児玉語録(和歌山断酒道場前道場長) 

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(和歌山断酒道場修行生有志編纂)            




 1.和歌山断酒道場 断酒誓約
 2.心の鏡を磨く
 3.人間に絶対はない
 4.一期一会
 5.一隅を照らす
 6.人間一人で生きられぬ
 7.修行と修養
 8.甘柿と渋柿
 9.竹はふしから芽を出す
 10.反省について
 11.謙虚であること
 12.生きた断酒、死んだ断酒
 13.日々の覚悟
 14.信仰について
 15.孤独の自覚
 16.小我を捨て、己を知る
 17.愚痴について
 18.和敬静寂
 19.反省・感謝・報恩
 20.心を変える
 21.素心に帰れ
 22.改造でなく、革命である
 23.酒に囚われぬ心
 24.妥協は敗負
 25.道理を諦観せよ
 26.照顧脚下
 27.


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<ザゼンソウ>



「酒」
 
酒害者の家族にとってこれ程
 
恐ろしいものはない
 
辛いものはない
 
苦しいものはない
 
悲しいものはない
 
恥ずかしいものはない
 
大嫌いなものはない
 


 

1.和歌山断酒道場 断酒誓約





 過去の私が酒のために、家族を泣かせ、親戚に迷惑をかけ、友人を欺き、人々を度々苦しめて、社会に害毒を流した事は、酒に罪なく、罪は飲んだ私にある事を認めます。
 
 今度は二度と再び、このような大きな罪を犯さぬために、酒を断つことを誓約致します。
 

 酒は頭だけでは断ち切ることはできません。体で識ってこそ初めて、一生涯、断酒の継続を持ち続ける事が出来るのです。
 
 そのために、次の事項を実践いたします。
 

                 記
 

一、永い間の気ままな生活で、自分の心の鏡がすっかり曇っているが為に、穢れた自分の姿を見極める
  事が出来ず、その為に、真の反省と懺悔の生活を成し得る事が出来ませんでした。
 
  今日、只今より心の鏡を磨くことに懸命に努力致します。
 

一、心の鏡を磨くために先ず、一番身近な同僚の皆さんが歓んで下さる善意を積極的に実行する事から
  始めます。
 

一、同僚の失敗及び行動については決して批判、非難は致しません。
 

一、怒ったり貪欲を起こしたり、愚痴をこぼす事が、人間同士の不和を創る悪因であることを常に
  自分に言い聞かせます。
 

一、朝、晩一日二回は必ず家族の名前を呼んで挨拶をいたします。
 

一、道場に入所したからには,ならうと思うよりもなれると思って、明るい気持ちで、日々を努力
  致します。
 

一、自分が救われると言うことは、他の人を救うことの中にあるということを悟るまで、自分で精進
  努力を続けて行きます。
 




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<ノアサガオ>
命より家庭よりもの酒捨てし 強き勇者の君を仰ぎぬ  



2.心の鏡を磨く





 「人間本来仏」といわれます。
 
人間の心というものは、「清浄無垢」なものです。
 
生まれながらにして人間は、誰しもが、この清い「良心」を持っているのです。
 
この「良心」を見失うことなく、一層高めていく努力が「心の鏡を磨く」ということです。
 
鏡はご承知のように、物の姿を投影します。
 
しかし、物の姿が映ったからといって、鏡そのものの目方が増えるわけではありませんし、姿が消えても鏡自体の目方が軽くなりません。
 
また、鏡は美しい物を映したとしても、逆に汚れた物を映した場合でも、ともに鏡そのものは決して美しくも汚れたりも致しません。
 
鏡は、このように周囲の物に影響されることなく常に不動の自身を堅持しております。
 

 人の心は鏡と同様にあらゆるものを映します。
 
ただ鏡と異なる点は、その投影物によって左右され勝ちになることです。
 
美しいものに同化されるのはよいとしても、悪いもの、汚れたものが映った場合、それに迷わされ、引きづられてしまう結果になります。
 

 このように人の心というものは、常に変転し易いものです。
 
この変転し易い心を何者にも左右されぬ不動の心にしていく努力が、即ち「心の鏡を磨く」ということなのです。
 
道場で毎朝行っている瞑想の目的主旨は、一人静かに心を落ちつけて瞑想することによって過去に行ってきた、己の姿を見きわめ、その善悪を判断し、心の鏡を、常に研ぎすまされた不動の状態に置き、その上で今日一日の行動の指針を決めるところのあるのです。
 

 要するに瞑想はと「良心に基づく不動心を養う」ためのものです。
 
常に曇りのない良心を心掛けていくことが「心を磨く」修行につながります。
 
磨かれた心で物を見れば不平不満は決しておこりません。
 
己の心の鏡が曇っているからこそ、物事がゆがめられて見えるのです。
 
心の持ち方ひとつで、その人に喜怒哀楽をもたらすのです。



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<ノースポール>
家庭(いえ)あるも命あるも職あるも 断酒の道を歩きてこそぞ  



3.人間に絶対はない





 人間社会に絶対というものはありません。
 
「一寸先は闇」のたとえではありませんが、今現在があっても、その先がまったく不明である。
 
人間の生命を考えてみるとき絶対というものがあるとすれば、それは今いきているその時だけが絶対だとしかいえません。
 
よく人は「絶対に二度とこんな事はしない・・・」とか、「今後は絶対に二度と酒を口にしない・・・」とか申しますが、こういったことは「絶対」という言葉の意味を余りにも軽く考えすぎているのです。
 
今少し「絶対」という意味を真剣に考えてみる必要があるかと思います。
 
今日あって明日のないのが人間の命だということに思い至れば「絶対」というものは今を置いてありえないことが己ずとわかる筈です。
 
更に申せば「絶対」とは「全生涯」を意味することでもあるのです。
 
従って「絶対・・・しない」と云うことは生きているその時そのとき「・・・しない」との意味であり、これが一生涯続けてこそ「絶対」なのであり、いかに「絶対」という言葉の持つ意味が深く、思いものかが解ると思います。
 

