断酒寸言集 山びこ 

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 断酒寸言集「山びこ」(発行者 社団法人北海道断酒連合会)は、昭和61年10月、全日本断酒連盟の第23回全国大会が北海道で 開催されるのを記念して、それまで機関紙に原田ひろしさんが掲載されていたものを一冊の本としてまとめられたものです。
 断酒家同志が「山びこ」のように呼びかけたり、答えたりするとき利用したり、そのうちいくつかを座右の銘にして いただければ幸いこれにすぐるものはないと巻頭に述べられています。




 1.断酒道五心 ひとの体験談を自分のことのように聞く 素直な心
 2.断酒道五心 自分の過去の失敗を常に忘れない 反省の心
 3.断酒道五心 ひとりでは立直ることができないという 謙虚な心
 4.断酒道五心 止めさせていただいていますという 感謝の心
 5.断酒道五心 酒をやめたくても止められないでいる人々への 奉仕の心
 6.断酒は自ら酒害者と認めることから始まる
 7.はじめ、ひと酒を飲み、やがて、酒酒を飲み、ついには、酒人を飲む
 8.酒害にかかったことは何も恥かしいことではない、それから立直ろうとしないことが恥かしい
 
   ことなのだ
 9.断酒の道ははるかに遠い、しかしその入り口はすぐそこにある、それは今日一日断酒すること
 
   である
10.例会には家族も参加しよう、アルコール依存症は家族の病気だから
11.格好よく断酒しようと思うな、うそのベールをぬぎ裸になろう
12.断酒できたと思ってはいけない、まだ断酒している最中なのである
13.酒の誘惑を断つ苦労は、飲んでいる酒を経つ苦労に比べれば、物の数ではない
14.酒を止めただけでもとへ戻るものではない、償いをしながら一生送るつもりでなければ、
 
   真の断酒はできない
15.断酒会なくして断酒なく、断酒なくして己なし
16.断酒のコツは例会を休まないこと、どんな薄い紙でも何枚もはり合わせれば、いつかは硬い
 
   丈夫な板になる
17.安心それがわれわれのもっとも身近な敵である
18.断酒の先輩は先生ではない、新入会員こそ真の先生である
19.意志が弱いから酒害者になったのではなく、酒害者になったから意志が弱くなったのだ
20.アルコールによる被害者意識を捨てて、社会に対する加害者であったことを認めよう
21.誘惑に負けるのは心のどこかでそれを求めているからである
22.人間にはもともと酒害者になり易い性格などありえない、そこにはアルコールによって
 
   歪められた性格があるだけだ
23.アルコール依存症は治る、しかし何時でも自らの手で再発させることができる
24.われわれには禁酒の冷たさや節酒のみみっちさはない、そこには断酒という力強さと爽やかさが
 
   あるだけである
25.真の断酒家は己に厳格であるが、他に対しては寛容でなければならない
26.酒を止められない人を見たら、それはきのうの自分の姿と思え
27.失敗した人をゆるすかゆるさないかが問題ではない、その人が自分を罰しているかいないかが
 
   問題なのである
28.誘惑の本体は他にあるのではない、それは自分の心の中にあるのだ
29.酒害相談は聞かせることではなく聞くことである
30.ひとりが着実に断酒を実行することが、やがて万人の断酒家を生むことになる
31.断酒は先輩と比べてはいけない、自分の過去と比べてみるべきである
32.酒害者はひとりでもなれるが、断酒家はひとりではなれない
33.酒に迷って人生の道草をくったからって慌てることはない、断酒してゆっくり歩いていれば
 
   いつか目標に到達する
34.自分の物差しで他人を測ってはいけないし、他人の物差しで自分を測ってもいけない
35.断酒の第一歩は酒害の自覚、次に必要なことは断酒生活の利得への目覚め
36.酒害は酒話害者自身が自分の治療者にならない限り治らない
37.酒害者の自己嫌悪の心が断酒の決意を生む
38.断酒会に話し上手は不必要、みんなが聞き上手になることが大切
39.断酒会には、あの人はもう駄目だという言葉もないし、俺は絶対大丈夫だという言葉もない
40.心を裸にしなさいといっても裸になれる人はいない、みんなが裸になっていれば誰だって
 
   裸になれるものだ
41.医師も家族も断酒会も酒害者を治すことはできない、しかし酒害を治せる唯一人がいる、
 
   それは酒害者その人である
42.酒害の病識のないところには断酒はない、そこには苦悩と涙があるだけだ
43.なおったから飲まなくなったのではない、飲まないでいるからなおっているのだ
44.断酒道には免許皆伝もないし達人もいない
45.酒害者というものは99%酒害を認めていても、1%の理屈がつけばそれだけで酒を飲むものだ
46.酒を百薬の長というのは挽かれ者の小うたか酔っぱらいの屁理屈
47.若いから酒を止められないというのは甘えの心だ、若いからこそ酒癖を断つのだ
48.行動することが断酒継続の糧となり、行動する量が断酒の質を決める
49.酒害は人間を肉体的にも精神的にも老化させる
50.一年断酒できたからといってそれはいったい何になろう、十年断酒した人もそれは同じだ、
 
   明日はまた初日なのだ
51.酒害を治せる人は、それは酒害者本人だけである
52.断酒は車の運転と同じだ。昨日まで無事故だからといって、今日も無事故だという保証は
 
   どこにもない
53.われわれの敵は酒ではない、われわれの敵は自分の心だ
54.酒をやめることが何故恥かしいのか、やめられないことの方が本当は恥かしいのに
55.酒害者は自分の最も頼りにする人から傷つけていく
56.酒をやめなければならない理由はのんでる頭ではわからない、酒をやめてみて少しずつ
 
   わかるものだ
57.やめられない酒だからやめるのだ
58.のむ理由は見つかってもやめる理屈は立たぬもの、先ずやめようそれから考えよう
59.断酒道にか免許皆伝もなければ達人もいない、そこには酒に自由を失った酒害者がいるだけだ
60.酒害は不幸な病気である、しかし治そうと思えば必ずなおる病気である
61.断酒道には王道もなければ近道もない
62.最初の一杯に罪の意識を感じないうちはだめだ
63.酒が悪いのではない、酒を飲み続けた私が悪いのだ
64.三年のみ続けると一年寿命が縮む
65.自分が酒害者でないと言い張っている人は、他人に酒害者だと指さされ、自分を酒害者だと
 
   心から認めている人は、他人に酒害者だったとすら言われない
66.断酒とは酒をやめることではなく、のめなくなることである
67.我慢だけでは断酒はできない、それはいつか爆発するからだ。我慢しないですむ秘訣は断酒例会の
 
   中にある
68.何年酒をやめようと酒害地獄は断酒家から遠ざかりはしない、それは常にコップのガラス1枚しか
 
   離れていない
69.明日からやめるという言葉は酒害が言わせる言葉、今日止められない酒なら明日だって
 
   止められない
70.酒をやめるだけだったら断酒会はいらない、酒をやめ続けるために断酒会が必要なのだ
71.どん底を見た人は酒をやめる、どん底が見えない人は飲み続ける
72.断酒とは動き回っている独楽のようなもの、動きが止まるとズッコケる
73.一杯飲めば自分にわかる、二杯飲めば同志にわかる、三杯飲めばみんなにわかる
74.命をかけてのんできた酒だ、命をかけてやめ抜こう
75.酒害は素直な心を失わせ、人格を低下させる
76.ほめられているうちは未だ信用されていない証拠、自惚れてはいけない
77.酒害者にとっては一滴の酒でも多すぎる、しかしのみ出したら一升の酒でも少なすぎる
78.自分のみじめな過去を認めてくれて、それをこれからの糧にしてくれるところ、それが断酒例会だ
79.酒害者は止めねばならないと思いながらのんでいる
80.酒害をうらんではいけない、酒をやめてさえいれば、酒害に感謝する日がきっとくる
81.体験発表を聞いて泣く人はあっても笑う人はいない
82.三ヶ月であってもやめてさえいれば褒められる、しかし、たとえ十年やめていても
 
   のんでしまえば軽蔑される
83.単身者だから孤独なのではない、酒害にかかれば誰だって孤独になってしまうのだ
84.断酒は明日からでは遅すぎる、止めるのは今からだ
85.今日のめば明日はもっと苦しくなる、今日我慢すれば明日はきっと楽になる
86.酒害者だからこそ断酒できるのだ
87.酒害の恐ろしさは酒害者にならなければわからない
88.断酒例会は宝の山、しかし通い続けなければその宝は見つからない
89.反省はしても後悔はするな、しかし実行なき反省なら後悔にしかすぎない
90.断酒して初めて見えるひとの道(例会とは人生を学ぶところ)
91.豊かだから与えるのではない、与えるから豊かになるのだ
92.断酒とは口や頭でするものではなく、足でするものである
93.断酒の危機五態 我慢の断酒
94.断酒の危機五態 不安の断酒
95.断酒の危機五態 自慢の断酒
96.断酒の危機五態 不満の断酒
97.断酒の危機五態 傲慢の断酒
98.断酒したからといって酒の魔力がなくなるのではない、酒の魔力は他からくるのではなく、
 
   自分の心の中にあるものだ
99.例会で得た宝物は消失もしないし盗まれもしない、それどころか他人に与えれば与えるほど
 
   増えていく
100.愛を求めているうちは酒はとめられない、愛することに目覚めれば酒は止められる
101.酒害者だと言われたくなかったら、自ら酒害者だと唱えるに限る
102.一年断酒を誇ってはいけない、今日一日断酒させてもらったことに感謝しよう
103.酒を止められないのが酒害というより、酒を止めざるを得ない状態を酒害というべきだ
104.恥ずべきは酒害のため歪んだ生活をしてきたこと、更に恥ずべきはそれより立ち直ろうと
 
   しないこと
105.何度も失敗したからといって卑屈になることはない、断酒に成功した暁には今までの失敗は
 
   失敗でなくなり、それは成功への大切な道程であったことがわかるものだ
106.酒を忘れるのはいいが、酒ゆえの悪業を忘れてはいけない
107.もう三年もやめたのではない、まだ三年しかやめていないのだ
108.アルコール依存症者を酒害者というけれど、真の酒害者は妻や子だ
109.断酒することは自らの運命を開拓することである
110.断酒は何かを求める手段ではなく、断酒すること自体が目的でなければならない
111.アルコール依存症になると酒を飲む理由は簡単に見つけるが、酒をやめる理由は自分では見つけ
 
   られなくなる
112.自分のアルコール依存症は治らないものと自覚できれば、その人のアルコール依存症は治る
113.身体の丈夫うちに断酒しなければ断酒の意味がない
114.断酒例会とは自分で自分を罰するところ、そして又、他人の無言の励ましを受けるところでもある
115.他人の体験談を聞くだけでは駄目である、自分の体験を語ることなしに成長はない
116.ああして欲しいこうして欲しいと言っているうちは酒は止まらない、ああしてあげたいこうして
 
   あげたいと思うようにならなければ真の断酒はできない
117.何かをしてもらうために断酒をするのではない、断酒をするために何かをするのだ
118.我々にとってもっとも大切に考えなければならないことは何故酒害者になったかという
 
   ことではなく、酒害者になってどうしたかということである
119.酒害者は狂気で問題から逃避しようとするが、断酒をすれば正気で問題と対決するようになる
120.断酒会の機能の核は酒害者、組織の核は断酒家でなければならない
121.旅人のオーバーを脱がせたのは強い風でなく、それはやさしく暖かい太陽であった
 
   (イソップ物語)
122.寛容とは広い心でゆるすこと、見て見ぬ振りをすることではない
123.断酒会の仕事をすることは酒害者にとって重荷だが、断酒家にとっては励みになる
124.断酒会には情報の提供はあっても、説教があってはならない
125.傲慢の中身は無力である、謙虚の中にこそ真の力がる
126.断酒の節(ふし)とは断酒による神経症状をいうのではない、それは断酒による人格の変容期
 
   だということである
127.酒害者を直してやろうと思っている人がいたら、その人は酒害者より重症な精神病患者である
128.おれがを出したら嫌われる、自分を忘れてつくしてみよう
129.酒害の初期にはその病識は得られない、しかも酒害が進行すればするほど病識を拒絶する
130.断酒とはじめは止めさせてもらい、やがて自分で止めようと思い、ついには止めさせて頂いて
 
   いると気が付くもの
131.清濁合わせ呑む心がなければ断酒会活動はできない
132.周りに変化を求めても駄目、自分を変えなければ回りは変わらない
133.酒を飲み続けるということはできないが、酒をやめ続けることはできる
134.説教には反発はあっても感動はないが、体験発表には感動だけがあって反発はない
135.「やめる」という言葉を信じてあげよう、「のみたい」という心が萎むまで
136.過去はとりかえせない未来はわからない、今日一日断酒すること以外に何がある
137.人間関係のうちで最も傷つけやすい会話をしているのは夫婦である
138.スリップしたひとに「何故」と聞いてはいけない、それは嘘を言わせるだけだから
139.酒害者のウソを受け入れてはいけない 、それは甘やかすだけである、しかし酒害者のホンネは
 
   聞いてやらなくてはならない
140.酒害には三つの悪がある 孤独(精神的生命の衰弱)、貧困(社会的生命の衰弱)、
 
   病弱(身体的生命の衰弱)
141.失望を味わいそれを乗り越えた人でなければ真の喜びはわからない
142.自立とは孤高を保つことではなく、他と共存することである
143.自分の飲酒欲求に負けてお金を使えば命が縮み、他人の断酒願望のためにお金を使えば命がのびる
144.酒害者が断酒するということは、いろいろな人に借りをつくることであり 、断酒していく
 
   ということはその借りを返すことである
145.例会で失敗者をとがめてはいけない、そこでは互いに許しあうことが大切である
146.断酒会活動は酒害者救済というが、それは酒害者である自分を救うということである
147.断酒家の尊厳のすべては断酒道にある
148.断酒を始めるには理屈はいらないが、断酒を続けるためには断酒哲学が必要だ
149.断酒哲学は断酒継続しているひとだけが学びえるもの
150.例会は同じことの繰り返しに見えるが、そこには新生(変化)と悟りがある
151.断酒生活とは酒に変わるものを見つけて安定することではない、それは人生を生きるのに酒の
 
   いらない生き方があるのだと体験することである
152.断酒家は酒害を体験しているからこそ、それを熟知する者として無縁でいられるのだ
153.断酒は求めれば必ず与えられ、求めなければその動機にすら到達しない
154.あなたはもはやみじめな酒害者ではない、あなたはいまや誇り高き断酒家である
155.この世の地獄を見たければ酒害者の家庭を見るがいい、この世の天国を見たければ断酒家の家庭
 
   を見るがいい


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<ザゼンソウ>



「酒」
 
酒害者の家族にとってこれ程
 
恐ろしいものはない
 
辛いものはない
 
苦しいものはない
 
悲しいものはない
 
恥ずかしいものはない
 
大嫌いなものはない
 


 



1.断酒道五心 
 
 ひとの体験談を自分のことのように聞く 素直な心 





 「少し酒を慎んだら・・・」「君はもう酒を止めなければ一生駄目になるよ・・・」私はどれくらい周囲の人に言われたことでしょう。
 
酒のために傲慢で、自己本位になっている私は、そんな忠告に耳を貸す筈はありませんでした。
 

 酒害者が、長年の酒によって損なわれていく心の働きのうち、最も大きく変化していくのが、素直な心だといわれています。
 

 幸い私は、断酒会に入って、この素直な心をとりもどしました。
 
自ら酒害者であると認識することもできました。
 
しかし、他の人の話を、間違いなく正しく聞けるようになったかどうかはいまだ疑問があります。
 

 今後は、その人の気持ちになって話しを聞けるよう努力したいと思っております。



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<うぐいす>
阿武山の坂に登れば ウグイスの 声のどかなり 断酒の喜び  



2.断酒道五心 
 
 自分の過去の失敗を常に忘れない 反省の心 





 心が素直になってくるにつれて、私は自分の過去の悪業が本当に恥ずかしくなってまいり参りました。
 
酒を飲んでの失敗の数々は、今思い出しても顔が赤くなり心臓が止まる思いです。
 

 しかし、私の過去は酒を止めたからといって、もう一度やり直すことはできません。
 
とするならば、償いをしながら一生送るつもりでなければ真の断酒道は歩めない訳です。
 

 私は死ぬまで「すまなかった」「すみません」と言い続けたいと願っています。



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<ゲンゲ>
知らずして選びぬ人は 悲しくも 不治の病にただ浸りけり  



3.断酒道五心 
 
 ひとりでは立直ることができないという 謙虚な心 





 私が酒を止められたのは断酒会のおかげです。
 

 断酒会とは、酒を止めたいと思っている酒害者の集団です。
 
それらの方々と話し合い,支え合い、高めあって今の私があることを十分認識しております。
 
特に新しく入ってこられた方々には多大の刺激を与えていただき、たくさんの教訓を得ました。
 
この断酒寸言集「山びこ」は、みんなこれら新入会員の叫びであり、願いであります。
 

 私が断酒哲学を学び続けることができるのも、全くみなさんのおかげだと思っております。



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<ハナミズキ>
楽しみの趣味もつゆとり なかりけり 主人の酒に心はなれず  



4.断酒道五心 
 
 止めさせていただいていますという 感謝の心  





 おかげを賜っているのは、断酒の友だけではありません。
 
私はこの断酒道に導いてくれたのは、私の妻、娘、そして勤め先の上司、同僚であります。
 
そして私をして断酒開眼させてくれたのは行政、医療関係の多くの先生方でした。
 

 私が今、社会人として人並みの生活ができるのも、私を取りまくこれら多くの人々のおかげと思っております。
 
ありがとうございます。



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<バビアナ>
テレビのみ笑う種なき我が家は 既に死におり家庭であらず    



5.断酒道五心 
 
 酒をやめたくても止められないでいる人々への 奉仕の心 





 私はこれら多くの人々に感謝をする具体的な方法は、唯一だと思っております。
 

 それは、酒で苦しんでいる多くの人々に立ち上がるチャンスを与え、それに手を貸してあげることです。
 
そして、その喜びの顔を見るまで、何ヶ月でも何年でもお手伝いをさせていただきたいと願っております。



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<ハボタン>
咎めれば咎める我が 惨めなり 隠れ酒見るも口には出さず  



