭を大切に暮らしているのは母親孝行だと喜んでいます。
 

 これからも”幸福≠ニいう終着駅に向かって2人で例会に通い続けたいと思っています。
 




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<ホオズキ>
いくたびも時計見上げて案じ待つ 雪降る夜更けはいと心細き    



23.断酒会を大切に   (彦根支部)





 断酒会に入会して16年、すぐに止めることが出来ず、飲みながら先輩に、毎日例会に連れて回ってもらって、止めることが出来、「私は断酒会のお陰で幸せです」と言っていましたが、その毎日例会を行かなくなり、再飲酒。
 
「主人が飲みました」とは言えず、「心配です」としか言えなかった。
 
本当に情けない、惨め、それでも断酒会、家族研修会と参加し、再入院し止めることが出来ました。
 

 そして再々飲酒、「なんでやめられないの断酒会に行ってるのに、今度は、命が危ない、お婆さんと後先さかさまになる」、6年前の彦根支部30周年記念例会の日、本当に情けない、お酒の匂いがする中、隠すことも出来ず、私は家族の方に「飲んでいるのよ」といったら「何も言わなくても、良くわかっているよ」ある人は「もうほっとき」と言われました。
 
県外の家族研修会に行った時、「又飲んだのよ」と言ったら、その人も「ほっとき、断酒会知って飲んでいるから、それよりも断酒会通い、家族会通いを続けたら良い」と、でも家族はほっとく事も出来ない。
 

 1週間後、私は電車を待っていた時、ふと、「今死んだら楽になる」と思った。
 
でも飛び込むことは出来なかった。
 
迷惑になると思い・・・その日が家族会だったのでその気持ちを言って助けてもらった。
 
例会で話させて貰ったお陰だと思います。
 

 再飲酒したときも、再々飲酒した時も、飲みながらだったけれど、断酒会だけは離れず通い続け、今断酒できているのも仲間のお陰、断酒会のお陰だと思います。
 

 今は止めている幸せを喜んで、次の幸せに向かって断酒会を大切に通い続けたいと思います。
 
今後とも宜しくお願い致します。



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<ボケ>
ふっくらと肥えて笑顔の親友に 我にはつかめぬ幸せ羨む  



24.夫の断酒   (守山支部)