 言い換えれば「絶対」とは、その瞬時、瞬時を精一杯に生き、悔いを後に残さぬ生き方をしてこそ意味のあるものであって、その努力こそが絶対といえるのです。
 
「絶対・・・しない」ということは何か遠い先のことのように聞こえますが、決してそうではなく生きていくその場その場が「絶対」であり、今の現在を忘れて「絶対」などは有り得ないのです。
 




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<ノジスミレ>
あの地獄思えば遠き水口も うれしき集いの元旦例会  



4.一期一会





 生者必滅会者定離という言葉でありますが、この「一期一会」という言葉もこれによく似た意味のもので、茶道にある言葉です。
 
人間の数は、いまは何十億とありますが全宇宙の生物、馬、牛、犬の動物から一木一草の植物さらにまた虫や昆虫など総ての生物の数からみると人間の数は実に微々たるものです。
 
釈尊は全宇宙からみた人間の数は「爪上の砂の数」でしかないと教え人命の尊さ、人間使命の重大さを説いておられます。
 

 この選ばれて人間として生まれてきた数少ない吾々人間仲間が、互いに我執にとらわれて自我をむき出しにして争うなどということは、人間の生命、使命を冒涜する最たるものといわなければなりません。
 

 一期一会とは人間の”出会い”のことをいいます。
 
人間はこの出会いというものを大切にしなければなりません。
 
この道場にも全国各地から来ておられるわけですが、お互いに昨日まではまったく未知の間柄であったのが、今日こうして寝食を倶にして修行に励む同僚となっている、このように”出会い”あるいは”機縁”というものは全く不可思議なものです。
 

 袖すり合うも他生の縁とか・・・いわんや、同県人であっても一生涯会うことなく終る人たちの多い中で、遠い他県の人と出会うというこの不思議な縁を深く考えてみるとき、少なくとも私達は、不測の縁によって結ばれて知り合った人達だけでも大切にすべきであり、又、いつかは永久に別れてゆくべきお互いだと思ったら争うなどといったことはみじんもできぬ筈であります。
 
一期一会、出会いの不思議というものを考えれば考える程、人間の和が如何に大切であるかということが自然に解ってくると思います。
 
知り合ったもの同士が仲良くやっていけば自然と人間社会に大きな和が生まれてくるといえます。
 
これが世界平和への理屈でも何でもない最も大切で、最も手っ取り早い道ではないかと思うのです。
 




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<ハオルチア・ファスキアタ>
日日の小さき幸せ喜ぶも あの日の苦しみ忘れ得ぬこそ  



5.一隅を照らす





 人間は神仏でないのですから全知全能ではありません。
 
短所もあり長所のあるのが人間なのです。
 
また、欠点ばかりで何一つ良い所がない、逆に一分の欠点もないなどという人間もまた在りません。
 
そこで、人間として大切なことは、短所を補い長所を延ばしていく努力です。
 
この努力こそが人間に与えられた使命の一つといえます。
 
これが人間修行であり、この努力を弛まず怠らず一生涯続けていく人が最も尊い人ではないかと思います。
 

 確かに人間は弱いものです。
 
他人の富、地位、名誉が気になり何とかこれを己のものにしたいという欲望があります。
 
これが人間社会における争いの因です。
 
人間にはそれぞれ生まれ乍らにして与えられた分野というものがあります。
 
昔の旅には駕籠が使われました。
 
駕籠そのものの使途を十分に果たすためには駕籠に乗る人、これをかつぐ人、そしてまたかつぐ人のワラジを作る人が必要です。
 
それが誰も彼もが駕籠に乗ることばかりを主張したのでは駕籠は動きません。
 
駕籠かきばかりで乗る人がなくては役にも立ちません。
 
このように駕籠の社会的機能を十分に発揮するためには、前者三人三様それぞれの働きがなくてはならぬのです。
 

 三者それぞれに重要な働きをしているのであって、その間に軽重尊卑はありません。
 
人間各自が己の立場、持ち場というものを良く理解し、他人の立場をねたんだり、金銭の大小にこだわったりせず、自己の責任を黙々と果たしていく、これが一隅を照らすということになるのです。
 
名誉、地位、財産が人間の価値を決定づけるものでは決してありません。
 
闇を走る列車の信号を見つめる眼、台風や怒濤の中に灯台を守り続ける手のように自己の持ち場の責務を黙々と果たし、社会の一隅を照らす人こそ真の価値ある人間なのです。
 
社会への貢献度こそ、最終的に人間の価値を決めるのだということを良く頭に入れておいて頂きたいと思います。
 




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<ハゴロモルコウソウ>
この父の元に生まるを 恨む娘(こ)が 初月給にてライター贈りぬ  