6.断酒は自ら酒害者と認めることから始まる 





 誰だって酒害者になるかも知れないと、心配しながら酒を飲みだす人はいません。
 
気が付いてみたら、酒害者になっていたというのが実状ではないでしょうか。
 

 しかも、この病気は「自分が今、どんな状態にあるのか」という認識ができなくなり、ついには、自分の過去を忘れることは勿論、現在の日、時、場所すら判らなくなってしまう恐ろしい病気なのです。
 
即ち、飲み始めは勿論のこと、酒を飲めば飲むほど、自分は酒害者でないと言い張る一種の精神病になってしまうのです。
 
だから、周りの人が病気であることを認めさせてやらねばならない訳で、本人が何とか病識を得ることができたら、酒害の治療の半分は終わったと言われるくらい、大切なことなのです。
 

 真に皮肉なことに、自分は酒害者ではないといって飲み続ける人は酒害者というレッテルをはられて一生送らねばならないのに対し、自ら酒害者と認め断酒に努力している人は、それが未だ医学的には酒害者かもしれないが、周りの人は「もと酒害者だった人」とすら言わなくなるのです。



 
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<ハマナス>
正月の来るを悲しむ 幼子は まだあどけなき満五才なり    



7.はじめ、ひと酒を飲み、やがて、酒酒を飲み、
 
 ついには、酒人を飲む 





 いつ誰が言い出したのかその出展は詳らかではないが
 
   初則人呑酒                  一盃人飲酒
 
   次則酒呑酒      とか又は      二盃酒飲酒
 
    後則酒呑人                  三盃酒飲人
 
という文をあちこちの書物に見かけます。
 

 勿論、これは酒を飲んで酔いつぶれていく過程(急性アルコール中毒)を表現したものと考えられるが、連日の飲酒による失神が、やがて、時間、場所、自己認識をも失っていくアルコール依存症(慢性アルコール中毒)になっていく長年月の過程をも描写しているようにも思われて、人間と酒とのかかわり合いの古さと深さに、改めて驚嘆せざるを得ません。
 
そして、この寸言こそ断酒を学ぶ上の基本であると識者も指摘しており、断酒の誓いの第一条に
 

 私たちは、酒の魔力に捉われ、自分の力ではどうしても立ち直ることができなかったことを認めます。
 
と謳わしめた所以なのです。



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<バラ>
母なりて父にもなりて 柱にも 代わりぬ我は誰にもたれん  



8.酒害にかかったことは何も恥かしいことではない、それから
 
 立直ろうとしないことが恥かしいことなのだ 





 アルコール依存症を治すために、入院したり、断酒会に入ったりすることを恥ずかしがる人が多いものだ。
 

 家族は勿論、世間一般の人々も、アルコール依存症患者を軽蔑する風潮は残念ながら無くなっていない。
 

 確かに、アルコール依存症になると、心が歪み人格が変容し、道徳心が低下して社会生活に乱れが生じ、周囲の人に迷惑をかけることは事実である。
 
それは、病気によって生ずる症状なのに、世間一般の人はそう理解してくれずに、その人の性格、人格の故だとするところに問題がある。
 

 この病気は、特殊な性格の持ち主だけがなるというのではなく、酒を飲み続けていれば誰でもかかる病気なのだから、別にかかったことを恥ずかしがる必要は全くない。
 

 恥ずかしいといって断酒会入会を拒んで飲んでいるほうが、本当は恥ずかしいことなのに、気が付かないところにこの病気の恐ろしさがある。



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<パンジー>
テレビにて酒の事件を報じれば 次は我が家と覚悟でふるえり  



9.断酒の道ははるかに遠い、しかしその入り口はすぐ
 
 そこにある、それは今日一日断酒することである 





 新入会員の中には、ときどきこう言う人がいます。
 
「職場がうるさいので、退職までは断酒会に入って酒を止めます。・・・・」と。
 

 今まで何十年と飲み続け、酒を飲むのが生きがいであった吾々です。
 
「酒をとり上げられるくらいなら死んだほうがましだ」と真剣に思っていたわれわれですから、今日から一生酒を断つという決心は、清水の舞台から飛びおりる以上につらいことであり、将来の夢も希望も無くなって、死にたい気持ちになるのも無理からぬことと思います。
 

 この難行苦行を死ぬまで続けなければならないのかと思うと、つい決心が鈍り「断酒なんてやめた」とばかり又、酒を口にしてしまいそうになります。
 

 「千里の道も一歩から」と言います。断酒も60歳まででよろしい。
 
いや、一年でもよいし。一ヶ月でも結構。
 
しかし、どの場合でもまず今日一日の断酒からスタートです。
 
そして明日もまた、「今日一日断酒」をやればいいのです。



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<ヒアシンス>
勤め終え重き心を 引きずりて 家路に着けば酒の夜始まる  



10.例会には家族も参加しよう、アルコール依存症は家族の
 
  病気だから 





 酒害は、その人格に及ぼす影響が長期間にわたり、ジワジワ悪化するものだから、家族の方は全く気が付かないというのが実状でしょう。
 
そればかりでなく、家族の方も徐々に巻き込まれて、酒害家族病ともいうべき心の病気を起こしてしまい、どうにもならなくなって相談に来る頃には、完全な酒害ノイローゼにかかってしまっている訳です。
 
そして、中には、この酒害地獄から抜け出したくて「一生入院させておいて下さい」と病院の医師に頼んだり、家庭裁判所へ離婚調停を申し立てたりする人も少なくありません。
 

 しかし、この酒害家族病は、酒害者本人と違い、アルコールを飲んでいる訳ではないので早く治ります。
 

 どうか一日も早く断酒会を訪ねましょう。
 
そこにはあなたの求めているすべての情報、すべての解答がいっぱいあります。
 
それは、酒害という病気に関する知識を得ることは勿論ですが、それが完治するものだと言う実証を、例会の席上で目の当りにすることが、あなたにとってもっとも大切なことなのです。



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<ビオラ>
こんなにも痩せて細き ウエストに 九号のスカートゆるゆる回る    



11.格好よく断酒しようと思うな、うそのベールをぬぎ
 
  裸になろう





 断酒会に新しく入ってきた人のほとんどが自分を酒害者だと認めたがらない理由のひとつに、社会一般の酒害に対する誤解がある。
 

 社会一般の人は、酒害者とは家もなく、職もなく、乞食同然の姿で、朝からベロベロに酔っている人のことで、社会の敗残者と考えているようである。
 
だから、手が震えるようになっても頑迷に自分が酒害者であると認めたがらないし、家族もそう思わない。
 

 入会と同時に「自分は酒害者です」と素直に認めた人でも、勤め先では「肝臓が悪い」「胃が悪い」とか言って、なかなか酒害者であると言ってないようである。
 
中には、断酒会に入ったことを隠している人もいる。
 
断酒会に入ったことに何の恥ずかしさがあるのだろうか。
 
断酒するのにカッコのよさは却って邪魔である。
 

 「身体が悪い」と言って逃れていても、四回、五回と言っていれば「もういいだろう」と回りの酒友が仲間に引き入れようとするもので、カッコよく断酒しようとして、カッコの悪い失敗に陥ることが多いのである。



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<ヒマラヤユキノシタ>
「もう止めた」流しに捨てし ビンの酒 いつものパターンに心躍らず  



12.断酒できたと思ってはいけない、まだ断酒している
 
  最中なのである





 コップに半分の水が入っている。これをみてA、Bの二人が言った。
 
A「もう半分しかないのか」
 
B「まだ半分もあるのか」
 
同じコップ半分の水に対する考え方でさえ全くこのとおりです。 断酒についても同じことが言えます。
 
C「もう三年も断酒したのだ」
 
D「まだ三年しか断酒していないのだ」
 
酒害の治療法は唯一、「断酒」しかないことはいまや明白な事実。
 
しかも、これは「生涯断酒」を完成しないことには全く断酒の意味を失ってしまうものであることも明白。
 

 とするならば「断酒三年」なんてほんの入り口。
 
これから、五年十年と続けなければならないのである。
 
私たちは、常に「もう何年やめた」ではなく「まだ何年しか止めていない」と考えていなければいけないのである。



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<ヒマラヤユキノシタ>
なぐられる母を庇いて 前に立ち 父に向かいぬ娘は小五  



13.酒の誘惑を断つ苦労は、飲んでいる酒を断つ
 
  苦労に比べれば、物の数ではない





 少なくとも断酒会員であるならば、「酒を飲みたいなあ」と思ってから、
 
酒を口にするまでには「思い切って酒を飲もうか・・・」「いや、この一杯を飲んだら、又酒地獄に逆戻りすることは何度も経験済みではないか、止めておこう・・・」
 
「しかし一杯ぐらいならいいだろう、明日から、又、断酒すればいいんだ・・・」と 右せんか、左せんかという心の葛藤があるに違いない。
 

 この葛藤は、短くとも数秒間、長ければ数時間に亙るかもしれないが、この自分の心の悪魔の誘いにまず克たねばなりません。
 

 もし、この心の葛藤に負けて酒を口にするならば、間違いなく酒地獄に陥り、そこから抜け出すのに、数日、いや、数ヶ月を要することは火を見るより明らかなことなのです。
 

 この長い、苦しいトンネルに入るよりは、今の数秒、今の数時間の自分の心の悪魔と闘って克つことが絶対有利なことなのです。
 
即ち、己の心の悪魔に克つ「克己心」こそ、断酒継続のもっとも大切な基本なのです



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<ヒメキンギョソウ>
夏の日に長袖通しぬ 両腕に 昨夜殴らるアザの残れり  



14. 酒を止めただけでもとへ戻るものではない、償いを
 
  しながら一生送るつもりでなければ、真の断酒はできない 





 断酒会に入会して断酒できるようになると、いつの間にか断酒会を去る人がいるものです。
 
これらの人の殆んどが断酒に失敗してしまうのですが、中には一人で断酒を続けている人もおります。
 

 この独り断酒をしている人を見ていますと、意志強固ではありますが、未だ酒害者特有の歪んだ性格をそのまま残している方がおります。
 
即ち偏屈で、心がせまく、人間愛に欠け、わがまま、自己中心的であります。
 
このような人をアメリカでは「ドライアルコホリック=酒を飲まない酒害者」と呼んでいます。
 

 それに比べ、断酒会の例会に欠かさず出席している人達は、何ヶ月か過ぎた頃から、酒で苦しんでいる人々や、その家族の相談相手となることが、
 
自分の罪の償いとなると考えて活動しているうちに、広い豊かな心が芽生え、友愛と奉仕の精神が全身から溢れ出るようになります。
 
こうなって始めて真の断酒ができているのだと思います。



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<ヒメキンセンカ>
夢にまで飲みて我を 悲します 目覚めば頬に涙つめたし  



15.断酒会なくして断酒なく、断酒なくして己なし 





 今日も酒のため命を失った酒害者の知らせが入ってきた。それを聞いた多くの会員は「止めていれば良い男、良い夫、良い人だったのに・・」と慨嘆する。
 

 酒害者には節酒は出来ない。
 
最初の数日は二、三合で収まっているが、一週間もしないうちにもう一升酒になってしまう。
 
酒害者にとっては酒を飲むということは死を意味する。
 
だから、酒害者を慢性自殺者と称する医師もいる。
 

 又、酒害者と診断された患者の死亡率は、ガンと診断された患者の死亡率を上回り、その平均死亡年齢は、他の精神病患者のそれが毎年上昇しているのに、酒害者の場合はこの数年約五十歳という線を続けているという。
 

 とするならば、酒害者であるわれわれは、死にたくなかったら酒を止め続けていかねばならない。
 
止めるのに独りでは難しいと言われる。
 
つまるところ、われわれは断酒会に入って、断友と交流し、支え合い、援け合って断酒し続けなければ生命を保つことができないと言うことである。
 
即ち、断酒会即自分の命という訳である



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<ヒメジョオン>
憂きし日は心あざむき 尚さらに 濃い目に紅を引きて出勤す  



16.断酒のコツは例会を休まないこと、どんな薄い紙でも
 
  何枚もはり合わせれば、いつかは硬い丈夫な板になる 





 Aさんという会員がいました。
 
この人は、奥さんが酒害相談に来られ「先ず家族が例会に通って酒害家族病を治しましょう」と言うアドバイス通りに約二年間例会通いをしてから「例会から帰ったら一杯のませますから」と騙し騙しつれてこられた方です。
 

 Aさんは「私は酒は止めません。帰ったら一杯飲ませてくれるというから来てるのです。
 
私は他人様に迷惑をかけておりません。
 
酒を止める必要は全くありません」と言いながらでも奥さんともども例会に通っていました。
 

 そのうちに、いつ止めたのか本人も判然と記憶してないうちに、酒に手を出さなくなりもう五年になります。
 
今では相談部の理事として、自分の体験を静かな口調で話すのです。
 
「酒を止めたければとにかく例会にいらっしゃい。
 
そして、例会を休まないこと。
 
酒を飲んだら飲んだで結構、自分の心にウソは言わないこと。
 
これだけでいつか断酒できますよ」と。



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<ヒメツルソバ>
暴れ狂う昨夜の悲しみ 抱きつも 仕事に入れば顔には出さず  



17.安心それがわれわれのもっとも身近な敵である 





 昔から、「勝って兜の緒を締めよ」とか、「治にいて、乱を忘れず」或いは「失敗したときの反省は易いが、成功しているときの反省は難い」などと、平穏無事のときの心構えを説いた寸言は多い。
 

 断酒を志して断酒会に入会した当時は「酒を飲みたいと思いません」という人が多く、断酒の意志が飲酒要求を上回っているのが歴然としているのですが1ヶ月たち、半年、一年を過ぎる頃から、酒に手を出す人がボツボツ現れるのが現実なのです。
 
いくら這い上がろう、這い上がろうとしてもズルズルとぬかっていったあの酒害地獄の苦しさ、いまわしさも、断酒安定してくるにつれて「のど元すぎれば熱さ忘れる」の例え通りに、人間の記憶から去っていくのです。
 

 私たちは、酒を忘れることはあっても、酒ゆえの悪業を忘れてはいけないのです。
 
その忘れそうな初心をかき立てるために、私たちは断酒例会に出席するのです。
 

 私たちは「もう何年断酒した」と考えてはいけないのであって、常に「まだ何年しかたっていない」と考えなければいけないのです。



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<ヒメツルソバ>
「這ってでも出勤せよ」と 呼びに来し 上司にそむく御用始めの朝    



18.断酒の先輩は先生ではない、新入会員こそ
 
  真の先生である 





 断酒会に入って一年ぐらい経った人にとっては、五年、十年と断酒している先輩は、確かにこの道の師と仰ぐべきであるということは異論を挟む余地はない。
 
しかし、断酒というものは「今日までできた」のであって、「だから明日もできる」という保証は全くないのです。
 
十年選手だって明日酒害者に逆戻りする可能性は十分あるのです。
 
だから、「先輩は先生ではない」と言う言葉は「先輩は師と仰ぐに足らぬ」と言う意味ではなく「十年選手になったからといって先生ぶったりしてはいけません」という意味を言っているのであって「新人会員を師と思え」と言う言葉を強めるための伏線的な言葉なのです。
 

 私たち酒害者は、上を望んであせってはいけないし、下を見下して思い上がってもいけない。
 
常に反省の心を忘れず、初心に帰っていなければ必ず失敗すること必定です。
 

 新入会員(酒害者)の姿に自分の過去の姿を重ねてみることによってのみ、酒害者である自分が救われるのだと言うことを深く知らなければならないのです。



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<ビヨウヤナギ>
気に病みし事済まずして 五月雨 降りて憂うつな午後  



19.意志が弱いから酒害者になったのではなく、
 
  酒害者になったから意志が弱くなったのだ 





 入会当初「私は意志が弱いから、酒が止められなかったのです」と体験発表をする人がおります。
 
家族も同じく「主人は意志が弱いから、これからが心配です」と言うのです。
 

 本当に意志が弱いから酒害者になったのでしょうか。
 
そして、意志が弱いからこれからも酒を止められないのでしょうか。
 
それならば、断酒会の人たちは意志が弱いのに頑張っているのでしょうか。
 
一年も二年も、酒の誘惑に打ち克って頑張っているということは、相当強固な意志力がなければできるものではありません。
 

 考えてもごらんなさい。断酒会の人たちだって、何ヶ月か、何年か前は、意志の弱い、どうにもならなかった酒害者だったのです。
 
それが、みんな意志の強い断酒家になっているのは何故でしょう。
 
それは「意志が弱いから酒害者になったのではなく、酒害にかかったから意志が弱くなった」からなのです。
 

 誰だって、酒を止めてさえいれば意志が強くなります。
 
しかし、急には強くなりませんから「一日一日断酒」で頑張りましょう。



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<フクジュソウ>
いつ何時酔って帰りぬ 君の為 錠をはずして「お帰り」と待つ  



20.アルコールによる被害者意識を捨てて、社会に
 
  対する加害者であったことを認めよう 





 精神病院に入院してきた患者さんに「あなたは何故入院したのですか」という質問をすると、
 
(酒を飲みすぎたから)とか(酒のため肝臓をこわしたから)或いは(ちょっとしか飲まないのに家族や上司に騙されて・・)という答えが多いものです。
 

 実状は、酒を飲みすぎたため、心の健康を害し、対人関係にトラブルが生じ家族や職場で争いが絶えず、借金で首が回らず、生活が不能状態になっているにもかかわらず、
 
酒が止められなくて飲み続けている状態から立ち直るため入院してきたのであって、単に肝炎を治すためだけに入院したのではないのです。
 

 このような方を「酒害者」と呼んでいますが、これを「酒の害を受けた者」と読むと被害者意識が強くなり、なかなか立ち直れないようです。
 

 これを「酒を飲んで他人に害を加えた者」と読み直すことが正しい読み方であり、病識を得やすいと思うのです。



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<フジ>
今頃はどこで何をしてるやら 編み物止めて時計見上げる  