 今から思うと主人は結婚した時からアルコール依存症でした。
 
最初は家で飲む静かな酒でしたが、次第に酒の量が増え自分の都合が悪くなるといつも人のせいにし、物に当たり、腹が立つと殴りかかってくる状態でした。
 

 子供は中学の時不登校でした。
 
娘が進路の事で相談した時も飲んだ勢いで怒鳴りつけ、それから娘との仲は最悪状態です。
 
飲酒により家族はギクシヤクし我が家には一家団欒と言うものはほとんどありません。
 

 朝から飲酒するようになり「酒を飲んで死ねたら本望や」と言っている時は『このまま死んだらええのに』と思う日々でした。
 

 2009年には腹水がたまり、足が腫れ、初めて病院に受診し“アルコール性肝障害”“アルコール依存症”と診断されました。
 
しばらくは断酒していましたが症状が治まれば、また飲酒。
 
憂鬱な日々の始まりです。私は不安一杯で“うつ”になり、気持ちを落ち着ける為に安定剤を飲む日々でした。
 
次第に暴言暴力は酷くなり、一時期家を出た事もあります。
 
離婚の話もしました。
 
その後2年間は断酒しましたが、2012年御神酒がきっかけで再飲酒。
 
今度は隠れ酒。
 
飲酒は拍車をかけるように酷くなり、味醂、料理酒も飲む様になって、朝から飲酒し勢いをつけて出勤すると言う状態でした。
 
私は飲酒運転の事がすごく気になり、精神的にも疲れ果てていました。
 
どこか相談場所はないかとやっとの思いで家族会にたどり着き、アルコール依存症がどういうものかを知りました。
 

 2014年末、主人は“アルコール性うつ’になり心療内科を受診し断酒会を勧められ入会しました。
 
何度か飲酒をし、例会に行かなくなった時は仲間の方から声をかけて頂き断酒会に戻る事ができました。
 
また「他の支部も回ってみては」と助言を頂き他支部にも回り始め、私はすっかり安心していました。
 
所がまた飲酒!診察帰りに飲んだと。
 
これはショックで、崖っぷちでいい景色を見ている所を後ろから突き飛ばされた心境でした。
 
私の心はズタズタ。
 
巻き込まれているのは分かるんですが、中々抜け出せません。
 
あせりと不安、うつ状態まっしぐらでした。
 
フラッシュバックもあり、どうしようもない気持ちになって仲村さんにSOSし、家族会に行き救われました。
 

 例会で家族の方がご主人を褒めながら発表されているのには心打たれました。
 
今回の自分を振り返ると「結果を急ぎすぎたんだなあ−」と反省です。
 
腹を立てず気を長くと助言して頂いたことを忘れず、これからも例会回りを続けて行きます。
 
主人がアルコール依存症になったお陰で沢山の仲間が出来、助けて頂いた事は大変嬉しかったです。
 
感謝、感謝です。
 
これからもどうぞよろしくお願い致します。
 




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<ボタン>
クラブ終え疲れて帰る 息子(こ)の耳に くだ巻く父の荒声かなし    



25.仲間と家族会の皆さんに支えられながら  (長浜支部)





 内科、日赤の精神科、黄檗病院への入退院の後、断酒会に入会させて頂きました。
 

 しかし、どうしても断酒継続が出来ない夫を、夫の両親と責め続けました。
 
何の返事もしないで虚ろな目で俯いている夫に私たちは苛立ちと、大きな不安を覚えました。
 
断酒も出来ず、例会も参加しない夫、日々の生活費も苦しく、先の見えな い生活、続く言い争い、大きな声で怒鳴り、泣き叫ぶ声、幼かった息子はきっと幼い心に大きな不安と悲しみがあったろうに、本当は母親の私が息子をしっかりと抱きしめて「大丈夫だよ」って言ってあげなくてはいけなかったのに、その時の私は夫の酒を止めさせる事で頭がいっぱいで、母親らしいことはできませんでした。
 
今とても悔いております。
 

 それからも先輩のお世話で何度か専門病院の入退院を繰り返しても断酒が続かず、私の精神状態もボロボロになって行きました。
 
そんな私を支えて下さったのは断酒会の先輩や仲間の皆さん、そして家族の皆さんでした。
 
家族会では辛い思いを聞いて頂きました。
 
いろんな体験も聞かせて頂きました。
 
家族が酒害者の酒を止めさせる事は出来ない、だけど断酒しようとする酒害者の手助けは出来る。
 
もっとアルコール依存症のことを理解しなければ、そのためにもまず家族の為の研修会に参加してはどうか等いろいろ教えて頂き、学ぶ機会を頂きました。
 
やがて夫も断酒を始めてくれましたが、しばらくするとイライラが始まり、ずいぶん私や息子に辛くあたってきました。
 
そんな時も先輩、仲間のみなさん、家族会の皆さんにずいぶんお世話になりました。
 
家族として夫にどう接したらいいのか教えて頂きました、今夫は穏やかに断酒を続けてくれています、ありがたいことです。
 
そんな中、訳あって私達は今息子と孫二人と一緒に暮らし始めました。
 
いろいろあった彼らをどう受け止めてやればいいのか、夫と共に随分悩みました。
 
家族会で話し、アデクション講座に参加し、カウンセリングを受けたりしながら1年、最近家族の中で少しずつ笑顔で語り合う事が出来る様になってきました。
 

 今思います、私達は仲間の皆さん、家族会の皆さんに本当に助けられました。家族会は私にとって大切な場所だと実感しました。これからもいろんなことが起きてくるかもしれません。でも私達は断酒会を大切にし、仲間の皆さんに、家族会の皆さんに感謝をしながら前を向いて共に一歩ずつゆっくりと歩んで行きたいと思っております。



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<ホテイアオイ>
「楽しくもなくていいから普通の家庭欲しい」と息子呟きにけり    



26.夫の断酒に向けて    (栗東支部)