6.人間一人で生きられぬ





 よく「俺は己の力で生きているのだ。他人様の世話は受けぬ」など広言を吐く人があります。
 
これはとんでもない間違いなのです。
 
よく考えてみて下さい。
 
自然、隣人、社会の恩恵があればこそ生きていけるのです。
 
産業がいかに進んでも、太陽、空気、水がなくてはたちまち人類は滅亡してしまいます。
 
どんな英雄偉人であっても、生まれ落ちてすぐに自己の力で成長した例はありません。
 
肉親、隣人の援助があったればこそ一人前になれるのです。
 

 このように私達は常に何かの恩恵によって生かされているわけです。
 
恩恵に与っている以上、当然のこととしてその恩恵に報恩しなければなりません。
 
そのためには、まず現在おかれている自己の立場を自分を捨てた見地から十分見直してみる必要があります。
 
素直に謙虚な心で己をみたとき、自分というのもが、いかに周囲から多くの恩恵を受けているかが解る筈です。
 

 このことが今の私達には忘れられ、何でも彼でも自分の立場でしか物事を見ようとしないのが大きな間違いなのです。
 
己あっての他でなく、他あっての己であるわけです。
 
更に申せば他を生かすところに自分の生きる道も生まれてくるのです。
 
多くの恩恵によって現在生きている喜び、有り難さというものを知れば、自ずと他を大切にする心が生まれてきます。
 
いま一歩進みますと、今度は他を大切にする喜びを知ることができます。
 

 これらは決してむずかしい理屈ではなく、日常の心の持ち方一つでそうなるのです。
 
自分が他を愛せば他もまた自分を愛してくれます。
 
愛し愛される心−これが人生の生甲斐であり生きることを喜ぶ心でもあると思うのです。
 

 世の中の人は誰も彼も皆人の子であると同時にやがては親にならなければなりません。
 
と同時に自分が今日まで、世の多くに人々の恩恵によって生かされて生きたのであるならば、やがては自分も世の中の人々を生かしてゆかねばなりません。
 

 人間、一人では生きられるものではないことが、心底より分かれば、世の人々を幸福にせざるを得ないでしょう。
 




 
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<ハナウリクサ>
保障なき明日に心ゆらぐとも 今日一日の断酒を喜ぶ  



7.修行と修養





 修行と修養をごっちゃにされている人があります。
 
しかし、私はこの両者は全く別の意味のものだと考えております。
 
即ち修養とは「師についたり、書物によって自己を高める」ことであり、修行とは「己の体で知ることによって己を高める」ことであると思うのです。
 
従いまして当道場では”修養”の言葉は一切用いず、日常の事柄一切が”修行”であると申して居ります。
 
何ずれが良いか悪いかなどは抜きにして”修行”が私の方針なのです。
 

 水の冷たさは水の中へ手を入れなければ知ることができません。
 
水泳の本を読んで畳の上で如何に練習しても、それは理屈だけを知るのみのことで、実際には泳げないように、頭で知っても体がいうことを聞かなくては何の役にも立ちません。
 
体で知ってこそ実際的な効果が得られるのです。
 

 私が修養よりも修行を優先させているのも、理論よりも実行が大切だと思うからです。
 
体による修行によって実行力をつくる。
 
実行力がなくては百の理屈も無に等しく、身近な何でもないようなことでも、一つの実行は、人間としての価値を生むことになります。
 
酒をなぜやめねばならぬのかを頭で考えるよりも、まず酒を断ってみて、そこから生まれる現象を体で知る。
 
そうすれば己ずと酒が自分にどんな弊害をもたらしてきたかを体験することができるわけです。
 
とかく物事を理屈や理論で批評・非難しがちな私達にとっては体で知っていく、実行していくということが何よりも大切ではないかと思います。
 

 人間は体験によって生き、体験によって栄えるといわれます。
 
頭での知識ではなく、体で知りこれを知恵として身につけていく、これでなくては実際の物事には役立たぬと考えます。
 
修行とは自分の手で、足で己を磨いていくことです。
 
他から教えられるものではないのです。
 




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<ハナカイドウ>
残業を終えて帰りぬ君の背に 今日の勤めの重きを想う  



8.甘柿と渋柿





 一般に渋柿は疎まれ、甘柿は歓迎されます。
 
しかし、甘柿は甘柿のままでしかありませんが、渋柿は月日とともに自己の力でシブを抜き、やがては甘柿からは得られない独特の甘みを出すに至ります。
 
吊柿が人に珍重されるのも、普通の甘柿からは得られない味を持っているからです。
 

 人間にも甘柿と渋柿があると思われます。
 
現在は逆境にあって渋柿の如き存在であっても、努力と精進によって己を磨き高尚な人格を形成した暁には、一般の人にない奥深い風格を身につけることができ人々から信頼される人間に成り得るわけです。
 
人間には誰しもが何かしらのシブは持っているものです。
 
大切なことは、これを甘味に変える努力なのです。
 
渋柿が自らの力でシブを抜き他にない味を作り出すように、人間も忍耐と努力によって、やがては逆境から抜け出て世に役立つ人間になる。
 
この努力の過程が尊いのです。
 
如何に精進しても一挙にシブを抜き出すことは不可能なことです。
 
長い間の不断の努力、これが人間を序々に高めていくのです。
 
この努力如何によって人間の価値が決まるものだともいえます。
 
努力の期間が長ければ長い程その人格は一層高められていくのです。
 

 「みるもよし、みざるもまたよし、吾は咲くなり」この精神こそが尊いのです。
 
人間の修業は、一生涯つづくものであり、評価を求めるものではありません。
 
努力の積み重ねが自然と光を放ってくるのです。
 
この光こそ本物でメッキの光ではありません。
 
吊柿は腐ることなく、その味を持ち続けるように、人間も真の修行から得た人格は、失うことなく何時までもイブシ銀のような奥深い光を失うことがありません。
 
この人生で誰が幸せで、誰が不幸か、又何が成功で何が失敗か、最後には神仏のみが定めることでしょうが、私共において、それを決めるものは、結局は「信念と努力」のほかはないでしょう。
 

 一日一日が修行の連続であるというのも、この意味からです。
 
一時の誤魔化しでなく、人の後になっても誠実に一歩一歩人生を登りつめていく根気と忍耐を忘れてはメッキの光しか得られないのです。
 




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<ハナシュクシャ>
酒を断つ決断するは君なれど 決断させしは仲間の力  



9.竹はふしから芽を出す





 竹は成長とともに節をつくります。
 
風雪に耐えて折れず、曲がらず、真すぐに伸びるためにも、この節は竹にとって重要なものです。
 
節が堅く多いものほどよい竹とされております。
 
人生もまた同じではないかと思います。
 
真すぐに折れず、曲がらず竹のように人生街道を歩んでいくためには、やはり節がいるのではないでしょうか。
 
では人生の節とはどういうものなのか、それは人生に区切りをつけることです。
 
一定時間毎に過去の体験を集積した節をつくり、これを基盤に更に新しい出発への芽を出していくというわけです。
 
一年なら一年に一度、自己反省を行い、悪いものは捨て良いものだけを節の中に集め蓄え明日の備えにする。
 
一日一日をないがしろにせず、多少とも有益なものを身につけ育成していく努力を怠らぬためにも、竹のように節をつくり、そこから新芽を出す。
 
新しい自己をのばしていくだけの心構え配慮が必要ではないかと思います。
 

 私が、日記をつけることを奨励するのも、こういった節作りの資料が大切だと思うからなのです。
 
過去の日記を読み返してみたとき自分自身の考えが、どう変わってきたか一番よくわかります。
 




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<ハナズオウ>
あの君がああこんなにも変わらされ 仲間のおかげにただただ感謝  