21.誘惑に負けるのは心のどこかでそれを求めて
 
  いるからである 





 ある例会でこんな話が出た。
 
「母が病気だというので実家へ帰ったが、私が帰ったとたん母は容態を持ち直して
 
『よく帰ってきてくれた。お前の好きな酒をとっておいたんだよ。さあ一杯』とコップですすめるのです。
 
こんな時、皆さんはどうするのでしょう」と。
 

 確かに、これは誘惑かも知れません。
 
しかし、これは誘惑の外的な形であって、真の誘惑は、実はあなたの心の中にあるのです。
 

 こんな時あなたの心の中には二つの思いが渦巻くに違いありません。
 

 その一つは「私は入退院を三回もくり返した酒害者だ。
 
この一杯の酒は次の日の酒を呼び、再びあの酒害地獄に逆もどりするだろう。
 
今の気持ちを素直に話して断りなさい・・」と。
 

 もう一つは『折角お母さんが、私のためにとっておいてくれた酒だ。
 
コップ一杯くらいはどうということはないじゃないか、明日からまた断酒すればいいんだ」と。
 

 この第二の心の動きが誘惑の本能であって、悪魔のささやきなのです。
 
お母さんの言葉が悪魔のささやきでは決してないのです。



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<フヨウ>
しんしんと更け行く夜に 聞こえ来る 胸高鳴りぬ救急車の音    



22.人間にはもともと酒害者になり易い性格などありえない、
 
  そこにはアルコールによって歪められた性格があるだけだ 





 昔は、酒害者になるのは性格的な欠陥者が多いと信じられていたようです。
 

 しかし、断酒会で活躍している人を見ると自主的で、寛容、冷静沈着で、愛情豊かな人が多いのがわかります。
 
一週間に一回の二時間ばかりの例会で、あの欠陥人間がこんなにも変わるものなのだろうかという疑問は誰もが持つ素朴な疑問だと思うのです。
 
これは、人間にはもともと酒害者になるべき性格などはなく、依存心強く、我儘、情緒不安定などの性格は、酒害による二次的な症状であるということが段々判ってまいりました。
 

 そして、これらの症状は、断酒を継続することによって段々と消滅し、元の人格を回復していくことも判ってまいりました。
 

 しかし、断酒を継続せず、時々酒を飲むような人は、酒害者特有の歪んだ性格がなかなか取れないことは当然です。



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<ホウセンカ>
また一つ近所の灯り 消されゆく 帰らぬ君に今夜も寝れず    



23.アルコール依存症は治る、しかし何時でも
 
  自らの手で再発させることができる 





 アルコールを長年のみ続けていると、アルコールに対する精神依存、身体依存、耐性が形成されます。
 

 この中の、身体依存というのは、身体から酒が切れてくると幻視、幻覚、手の振るえなどが現れる症状ですが、これは入院治療で治ります。
 
又、「飲みたいなあ」と思う精神依存は断酒会に通うことで消滅していくと考えられますが、アルコール耐性の変化は現在の医学では治すことが不可能なのです。
 

 だから、いくら断酒していても、再び酒を飲みだすと、すぐ元の状態に戻り、再び病状が前より悪くなっていくのです。
 
このことを進行性の病気と言い、そういう意味ではこの病気は一生治らないと言えるのです。
 

 しかし、酒を飲まなければ病気は進行しませんから、断酒ということはこの病気の唯一の治療法であり、飲まないでいるということは同時に治ったといえるのです。
 
即ち、再発させるか、させないかは本人が飲むか、飲まないかで決まる極めて原因のはっきりした病気なのです。



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<ホオズキ>
いくたびも時計見上げて案じ待つ 雪降る夜更けはいと心細き    



24.われわれには禁酒の冷たさや節酒のみみっちさはない、
 
  そこには断酒という力強さと爽やかさがあるだけである 





 この世の中から酒をなくして、他人の飲酒をも禁止したりすることを禁酒といいます。
 
自分の子供が自動車にひかれて死んだ悲しさのあまり、この世の中から自動車を無くせよと叫んでいるのに似て、我がまま勝手な冷酷ささえ感じます。
 

 節酒というのはほどほどに飲むとか、時々飲むとかいうのみ方で、これができれば禁酒だ、断酒だと騒ぐ必要はなくなります。
 
それ程この飲み方は難しく、アルコールのコントロールが出来なくなった酒害者にとっては至難の業と言わなくてはなりますまい。
 

 それに対して断酒とは、自分の意志で酒を断つことを決め、実行することで酒との縁を切り、普通の社会人として生活することをいいます。
 
そこには、力強さ、さわやかさ、幸福感が満ち溢れています。



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<ボケ>
ふっくらと肥えて笑顔の親友に 我にはつかめぬ幸せ羨む  



25.真の断酒家は己に厳格であるが、他に対しては
 
  寛容でなければならない 





 酒害にかかると脳が萎縮して、考え方が老人的になり、物忘れが激しくなるばかりでなく、だんだん自己認識も甘くなり、我儘な赤ん坊的な性格になっていきます。
 
そして、自分の思いが通らないと、だんだん要求が激しくなり、攻撃的になります。
 
しかし、断酒会に例会を重ねていくうちに、だんだん自己客観視ができるようになり、自分に厳しくなるものです。
 
これらの道程において、人間の心は、主観と客観の間を行ったりきたりしますので、いろいろなタイプの性格に変容します。
 

          自己に       他人に
 
  酒害者   甘          厳
 
  入会時    厳           厳
 
  危 機    甘          寛
 
  断酒家    厳           寛
 


  断酒とは単に酒を止めただけでは駄目で人格の向上なくしては完成しません。
 
「己れに厳、他人に寛」という断酒道を歩みたいものです。



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<ボタン>
クラブ終え疲れて帰る 息子(こ)の耳に くだ巻く父の荒声かなし    



26.酒を止められない人を見たら、それはきのうの
 
  自分の姿と思え 





 断酒会の例会に酒の匂いをプンプンさせながら参加してくる人がいる。
 
他の会員にとっては全く不愉快だし、例会も白けてしまいます。
 
しかし、よく考えてみよう。
 
その人は何故のんだのだろうか「それは酒害者だからである」。
 
では、その人は何故のみながらでも断酒会にきたのだろうか「それは酒を止めたいからである」
 
全く矛盾したこの二つの行動を多少の葛藤があったにせよ、やってしまうのが酒害者の酒害者たる所以であるが、彼を取り巻く家族、友人、上司などは、それが酒害という病気の姿であると理解できないのである。
 

 しかし、かつての酒害者であった断酒会員は違う。
 
彼のこの矛盾に満ちた行動を見ていると、何ヶ月か前の、何年か前の自分を見る思いがして身につまされるのである。
 
そんな酒害者でも、のみながらでもいい、断酒会に通っていれば、必ずや断酒できると信じているのである。
 
その人に温かい心で接し、長い目で見てやれるのである。
 
それは、自分が同じように先輩の暖かい、寛い心で支えられて断酒に成功したことがあったからである。
 断酒会とはこんな会なのである。



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<ホテイアオイ>
「楽しくもなくていいから普通の家庭欲しい」と息子呟きにけり    



27.失敗した人をゆるすかゆるさないかが問題ではない、
 
  その人が自分を罰しているかいないかが問題なのである  





 断酒会には『酒を飲んだら云々』という罰則はない。
 
若しあるとすれば、それは断酒会としての機能を失っている。
 
断酒会とは、断酒できないで苦しんでいる人のためにこそあるべきものであって、断酒ができている人の専用物ではないのです。
 

 第一、断酒に失敗した人に対して、その人を責める資格が断酒会員にあるのだろうか。
 
今、断酒に成功しているかに見えるそれらの会員こそ(これから先、失敗しないという保証は何もないのだから)、失敗者をいたわりながら自らを省みなければならない酒害者なのです。
 

 酒害者であるという断定を下す最適の人は、酒害者本人であることがもっとも望ましいことであると同じく、失敗者を罰する資格を有するのは、その失敗者自身でなければならないし、その罰し方が浅いか深いかが問題なのです。



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<ホトトギス>
「疲れた」と遺して逝きたき 我の苦を 君は知らずや今日も飲み行く    



28.誘惑の本体は他にあるのではない、それは自分の
 
  心の中にあるのだ 





 誘惑の第一は一連の飲んでいたときの社会環境です。
 
飲ん平仲間、行きつけの飲み屋等々。
 
私たちはこれらの悪い環境、習慣を断ち切らねばなかなか断酒は難しいものです。
 「肝臓が悪い」「胃が悪い」などと言い逃れをしてはいけません。
 
「もう大丈夫だろう」「少しぐらいはいいだろう」と執拗に勧められると断る理由がなくなるからです。
 
そして、それではと『ちょっとだけ』と飲んだ日はなんでもなくても、次の日から本当の誘惑が始まるのです。
 
それは昨夜の酒友ではなく、「自分の心」の葛藤です。
 
「昨日はなんでもなかったではないか、それなら今日も少しなら大丈夫だろう・・・」と。
 

 又、昔から『大きな石にはつまずかないが小さな石にはつまずき易い』と言われています。
 
私たちは、宴会など、人目のあるところでは我慢し通しても、その帰り道ひとりになったとき、己の心の誘惑に負けることが多いものです。
 

 断酒の敵は酒ではなく、己の心であることを銘記しなくてはなりません。



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<マルバルコウ>
真心を持ちて当たるも届かなき 酒に曲がりぬ心悲しや  



29.酒害相談は聞かせることではなく聞くことである 





 お酒のむな 酒のむなのご意見なれど 
 
酒呑みゃ 酒のまずにいられるものですか
 
あなたも 酒呑みの身になってみやしゃんせ 
 
一寸やそっとのご意見なんぞで
 
酒止められましょか  ねえさん酒もってこい
 
という歌が流行したことがある。
 

 呑ん平といわれるアルコール依存症者はこの歌のとおり、周りのものがいくらわめこうが、泣こうが、お説教をしようが、全く効果のないものです。
 
このような呑ん平に酒を止めさせる方法として、酒害から立ち直った断酒会員が、自分の体験を話してあげるのが最も効果的だといわれています。
 

 しかし、その中に酒を止めなさい式のお説教が入っていたのでは必ず反発をくってだめです。
 
「酒を止めなければだめですね」というセリフを呑ん平自身に言わせることが大切なのです。
 
そのためには、聞き手にまわってその人に大いに喋らせることが大切です。



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<マンリョウ>
酔う父を 見る目は辛く悲しそう 子等は黙りて二階へ上がる    



30.ひとりが着実に断酒を実行することが、やがて万人の
 
  断酒家を生むことになる 





 断酒家というものは一年断酒したからといってそれは何の勲章にもならないことを知るべきである。
 
それは、今日飲んでしまうと、直ちに一年前に逆戻りしてしまうからである。
 
十年断酒した人も全く同じで、明日から確実に断酒が継続できるという保証は全くない。
 
世間の人も良く知っている。
 
あの人が断酒会に入って酒を止めているけれどいつまで持つことやら・・・と、興味本位で眺めている人が多いものだ。
 

 七人で始めた断酒会があった。
 
数ヶ月過ぎる頃から一人、二人と例会に来なくなり、とうとう会長まで飲みだしてしまい、会活動は停止してしまった。
 

 一方、二人で始めた断酒会があった。
 
こちらも数ヶ月で一人が脱落し、残された一人は奥さんと二人だけの例会を数ヶ月持たねばならなかった。
 
そのうちに噂を聞いて、一人二人と入会する人が増え、現在では二十名を数える立派な断酒会となって活躍している。
 
断酒会とは一人でいいから着実に断酒している人がいれば、絶対火は消えないということである。



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<ミセバヤ>
節酒など出来る筈ない病とは 知らずに節酒を泣いて頼みぬ  



31.断酒は先輩と比べてはいけない、自分の過去と
 
  比べてみるべきである 





 断酒一ヶ月くらいで、五年も十年も断酒している人のようになりたいと思っても無理な話です。
 
断酒には王道もありませんし、エレベーターもありません。
 
階段を一段一段こつこつ上っていかなければ、五年、十年の断酒家にはなれないのです。
 

 それなのに、奥さん方の中には、「どうしてあなたは会長さんのようになれないのですか、会長さんを見習いなさい」とまだ断酒一ヶ月のご主人にハッパをかける人がいるものです。
 
これでは、ご主人はどうしてよいか途方にくれ、「こん畜生・・・飲めば忘れるさ」と酒に走ることになるかもしれません。
 

 そんなときには、酒を飲んでいたときの自分と現在の自分とを比べて考えてごらんなさい。
 
雲泥の相違があるでしょう。
 
決して他人と比べてはいけません。
 

 断酒は、常に、酒を飲んでいた過去の自分と見比べながら、一日一日と自らの足で登っていくべきものなのです。  



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<ミツバツツジ>
職場にて銀婚式を祝わるも 我が結婚は長くも浅し    



32.酒害者はひとりでもなれるが、断酒家は
 
  ひとりではなれない 





 断酒会に入って六ヵ月か一年ぐらい経つとだんだん例会に来なくなる人がいるものです。
 
一人では酒を止めることが出来なくて断酒会に入って、やっとの思いで止めたのに、いつの間にか自分ひとりの力で止められたのだと錯覚するからなのです。
 

 人間は生まれた時は、親や家族に甘えて成長します。
 
十二歳ぐらい頃から独立心が芽生え自分ひとりで大きくなったような錯覚に陥り生意気になるものです。
 
ちょうど断酒六ヵ月〜一年はこんな期間のようです。
 

 今日の自分があるのは、それまでどれだけ家族や多くの断酒の友の力があったか。
 
そのことに気が付かないということは、まだまだアルコール依存的性格から抜け切れていないということです。
 

 こんな時こそ、原点に戻って考えてみる重要な時期でもあるのです。
 

 他人の恩を感ずるか感じないかが、断酒家になれるか酒害者に逆戻りするかを決定するキーポイントになるのです。



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<ミヤギノハギ>
「酒飲むな」「ハイ、飲みません」といかぬ故 二十五年をもがき苦しむ  



33.酒に迷って人生の道草をくったからって慌てることはない、
 
  断酒してゆっくり歩いていればいつか目標に到達する 





 断酒会に入会した当初は、自分の断酒のことだけで精一杯、どうして今日一日断酒するか、毎日毎日、このことだけを考えている日々であろうと思う。
 

 それが一ヶ月、二ヶ月と経つうちに、回りの会員や、断酒会のことなどが目に入る余裕が出てくるものです。
 

 そんな時、自分の人格が、先輩に比べてあまりに低いので、少なからず絶望する人があるようです。
 

 こんなときが、酒の誘惑に負けやすい、所謂「節」というものです。
 

 あせってはいけません。
 

 新入会員のあなたは、未だ病気療養中の身であることを深く考えてみてください。
 

 何十年もかかった、アルコールによる人格の低下は、わずかに一ヶ月や二ヶ月で元の人格に戻れないものなのです。
 

 しかし、悲観してはいけません。
 

 あなたが、普通人いや、それ以上の人格者になる日が、目には見えないけれど毎日毎日少しずつ近づいているのです。



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<ミヤコワスレ>
「もうイヤ」と大きな声で叫びたき 我の苦しみ君は知るかや    



34.自分の物差しで他人を測ってはいけないし、
 
  他人の物差しで自分を測ってもいけない 





 断酒会に入ってもなかなか酒を止めない人がいるものです。
 

 家族に隠れて、会員に隠れてこっそり飲んでいても、だんだん昔のアル中に逆戻りしてしまい再び入院。
 
「今度こそ、アルコール依存症は進行性の病気であることがよく判りました」と例会で体験発表したのに、三ヶ月も経たないうちに又もや失敗・・・。
 
「あの人は駄目な人だなあ」と会友の中には相談・援助はもうコリゴリだと投げ出してしまう人も出るくらい。
 
しかし、ちょっと待ってくださいよ。
 
投げ出してしまったあなたの昔はどうだった?
 