 主人は定年後アルバイトをしていましたが、全ての仕事を終えてしまい、暇をもてあまし、お酒の量も段々と多くなりました。
 
定年まではお酒は好きでしたが、飲んだら寝てしまうという私にとっては大変楽なお酒でした。
 
決めて飲んでいたお酒がもう一杯もう一杯といって段々と増えていき、私も残っているお酒を隠すという事を度々していました。
 

 その内おふとんに失禁してしまう事も度々あり、トイレまで間に合わず畳の上に子供のように垂れてしまうような事が重なりました。
 
こんな姿をみて、私も情けないやら腹立たしいやら、こんな事は今までの人生で初めてで、どうしたら良いか判りませんでした。
 

 なんぼ本人を叩いたり(私の手の方が痛くなりましたが)大きな声で叱り飛ばしたりしても応えている様子はありませんでした。
 
1昨年、お正月の2日にもお神酒がありましたが、今迄日本酒は置いていても飲まなかったので安心していたところ、知らぬ間に飲んで酔っ払い、2階の階段から、真っ逆さまに滑り落ちてしまうということがありました。
 

 私も近所に聞こえる位の悲鳴を上げてしまいました。
 
頭が少し切れて血が出ていましたが、幸い意識はあったので救急車も呼ばず、一晩傷の様子を見ながら過ごした事がありました。
 
親しい友達にこの事を話したところ、友達のご主人も階段から落ちて救急車で病院へ運んだ事があると聞いて「私だけと違うんや」と気持ちが少し楽になったことを覚えています。
 
又夜に酔っ払ってその辺の家具に頭をぶつけては、朝起きて顔から血が出ている事も度々ありました。
 
「何処で打ったん?」と聞いても主人にもわからず、又トイレのタンクにおでこをぶつけたり、ある時には、トイレットペーパーの金属で耳が直角に3センチはど切れていて病院で縫って貰った事もあります。
 
枕カバーはいつも血だらけでした。
 
プラスチックのゴミ箱は全て潰れていたり衣装ケースも倒れ込んで壊したりしていました。
 
これらの出来事は家の中の事で済んでいましたが、主人は毎日の様に自分の車でお酒をコンビニへ買いに行きます。
 
今年の5月8日、私は出かけていて留守だったのですが、まだお酒が残っている状態の中、車で買いに行き家まではどうにか 帰って来たのですが、駐車場に車を入れる際バックする所、誤って前進し水の入っている田んぼに車ごと突っ込んでしまいました。
 
本人は夢の中の出来事のようにはっきりと覚えていないようですが、私が出先から帰って来ると救急車、パトカーが来ているし、日曜日だったので近所の人達もたくさん寄っていて大騒ぎになっていました。
 
今迄家族が一番恐れていた事が目の前に現実となっていました。
 
私は気が動転して頭が真っ白になりました。
 
救急車で病院に連れて行き、そこで警官からお酒を飲んだ量とかの調査があり、その後入院する事になりました。
 
今迄いくらお酒を止めるか、病院へ行くよう勧めても本人は拒否していました。
 
これでやっと病院につながることが出来ました。
 
その病院を3日間で退院後、「このまま家に帰ればまた元の木阿弥だ」と思い。
 
私がお世話になっていた守山こころのクリニックの明神先生に連絡して連れて行き、説得して頂いたお陰で岩倉病院へとつながることが出来ました。
 
最後の最悪の状態で神様が救いの手を授けて下さったのだと、私は感謝の気持ちで一杯になりました。
 
そして3ケ月という、今迄経験したことのない長い入院生活を経て8月に退院いたしました。
 
退院後は断酒会にも繋がり今は一歩一歩ですが、お酒を止める生活が続いています。
 

 私も一緒に断酒会に通わせていただき、自分の気持ちをその都度吐き出すことにより気持ちがすっきりとして帰ることが出来「ありがたいな−」と思っております。
 
ここまで来れたのも断酒会の皆様方のお陰です。
 
これからも宜しくお願い致します。



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<ホトトギス>
「疲れた」と遺して逝きたき 我の苦を 君は知らずや今日も飲み行く    



27.アルコール依存症を理解していなかった私   (彦根支部)