10.反省について





 一口に反省と申しますのは過去の己の言動をふり返り、正邪の切り目をつけ、今後の指針を決定することであります。
 
一般に口先だけで「反省した、反省した、二度とこんなこと繰り返さない」といっておりますのは反省という言葉を借りて己を装っているに過ぎないと思います。
 

 反省とはもっともっと厳粛なるものでなくてはなりません。
 
要するに自己の裸の姿を客観的に冷静な目で視つめ、きびしく自己批判するものでなくては意味がありません。
 
新しく行動を起こすとき、あるいは行動中の己については、ともすれば周囲の情勢や自己の感情に押し流され、自己を冷静にみきわめることは、非常に難しいものなのです。
 
それを時おり時期をみて一歩退いて己の行動すべてについて注視、考察し正直への道を思案することでもあります。
 
古の聖者賢人は「日に三度己を省みる・・」といわれています。
 
何時の時代にあっても、自己を客観的に、かつ冷静に視つめるだけの心の余裕と謙虚さがあってほしいものと思います。
 




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<ハナニラ>
償いも謝罪もいらぬ我はただ 断酒の安心続くを願う  



11.謙虚であること





 「謙虚であること」は、最も尊い人生哲学だといわれております。
 
すべての人の心の中に、この謙虚の精神が培われたならば現代は、更に暮らしよい楽しい世の中になるだろうと思われます。
 
モンテーニュは「すべての徳は謙虚より生まれ、すべての罪は自我より生まれる」といっております。
 
これは人類の平和と幸福の、そしてまた民主主義の基本に通ずるものでもあるのです。
 

 謙虚が百徳の基であるということは、モンテーニュの言葉にまつまでもなく、多くの先哲が同様の教訓を残しております。
 

 私たちは、日常の生活で大切な他人への思いやりの心、心の誠実さ、素直さなどはすべて”謙虚さ”から生まれるものと思われるのです。
 
謙虚さは、いいかげんな嘘や、はったりを排撃します。
 
しかも謙虚の精神は、いつでもどこでも、いかに強調されてもすぎることはないのであります。
 




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<サルスベリ>
生の声 生の姿 真に受く例会の場に魂ゆさぶられる  



12.生きた断酒、死んだ断酒





 「断酒道とは人間復活とみつけたり」これは私の信念であります。
 
何故、断酒するのか、しなければならないのか、これを真剣に考えていきますと行きつくところは「人間復活」以外になく、断酒の目的も当然この点になくてはならないと考えているわけです。
 
人間復活を目標とする断酒でありますので、私は「断酒道」すなわち「道」と名付けているわけであります。
 

 勿論、断酒の方法はいろいろありましょうが、ただ単に酒をやめることだけにこだわり、酒さえ呑まねばよいのだという考え方は根本問題を忘れた、いわば死んだ断酒だと考えます。
 

 酒をやめることによって人間らしい生き方を心掛け、そうすることによって家庭が明るくなり、職場の人達とも仲良くやっていける。
 
毎日毎日に張りがある、少なくともこうなってこそ断酒の意味があるのではないかと思うのです。
 
断酒しても相変わらず仕事もせずにブラブラして家族に心配かけていたのでは、何のための断酒かということになります。
 

 私のいう生きた断酒とは、飲酒当時のグウタラな生活を改め、日々人間として、人生をいかに生きるべきかを考え、人間復活に向けて修行を続けていくものであると思うのです。
 

 こうした生き方に努力してゆけば自然と酒から遠ざかり、酒を呑もうなどとは考えなくなり、又自己の責任を果たすためにも、もう酒は飲めなくなるものです。
 




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<サルビア>
夫婦して同じ時間に同じ場所 同じ目的二時間学ぶ  



13.日々の覚悟





 生存競争の激化とともに世相も大きく変わって参りました。
 
人間の考え方もまた大きな変化を見せております。
 
これに伴って必然的に人生に対する倫理観念も変化し、古い(明治から終戦までの)倫理は通用しなくなった、と一部ではいわれております。
 
いや、むしろ見方によれば時代の風潮に押し流されているようにさえ感じられる昨今です。
 

 しかし、私は人間の根本倫理などは、どんな時代になっても常に不変不動のものだと考えております。
 
時代の動きが激しければ激しいほど不動の倫理が必要となってくるのです。
 
世情の動向に即応していくためには、まず、何よりも強い精神力と柔軟な頭脳とが必要とされます。
 
強い精神力の根底をなすのは、不動の倫理観念であります。
 
倫理とは申すまでもなく人間の生きるべき道で、この道がフラフラしていたのでは、真当な生き方は出来ません。
 
それを何処に求めるか、それは己の心に求めるのです。
 

 一日一日をいかに生くべきか、今日あって明日のない人生の厳しい現実をシッカリと自己の中心の中にとらえた場合、自ずと答えは出てくる筈です。
 
一日一日を悔いのない、何人にも迷惑をかけない生活、これがどんな時代にでも変わらない人間倫理の根本と思います。
 

 この全宇宙、この全人生で、本当の実存するものは「今日」だけです。
 
その「今日」も刻々とうつってゆく「今日」こそ自分の一本勝負の道場であり、又、真の断酒人に立ち向う生命の本拠地でもあるのです。
 
この事を考えれば、一日一日が真剣勝負であり、今日の借りを明日返すことは出来ないのです。
 
明日は必ずしも今日の連続ではない。
 
今日一日のことは、今日一日で解決して置く、これが日々の覚悟というものです。
 
周囲の浮ついたものに動ぜず「日々之真剣勝負」の強い精神力をもって、何時、何処で命を了ても悔いのない人生を心掛けていきたいものです。
 




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<サンシュユ>
どの声も耳に入らじと飲みし君 体験談に頭殴らる  