 今のあなたの物差で彼を測ってはいないだろうか。
 
昔のあなただって彼と大同小異だった筈、そのときの心で彼を眺めてみませんか。
 

 その反対に、失敗を続けているあなたも考えて欲しい。
 

 あなたも自分は駄目な奴だと考えてはいないだろうか。
 
今断酒している人の物差で自分を見ないことです。
 
あの人達だって昔はあなたと同じだったのです。
 
がんばりましょう。



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<ミヤマカイドウ>
家という建物あるも家庭なき 中に育つも 子等は曲がらず    



35.断酒の第一歩は酒害の自覚、次に必要なことは
 
  断酒生活の利得への目覚め 





 断酒の第一歩は、酒害を自覚することであります。
 
酒害の自覚とは、現に今自分が置かれている好ましくない状況のすべてが飲酒によってもたらされたものであり、弁解の余地はないものだと認識した上で、飲酒をつづけていれば失うもの、飲酒を止めれば失わないですむものへの判断が働くことであります。
 

 このような自覚がなされつつも、なおかつ判断のできない人がいます。
 
その人の自覚が不十分だといってしまえば簡単ですが、私は自覚の次に来るものへの賢い判断が欠けているのだと考えるのです。
 

 すなわち、酒害に対する自覚だけでは不十分なのであって、さらに断酒生活で得られるメリット(利得)に対する目覚めが不可欠なのだと考える訳です。
 
『断酒生活によってもたらされるメリットは飲酒欲求の昇華、らしさの回復、生き甲斐の発見、社会参加など、数え切れません。
 
それは断酒家個々人がしみじみとした実感を持って体験するもの、それは「人間として生まれたよろこび」に通ずるものでありましょう。
 
        (村田忠良先生著『酒・依存・断酒』より)



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<ムクゲ>
深き雪 耐えて芽を出す春を待つ いじらし花に我重なりぬ  



36.酒害は酒話害者自身が自分の治療者に
 
  ならない限り治らない 





 酒害者は入院拒絶、断酒会への入会拒絶、家族や同僚の忠告を拒絶し飲み続けるものです。
 
これは自分が酒害者であるという認識を拒絶しようとする心理が酒害の結果として生まれるからなのです。
 

 すべての病気は早期に発見し、早期に治療することにより治りが早いことは万人の常識であり、アルコール依存症も同じことです。
 
しかし、アルコール依存症は、初期であればある程、自分はもとより周囲の人もアルコール依存症であることに気が付かないし、中期・終期になればなる程、症状の一つとして認識拒絶の心理が生まれるとすれば真に不思議な厄介な病気であると言う外はない。
 

 酒害への自覚が生まれれば、その治療の大半は終わったといえます。
 
即ち、酒害を治療するのは酒害者自身でなければできないからです。



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<アーモンド>
いくたびも賭けし主人に背かれて 二十五年をむなしく流さる    



37.酒害者の自己嫌悪の心が断酒の決意を生む 





 「あなたはどうして酒を止める気になったのですか」と問われて明確な動機を答えられる断酒家は少ない。
 
断酒の決意は何処で生まれたのか判然としないのが普通のようです。
 

 度重なる失敗の末生まれた人、医師の言葉で気が付いた人、家族の悲しみの姿がそのきっかけになった人、身体の具合が悪くなって断酒を思い立った人等々、その動機は千差万別であり、それが重なり合っているゆえになかなか明確にならないもののようです。
 
しかし、それらは一つの露頭であって、その根底をなすものは酒におぼれている自分への嫌悪であることは間違いない。
 
即ち、酒害による自己嫌悪の心は酒に逃避することによって紛らわすことが多いが、時には断酒を決意する重大な動機にもなるのです。
 

 「酒を止めようか」とフトもらしたら、そのチャンスを逃してはいけません。「思い立ったは吉日」と言います。早速、病院か断酒会の例会を訪ねましょう。例会がなかったら断酒会の会員を訪ねることが大切です。
 

 二、三日後にのばすと、又拒絶新がわいてきて「自分は酒害者でないから止める必要はない」などと言い出すものです。
 

 拒絶と自己嫌悪は酒害者の心の中を走馬灯のように去来するものなのです。



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<アセビ(馬酔木)>
ようやくに入院させて主なき 静かな家に手足伸ばせり  



38.断酒会に話し上手は不必要、みんなが
 
  聞き上手になることが大切 





 断酒会は体験談に始まり体験談に終わると言われている。
 

 トツトツとした口調で喋る体験談はあっても、とうとうとまくし立てるお説教はない。
 
そしてじっと耳を傾け、自分のことのようにうなずきながらその体験談を聴く人はあっても、その体験談を批判したり、嘲笑したりする人はいない。
 

 真にすばらしい民主主義の団体である。
 

 民主主義の基盤は自分の意見を述べることではなく、他人の言葉を「正しく聞く」ことです。
 
自分の考えだけを押し付け、相手の考えを受け入れないのは民主主義に反するし、断酒会にあってはならないことです。
 
断酒会には話し上手(話し好き)は不要です。
 

 断酒会に必要なのは聞き上手がたくさん居ることなのです。
 

 新入会員のへたくそな体験発表を我がことのように聞いてあげる謙虚さ、優しさが、新入会員にほのぼのとした心を育て「例会に来てよかった。
 
この次も来よう」という気持ちにさせるのです。
 

 先輩は喋りまくってはいけません。
 
正しく聞いてあげることは、一生懸命話して聞かせるよりよっぽど価値のあることなのです。



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<アネモネ>
長き年苦しまさるるこの酒を 「病」と一言主治医は告げり    



39.断酒会には、あの人はもう駄目だという言葉もないし、
 
  俺は絶対大丈夫だという言葉もない 





 入会して5年、何十回、何百回と失敗し、入退院を繰り返していた会員がいた。
 

 「あの人はもう駄目だ、断酒はできないだろう」とその人の面倒を根気強く見続けてきた会員もさじを投げるほどであった。
 
本人も「俺は断酒会はやめる」と言いながらズルズルと例会に通っていたのである。
 

 しかし、奥さんは家族会の人たちに励まされ、ご主人を見捨てることなく辛抱強く、彼の立ち直るのを待ったのである。
 

 六年目に入った春から、彼の失敗は少なくなり、断酒の期間が長引くようになり、ついには立ち直ったのである。
 

 七年目の今は、ある断酒会の要職について一生懸命、酒害者の世話をしているのである。
 

 一方、十年近く断酒し、断酒会の中心人物として自他共に断酒家の模範とされていた人が、突然、魔が指すように酒を飲みだし、アレヨアレヨという間に入院せざるを得ない状態になってしまった人もいるのである。
 

 断酒会には「もう駄目だ」とか「絶対大丈夫」という言葉は存在しないのである。



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<アマリリス>
我が胸に灯り点せし主治医の言葉 「回復可能な病」と聞けば  



40.心を裸にしなさいといっても裸になれる人はいない、
 
   みんなが裸になっていれば誰だって裸になれるものだ 





 新入会員というものは屠所にひかれる牛と同じで、悲しげに、オドオドしているものです。
 

 そのような人に対して「あなたはアル中です」と決めつけたりすれば必ずや反発があるものです。
 
たとえ、自分でアルコール依存者だと思っていても、そこはそれ、アルコール依存者特有の拒絶心がむくむくとわいてきて「私はアル中なんかであるものか、あんた達とは違う。
 
もう例会なんか出るものか」と、口には出さないが、心の中でつぶやくのがオチです。
 

 「裸になりなさい」と言うのも同じで、生まれて始めて断酒会に来て、すぐ正直に自分の心を披瀝する人はめったにないものです。
 

 みんなが服を着て、その人だけ裸になれというのは、どだい無理な話であり銭湯のようにみんな裸になってニコニコ話し合っている所に、洋服を着て入ってくる人はいないと同様に、例会に出席している人が何度も聞き飽きたであろう体験談をしてあげることが新入会員を裸にするコツなのです。

 


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<アヤメ(菖蒲)>
「家族より己の為に酒断て」と 見舞い来し娘(こ)は父に諭さん  



41.医師も家族も断酒会も酒害者を治すことはできない、しかし
 
  酒害を治せる唯一の人がいる、それは酒害者その人である 





 酒害のかかりかけの頃は、誰だって自分を酒害者と思う人はいないし、まわりの者も別に酒害者だとも思わないものである。
 

 まわりの者がやっと酒害にかかったかなあと思いだす頃になると、今度は酒害者本人は自分は酒害者だと認めることに猛烈な抵抗を示すものである。
 

 要するに酒害者は、初期・中期・終期のどの時期においても自分の酒害を認めないのがこの病気の特徴なのである。
 
だから、酒害者本人に自分を酒害者だと認めさせるには、医師も、家族も、断酒会も大変な苦労をするのである。
 

 しかし、本人が心の底からそれを認めない限り、その苦労は水泡に帰するのである。
 
即ち入院・・退院・・又、・・入院を繰り返すのである。
 

 だから、酒害を治す唯一の方法は、本人が酒害を認めることであり、そうなれば酒害の治療の大半は終わったといっても過言ではないのである。



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<アルストロメリア>
同室の仲間の話を聞き分けて 善きを見習い悪きは真似ぬ  



42.酒害の病識のないところには断酒はない、
 
  そこには苦悩と涙があるだけだ 





 「断酒は自ら酒害者だと認めることから始まる」と言うのは断酒の誓いの第一条であり、日本も、アメリカも、スェーデンも変わりはない。
 
即ち、断酒哲学の基盤である。
 
自ら酒害者だと認識し得なければ、断酒はあり得ないし、たとえ、何日か酒を止めるとしても必ず飲みだしてしまうものである。
 

 口でいくら「私はアル中です」と言っても心の底からそう思っていない人が断酒会員の中には多数いることも事実である。
 
しかし「門前の小僧習わぬ経を読む」の喩えのとおり、例会に通いながら断酒の誓いを何回と繰り返しているうちに曖昧であった酒害の病識が確立されていくのである。
 

 しかし、この病識が心の根底に大きく根を張るまではなかなか酒への執着は断切れないようである。
 

 そこには、本人はもとより、家族の懊悩とあきらめの涙しかないのである。
 
正に、それはこの世の地獄そのものであると言う外はない。



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<アンズ>
この部屋でこのベッドにて悟らされ 断酒に目覚めん第五病棟の    



43.なおったから飲まなくなったのではない、
 
  飲まないでいるからなおっているのだ 





 「断酒会ではどうやって酒を止めさせるのですか」という質問はたびたび受ける。
 
時には「何か薬でも飲ませるのですか」という質問を受けて面食らうことすらある。
 
酒害の知識のない一般の人達は病院とか断酒会が酒害を治してくれると思うのも無理はない。
 
他のすべての病気を医者が治してくれるのだから・・・。
 

 しかし、これとても病根を探り、薬で殺し又はメスで除去することはできても、体力を回復したり、生命を保持し続けるのは患者自身であることは言を待たない。
 
即ち、終局的に病気を治すのは患者自身なのである。
 

 酒害についていえば、その病根はアルコールであることは誰にでもわかることであるが、その病根を除去できるのは医者ではなく、断酒会でもない。
 
それは酒害者本人だけである。
 
しかし、たとえ数年間酒を排除し得たとしても、他の病気と違い、酒害は治ったといえないのである。
 
なぜならば、治ったと思って再び飲みだすと、たちまちにして前より悪い酒害状態になることが、多くの例により判然としているからである。
 
            (酒害は進行性の病気である。)



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<イカダカズラ>
他人事と思いし断酒夢ならぬ 長きトンネルに光射し込む  



44.断酒道には免許皆伝もないし達人もいない 





 「もう五年も十年も例会にかよい、一滴も飲まずに断酒してきた。
 
そろそろ例会に通う必要もなくなったように思う。
 
社会的にも普通一般の人と同じに仕事もしているのだから、例会は勘弁して欲しい。」という会員もいるものです。
 
そして「断酒会に卒業があってもいいのではないか。
 
会員として会費は払うから卒業生として例会に出なくていいようにしたらどうだろう」とも言うのである。
 

 果たして断酒に卒業はあるのだろうか・・・。
 
確かに五年十年と断酒のできた人は酒に対する関心はきわめて薄くなることは事実だが、それと比例して断酒に対する関心も同時に薄くなるものなのです。
 
酒が欲しくないのだから断酒を考える必要はなくなる訳です。
 
しかし、もと酒害者であったわれわれはたとえ十年断酒していても一滴の酒がもとの酒害者に逆戻りさせることを誰よりも十分知っています。
 
だから、私たちは自分の断酒に対する関心を高めるためにも、酒に悩む人達の断酒に関心を持たねばならないのです。
 

 断酒道の極意は後あとからつづく自分と同じ酒害者を助けることにあるのです。



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<イキシア>
ホームにて酒に崩れし人見れば 「あの日の己」と恥じつ呟く    



45.酒害者というものは99%酒害を認めていても、
 
  1%の理屈がつけばそれだけで酒を飲むものだ 





 酒の飲み始めは誰だって酒害にかかるかもしれないなどと思いながら飲んではいないし、何年も飲んで飲んで、相当の重症の酒害者になっている時ですら酒害の認識が極めて少ないのがこの病気の特徴であり、精神病たる所以でもあります。
 

 しかし、病院で治療を受けたり、断酒会に入会したりして酒害の恐ろしさを知るにつけて、少しずつ病識を得る筈だけれど、100%自分の酒害を認識するのには何年もかかるものなのです。
 

 断酒した当初は単に酒を飲まない酒害者であることを深く認識しなければなりません。
 
酒によって歪んだ心は一朝一夕では治るものであはりません。
 
この歪みが不平、不満、イライラを呼び、理屈をつけて酒に走らせるのです。
 

 断酒会に入会した人の半数以上がいつか酒を口にしてもとの酒害者に逆戻りしている事実を直視しなければなりません



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<イチハツ>
入院の十月4日を切りにして 断酒で迎える今日十月4日    



46.酒を百薬の長というのは挽かれ者の小うたか
 
  酔っぱらいの屁理屈 





 酒は百薬の長といわれます。
 
確かにアルコールには強心、鎮静、興奮、利尿、催眠などの薬理作用があります。
 
しかし、アルコールの主作用はあくまでも脳の麻痺作用であり先に述べた諸作用は、麻酔用に伴う一過性の副作用にすぎません。
 
酒は百薬の長というのは、だからアルコールの主作用で麻痺した頭で副作用の長所を数え上げているいわば挽かれ者の小うたのようなものです。
 

 百薬の長というのは酔っ払いの屁理屈にしても、私はこれこそ酒の正体を言い得て妙と、ほとほと感心しています。
 
とげのないバラはありません。
 
バラの美しさはとげを忘れさせるほどであり、あるいはトゲがあるからかえってバラは美しいといえます。
 
バラの花に心を奪われて、トゲで大変な怪我をすることがあります。
 

 酒もそうです。
 
飲んだ者に百薬の長といわせるほどの魅力を持つ酒は、中毒という猛毒を秘めた甘いトゲを持っています。
 

 失神欲求を満たしてくれる代わりに、酒はそれを愛する人達に酒害を押しつけるのです。
 
          (村田忠良先生著「酒・依存.断酒」より)



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<オウトウ>
真剣に断酒に取り組む先輩の 真似して歩きて一年断酒    



47.若いから酒を止められないというのは甘えの心だ、
 
  若いからこそ酒癖を断つのだ 





 若い人とお年寄りの断酒は難しいと言われる。
 
事実、酒害に悩む青年、お年寄りの相談は年々その数を増している。
 
しかもこれらの人々は断酒会に入会しても、なかなか断酒に踏み切れず、何度もズッコケて入退院を繰り返す人が多い。
 
これは、青少年や老人は社会的にも家庭的にも重要な責任を負うことが少ない故だと説明する人もいる。
 
即ち、社会的にも家庭的にも他に依存する甘えがあるからだというのである。
 

 最近の新聞に「青少年と女性は成年男子に比べて酒害にかかりやすい」という記事が載っていた。
 
身体的にも心理的にもさもありなんとうなずけるのである。
 

 しかし私たちの仲間の中には、二十代、三十代の青年断酒家が少なからずいることも重大な事実である。
 
彼らは異口同音に言うのである。
 

 「われわれは若い、遠大な夢や理想がある。
 
酒に溺れていたんではこの夢や理想は達成されない。
 
われわれは若いが故に断酒するのだ」と。



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<オウバイ>
信楽の一周年に頂きし 花瓶に生ける断酒の喜び    



48.行動することが断酒継続の糧となり、
 
  行動する量が断酒の質を決める 





 昔から「流水苔むさず」とか「回っているコマは倒れない」とか言われ、動くことの大切さを説いた諺は多い。
 

 断酒においても「行動すること」はきわめて大切なことである。
 
「行動すること」というのは「交流すること」と言っても過言ではあるまい。
 
即ち、断酒会活動に参加することであり、これが断酒継続の推進力になることを否定する人はいない。
 
これが断酒会の存在理由の第一であるからである。
 

 しかしながら、自分の所属する断酒会の例会にしか参加しない人は、いつか濁った、苔むした、視野のせまい断酒観しかもたない人になりかねない。
 
所謂ドライ・アルコホリクス(酒を飲まない酒害者)になる恐れすらあるのである。
 

 「断酒は足でおぼえろ」というのはこの辺の心理を説いたものであり、他の例会、断酒学校、酒害相談など多くの会活動に参加している人は、自己の断酒を確実にすることは勿論であるが、極めて魅力的な人格をそなえた好ましい断酒家として成長していくのである。



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<オオアラセイトウ>
比べれば断酒の日々は浅けれど 地獄知りたる我には眩し  



49.酒害は人間を肉体的にも精神的にも老化させる 





 酒害者は、その酒害が進むにつれて、心理状態が子供のようになっていくことは多くの体験者の語るところであり、「子供返りの心理」とか、「酒害は人間を赤ん坊にする」とか言われている。
 

 また、肉体に関しては、肝臓、心臓、すい臓、血圧、神経、その他の機能が悪化することは知られているが、皮膚や毛髪にまで言及する人はあまりいない。
 

 しかし、断酒会に入会し、断酒を継続している多くの会員の体験談の中に、肉体全般にわたる若さが戻ってくる話が多く聞かれるのである。
 
「顔のつやが良くなった」「セックスがもどってきた」「疲れなくなった」等々・・・全般的に若返った喜びの声を聞くのである。
 
最近、禿げ上がった頭に毛髪が黒々回復した人さえいるのである。
 
人間が老齢化してくると健康な人でさえ、肉体が衰え、心理的には幼児化してゆくことは万人周知のことである。
 

 そうなると、「酒害は人間を老化させる」と考えたほうがより適切であり、いろいろな現象を説明するのに容易になるように思うのである。



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<オオイヌノフグリ>
「もう飲まぬ」誓いて十日もたぬ君 「飲みたい」言いつつ四年に向う    



50.一年断酒できたからといってそれはいったい何になろう、
 
  十年断酒した人もそれは同じだ、明日はまた初日なのだ 





 断酒会には、年齢、職業、社会的地位などによっての差別は一切ない。
 
勿論、断酒暦による差別などあろう筈はない。
 
いや、あってはならないのである。
 

 それは酒害という病気の本質からきている重大な原理だからである。
 

 一ヶ月断酒しても、一杯のめばまたズルズルと元の木阿弥になることは断酒家なら誰でも知っていることであり、一年断酒しようが十年断酒しようが、それは全く同じなのだということも周知の事実である。
 
だから、のんだら元の酒害者に戻ってしまうということに関しては、三日断酒した人も十年断酒した人も常に毎日同じスタートに立たされているわけであり、社長であろうが、係長であろうが、全く同じなのである。
 

 だから断酒暦はいくら長くてもそれは決して輝かしい勲章にはならない訳で、断酒家にとっては、常に今日は初日であり、明日もまた初日なのだと思うことが大切である。



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<オオキバナカタバミ>
「納得の断酒してる」と言う君の 強き背中は少し淋しき  



51.酒害を治せる人は、それは酒害者本人だけである 





 感冒ヴィルスにおかされて発病する。
 

 結核も、盲腸も、その他の病気もいろいろな菌の作用でかかる病気である。
 
その病原菌を殺すか、患部を切除することによって病気は全快する。
 

 医師が症状を判断し、薬を処方し、メスを振ってその原因を除去してくれさえすれば、患者の生命力は肉体を元どおりにしてしまう。
 

 しかし、酒害だけはこうはいかない。
 

 酒害の病原はアルコールである。
 
このアルコールを身体から除去したり、アルコールによって侵された肉体を治すことは医師としても容易なことである。
 

 だが、再びアルコールを口にしない人間に改造することは誰にもできないのである。
 
それをできるのは唯一人、それは酒害者その人なのである。
 

 酒害から抜け出そうと決意する酒害者だけがこの難事業を達成できる幸運をつかめる唯一人の人なのである。



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<オキザリス>
命より大事な宝投げ捨てて 新たに生きて断酒十年  