 今から3年程前に近江八幡総合医療センターで、すでに肝硬変になっている肝臓にがんができ手術してもらいました。
 
その時、先生よりお酒は飲まないようにと言われていました。
 
3カ月ごとの検査、診察受診のたびごとに、「アルコール飲んでるでしょう」と言われ注意されていました。
 

 その間に、静脈瘤破裂を2回し手術してもらい、3度も命を助けて頂きました。
 
なのに断酒できないでいる主人に、だんだん先生も呆れるやら、言葉も冷たく感じるようになりました。
 
もう主人一人の力では断酒は、出来ないと思い、「禁煙外来のような、断酒できる外来がありませんか」と、先生に尋ねました。
 
すると県立精神医療センターを紹介して頂きました。
 
そこで主人はアルコール依存症ということを知りました。
 
最初は薬で欲求を抑えて通院を選びましたが、なかなか断酒につながらず入院する事になりました。
 
退院しても、最初は1週間に1回、次に1週間に2〜3回と飲酒が続きました。
 
その間に断酒会に入会し、週に1回通っていたのですが、皆さんの話も右から左へという感じでした。
 

 断酒会の家族の方に相談したところ、守山こころのクリニックの明神先生を紹介してもらり、診察をして「あなたこのままだと、死ぬか脳が萎縮するよ」といわれ、即、2回目の入院そして退院してからは、本人の意識も変わって断酒会も週に3 〜4回、退院してから3回ほど飲酒してしまいましたけれど2回目の入院する頃とは、ぜんぜん変りました。
 
今は断酒2ケ月目を目標に夫婦で頑張っています。私が断酒会につながる前は精神医療センターで、家族のセミナーが有ります。それには診察の予約をしてから聞き、私は病気じゃない、関係ないなどと思っておりました。
 
断酒会へ入会してもらう為、最初だけのつもりで、私も断酒会に行ったら「奥さんも入り」と言われて仕方なく入会しました。
 
だんだんと回を重ねる毎に主人に対して思っていた軽蔑や不信感が、「これは病気なんや、ここに来ている人は皆、同じような事をして来てるんや」と理解すると、私はいっぺんに気持ちが軽くなり、前向きに生きていけると断酒会で気付かせて頂きました。
 
これからも宜しくお願い致します。
 




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<マルバルコウ>
真心を持ちて当たるも届かなき 酒に曲がりぬ心悲しや      



28.妻と共に回復を   (大津支部)





 私の妻は、酒をどれだけ飲んでも一晩眠れば二日酔いする事はなく、頭痛がしたり吐いたりした事がないという事もあり酔いつぶれてしまうまで飲み続けるのが日常でした。
 
家で飲むのはもちろん外に一人で飲みに行くのも大好きで、真夜中に「迎えに来て」と電話をかけてくるので「どこにいるんや?」と聞くと「どこかわからへん」と言うので車で探し回って結局飲み屋街の道の真ん中にひっくり返ってるのを連れて帰ったと言う事もありました。
 
やがてみるみるうちに体調が悪くなっていき約1年は毎朝微熱があり、頻繁に大量の鼻血を流したりしていました。
 
それでも毎日酒を飲むことを私はよく叱り怒鳴り散らしながら家中の酒を捨てたりしていました。
 
やがて食道静脈瘤が破裂して大量に吐血して大津市民病院に緊急入院したのですが、驚いた事に妻は私にばれてしまわないようにトイレも掃除して3日以上も血を吐き続けてたそうです。
 
私が病院に駆けつけた時には妻はいろんな管に繋げられ輸血もされていました。
 
本当にショックを受けた姿でした。
 

 以前からの病院で担当して頂いていた医師に「あなたの奥さんは間違いなくアルコール依存症なので、この病院を退院したら紹介する専門の病院に行きなさい。
 
このまま飲み続けると今すぐにでも肝硬変になり辛い人生になります。
 
でも今、完全に酒をやめられれば健康な体に戻れます。
 
今がその崖っぷちにいると思ってください」と言っていただき、断酒への大きなターニングポイントだったと思います。
 
なんとか自力で歩けるようになった頃、市民病院を退院した妻に私は「もう酒をやめなあかんの分るよな?」と聞くと妻は「うん、わかってる。もうあんなしんどい思いするの嫌やし、飲む気にならんわ」と言ってくれ嬉しかったです。
 
しかし翌日の夜、私が家に帰ると妻はベロベロに酔っ払ってました。
 

 私は正直その時が一番ショックで「この先どうなるんやろう」と不安でたまらなかったです。
 
その後、いわくら病院に入院してアルコールに真剣に向き合うようになって退院してきた妻と一緒に、断酒会に入会させて頂きました。
 
出来る限り例会に出席して皆様の話を聞いて勉強をしていければと思いますので宜しくお願い致します。
 




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<マンリョウ>
酔う父を 見る目は辛く悲しそう 子等は黙りて二階へ上がる    



29.









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<ミセバヤ>
節酒など出来る筈ない病とは 知らずに節酒を泣いて頼みぬ    
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