14.信仰について





 信仰は必ずしも宗教とは限りません。
 
もちろん、極めて類似したものではありますが、信仰は宗教より自由なものだと思います。
 
信仰も宗教も、人それぞれの心の中にあるものであり、他より強制されたり他に強いたりするものでないことは申すまでもありません。
 

 一心こめて祈るところに信仰があり、宗教が生まれるのです。
 
また、宗教には一つの戒律がありますが、信仰はその点、あくまでも自由で、もし戒律があるとすればそれはその人の心の戒律だといえます。
 
祈るということは、願望するということではありますが、これは自己を正としての祈りであり、願望でなくてはならぬことは申すまでもありません。
 
要するに信仰し、祈るということは他から一切さまたげられぬ自己心の発露であるわけです。
 
これを人によっては自己逃避、自己満足でしかないとみるかも知れませんが、祈りの中に自己を没入せしめることは、精神的安定につながり、安らぎの生活を得ることが出来ます。
 

 祈る対象が何であっても、すべての雑念を捨てて祈るところには、人間の真実の姿がみられます。
 
真実の姿こそ正の姿であり、邪心を去った心境に到達することが出来るのです。
 
要するに祈るとは・・・自我を捨てて、神仏の境地と一体になることだと考えます。
 
この時点から始まる生活こそ、自由自在であっても何ら道をはずれていない、人間としての最大の願望である生活ではないでしょうか。
 




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<シキミ>
例会にしっかり断酒の根を張りて 二本の足で踏ん張り立たん  



15.孤独の自覚





 人間は孤独ではありますが、総体的な孤独では生きていけません。
 
人間社会が共存共栄の集団生活を営んでいる以上、何らかの形で他人の影響を受けざるを得ないのであります。
 
相互援助によって生きているわけです。
 
しかし、これらは、物質的な表面上の問題であって、その内面すなわち精神面においては、人間の死が孤独であるのと同時に、これも孤独なのです。
 

 人間が孤独であればあるほど、社会の互助あるいは対人関係といったものが、より以上に大切になってくるのです。
 
ただ、これらが度を越しますと、自己的な欲望となり、他をかえりみない自我自執の行動となって表れてくるのです。
 
ここに孤独の自覚というものが重要視されてくるのであります。
 

 人間は元来、孤独ではありますが、それだけでは生きていくことは出来ず、多くの第三者的恩恵を受けることによって始めて生きていけるのです。
 
そのためには己を生かすためには他を生かさねばならぬということになりますが、これではいけないのです。
 
現在、己が生きておられるのは他人様のお陰なのだ、従って他を生かすべく奉仕することが、己もまた生かされる道だ。
 
という考え方が、大切でもあるのです。
 

 他を生かす、他に奉仕する心境に到達するには、先ず順序として地球上で頼りになるものは、自分以外には、何ものをもないという孤独の自覚を経験して来なければ、「一人では生きてゆけない。世の多くの人々の恩恵によってこそ、始めて生かされている・・・」という真実は分かりません。
 
孤独の自覚が崩れ始めてこそ、人の和も分かり、人に対する感謝の心も湧き、他に奉仕せずには居られない心境にもなります。
 
ここに孤独の自覚の必要性があるのだと、八丈島での独りの生活の中で私は体験致しました。
 




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<シクラメン>
岩倉に崩れし断友(とも)を見舞えれば 格子の窓の明きが悲し  



16.小我を捨て、己を知る




  
 小我−これは自我、我欲をいいます。
 
小我にはしる者は、終局的には、小我によって滅びるものです。
 
常に申しているように、生きるということは、肉体的、精神的に自己を存続せしめることでありますが、自己のみでは生きていけないのです。
 
他との協調の上に立って始めて自己の存在があるのです。
 
従いまして他との協調をはかることが、自己を存続せしめるための絶対的条件にあげられるわけです。
 

 他との協調をはかるためには、どうあるべきかと申し上げますと、まず己の立場を自覚することから始まります。
 
己の守備範囲をよく知ることです。
 
自分の出所進退にケジメをつけること、更に小我を捨てて他に奉仕する。
 
奉仕する精神のあるところに争いは有り得ません。
 
ここに己を知り、小我を捨てた価値が生まれてくるのです。
 




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<しだれ桜>
我のよに酒に泣かさる妻ありて 入院促す便りしたたむ  



17.愚痴について





 愚痴とは、愚かな心の病である、といいます。
 
愚(おろか)で痴(たわけ・ほうけ)た状態のことです。
 
小人ほど愚痴をこぼすことが多いようです。
 
自我に執着しすぎるところから愚痴が出ます。
 
愚痴には必ずといってよいほど過去が過大評価されており、裏面には自我のかたまりといったようなものです。
 
しかも、自己を正当化しようとする気持ちが多分に含まれております。
 
このように愚痴ほど見苦しく、愚かしいものはありません。
 

 失敗があれば愚痴るまえに、何故そうなったのかについて一人静かに反省し、明日への転機の材料を見出すことに努力するとともに、再び失敗を繰り返さないための心の戒めとして、失敗を再起への一つのステップにして頂きたいものであります。
 




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<シデコブシ>
それぞれの重荷を背負いて酒断ちぬ 強き背中に厳しさ見ゆる  