52.断酒は車の運転と同じだ。昨日まで無事故だからといって、
 
  今日も無事故だという保証はどこにもない 





 三十年無事故で表彰されたあるタクシーの運転手がその表彰式の帰りに人をはねたという記事が新聞にのっていたことがある。
 

 これは極めて珍しいことだから新聞のネタになるのだが・・・。
 

 永年断酒していた人が酒を飲み出したからといって新聞のネタにはならない。
 

 これは至極当たり前のことであるから、一般社会では別に気にしない。
 

 それどころか、あの呑ン平がいつまでもつだろうかと、酒を止めていることを不思議がる人の方が多い。
 

 三十年無事故の運転手さんは今日も無事故だと信じているから、事故を起こすとびっくりするわけだけど、われわれが断酒に失敗しても「やっぱり」と言われるのがオチである。
 
誠に残念だけれど仕方がない。
 

 今日も、初心に帰って「やっぱり」と言われないよう「一日断酒」頑張りましょう。



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<ガクアジサイ>
あのチャンス あのタイミングが合えばこそ 断酒の君が今ここにあり  



53.われわれの敵は酒ではない、われわれの敵は
 
  自分の心だ 





 一家の主人が酒害にかかったため地獄の苦しみを味わった家族が「悪いのはお父ちゃんではない、悪いのは酒なんだ」と思うのは止むを得まい。
 
しかし、だからと言って「この世から酒がなくなればよい」とか「この世から酒をなくしよう」と考えることは、これは明らかに行き過ぎであり、間違った考え方である。
 
自分たちの一家の柱である人を交通事故で失ったからといって「この世から自動車をなくしよう」と叫ぶ人がいたら、世間の人は同情はしても同感はしないだろう。
 

 酒害にかかった人のなかにも、なかなか断酒ができずにいて「畜生!この世に酒がなければこんなにならなかったのに・・・」と酒に罪をかぶせて、自分の心の弱さに頬かぶりしようとする人がいるものです。
 

 誘惑に負けてしまう自分の弱い心に打ち克つことが断酒継続の基本であることを改めて銘記しよう。
 
われわれの闘わねばならぬ相手は己の心のなかにある弱い己なのです。



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<カノコユリ>
断酒など まさかまさかの坂を越え 奇跡に似たり断酒十二年  



54.酒をやめることが何故恥かしいのか、
 
  やめられないことの方が本当は恥かしいのに 





 断酒会に入ったことを恥ずかしがって隠している人がいるものです。
 

 例会に通ってくるところを見ると、断酒会に入ったことを恥ずかしがっているとは思えないし・・・。アル中になったことが恥ずかしいのなら、酒を止めようとする自分を恥ずかしがる理由は全くない。
 
なぜならば、酒を止めることは恥ずかしいアル中から脱却できることなのだから・・・。
 

 どう考えても、酒を止めることは全然恥ずべきことではなさそうである。
 
即ち、断酒を恥ずかしがるのは酒害者特有の歪んだ心理以外の何物でもないということである。
 
この酒害者心理を克服する方法は唯一つ断酒継続しかない。
 
即ち一日断酒である。
 

 何ヶ月かたち、何年かたつうちに、断酒生活のすばらしさを体得するようになり、断酒会の不思議な魅力を知るに及んで、このような断酒に対する恥ずかしさがなくなってゆくものなのです。
 

 それどころか、断酒会員であることを誇りにすら感ずるようになるのです。



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<カミツレ>
どん底を這い上がらんと真剣に 救い求めば道は開けり  



55.酒害者は自分の最も頼りにする人から傷つけていく 





 家庭裁判所の離婚調停で、最も高率を示しているのが酒にまつわる事件です。
 
今日も全国各地の家裁でこの種の調停が行われていないところはないでしょう。
 

 そして申立人である酒害者の奥さんは、異口同音に訴えるのである「もうこれ以上の我慢はできません、何とか別れさして欲しい・・・」と。
 
そして、酒害者である夫は「別れないでくれ・・・」と哀訴するのです。
 

 酒害が進むにつれて、甘えの心が増長していくことは知られています。
 
酒害者が最初に甘えるのは家族です。
 
酒を飲んで起こしたしわ寄せをすべて家庭に持ち込んでくるのもこの甘えの心の結果なのです。
 
このようにして酒害者は自分の最も頼りにする家族の心を傷つけ、やがて勤務先の上司・同僚、入院すればしたで医師や看護婦の心を失ってだんだん孤独になっていくわけです。
 

 どこかで断ち切らねば酒害者の末路は目に見えるようです。
 

 断酒会を訪ねてみましょう。
 
断酒会の仲間は酒害者を孤独にはしません。
 
十年知己のようにあなたを迎えてくれるでしょう。
 
なぜなら、その人達も酒害者だからです。



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<カンザキアヤメ>
見舞来て一人登りしこの坂を 断酒の君と「きずな」に向かう  



56.酒をやめなければならない理由はのんでる頭では
 
  わからない、酒をやめてみて少しずつわかるものだ 





 酒を飲んでいる人に、酒をやめなさいと言ったって、なかなか止められるものではないし、まして酒害がかった人には尚更のことである。
 
酒に溺れている人には、のむ理由は山ほどあるが、止める理由は一かけらも見つけられないものです。
 
「落ちるところまで落ちないと止められない」というのも、この辺を物語っているのです。
 

 だから、落ちないうちに断酒させようとするには、多少物理的であっても強制的に止めてもらうことも止むを得ないかも知れない。
 
即ち、医師の指導のもとに入院して酒を断つ方法も必要な手段な訳です。
 

 そうして、酒を断った頭で考えてみると、何故飲んではいけないのかということがだんだん解ってくるものです。
 

 「断酒を始めるのに理屈はいらない」という言葉はこれらの事情を言っているのです。



 
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<カンザクラ>
親元に帰るが如く安らぎて 「きづな」に集いて断友(とも)と語らん  



57.やめられない酒だからやめるのだ 





 「あなたは七十をとうに過ぎて、もうすぐ喜寿になるのに、何故そんなに好きな酒をやめたのですか」と、入会間もないある会員が聞きました。
 

 その聞いたほうの会員は入会はしたものの、未だ酒の未練が絶てずに、時々のんでいる様子でした。
 

 「やめられない酒だから、やめたんです」と七十五歳になる会員は答えました。
 
答えた方の会員は、断酒暦十年というベテランで、全道各地に請われて酒害相談に歩いている方です。
 
「やめられない酒だから、やめたのです」この禅問答のような言葉、これが断酒哲学なのです。
 

 入会したが、未だ失敗を繰り返しいる新入会員は「やめられないから、飲んでいる」のであり、七十五歳の老会員は「やめられないから、やめる」のである。
 

 皆さん、いい言葉だと思いませんか。



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<カンナ>
たわいなき会話の中に結ばれし断友(とも)との絆 名を知らずとも  



58.のむ理由は見つかってもやめる理屈は立たぬもの、
 
  先ずやめようそれから考えよう 





 酒害者に酒をやめなさいといって、素直にやめる人がいたらお目にかかりたい。
 
おそらく100人が100人は何やかにやとやめる必要はない理由を言うものです。
 

 曰く「オレが酒害者ならアイツは何だ。オレよりもっとすごいのに何でオレがやめなきゃなんないんだ」
 

 曰く「酒を飲んで悪いと言う法律はどこにもない。
 
あの先生は一日三合以内ならなんでもないって言ったじゃないか」
 

 曰く「のみ過ぎるのが悪いんだ。
 
わかっているんだ、これからは家で二合しか飲まないから・・」
 
曰く「病院に入院しろって・・・。冗談じゃない、おかしいのは家内だよ・・。
 
入院させなきゃなんないのは家内だよ・・」
 

 こんな酒害者でも一日は断酒することができるものです。
 
そして断酒例会に出てみましょう。
 
やめる理屈が見つかりますよ。



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<キク>
それぞれの思いを抱きて登り来る阿武山の坂 今日も静かや   



59.断酒道にか免許皆伝もなければ達人もいない、
 
  そこには酒に自由を失った酒害者がいるだけだ 





 世の中には道と名のつくものがたくさんある。
 
茶道、華道、柔道、書道などあげたら相当な数になると思う。
 
そして、それぞれに、免許皆伝があり達人もおれば師範もいる。
 
それは、何年か繰り返し訓練を続けていれば腕は上達して再び初心者にもどるということがないからである。
 

 書道師範の人がある日突然小学生のような字を書くようになることは決してないのである。
 

 ところが断酒道にはこれがあるのである。
 
十年以上も断酒し、断酒会の中心人物として活躍していた人が、ある日突然、酒害者になってしまうことがあるのである。
 

 だから、断酒道には達人もいないし、師範と名のつく人もいない、ましてや免許皆伝などという境地には絶対なれないのである。
 

 要するに、断酒家とは酒をやめている酒害者にすぎないのであって、呑ン平にもどる可能性は永遠に消えないということなのです。



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<キズイセン>
この月も断友(とも)と会えし喜びに 「きづな」終わりてバスは弾みぬ  



60.酒害は不幸な病気である、しかし治そうと思えば
 
  必ずなおる病気である 





 誰だって酒害者になろうとして酒を飲む人はいない。
 
気がついたら、酒害にかかっていたというのがほとんどの酒害者の姿ではないかと思う。
 
そして、その酒害を治そうとして、酒の量を減らしてみたり、ニ、三日酒を断ってみたりしたことが必ずあると思います。
 
しかし、酒害は治るどころか、だんだん重症になってゆくのに当惑を感じたに違いありません。
 

 酒害という病気は、進行性の病気ですからたとえ何日か、何月か、何年か断酒したとしても、また、どんなに少量に減量したとしても、のんでいる限り、死に向かって病状は進行してゆく病気なのです。
 
だから、一生治らないとも言えるのです。
 
全く不幸な病気だと言わねばなりません。
 

 しかし、原因はアルコールです。
 
その原因を取り除けば、簡単に治る病気です。
 

 その原因を取り除くのは、医者でもなければ、家族でもありません。
 
酒害者であるあなた自身だけができることなのです。



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<キバナコスモス>
なに故にこの病院に入りしかと 「あの日」に戻りて「きづな」に集う  



61.断酒道には王道もなければ近道もない 





 のんでいた頃の私たちは、高慢と自己中心的な考え方に満ちていた。
 
しかし幸いにも、私たちは酒を断つ決心をすることができ、まがりなりにでもそれを実行してきた。
 
だが、私たちの心はともすると、高慢になり、自己中心的になりやすいものです。
 
酒をやめた当初は自信もなく、一日、一日を真剣にすごしていたが、一ヶ月を過ぎる頃から少し考え方が変わってきたように思います。
 

 例会に出なくても断酒はできるのではないかとか、何も無理して生涯断酒を誓わなくても、少しぐらいなら時には飲んだっていいのではなかろうか。
 
私は本当に酒害者なんだろうか。
 
そうでなかったのではなかろうか・・・と、私たちは結局は酒に手を出して失敗してきた訳です。
 

 自分だけが特別のエスカレーター付きの道路に立っているのではなく、自分も皆さんと同じように泥だらけの急峻な断酒道を、もがき苦しみながら一歩一歩踏みしめ歩かなければ真の生涯断酒は完遂され得ないのだと、改めて考えなおそうではありませんか。



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<キャットテイル>
二人して苦しき坂を越えたれど 断酒表彰妻の名呼ばれず  



62.最初の一杯に罪の意識を感じないうちはだめだ 





 断酒を決意しても、一人ではなかなかやめられず断酒会の門をたたいて例会に通っているのにチョクチョクと酒を口にして後悔している人がいるものです。
 
その人たちは異口同音に言います。
 
「ついうっかりと」
 
「気が付いてみたら酒を口にしていました」・・・と。
 

 しかし、夢遊病者ではあるまいし「酒を飲もう」と思う心と、「のんでは駄目になる」と考える心との葛藤があったに違いない。
 

 ただ、その葛藤の時間が短いか、長いかの違いはあるだろう。
 
断酒歴の浅い人ほど、この葛藤の時間が短くて、安直に酒に走ってしまうようです。
 

 例会では、断酒の価値観を育ててくれると同時に、長く通えば通うほど、最初の一杯に罪の意識を感じる心も育ててくれます。
 

 まるで、コソ泥のように、人に隠れて酒を口にしなければならない自分をさめた別の心で見てごらんなさい。
 
恥ずかしいというより、そのみじめさにゾーとしませんか。



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<キリシマツツジ>
あれ程の酒を断つ理由(わけ)判らされ うれしく仰ぐ新阿武山病院  



63.酒が悪いのではない、酒を飲み続けた
 
  私が悪いのだ 





 主人の酒で苦しめられた奥さんや子供さんの手記に、ときどき「この世から酒がなくなればいい」というような言葉が見えることがある。
 
また、酒害者本人の体験発表の中にもこれと似たような言葉がきかれることがある「この世の敵は酒である。
 
私は断固として酒と闘う・・ 」とか「酒のない国へ行きたい・・」と。
 

 酒を止められないからと言って、自分の前からすべての酒をなくしてしまえと言う考え方は、まさにアル中性格丸出しであって、いやしくも断酒家たるものの考えるべきことではない。
 
私たちは酒害の原因は酒ではなく、酒の飲み方であることは例会で話し合い、確かめ合ってきた筈です。
 

 車で事故を起こしたからといって、車が悪いと言ったり、車をこの世から無くしてしまえばとは誰も言いません。
 
それは運転の仕方に問題があるということは赤ん坊でもわかる理屈だからです。
 

 酒害も、飲む側にその責任があることをあらためて認識しなくてはなりますまい。



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<キンモクセイ>
外泊の許可が下りて大津支部 例会出席君の断酒の第一歩  



64.三年のみ続けると一年寿命が縮む 





 断酒会に入会してくる人は、ほとんどが本当の年齢より老けて見える。
 
ひどい人になると「六十過ぎかな」と思って体験発表を聞いてみると四十七歳だという。
 

 ある研究発表によると、酒害で入院してきた人の退院後の追跡調査では三分の一は断酒しているが、三分の一はまだ飲んでおり、残りの三分の一は死亡しているという。
 

 また、別の研究発表によると、アルコール中毒と診断された患者の死亡率は、ガンと診断された患者の死亡率を上回っているという。
 
そして、酒害者の内臓は、たしかに老化しており、個人差があるけれども、十歳以上、二十歳近くふけていると言う。
 
こうなると、酒害者になるのに三十年かかったとすると、三十年飲み続けているうち二十年以上寿命を縮めることになる。
 
数字のマジックのようで恐縮だが、酒害にかかってしまった人は、三年飲むと一年寿命を縮めることになり、誠に恐ろしいと言わねばならない。



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<クラスペディア>
不安気にドアを開いて足入れば 仲間等優しくわれを迎えり  



65.自分が酒害者でないと言い張っている人は、他人に酒害者
 
  だと指さされ、自分を酒害者だと心から認めている人は、
 
  他人に酒害者だったとすら言われない 





 酒害の初期は、単なる酒好きだと思われる程度で、他人はもちろん、本人ですら病識はない。
 
そして、酒害が進行して、回りのものが「酒害にかかったのでは?」と思う頃には、本人は病識を拒絶するようになってしまう。
 
これがアルコール依存症の重大な特徴の一つである。
 
だから上司の説教でも家族の哀願も通用しない。
 

 しかし、断酒会に入るとか、病院のお世話になるとかして、少しずつでも酒害の恐ろしさを勉強して、何日かでもいいから断酒した頭で考えてみた時に「自分はやはり酒害者なんだなあ」と気付くようになるものです。
 

 こうなればしめたもの、あと「一日断酒」を続けてさえいればいつしか「あんたが酒害者だったの?」と不思議がられるようになるのです。



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<クリンソウ>
酒飲まぬ我も病気と教えられ 納得せぬまま通う例会  



66.断酒とは酒をやめることではなく、
 
  のめなくなることである 





 「酒をやめる」という言葉には自主的な意志を感じる点もあるが、他からの強制によって「やめている」という一面もない訳でもない。
 

 酒をやめた当初は「やめねばならない」という心の働きはあっても、「少しぐらいは飲んでもいいだろう」という誘惑を抑えるのに苦労する時でもある。
 

 それは、「自分は酒害者である」という認識のうすい時でもあるから、誠に止むを得ない。
 

 しかし、この我慢しながらでも、「酒をやめる」ことを続けているうちに、いつしか自己反省の心が強くなり、過去の己の所業を思い出しては身震いするようになるものです。
 

 こうなればますます素直になり、自分をとりまくあらゆる人間に感謝の心で一杯になり、酒で苦しむ人達への奉仕に明け暮れるするようになれるのです。
 

 こうなれば、もう「酒をやめる」というより「酒は飲めなくなる」心境であって、まさにこれこそ断酒道の極意と言えるかもしれません。



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<クレマチス>
あの人も我と同じの悩み持つ 仲間と知りて勇気涌きたり  



67.我慢だけでは断酒はできない、それはいつか爆発する
 
  からだ、我慢しないですむ秘訣は断酒例会の中にある 





 断酒の最初は我慢です。酒、酒、酒・・・と明け暮れている人達にとって、断酒とは我慢以外の何物でもないでしょう。
 
一日断酒とは一日我慢なのです。
 
しかし、我慢も一日や二日なら何とかなるでしょうが、数ヶ月も数年も我慢し続けるということは酒害者にとっては至難の業です。
 
人間の我慢には限度があります。
 
いつか我慢し切れずに、爆発的に酒を飲み出してしまうのがオチです。
 

 だから、生涯断酒を続けるためには我慢をしないですむ断酒が必要な訳です。
 

 それには断酒例会に出席することです。
 
我慢し続けながらでも例会通いを続け、正直に自分の体験を話したり、他の人の体験を聞いているうちに気が楽になりやがては、例会への出席が楽しみになってきて、我慢するという意識がだんだんとなくなってゆくのがはっきりわかります。
 

 本当に不思議なこととしか言えません。



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<クロタネソウ>
それぞれの生き様語りぬ断酒会 真にうなづき真に泣かさる  



68.何年酒をやめようと酒害地獄は断酒家から遠ざかりは
 
  しない、それは常にコップのガラス1枚しか離れていない 





 断酒会に入会し、頑張っていた同志がいつか例会に顔を出さなくなったと思ったら、病院に入院したと言う噂が伝わってきた。
 

その噂は「死んだ」という知らせによって現実のものとなった。
 

 彼は、入院したことを私たちに隠そうとした形跡がある。
 
恥ずかしかったに違いない。
 
気の毒な人だと思う。
 

 私たちのところへ「酒を飲んでしまいました」と何故素直に来られなかったのだろう。
 

 私たちは、酒を飲んだからと言って、罰したり、除名したりはしないのに・・・。
 

 一度酒害にかかった私たちには、コップ一杯の酒が「酒害地獄」への切符であることは十分認識しているのに、何故飲んでしまうのか?
 