18.和敬静寂





 「和・敬・静・寂」−私の好きな言葉の一つです。
 
この言葉は、茶道の祖、珠光さんが、時の将軍足利義満に「茶道の極意とは―」と問われたとき、即座に和敬静寂と答えられた、それがこの言葉なのです。
 

 意味を申しますと「すべての根源は”和”にある。和するためには、己を謙虚にし人を敬う心がなくてはならぬ。即ちこれが”敬”である。そして人を敬う心の源は己を慎み清冽に身を処さねばならぬ、即ちこれが”清”である。更にまた己を清に置くべきもとは静かに思う心、喜怒哀楽を表さぬ心、動揺せぬ心を持たなくてはならぬ、即ちこれが”寂”である」というものであります。
 
真にもって味わうべき言葉だと思います。
 

 このように、すべて和をもって始まり、和をもって終わるのが、この世の中なのですが、一口に”和”するといっても人間社会では、なかなか難しいもののようです。
 
孔子の言葉に「君子は和して同ぜず、小人は同じて和さず」というのがあります。
 
小人はすぐに付和雷同し、いかにも和したようにみえても、これは自分の利害の上に立った自我の和でしかありません。
 

 しかし、聖人・君子はそうではなく和の精神を尊んで和すべく努力はするが、己の信念を曲げた表面の和、いわゆる同ずるようなことはしない。
 
したがって「和」というのは、「同」ではないのです。
 
異なる意見があれば、どしどし論じ合って結構だと思う、ベニヤ板のように、木目の異なる板をつぎ合わせてこそ、堅い合板が出来るように一度和すれば離反することがないといった意味のことで、和の尊厳さを示したものといえます。
 

 確かに不動の心(寂)から生まれた身の清冽(清)さと、己を慎む謙虚な心から生まれた人を敬う心(敬)が、一体にならなくては真の和というものは絶対にできないと思いますが、少しでもこの精神に近づくように努力することは誰にも出来るのですから、この和敬静寂の言葉の持つ意味を今一度吟味して、この精神を日常生活の上にも発揮するよう心掛けていきたいものと思っております。
 

 当道場の精神も、その根底を「和」においてやっておりますが、先ず最初は道場の同僚同士の和、そして帰郷されたあとは、第一に家族の和が大切かと思います。
 
家にあれば自分は一家の主人だから、家族方から自分に合わせるべきだなどと考えず、家族あっての自分だという謙虚な気持ちで、自ずから家族の調和をとるよう努力するのが本当でないかと思います。
 
調和とは、他から自分に合わすのでなく、自ずから進んで他に合わすべきものであることを忘れないでほしいものです。
 




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<シナレンギョウ>
噴き出づる断酒の想い語るうち いつしか口調厳しなり行く  



19.反省・感謝・報恩





 口先だけの反省でなく本当の裸の自分を視つめた場合、今日こうして生きておられるのは一体誰のおかげであるか、普通の人ならばよく解る筈です。
 
ここに気がつけば感謝の念が胸底から泉の湧く如く突きあげてくるものです。
 
そうなればとにかく何とかしてこれまでの報いをしなくてはならない、という感情にかられ、居ても立ってもいられなくならなければ嘘だと思います。
 
ここで始めて本当の反省がなされ、人間らしい感謝の気持ちが蘇がえり、それが報恩という行動になって出てくるのです。
 
何も一つ一つに区切りのあるものでなく、一連のものなのです。
 

 また、これはスローガンでも標語でもありません。
 
お互い一人一人が、自分の身で感じ、そして実行すべき問題なのです。
 
何も金を儲けることが報恩ではありません。
 
一番身近な家族の人が喜んで下さる事柄から始めるべきです。
 
思い立ったら、その場から実行するのです。
 
何時かはきっと・・・などと甘い考えでいるようでは、何時までたっても出来るものではありません。
 
人間の生活は常に死と対面したものであることを考えれば明日からなどといっていられない筈です。
 
背おいきれぬほどの借のある身であることを自覚すれば素直な気持ちで実行できる筈です。
 
報恩などという大それた考えをもっていたのでは駄目です。
 
止むに止まれぬ純真な気持ちからの手近な善意の発揮が、大きな報恩となっていくのです。
 

 要は気持ちの持ち方一つです。
 
素直な気持ちで実践した小さな善意によって、今度は善意を行う喜びといったものを知ることが出来るのです。
 




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<シバザクラ>
我が県の台風案じる電話あり 遠き吹田の断友(とも)にうれしや  



20.心を変える





 ハエという虫は払っても直ぐ寄りつくものです。
 
ハエをなくするには一番身近な場所から順次に清掃、清潔の場を広げていけば、払う必要もなく楽々と昼寝が出来るようになります。
 
酒も同様、酒が呑みたい、ほしいと思う自分の心を変えなければ、酒から脱出することは不可能かと思います。
 

 私の家は広島にあり、家では妻が「酒害相談所」という大きな看板を掲げて、酒類の小売販売業を営んでおります。
 
私も用件で広島へ帰った折などは、店に出て手伝いをやっております。
 
そんな折に過去の私を御存知の方が来られますと、必ず「こんなに沢山ある酒の中に居て、なんともありませんか・・・」尋ねられます。
 
また、なかには「時には飲みたいと思うことがあるでしょう・・・」と詰問される方もおられます。
 
こんな時、私はどんな言葉で表現したら私の気持ちが相手に分かるだろうかと考えたあげく、「猫に小判という諺があるでしょう。丁度あれと同じことです。酒を生かして用いる方には、酒は必要であり、また、大切なものでしょう。しかし、私のように酒から遠く離れてしまうと、酒の価値を認めない、否、認めようとすら考えていない。私には酒を飲むとか、欲しいとかいう気持ちは全く起こりません・・・」と数年前までの私は、このような答えをしていたものです。
 

 すると、相手方は信じられない・・・といわんばかりの顔をしておられました。
 
考えてみれば信じられないのが理の当然です。
 
それを無理に信じさせよう、また、自分の心境を知って頂こうと、クドクド説明すること事態が酒にこだわっていて、未だ酒から抜け出ていない証拠であると近頃になってようやくにして気付き、自分に恥じているものです。
 

 この頃では、相手方がいかように感じようと、また受けとろうと、そんなことには一向に頓着せず「そうですね」と後は笑いで濁しております。
 




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<ジャーマンアイリス>
新しき断友(とも)が入れば声かけて 断酒めざして共に通えり  



21.素心に帰れ





 素直に聞き、素直に受け、素直に行え―これが素心にかえる三条件です。
 
また素心とは自我の心を捨て去った、人間が本来持っている良心その侭の心のことでもあります。
 
幼児というものは実に無邪気で可愛らしく、誰からでも愛されます。
 
それは幼児は自我、自分の欲に囚われる心を持っていないからなのです。
 

 それが成長するとともに、人間の欲もまた心の中に食い込んでくるわけです。
 
しかし、人間の心はもともと鏡のようなもので不生不滅、不垢不浄、不増不滅、すなわち「無」のものなのです。
 
善もうつり、悪もうつしますが、それはそのときだけのもので、それが過ぎれば元の澄んだ状態に戻るのが心というものです。
 
ところが自我、我執の虫が住みつくと、すべてが自我、自執の眼でしか見なくなり、広く全般を見渡す視覚が狭まり、心の鏡が曇ってくるわけです。
 

 素心にかえれ、ということは、こういった曇りを一掃し、知恵の眼を開くことによって執着心を捨て去る。
 
ここに自由自在いわゆる無の心を握むことが出来るのです。
 
これがすなわち素心なのです。
 
非難、批判せず、何ごとも受け入れられる心のことです。
 




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<シャクヤク>
例会を離れし断友(友)誘わんと 「さざ波」持ちて行くを見送る  



22.改造でなく、革命である





 アル中からの脱出は、人間失格の改造でなく、更に一歩つき込んだ革命でなくてはなりません。
 
改造であれば今までの自分を土台にして、善悪を入れ替えるだけで済みましょうが、人間復活を目指す以上は、こんな生易しいことでは到底おっつきません。
 
今までの自分を一度解体して新しい自分を作り出す覚悟が必要なのです。
 
これが革命です。
 

 酒だけのことではありません。
 
断酒だけのことであれば一生入院しておればよいのです。
 
社会復帰する以上は単に酒をやめるだけでなく、人間らしい人間の生き方に徹し切ってこそ酒をやめた価値があるのだと思います。
 
これまでの悪業は確かに酒が原因であったかも知れません。
 
しかし、これを行ったのは自分自身であることを十分に認識して頂きたいのです。
 
断酒誓約にもあります様に「酒に罪なく、罪は飲んだ私にあります」ここが最も重要なところではないかと思うのです。
 

 その自分自身を再起さすのですから、一からの出発でなく、無からの建て直しでなくては真の新生にはなりません。
 
過去の自分の悪業を改めて取りあげてみることは、非常に辛いことかも知れませんが、この傷口を絆創膏を貼ることで誤魔化していたのでは傷は更に深部に達し、遂には人間失格という大事に至る可能性が十分にあるのです。
 
そんな姑息なものでなく、この際に思い切って傷口にメスを入れ傷の隅々まで洗い浄める大手術が必要となっているのです。
 
傷口に絆創膏が改造とすれば、大手術がさしずめ革命ということになります。
 
いま一つ大切なことは、大手術の後は傷口が自然にふさがるまで焦ったり、無理をしてはいけないということです。
 
焦って無理をすれば傷口がさけて、そこからどんなバイキンが入るかも知れません。
 
傷口が完全に塞がって大地にしっかり足をフン張って歩けるようになるまでは、ただ忍耐することです。
 
この忍耐が、やがて再起した新生体の血となり肉となることを信じて明るく、そして豊かな心で日々を送って頂きたいと思うのです。
 




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<シュウメイギク>
いくたびも断友(とも)を訪ねて誘いぬも 帰りし君に落胆の色  



23.酒に囚われぬ心





 禁酒、断酒と、それのみに囚われることは、ちょうど柱時計が止まったからといって振り子を一生懸命に磨いたり、修理したりするに似ていると思うのです。
 

 アル中・・・とは神から人間のみに与えられた唯一つの万物の霊長たる特権、すなわち使命と可能性を放棄して動物界に脱落した、ただの人の哀れな姿だと私は考えております。
 

 アル中の日常生活をよく観察しておれば、お分かりのように、動物と同じように本能につながることしかやっておりません。
 
例えば人間は働きます。
 
動物も働きます。
 
しかし、動物の働きはどこまでも自分のためにのみ働きます。
 
食欲、性欲につながる働きでしかありません。
 
人間は本能につながらない働きもいたします。
 
すなわち他人のため、社会のために働きます。
 
本能につながらない働きは容易にできることではありません。
 
並々ならぬ努力を要します。
 
なるが故に人間は、今日の如く生々発展していますが、動物は千万年も今日も一歩だに前進しておりません。
 
ここに人間が万物の霊長といわれる所以があると思っております。
 

 アル中の働きはどうでしょうか。
 
両親を初め妻、子、家族のため隣人のために益する働きをしているでしょうか?
 
自分のためのみしか考えぬ一方通行の日常生活ではないでしょうか。
 
この事態は最早人間性を失った動物的な行動でしかありません。
 
アル中からの脱出とは・・・万物の霊長たる所以である使命と可能性を自覚して、動物的な人から人間に復活しない限りは、アル中からの脱出とはいえないのです。
 
すなわち「酒にしばられた心」を振り捨てて、本能につながらない、人のため社会のために働くことを実践するようにしなくてはならないのです。
 




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<シラン>
再びを立ち上がられし断友(とも)の顔 笑い戻れば我もつられし  