自分だけは別だと思うのだろうか。
 

 私たちは所詮、病院か断酒例会しか行くところのない者なのだ。
 
としたら、病院よりは例会の方がよっぽどましではないだろうか。



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<クロッカス>
赤裸々に隠す事なく我慢なく 言葉に出来る例会うれし  



69.明日からやめるという言葉は酒害が言わせる言葉、
 
  今日止められない酒なら明日だって止められない 





 「明日からやめるから、今日コップ一杯でいいから飲ませてくれ」と奥さんに哀願する姿は、酒害者の多くに見られることである。
 
そして、次の日も又、同じ言葉を繰り返すのを見て、酒害者はウソつきだと思うのである。
 

 しかし、酒害者本人は、決してうそをついて酒をせしめようと思って言ったのではない。
 
「今飲みたい」というのも本当の心だが、「酒をやめたい」というのも真実の叫び。
 
だから「やめるのは明日にまわして、今、少しのもう」ということになり、明日もまた同じになってしまうのである。
 

 だから、「明日からやめる」という心を大きく膨らませて「明日からではなく、今からやめよう」と変えられるように励ましてあげることが酒害者に対する真の愛情であり、まわりの家族、および私たち断酒家のなすべきことではないかと思うのである。
 

 可哀想だといって一杯飲ませることは却って苦しめることであることを知りましょう。



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<ゲッケイジュ>
生の声 生の姿 真に受く例会の場に魂ゆさぶられる  



70.酒をやめるだけだったら断酒会はいらない、
 
  酒をやめ続けるために断酒会が必要なのだ 





 酒をやめたいと断酒会に入ってくる人が多くなった。
 

 しかし、いつか例会に来なくなる人も相変わらず多い。
 

 全国的な統計で言うと、三人のうち二人は途中から来なくなると言う。誠に残念なことである。
 

 酒地獄から一日でもいいから逃れたいと思う気持ちは、酒害にかかった人なら、どんな人でも多かれ少なかれ持っていた筈。
 
だからこそ断酒会に来たのであろうし、一人断酒は難しいと悟ったから仲間を求めてきたのであろうに・・・。
 

 一日断酒はどんな重症な酒害者でもできるし、普通の人なら三日断酒もさほど難しいものでもない。
 
しかし一ヶ月断酒となると少し難しくなってくる。
 
ましてや、三年断酒となると、その成功率はぐんと少なくなる。
 

 それを成し遂げるには、断酒例会出席以外の良い方法はこの世にはなさそうである。



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<コスモス>
夫婦して同じ時間に同じ場所 同じ目的二時間学ぶ    



71.どん底を見た人は酒をやめる、
 
  どん底が見えない人は飲み続ける 





 酒害者にとって「どん底」とは一体何であろうか。
 
奥さんの涙を見てピタッと酒をやめた人、会社をクビになって吃驚して止めた人、家族がバラバラに離散しても未だのみ続けている人・・・。
 
酒害者にとって「どん底」とは一体何であろうか。
 
簡単に言えば、酒害者が「飲めなくなったとき」がどん底であると言えるが、それは肉体的に酒が胃に入らなくなった時か?
 
勤め先から追い出されそうになった時か?
 
それとも手のふるえに怯えた時なのだろうか。
 

 断酒の仕方は十人十色という。
 

 酒を飲まない方法が十人十色だというのではない。
 
「どん底」が千差万別だと言うのである。
 
要は「どん底」とは酒害者個々人が、それぞれ自分の姿の中に見つけた認識であって、それが断酒の動機であり、断酒継続の糧である。
 
これが十人十色だということである。
 

 しかも、これは断酒し続ければ続けるほど、はっきり見えてくるから不思議でもある



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<コハコベ>
どの声も耳に入らじと飲みし君 体験談に頭殴らる    



72.断酒とは動き回っている独楽のようなもの、
 
  動きが止まるとズッコケる 





 断酒は誰でもできる。
 
しかし、断酒継続はなかなか難しいと言われる。
 
それは、断酒して何ヶ月か、何年か経つとだんだん「断酒道五心」を失ってゆくからだ。
 
 
他の人の体験発表を聞いても「また、同じことを言って・・・聞き飽きた」などと考え、自分の悪業については話したがらない。
 
断酒会のおかげで断酒できたのに自分ひとりで酒を止めたのだと思うようになり、例会や断酒の友への感謝を忘れ、会活動を逃げようとする。
 

 やがて、例会へ出席する意味を失って欠席するようになり、気がついたら飲んでいたということになりかねない。
 

 このようなことを防ぐには「行動する断酒」以外にはなさそうだ。
 

 新しい断酒の友を求めて行動する人、酒で苦しんでいる人の手を握って涙する人・・・。
 
これが「行動する断酒」であり、断酒を続けるエネルギーになるのです。



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<コブシ>
例会にしっかり断酒の根を張りて 二本の足で踏ん張り立たん  



73.一杯飲めば自分にわかる、二杯飲めば同志にわかる、
 
  三杯飲めばみんなにわかる 





 断酒会に入っても、なかなか酒をやめきれないでいる人がいる。
 
統計によると十人入会しても七人ぐらいの人が、酒をやめきれないで再び酒地獄に戻っていくという。
 
中には、三年も五年も断酒していたのに、突然魔がさしたように飲みだす人もいる。
 

 生涯断酒するということは、なかなか至難の業であるようだ。
 

 これらの断酒に失敗する人たちは、少しぐらいなら家内にわからないだろう。
 
たとえ家内にばれても、例会の日だけ飲まないで出席すれば、断酒会の同志だってわかる筈はないと思っているのだろうか。
 

 「天網恢恢祖にして漏らさず」とか。
 
こっそり一杯飲んで、口を拭って、家族や周囲を騙したつもりでも、騙すことができない人が一人いる。
 
それは自分自身である。
 
良心の呵責は、その言動に表れ、断酒会の仲間にはすぐわかるものだ。
 
誰も何も言わないけれど。
 
自分を偽らないで、胸を張って例会に出るためには「今日の一日断酒」で頑張る以外何もない。



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<コムラサキ>
岩倉に崩れし断友(とも)を見舞えれば 格子の窓の明きが悲し    



74.命をかけてのんできた酒だ、命をかけてやめ抜こう 





 「これ以上飲んだら死ぬぞ」と言われても「酒で死んだら本望」とばかり飲み続けてきた私たちである。
 

 しかし「酒で死ぬなら本望」というセリフは忠告者に対する開き直りであって「酒で死にたい」とは思っていないのが本音である。
 
酒が切れると死にそうになるあの苦しみは酒害者でないとわからないであろう。
 
この禁断による苦しさから逃れるために酒を求めるということは、大袈裟に言えば、死の恐怖から逃れるために酒を求めると言える。
 
即ち「生きたい」がために酒を求めるのであって、文字通り「酒こそわが命」なのである。
 

 「飲めば死ぬ」であろう酒を「生きんがために飲む」。
 
外から見れば大変な矛盾ではあるが酒害者にとっては真剣である。
 
だから、誰が何と言おうと「命をかけてのむ」のである。
 

 今、幸いにも断酒会の仲間の支えによって酒を断つことができている。
 
そして、酒害による矛盾がだんだん消えて「酒を飲めば死ぬ」という自覚を心の奥底に育てていただいた。
 
今こそ、「生きんがために」、真の意味での「命をかけて」断酒道を守り抜かねばならない。



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<サザンカ>
我のよに酒に泣かさる妻ありて 入院促す便りしたたむ  



75.酒害は素直な心を失わせ、人格を低下させる 





 酒害者は、その症状が進むにつれて、素直な心が閉ざされてゆく。
 

 家族や友人が心配して「お酒を止めたらどうですか」と注意しても「オレくらい飲んでるやつはたくさん居る。
 
なぜオレだけ止めなければならないんだ」ときわめて反抗的になる。
 
本当は、心のどこかで「酒はやめなければ駄目になる」と思っているのに、口をついで出る言葉は「オレは死んでも酒はやめないぞ」となってしまう。
 
これは、アルコールによって心に変化を生じ、すべてのことを拒絶する心理が働くからだと言われている。
 

 幸いにも心の隅にあった素直な心が広がって断酒を決意し、断酒会に入会したとしても、なかなかこの心理は消えない。
 

 入会当時の会員は、他の会員の体験発表の都合のいい部分だけしか耳に入らないし、体験発表をさせると、自己洞察は浅く鈍く、人格が著しく低下しているように見える。
 

 しかし、例会を重ねていくうちに、この真理は消え、いつしか、鋭く自己反省のできる人格者に変容してゆくから、これはまた不可思議だと言わねばならない。



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<サラセニア>
それぞれの重荷を背負いて酒断ちぬ 強き背中に厳しさ見ゆる  



76.ほめられているうちは未だ信用されていない証拠、
 
  自惚れてはいけない 





 ある断酒会員が酒宴に出てジュースを飲んでいた。
 
宴たけなわになって、周りの酔っ払いがイタズラ心を起こし、その会員がトイレにたったすきに、彼のジュースにウィスキーを少し入れてみんなに言った。
 
「彼が本当に酒をやめているかどうか試すから、みんな黙って見てろ・・・」と。
 
何も知らないその会員は席についてやおらジュースを口に含んだ。
 
「ウィスキーが入っているな」と瞬間思ったが、その液体はスーとのどの奥へ入っていった。
 

 そのとたん、満座の酔客は手をたたいて歓声をあげたという。
 
呑ン平が、わずか3ヶ月、6ヶ月酒をやめているからといって周りのものは、心の底から信じてくれないということだ。
 

 「お酒を止めたんですって?
 
よくやめられましたね。
 
6ヶ月も止めてるんですか!
 
意志が強いんですねえ・・」と、断酒していることが話題になるうちは信用されていない証拠・・。
 
自惚れてはいけない。
 

 断酒していることが話題にならなくなった時、本当の断酒家になったと言えるのかもしれない。 



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<サルスベリ>
噴き出づる断酒の想い語るうち いつしか口調厳しなり行く  



77.酒害者にとっては一滴の酒でも多すぎる、
 
  しかしのみ出したら一升の酒でも少なすぎる 





 酒害は進行性の病気である。
 
飲む量がいかに少なくても確実に重態に向かって進行してゆく。
 
それでは、酒をやめれば酒害は治るのだろうか?
 

 残念ながらそうはいかない。
 

 何ヶ月、何年断酒したからといって、酒害にかかる前の状態に戻ることは決してない。
 
このことは、よく列車にたとえられて説明されている。
 
即ち、断酒しているということは酒害という列車が一時停止しているに過ぎないのであって、出発点に向かって逆進してはいないのである。
 

 だから、「今度こそは、酒害にかからないように上手に飲んでやろう」と言って、少しずつ飲みだしたとしても、それは一時停止していた酒害列車を徐々に出発進行させるだけであって、前より悪い酒害の状態になるだけである。
 

 そうなったら、ブレーキなしで坂を下るようなもの。
 
一升酒では物足りない大酒害者になるだけである。
 

 最初の一杯こそ十石に値する一杯なのである。



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<サルビア>
我が県の台風案じる電話あり 遠き吹田の断友(とも)にうれしや  



78.自分のみじめな過去を認めてくれて、それをこれからの
 
  糧にしてくれるところ、それが断酒例会だ 





 『飲んではいけないことはわかっていたんだ。
 
あのことだって、しようと思ってしたことではない。
 
病気がさせたんだ。
 
しかし、結果は大変な不道徳なことだった。』
 

 『自分の意志以外のところで、自分が不道徳な事をしている。
 
この恐ろしさ、惨めさ・・・』
 

 断酒会の例会は、こんなことを話し合う、心の棚おろしの場所だ。
 

 そこには、普通の場所で普通の人に、話すことのできない、みじめな、悲しい体験を、自分のことのように、涙を流し、感動して聞いてくれる断酒の友がいる。
 
これこそ、真の親友でなくして何であろう。
 
真の友とは、互いに相手を理解し、向上し会うものでなくてはいけない。
 

 思えば親友とは何だったんだろう。
 
それは『首吊りの足を、お互い引っ張り合っていた仲間』に過ぎなかったのではなかったか。



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<サンシュユ>
新しき断友(とも)が入れば声かけて 断酒めざして共に通えり  



79.酒害者は止めねばならないと思いながら
 
  のんでいる 





 父はウィスキーびんを自分の前に立てて、水のようにそれを飲んでいた。
 
私とは母、なく涙もかれて、黙って父の姿を見ていた。
 

 私は衝動的に父の前からウィスキーを取り上げコップにそそいだ。
 
1センチぐらいの高さの琥珀色の液体がコップの中でゆれた。
 

 私はしばらくこの揺れる液体を眺めていた。
 
私の心の鳴咽に合わせたようにウィスキーはゆれ動いた。
 
私は思わずその液体を一気に飲んだ。
 

 やけるような感じが咽喉に走り、しばらくして胃の中に満ち満ちた。
 

 父は黙って私を見ていた。
 
数秒もしないうちに、私は胃がひっくり返るような衝撃を感じ、台所へ走って、吐いた。
 
再び父の前に座った私はもう一度ウィスキーのびんを手にした。
 

 突然、父の手が伸びてきて、私の手からウィスキーびんを奪った。
 
そして怒ったように言った。
 
『飲むんでない!身体に悪いよ!』その時、父の眼に光るものを見た。



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<シキミ>
例会を離れし断友(友)誘わんと 「さざ波」持ちて行くを見送る  



80.酒害をうらんではいけない、酒をやめてさえいれば、
 
  酒害に感謝する日がきっとくる 





 「今では、酒害にかかったことを有難いことだと思い感謝しております」と体験発表する人がたくさんおります。
 
そんな人はみんな断酒暦の長い人達です。
 

 断酒しなければならないことをイマイマしく思っている新入会員にとってはなんとも嫌味な、キザな言葉ではある。
 
しかし、これは真実であり、真に素直な謙虚な言葉なのです。
 

 「酒害に感謝します」といった断酒暦の長い会員だって、実は入会当時は『うまいこというな。キザな奴だ・・』などと思ったに違いないのです。
 

 それが何年か断酒しているうちに、その人の精神革命がなされ、断酒の中に生き甲斐が見付かるのです。
 

 断酒道とはこんなものであり、ここに断酒道のすばらしさ、不思議さの秘密があると思うのです。



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<シクラメン>
いくたびも断友(とも)を訪ねて誘いぬも 帰りし君に落胆の色    



81.体験発表を聞いて泣く人はあっても
 
  笑う人はいない 





 「断酒の先生は先輩ではない。
 
新入会員こそ真の先生である』という言葉がある。
 
これは断酒会の先輩諸侯に「先生顔をしてはいけない、謙虚になりなさい」と諭している言葉でもあるが、また、「新入会員の話しを聞いてあげなさい。そこには多くの教訓があり、断酒の指針が含まれていますよ」と教えてくれている言葉でもある。
 

 だから、「断酒会とは体験発表に始まり、体験発表に終わる」という言葉も生まれてくるし、例会はもちろんのこと、大会に、研修に、はては酒害講演会などにも、体験発表は必要にして欠くことのできない、中心的なものとして存在価値を認めねばならないのである。
 

 どんなすばらしいスライドや映画よりも、一人の酒害者のトツトツとした体験発表のほうが、はるかに私たちの心を動かしてくれるのである。
 
そこには、嘘もなく、ハッタリもなく、説教もない、その人の慟哭にも似た反省だけがあるからである。
 
だから、普通の会合なら、多くの聴衆の大笑い、失笑が当然起こるような話であっても、笑い声一つ聞こえず、静かにうなずきながらハンカチを目に当てる姿が見られるのである。



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<しだれ桜>
再びを立ち上がられし断友(とも)の顔 笑い戻れば我もつられし  



82.三ヶ月であってもやめてさえいれば褒められる、しかし
 
  たとえ十年やめていてものんでしまえば軽蔑される 





 人生のどん底ともいえる酒害地獄から立ち直った人は、その谷底が深ければ深いほど、高い人格者に変容する。
 
多くの人がなしえない「断酒」という人生の難事業を継続しているから、その人格が光り輝くのであるが、その人が酒を飲んでいるらしいと噂されるようになっただけで、アッという間に軽蔑の目で見られるようになる。
 

 だから、この難事業に挑戦し、頑張っているときはたとえそれが三ヶ月でも「偉いわねえ」と褒められるし、三ヶ月やめて死んだ人は永遠に断酒家として語り伝えられるが、十年やめてても飲んで死んだ人は単なる酒害者でしかなくなってしまう。
 

 要するに、断酒とは死ぬまで継続することに価値があるのであって、途中で飲んでしまえば一文の価値もないということである。



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<シデコブシ>
三十年意見され来し君が今 断酒すすめる電話掛けおり  



83.単身者だから孤独なのではない、酒害にかかれば
 
  誰だって孤独になってしまうのだ 





 「単身者は孤独だ、それゆえに酒害から立ち直りがたい」と言われる。
 

 しかし、単身者だから孤独なのだろうか。
 
妻や子供に背を向けられながら暮らしている酒害者は、家族がいるというだけで孤独でないと言えるだろうか。
 

 考えてみるがいい。
 
「単身者」と言われる酒害者の大半は、過去に妻をめとり、子供をもうけていた人である。
 
それが、妻や子供に見限られ、一家離散という結果になったのではなかろうか。
 
また、未だ結婚していない人は、やはり、酒ゆえに結婚運が遠のいていったのではなかろうか。
 
とすれば、孤独の原因は単身だからではなく、酒害であることが判然とする筈である。
 
だから単身者であっても、毎日楽しく、生活している人がいるのは当然であって、その人が特に人間的に優れているわけではない。
 
ただ自分の酒害に気がついて酒を断っているに過ぎないのである。
 

 即ち、断酒家には孤独はないということである。



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<シナレンギョウ>
新しき年に断酒を誓い合い 帰れば断友(とも)等の賀状の山  



84.断酒は明日からでは遅すぎる、
 
  止めるのは今からだ 





「明日からやめるから今日一杯飲ましてくれ・・・」と家族に哀訴して一合の酒をもらい、ふるえる唇を机上のコップに近づけて飲んだ経験はないだろうか。
 
確かに、その時は「明日からやめよう」と思ったに違いない。
 
止めねば駄目になることは、頭の中では十分わかっているのだが、あの禁断の苦しみはこのことを怒涛のように押し流して「飲ましてくれ」となったのではなかろうか。
 
そして、次の日はどうだったのか。同じことの繰り返しではなかったか。
 

 所詮、アルコールは麻酔剤。
 
今日飲めば、明日それより少なくていいということはない。
 
明日は今日以上欲しくなるのが麻酔剤の特徴。
 

 だから、「止めるのは明日から」というせりふは確かにその時点では真実の叫びだが、結局は守れない願いで終わってしまう。
 

「明日から止めること」は「今日止めること」以上に難しいことなのです。
 

「明日から止める」と考えずに「ようし、我慢するのは今だ!
 