24.妥協は敗負





 戦いの場において安易なる妥協は敗負を意味します。
 

 人生に戦いにおいても同じことです。
 
己の良心に照らして有害なるものは、すべて敵として排除すべきで安易な妥協は決してすべきではありません。
 

 アル中にとって、最大の敵は酒です。
 
従って酒とは絶対に妥協すべきでなく、妥協するところには、人生の敗北があることを十分ご承知願いたいと思います。
 

 私の体験にこんなことがあります。
 
終戦後広島の故郷へ復員した私は、私の実家の家業である造り酒屋を手伝っており、酒の少ない頃でも酒は自由になりました。
 
たまたま広島の駅前で飲食店をやっている小学校の友人がおりまして、酒に不自由にしているので少し都合してほしいということなので、気軽に承知し、注文の酒とは別にその友人と一緒に飲もうと思って一本もっていきました。
 
実はその友人も戦前は大阪におり、大酒飲みでした。
 
それを知っていたので別に一本もっていったわけです。
 

 とにかく久しぶりだから一杯飲もうということになったのですが、友人は「酒はやめた」というのです。
 
「一体、どうしたのか」と問うと、「いや、飲み過ぎてアル中になり病院に入る始末で、苦労しました」との答えです。
 
その頃私は未だアル中など、人ごとのように考えていましたので、酒飲みの悪いクセで、もう大丈夫だから呑めと奨めたのですが、彼は頑として手を出さない。
 
そこで私も腹が立ち「よし、俺の酒が呑めぬのならいま持ってきた酒も持って帰る。これまでの酒の勘定を今すぐしろ、それが厭なら一杯でも呑め」と強硬に出たところ彼は、こう言いました。
 

 「児玉さん、そんなにいわれるのなら呑みましょう。
 
しかし条件があります。
 
私が今ここで一杯でも酒を口にすれば、あとは朝から酒びたりになり、最後はアル中に逆戻りで入院しなくてはなりません。
 
入院すれば家族の面倒は見きれないし、入院費もかかります、そんなことを何やら彼やら考えますと、最低三○万の金が入ります。
 
児玉さん、貴方がその三○万を今ここで私にくれるのでしたら一緒に酒を呑みましょう」と。
 

 このときは私も馬鹿らしくなって帰りましたが、今になって考えてみますと、この男は実に偉いと思います。
 
酒を生涯の敵として安易な妥協をしなかったわけです。
 
普通なら友人が久しぶりに、それも酒まで用意して訪ねてくれたのですから、既にアル中も治っていることだから、つい盃に手がいくものです。
 
それをこの男は、キッパリと断ったのですから見上げたものです。
 

 その後、この男は再び大阪へ出て、今では大きな料理店を経営しているとのことです。
 
もし、あのとき私の誘いにのって一杯でも飲んでおれば結局、アル中に逆戻りして生涯を破滅していただろうと思います。
 
安易な妥協ほど恐ろしいものはないと思います。
 
ほんのチョットした心の油断が、安易な妥協をよぶということを忘れないで頂きたいと思います。
 




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<シロバナジンチョウゲ>
三十年意見され来し君が今 断酒すすめる電話掛けおり  



25.道理を諦観せよ





 あきらめるといっても、世の一般の人々が申します。
 
自分は不遇だ、不幸だと愚痴る消極的な、絶望的なものではないのです。
 
「明らかに因果の道理を諦観せよ」ということなのです。
 
昔の諺に「損して得とれ」という言葉があります。
 
損得とは一枚の紙の表裏のようなものであって、得にはいつも損の裏打ちがあり、逆に損には常に得の裏打ちがあるのです。
 

 だから損(アル中という他の人にない重荷を一つ背負っている)を承知して、これに耐え忍んでゆけば裏打ちされている得(幸福、断酒更生)が必ずくる
 
・・ここまでは誰しもが考え得ることですが、この真意には更に高い聖なるものがあるのです。
 

 聖書に「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだならば豊かな実を結ぶようになる」とあります。
 
この生死の次元の損得は、次元をはるかに超えたところの因果の道理を諦観した境地なのです。
 
「あなたは他の人にはない重荷を一つ背負っている」この原因をトコトンまで究明してゆけば一切が欲望であることに気づくでしょう。
 

 そこで人間でありながら人間を脱した境地が開けてくる、これを修行といいます。
 
この修行ができるのもアル中のお陰であります。
 
このことが「因果の道理に諦観せよ」ということなのです。
 
肉欲のこの世の中では、損をして得をとっても大したことではないと私は思っています。
 
大切なことは、失った人間性を取り戻して真理を握むことです。
 
このことを自覚すれば、そこには既にアル中もなければ利己欲もない。
 
そこにあるものは損だ得だと考える主観の満足から遠く離れて、他の人々の幸福を願いつつ共に生きる、偉大なる平凡人の神々しいまでの姿だけだと思います。
 




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<シロヤマブキ>
新しき年に断酒を誓い合い 帰れば断友(とも)等の賀状の山  



26.照顧脚下





 禅家でよく使われる言葉の一つで、足許に目を注げの意であります。
 
私は道場生に、常に履き物を整えよ、心を調えよ・・・の注告の言葉として使っています。
 
これは盗人でも玄関の履き物がよく揃えてある家には入らぬと申しますように、履き物が整えられてあることは、その家人の心が整えられておる証拠で全てが整理されているが故だと思います。
 
足下といえば、自分の足許は足さぐりでも分かる程に、自分にはよく知っているが為に、アル中はとかく他人の足許、手許の方へと目が移り、他人の栄誉、栄華をうらやましがったり、憎んだりして自分の不幸を愚痴る不平、不満が酒に逃避する一つの原因にもなるのです。
 
故に常に自分の立っている足下、即ち座を確かめる必要があるのです。
 
子供に対しては父親としての座に立っている。
 
妻に対しては夫の座、親に対しては息子としての座に今、自分は立っている。
 

 此の座の責任と義務を確かめれば酒は飲めない筈なのに、往々にして足下を忘れて他に目が移り心が乱れるが故に、盗人ならぬ、酒魔が食い入るのも当然の事と思います。
 
故に現在自分が立っている座を忘れぬよう心すべきであります。
 




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<うめ>
二人して例会場を尋ね行く 外は雪降る二月の夕暮  


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