確かに死ぬほど苦しいが、酒を飲んで死んだ奴はいるが、酒を我慢して死んだ奴はいない。
 
頑張るのは今をおいて他にあるか」と考えようではないか。



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<シバザクラ>
うす暗き車中に地図を広げ見る 二人で探す今日の例会場    



85.今日のめば明日はもっと苦しくなる、
 
  今日我慢すれば明日はきっと楽になる 





 習い事、減食、禁煙・・・など、三日もたてばやめてしまうことを「三日坊主」という。
 
断酒も亦然り、「今度こそは絶対やめる」と誓ったのに、三日目あたりで酒に手を出してしまった経験は、呑ン平ならほとんどの人が持っているであろう。
 
これは、アルコール依存症にかかってしまうと、その酒を断てば離脱症状が三日目あたりに出てくることでうなずける。
 

 二日酔い(急性アル中)なら酒の匂いを嗅いでも吐き気がするのだが、これがアルコール依存症(慢性アル中)になると、この「迎え酒」が最高に美味しくて、しかも離脱症状を取ってくれるのだから真に都合が良い。
 
その誘惑の強烈さは経験したものでなければわからないであろう。
 

 しかし、この美酒は一時しのぎの毒薬であって、酔いがさめれば前よりも激しい離脱症状が襲ってくるのが理の当然。
 
だから、苦しいけれど、どこかでこの離脱症状の壁を突き破らなければ断酒はできないことになる。
 

 有難いことに、酒さえ飲まなければ、離脱症状は何日かすれば完全に治ってしまうのだから、今日、我慢することがもっとも大切な断酒の入り口なのである。



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<ジャーマンアイリス>
二人して例会場を尋ね行く 外は雪降る二月の夕暮    



86.酒害者だからこそ断酒できるのだ 





 断酒会に入会しても、なかなか酒をやめられないで、本人も家族も苦しんでいる人がいる。
 
こんな会員を見て、あるベテラン断酒会員が「飲み足りないのだろう、もっと飲ましてやりなさい・・」と言った。
 

 一見さじを投げたように見えるこの言葉だが、実は非常に深い意味を持った言葉なのである。
 
そもそも、断酒というものは、自ら酒害者と認識した時に、自らの意志で酒を経とうとする行動なのだから、「酒害の認識のないところに断酒はない」訳である。
 

「もっと飲ましてやりなさい・・」というのは、その会員が自らの「どん底」を見付けて、酒害の認識を得て欲しいという、先輩としての願いから出た言葉なのである。
 

 酒をやめられない人を酒害者というのであれば「酒害者だからこそ断酒できるのだ」という言葉は矛盾のはなはだしい逆説ではあるが、「酒害の認識は酒害者でなければ得られぬ」という事実が、この言葉の真実を裏付けてけれるのである。



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<シャクヤク>
雨降るも風吹く中も飲みし君 風雨を突きて例会へ行く  



87.酒害の恐ろしさは酒害者にならなければ
 
  わからない 





酒を飲んだことのある全ての人は、酒害者になるのではないだろうかと、ビクビクしながら飲んだなどという人はいない。
 
 そして腕が上がってきた時「酒に強くなった」と自慢はしても「アルコール耐性がついてきた。酒害にかかったのだろうか」などと心配する人など殆どいない。
 

 そして、更に益々強くなって、酒量が増え、あちこちに迷惑をかけるようになり、誰の目にも酒害者になったとわかる頃は、今度は、酒害者特有の拒絶心が強くなって、自分の酒害を認識しようとしなくなる。
 

 酒が飲めなくなったり、食べ物を吐くようになったり、妻子に逃げられてやっと気が付くのが普通である。
 

 病気の治療は「早期発見」が大切だと言われる。
 
しかし、こと酒害に関してだけは、この「早期発見」がなかなか難しく、精神的にも、肉体的にも、社会的にも問題が多発してきてやっと発見されるという難しい病気ではある。
 
まことに恐ろしい事であると言わねばなるまい。



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<シャクヤク>
台風より怖しと言わるる酒断つに 例会行きに中止の電話鳴る  



88.断酒例会は宝の山、しかし通い続けなければ
 
  その宝は見つからない 





 断酒例会とは、会員同士の体験談以外何もない。
 
そして体験談とは自分の「心の棚おろし」をすること意外何もない。
 

 だから、体験談というのは、もともとは他人に聞かせるのではなく、自分がもう一人の自分に語りかけるものなのです。
 
即ち、酒害者の自分が酒害者の自分に、これからの自分について語ったりすることなのです。
 
それを聞いている人も、その体験談に感動し、共感し、おのおのが自分の「心の棚おろし」をするのが断酒例会なのです。
 

 しかし、例会に参加しても、最初のうちはなかなか自分のことを素直に言うことができず、まして他人の話を素直に聞くことなど至難の技なのですが、回を重ねる毎に、自分の過去の罪がよく見えるようになってきますし、素直な気持ちで他人の体験談を聞くことができるようになります。
 
そうなると、他の人の話の中にキラリと光るものが見えてきます。
 
これが例会で捜し求める宝石なのです。



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<シュウメイギク>
今日も又「己の行」と言い聞かせ 遠き他支部へ車走らす  



89.反省はしても後悔はするな、しかし
 
  実行なき反省なら後悔にしかすぎない 





「今度こそ止めようと思ったのに、気が付いたら、また病院のベッドの中。
 
思えば、あの時あいつに会わなければ・・・」と、頭を抱えて悔やんでみても後の祭り。
 
考えれば考えるほど、あの時あいつにあった不運が恨めしい。
 
そしてあいつの強引な誘惑がなかったら・・・云々。
 

 失敗を後悔することは誰でもできる。
 
それは過去を振り返っていればいいからだ。
 

 これでは、他を責めるか、自分を責めるかだけで、何の発展もない。
 

 昨日の失敗はもう去った。
 
これからどうすればよいのかと考えよう。
 

 反省とは二度と失敗を繰り返さないための対策を立てることである。
 
即ち将来への展望なのである。
 

しかしどんな立派な反省をしても、それを実行しないのであれば、何の意味もないし反省したとは言えないのである。



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<シュウメイギク>
いくつもの「酒」の看板くぐり抜け断友(とも)待つ支部へ心急がす  



90.断酒して初めて見えるひとの道
 
  (例会とは人生を学ぶところ) 





 飲んで飲んで、仕事も駄目になり、家族もあきれ果てて逃げてしまった。
 
たった一人何時までもがんばってくれた母親も、心配しながら死んでしまった。
 
こともあろうに、この親不孝なアル中息子、母親の葬式にも出席せず飲んで歩き、夜中に酔っ払って帰ってきて、忠告をする親戚に反抗して、仏壇を壊すなど大暴れ・・・。
 
このアル中男が、どんな風の吹き回しか断酒会を訪ねてきたのが今から六年前。
 

 無口で不気味な感じのこの人が、毎日毎日断酒しているうちに、明るく素直な人柄と変わってゆく過程は目を見張らせるものがあった。
 

 多くの会員も彼の人柄にすっかり惚れ込んで、彼の子供を彼に合わせる運動を始め、遂には奥さんの復縁まで成功させてしまったのである。
 

 今、ある会の役員として、酒に苦しむひとため活動している彼がポツリと言った、「がむしゃらに例会に通ってごらん。そのうちに人の道が見えてきますよ」と。

 


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<シュウメイギクj>
山中の闇の坂道突き進む 信楽に向いて断酒に向かいて  



91.豊かだから与えるのではない、
 
  与えるから豊かになるのだ 





「自分の頭のハエも追えないのに、他人様のハエなんか追えるもんですか」と、酒害相談をすることを嫌がる会員もいるものです。
 

 何年か断酒して、それからやおら酒害相談でもやろうなどということは本当は至難の業であって、大方は途中で挫折してしまうのがオチなのです。
 

 酒害相談とは、酒で困っている人、またはその家族の一段高いところからお説教をしたり、ああしなさい、こうしなさいと支持を与えることではないのです。
 
その人達の話を同じ平面に立って聞いてあげ「私はこうでした」と自分の体験を話すだけでよい。
 

 問題は、来談者の苦しみをわが苦しみとして感じられるかどうかであって、何年断酒しているかどうかではないのです。
 
お互いに裸になって泣きながら自分の体験をかたり、泣きながらそれを聴くとき、お互いに心が豊かになり、お互いに断酒をしようという気持ちになれるのです。
 

 心の財宝は分け与えれば与えるほど増えてゆくものなのです。



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<シラン>
遠き道ようやく着きし会場に無邪気な「みほちゃん」に心和みぬ  



92.断酒とは口や頭でするものではなく、
 
  足でするものである 





 北海道断酒連合会では数年前から「行動する断酒」ということを重点目標として活動してきました。
 
すべての物がそうであるように、断酒というものも「実践すること」が何よりも重要であることは言を待ちません。
 

 口先だけで「断酒します」といって、いつの間にか酒魔のとりこになっている人。
 
アルコール依存症に関する本を次から次と読破し、医者に負けないくらい知識を持ちながら、なかなか酒をやめられない人・・・。
 
これらの人々には実践の伴わない単なる「断酒願望」と「断酒理論」しかないから、なかなか酒の魔力を断ち切れないのではないかと思います。
 

「断酒は回っている独楽のようなもの」とか「断酒は水の流れに似ている。
 
流れる水は苔むさず、よどんだ水は腐っている」とかいろいろ言われるように「断酒のコツは例会を休まないこと、多くの断酒の友を作ること、多くの事業(大会、研修会、講演会など)に参加すること」と断酒に成功している人たちは異口同音に言います。
 

 ダンスと断酒は足でするものだということを駄洒落でなく本気で考えることです。



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<シロバナジンチョウゲ>
暮れなずむ琵琶湖に立ちし白髭の 鳥居に無事故祈りつつ走る  



93.断酒の危機五態 我慢の断酒 





 昔から「三日坊主」という言葉があります。
 
三日目頃から決心が崩れる様子を言ったものですが、断酒も正に「三日断酒」が非常に多いのです。
 
壁に「断酒」と張り紙をして頑張ってた人も、四日目にはその張り紙をこっそり外したなんていう話はざらです。
 

 連続飲酒していたひとが断酒して48時間後(三日目)から禁断症状が現れ、飲酒欲求が急激に高まることは医学的に説明されています。
 
だから、この「三日断酒」も病気の一種だと理解はできます。
 
だからといって、病気だから三日目頃から飲みだすのは仕方がないことだといっていたのでは、何時までたっても断酒はできないことになります。
 

 最近はこの禁断症状を追える薬も開発されてきているから、この第一の危機を乗り越えることも容易となりました。
 
しかも、病院に入院した人は、物理的にも酒が手に入らないのだからこの点も心配はありません。
 

 いずれにしても、どんな重症なアルコール依存症の人でも一日だけなら飲酒を我慢できるし、昨日の我慢よりは次の日の我慢のほうが楽になることも事実です。
 

 だから、私達は「明日は飲むかもしれないが、今日一日断酒しよう」というのを断酒の大基本にしている訳です。
 
次の日も又「明日のことはわからないが、とにかく今日一日だけ断酒」ということを続けていけば必ず「生涯断酒」は成功することになるのです。
 

 しかし人間の我慢ほど当てにならないものはありません。
 
一週間も一ヶ月も一年も我慢を続けなさいということは、どだい無理な話であることも事実。
 
いつか爆発することは必定です。
 

 とするならば我慢をしないで断酒する方法はないものか・・?
 
あるのです。
 
断酒会に入会し、例会に通うことです。
 

 アルコールによって歪んだ心は非常に自分に甘くなっていますから、我慢するなどという高度の心の働きを持続することは大変なことなのです。
 
それが、同じ悩み持つ人たちが集まって、体験を話し合っていると、不思議なことに、酒を飲みたいという気持ちが消えてしまい、我慢する必要がなくなり、すがすがしい気持ちになってしまうのです。
 

 ここに、断酒会に入らないで、ひとり肩を怒らして頑張っているひととの大きな差があるわけです。



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<シロヤマブキ>
新しき断友(とも)を誘いて例会へ 断酒の道を共に歩かん  



94.断酒の危機五態 不安の断酒 





 だれだってこれから初めて断酒しようとする時、「自分にできるかしら」という不安が心のどこかにあることは事実でしょう。
 

 確かに、AさんもBさんもこの間退院したばかりなのにもう再入院してしまったし、MさんもNさんも、すでに入退院を5回も6回も繰り返しています。
 
「自分もそうなるのではないだろうか」と考え込んでしまうのは無理もないことなのです。
 

 しかし、断酒会に参加して御覧なさい。
 
みんなニコニコとして断酒生活を楽しみ「もう1年になりました」「皆様のおかげで3年経ちました、ありがとうございます」という言葉を聞き、その姿を見たら「オレでもやれそうだな」と思うに違いありません。
 

 そうなのです。
 
アルコール依存症とは「酒をやめられない病気」なのだから、酒を飲んで入退院を繰り返している人がいても不思議なことではなく、むしろ当たり前のことかもしれません。
 
しかし、前項で述べたように「一日断酒」をすることはできる訳ですし、それを一年も二年も繰り返し続けている人もたくさんいるのです。
 

 即ちアルコール依存症患者は、誰でも失敗の危機があると同時に、誰でも成功の可能性も持っている訳です。
 

 入退院を繰り返している仲間を見ると不安になりますが、断酒会で成功している人たちと友達になると自信が湧いてきます。
 

 とにかく、断酒会の例会に通うことが大切だということがおわかりになったと思います。



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<ジンチョウゲ>
例会を終わりて出れば街角の 「酒」の看板無情に明かし  



95.断酒の危機五態 自慢の断酒 





 断酒して一ヶ月、三ヶ月、六ヶ月と過ぎてゆくと、自分の努力、成功を誰かに自慢したくなる時期が来るものです。
 

 しかし、客観的に考えると、人格が低下し、社会の底辺をうごめいていた酒害者がやっと数ヶ月止めたからといって、社会的には当たり前のこと(或いはまだそれ以下かも知れません)をしているだけであって、本人の、石にかじりついて頑張っているという姿は、社会一般の人には見えないのが普通なのです。
 

 ですから「オレがこんなに苦労しているのに・・・」といって奥さんや、同僚にあたりちらすようなことはやめましょう。
 
「なにさ、やっと当たり前のことができるようになったくせに・・・」という言葉が帰ってくるのがオチです。
 
そして、それが酒に走る原因となることがありますから、くれぐれもご注意ください。
 

 その点、断友はしらずしらずのうちにこの事の重大さを認識しているので「三週間も経ちましたか、よく頑張れましたね、よかったですねえ」とか「もう六ヵ月ですか、これはあなたにとって世界新記録ですね。
 
よかったですね」とその努力を認めてくれます。
 
これが、「よし、又、明日から一日断酒で頑張るぞ」という気持ちを引き出してくれる訳です。
 

 断友はありがたいものですね。



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<スイセン>
例会の余韻抱きて語るうち 帰りの車中ミニ例会となる  



96.断酒の危機五態 不満の断酒 





 断酒が、一年二年と経ってくると、「一に断酒、二も断酒、三、四はなくても五に断酒」という猪突猛進型の時代は去って、周りが見えてくるようになります。
 

 このような時期になると、断友の言動に批判的になったり、失敗者に対し強い批判、攻撃をしたり、断酒会の幹部の考え方に反対したり、遂には断酒会そのものに批判的になり、会を去っていく人がいるものです。
 

 私たちは会を去ったら終わりです。
 
「独り断酒」が如何に難しいかを一番知っているのが断酒会の会員である筈なのに会を去っていくとは・・・。



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<スイセンアヤメ>
黒々と琵琶のさざ波照らしおり 月も冴やけし例会の帰途  



97.断酒の危機五態 傲慢の断酒 





 会を去っていくもう一つの原因として、傲慢の心理があります。
 

 全国の断酒会の共通の悩みとして、五年前後の会員が非常に少ないことが、全断連の統計で判明しております。
 

 ちょうどこの頃になりますと、「別に断酒会が直接的に自分の断酒を支えてくれているとは思えない。
 
断酒継続しているのは自分の意志の力であって、毎回例会に出席する必要はないのではないか」
 

「断酒会に卒業があっていいのではないか、自分ひとりで十分断酒していく自信がある」
 

「会は去らない。会費だけは払うから例会参加は勘弁してください」とかいろいろな理由をつけて会を去っていく人が多くなるのです。
 

 又、「あの人の断酒はオレが引き受けた。私が必ず立ちなおさせて見せます」などと言って親切の押し売りをするのもこの頃です。
 

「酒害者を治してやるなどという人がいたら、それはその酒害者よりももっと重症の精神病患者である」といわれているように、医者も、家族も、断酒会だって酒を止めさせることは出来ないのです。
 
酒をやめさせることができるのは唯ひとり、それは酒害者自信であることをしっかり認識して、いやしくも断酒家たる者は間違っても「オレがあの人の酒を止めさせた」などと言ってはいけないのです。
 

 そして、真の断酒家たるものは、断酒継続が三年、五年と進むにつれて、益々謙虚になり、自分が酒を止めていられるのは断友、即ち酒害者によって支えられているのだという感謝の心を忘れずに、ご恩返しさせていただく、即ち、自分も他の酒害者を支えてあげなければならない使命感を持たねばならないのです。
 
そのためには、断酒会を辞めることなく、何も語ることなくても結構、にこにこと笑いながら例会に参加していることこそ断酒道の極意かもしれません。



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<ストック>
「例会を怠るなかれ」と主治医の教え 素直に受けて今も行う  



98.断酒したからといって酒の魔力がなくなるのではない、酒の
 
  魔力は他からくるのではなく、自分の心の中にあるものだ 





 人間の本性は善なのか、悪なのかという議論がある。
 
いわゆる性善説と性悪説である。
 

 人間の赤ん坊は純真無垢であり、成長するにつれて悪行を覚えていくのだとするのが孟子の唱えた性善説。
 
これに対して荀子は人間の本性は利己的である、赤子は平気で他人に迷惑をかけるではないか。
 
それが親や社会の教育によって善行を習うものだ。
 
としたのが性悪説である。
 

 どちらの説をとろうと、それはその人の考え方次第だが、いずれにしても私たちに心の中には善と悪の心が渦巻いていることだけは確かであり、酒を止めようか・・・、こっそり一杯やろうか・・・と常に葛藤があることはまぎれもない事実である。
 

 だから、酒の魔力というのは、他から襲いかかってくるものではなく、実は自分の心の働きであることを銘記しなくてはならないのです。



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<スノーフレイク>
言い訳も理屈も言わず黙々と 通い続けて十二年来たり  



99.例会で得た宝物は消失もしないし盗まれもしない、
 
  それどころか他人に与えれば与えるほど増えていく 





 断酒例会の中には多くの宝が隠れている。
 
入会当時はその宝物を見つけることができない人が多いが、何回も通っているうちに、キラリ、キラリと光り輝く宝物が見えてくるから不思議だ。
 

 それは、ぐさりと胸に突き刺さったり、感動のあまり涙がポロリと頬を伝ったりしたときに断酒の宝物として深く心に刻まれる。
 

 この宝物は断酒が続いている限り消えることはないし、誰かに盗まれるということもない。
 

 それどころか、その感動、共感の心を素直にわが体験に重ねて語るとき、それを聞く断友が、その話の中にもう一つの宝物を見つけるかもしれない。
 
そして、その宝物は益々自分の心の中に刻み込まれて、強く光り輝く宝となって断酒継続の糧になってゆくのである。



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<スモモ>
己が足使いて通う例会に 何かが判り君は変わりぬ  



100.愛を求めているうちは酒はとめられない、
 
  愛することに目覚めれば酒は止められる 





 家族に対してなんだかんだと文句を言いながら、等のご本人は動こうとせずに酒を飲んでいる。
 
酒害者はみんなこのような歪んだ性格なってしまう。
 
自己中心で依存心が強く、他人のことなど考えられないようだ。
 

 このような子供の心しか持っていないような酒害者でも、フト「家族にすまない」とか「世話してくれる人にすまない」とか言って飄然と断酒の決意をする人がいる。
 

 この「自分を愛するごとく他人を愛する心」を他者愛といっていわゆる大人の心である。
 

 しかし、この大人の心が育ったからといっても生涯断酒をするにはまだ弱い。
 

 断酒道の極意は他の酒害者に尽くすことであり、これを親の心という。
 
即ち、わが身に多少の犠牲はあるが、それをいとわず「東に酒で苦しんでいる人があらば手を差しのべ、西に主人の酒で苦しむ家族あらば、飛んでいって励ます」・・・。
 
こうなれば生涯断酒が完遂できるのではなかろうか。
 

「断酒道とは尽くすことと見付けたり」



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<セイタカアワダチソウ>
断酒して小さき幸せ戻り来ぬ 喜び分けたき我が高島に  



101.酒害者だと言われたくなかったら、自ら酒害者だと
 
   唱えるに限る





 アル中(アルコール依存症)になると、自分がアル中だと認識する力がなくなり、他人からアル中だと言われると腹を立てるようになる。
 

 だから、アル中の治療の第一歩は、患者自身がアル中だと認めてもらうことから始める訳で、この病識が得られれば、50%治療が進んだと言われている。
 

 しかし、後50%は、患者自らが自分の治療者にならない限り治療は成功しない。
 
アル中になったものは、たとえ99%の認識を持ったとしても、僅か1%の理屈が立てば酒にてを出すものだということを忘れてはならない。
 




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<セイヨウアブラナ>
君のよに酒に苦しむ人あまた 高島の地に支部の待たるる  



102.一年断酒を誇ってはいけない、今日一日断酒
 
   させてもらったことに感謝しよう   





 何年か断酒していると、アル中が治ったのではないか、自分がこうやって断酒しているのは、本当はアル中ではなかったのではなかろうか、などと考えるようになるものです。
 
だから、私達は「断酒の誓い」の第一条、「私達は酒の魔力に捉えられ、自分の力ではどうしても立ち直ることができなかったことを認めます」と唱え続けなければならないのです。
 

 断酒はよく登山に譬えられる。
 
それは登山の途中における苦しみを乗り越えて頂上に向かう努力の姿が似ているからであろう。
 

 しかし、登山には必ず目標とする頂上があるが、断酒にはそれがない。
 
あるとすれば、それは自らの天命を全うしたときであろう。
 

 とすれば後何年断酒すればいいとか、何年断酒したからもう成功だということがない。
 

 一年断酒したからといって胸を張って例会で話してた人が数日後に入院し、アッという間に死んでしまった例は数知れない。
 

 確かに、一年断酒したということは、誇りに足りる難事業だったかもしれない。
 
しかし、明日飲むかどうかわからない私たちにとって、一年間断酒したことは必ずしも勲章にはならないという謙虚さが大切である。
 

 今日一日断酒した。
 
いや、断酒させてもらったという周りの人々への感謝の心こそ、真の勲章であり、宝なのである。



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<セイヨウカナメモチ>
二年の余 君が願いし高島に同友会の灯り点りてうれし  



103.酒を止められないのが酒害というより、
 
   酒を止めざるを得ない状態を酒害というべきだ 





 アル中(アルコール依存症)とは酒に対して精神的、身体的に依存状態になったことをさす病気であり、身体にアルコールが入ってないと不安状態となり、著しく生活無能状態となる病気なのである。
 
だから、一口で言うと「アル中とは酒を止められない状態」と言うことになる。
 

 一方、アル中を治す方法は唯一である。
 
それは酒を止めることである。
 
酒を止められないアル中が、酒を止めるという治療状態に入るということは正に大矛盾であって困難極まりないことである。
 

 しかし、治療に成功し、止めている人がいるから不思議である。
 

 彼らはアル中を酒を止められない状態と考えずに、「アル中とは酒を止めざるを得ない状態」のことだと考えたから止められたのである。



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<ゲンゲ>
花紺の旗に染め抜く「高島」の文字に断酒の願いを込めぬ  



104.恥ずべきは酒害のため歪んだ生活をしてきた
 
   こと、更に恥ずべきはそれより立ち直ろうとしないこと  





 私達は酒害のため、心も歪み、生活も歪んで、周囲の人々をその渦中に巻き込み、多大の迷惑をかけてまいりました。
 
それなのに、それには気付かず酒に明け暮れていました。
 

 いや、心の片隅では気付いていたのです。
 
恥かしいことだと思っていたのです。
 
それなのに止められなかったのです。
 
いや、ひょっとしたら、その恥かしさを消すために飲んでいたのかもしれません。
 
(恥の上塗りになることなど考えもしないで・・・)
 

 しかし、幸いにも断酒会を知り、入会しました。
 
そして立ち直ることの素晴らしさを教えていただきました。
 

 私達は、この昔の歪んだ生活を常に反省し、この恥かしさを繰り返し、繰り返し思い起こしていなければいけないと思います。
 
これが初心に帰るということであり、断酒継続の糧だと思うのです。



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<ハナミズキ>
真新し支部旗揚がれば両肩に重き荷のり支部は生まるる  



105.何度も失敗したからといって卑屈になることはない、
 
   断酒に成功した暁には今までの失敗は失敗でなくなり、
 
   それは成功への大切な道程であったことがわかるものだ  





 若い断酒会員を見て「私も、もう十年早く気がついて、断酒に踏み切っていたら、こんなにもならないですんだものを・・・」と五十を過ぎた会員がぼやいている姿をよく見かけます。
 

 確かに二十代、三十代で断酒に成功した人の前途は洋々たるものがあるに違いありません。
 
しかし、その人の断酒家としての精進は長く険しく、人格向上の努力を続けなければならないこと必定であります。
 

 それに比べて、五十代になるまで、泥沼を這いまわった末に、やっと断酒開眼した人には、若い断酒家に見ることができない、いぶし銀のような何物かがにじみ出ているものです。
 
それは己の悪業に対する深い反省から出てくるものであり、昔から「悪に強いものは善にも強い」と言われているのは、この辺の真理を説いているのではないでしょうか。



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<バビアナ>
それぞれの一週間を切り抜けて 無事に迎える高島例会  



106.酒を忘れるのはいいが、酒ゆえの悪業を
 
   忘れてはいけない  





「今、酒は飲みたいと思いません」と入会したばかりの会員のほとんどの人が言います。
 
それなのに、その半数以上の人がいつの間にか酒に手を出して元の木阿弥になってしまうのは何故なのだろうか。
 

 確かに断酒を決意した当初は「飲みたいとは思わない」と言うのは決してうそではなく真実のようである。
 
しかし、「飲みたいとは思わない」のは「飲んだら大変なことになる」と言う心がブレーキになって、そう思っているに過ぎないのではないだろうか。
 
即ち、自分の酒ゆえの悪業の記憶がまだ生々しいので、恐ろしくて「飲めない気持ち」であるということなのである。
 

 それが月の経過とともに、いつの間にか酒ゆえの悪業をだんだんと忘れたり、屁理屈をつけて自ら赦したりするものだから、「飲んだら大変」という気持ちが薄れて、酒に手を出してしまうのである。
 

 だから、飲みたいと思わなくするためには「飲んだら大変」というあの初心を常にかき立てていかねばならないのである。
 
そのためには常に例会に出席し、体験談をかたり、そして聞くこと以外に方法はないのである。



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<ハボタン>
少しずつ他支部の応援頂きて 高島例会活気付きたり  



107.もう三年もやめたのではない、
 
   まだ三年しかやめていないのだ  





 全国の各断酒会の共通の悩みの一つに三年ないし五年断酒している、いわゆる中堅会員が少ないという事実がある。
 

 これは、断酒三年、そろそろ傲慢の心が沸いてきて、独りでも断酒できるのではないかと考えるようになり、会を去ってゆくからではあるまいか。
 

 そもそも、アルコール依存症の治療法は唯一「断酒」以外にないことは言を待たない。
 
しかも「断酒」は独りではきわめて難しいことも明白である。
 
「三年断酒」は断酒会の会員相互の心の支えによって継続されてきたものであって己ひとりで成し遂げたものではない筈。
 
さらにもう一つ。
 
この治療は死ぬまで続けなければ何の意味もないことも、私たち断酒会員は痛いほど体験し知っている筈。
 

 とするならば「断酒三年」なんて、ほんの「ハナたれ小僧」に過ぎないという謙虚な心を持っていなければ到底「生涯断酒」はなしえぬ業と知るべきであろう。
 
私たちは「もう何年」と考えるのではなく、常に「まだ何年」と考えなければならないのである。



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<ハマナス>
お互いに初顔なれど通い合う 同じ地域の同じ病に  



108.アルコール依存症者を酒害者というけれど、
 
   真の酒害者は妻や子だ 





 自分は酒の害を受けた人間である。
 
確かに飲みすぎたことは事実であり、そのために酒害を受けた被害者である・・・などと思っているうちはなかなか酒は止められないようである。
 

 この考えが高じていくと、自分が酒を飲まざるを得なくなった張本人は、妻であり、職場の上司であり、同僚のあいつであるという外罰的な考えになって自分の酒がどのように周囲の者に、特に家族、妻や子供に迷惑をかけてきたのか見えなくなるようである。
 

 それが、断酒会に入ったり、病院に入院したりして断酒を何ヶ月か続けていくと、この被害者意識がだんだん消えていって、実は自分は酒を飲んで周囲に迷惑をかけてきた、いわゆる加害者であったことに気付くのである。
 

 特に、妻や子に対して、夫らしいことをせず、父らしいことを何ひとつしてこなかった、即ち、妻や子が本当の意味で自分の酒の害を真っ向から受けていたのだと気付いた時こそ断酒開眼の第一歩かもしれない。



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<バラ>
1回の休会もなく迎えたり 今日はめでたき五百回例会  



109.断酒することは自らの運命を
 
   開拓することである 





 人間の運命は定まっているのであろうか。
 
昔から、運命論とか宿命論とかいって、それぞれの人の将来は何らかの力の支配下にあって、人間の努力ではどうにもならないものだとする考え方を説いていた人々はいた。
 

 確かに血のにじむような努力を重ねても思うようにならず、「定めとあきらめて」心の安定を得る方法はない訳ではない。
 

 しかし、これは私たち断酒を志すものの拠るべき理論ではなさそうだ。
 
そもそも「あきらめる」ということは努力を放棄することなのだから、私たちにとって「あきらめる」ということは「死」を意味することなのである。
 

 酒の魔力に負けて、何度も失敗してきた私たちではあるが、深い自己反省から得た結論は、「まだ決意と努力が足りなかったのだ、もう一度やり直してみよう」ということではなかったか。
 
何度も、何度も生涯断酒に挑戦する不屈の心が見事人格の変革を成し遂げ、いつしか周りの人々の好感を呼んで、今までより数段も明るく楽しい人生を送れるようになった断酒家が多数いることを知るべきである。



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<パンジー>
赤飯で断友(とも)等と祝う五百回 発足の日思い出さるる  



110.断酒は何かを求める手段ではなく、断酒すること
 
   自体が目的でなければならない 





「これ以上飲んでいると会社をクビになるので・・」
 
「家内が子供をつれて出て行ってしまったので・・」
 
「身体が悪くなってしまったので・・・」という理由で断酒会に入会してくる人がいるものです。
 

断酒の動機としてごくありふれたもので、決して悪いというつもりはありませんが、これらのことが目的であって、断酒がこの目的を達成するための手段であったらどうなるのでしょうか。
 

「会社をクビにならなかったら」あるいはその反対に「クビになってしまったら」断酒する必要はなくなるのではないでしょうか。
 

「奥さんが帰ってきたら」又「健康になったら」酒を飲んでもいいという理屈になりはしなしでしょうか。
 

「断酒する」ということは、そのこと自体が目的なのであって、「会社をクビにならなかった」「家内が帰ってきた」「健康になった」などはその結果から生じた副産物なのです。



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<ヒアシンス>
この電話 最後と知らずに切り終えば四時間あとに訃報届きぬ  



111.アルコール依存症になると酒を飲む理由は簡単に
 
  見つけるが、酒をやめる理由は自分では見つけられなくなる 





 誰だって酒を飲むときに、アルコール依存症になるかもしれないと思いながら飲む人はいない。
 
だから安心して飲んでいるうちにいつしか酒の虜になって酒を追いかけるようになる。
 

 こうなると酒を飲む理由は簡単に見つけられるようになるものだ。
 
曰く上役に誘われた、仕事に疲れた・・云々と、数え上げたらきりがない。
 
そして遂には「飲みたいから飲む」という羽目に陥ってしまうわけです。
 

 さてこんな状態になってしまった呑ン平さん「酒を止めなきゃ」と時々思うのだが、「何故止めなければならないのか」と自問自答してみても、「止めなければならない理由が何もない」として酒を止めようとしない。
 

 周りの人から見たら、止めなければならない理由が山ほどあるのに、自分の置かれている状況が判らなくなってしまう(他人の意見を拒絶するようになる)ところにこの病気の恐ろしさがあるのです。



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<ビオラ>
断友(とも)の為 厳しき助言せし君の力足りずに虚しく終わる  



112.自分のアルコール依存症は治らないものと
 
   自覚できれば、その人のアルコール依存症は治る 





アルコール依存症は治るのか、治らないのかという疑問は多くの人が昔から持っていた素朴な疑問である。
 

入退院を繰り返している人を見るとアルコール依存症は治らないと思うし、断酒会に入って止めている人を見れば治るのかなと思う。
 

そもそも、アルコール依存症が治るということは酒を普通に飲めるようになるということなのだから、何年断酒している人でも飲めば数日で元通りのアルコール依存症患者になるとすれば、どうも治らないというのが本当のようである。
 

断酒会の人たちは一見治っているように見えるけれど、あれは治ったのではなく、止めているに過ぎないのである。
 

だから治らないということを自覚したとき初めて断酒の意味もわかり、治ったようになって普通の社会生活ができるのである。



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<ヒマラヤユキノシタ>
それぞれに断友(とも)を偲びて語り合い 静かに進む通夜の例会  



113.身体の丈夫うちに断酒しなければ
 
   断酒の意味がない  





  人間の健康とは何か?
 
 WHO(世界保健機関)では「精神的、社会的、身体的に健全な状態」と定義している。
 
 アルコール依存症はこの三つとも駄目にしてしまう病気である。即ち
 

◎ 精神的不健康
 
   イライラ、ゆううつ、暴力、自己中心、甘え、道徳心低下、不安、自殺・・
 
◎ 社会的不健康
 
   社会的地位の低下、職場放棄、失職、家庭争議、離婚、警察沙汰・・
 
◎ 身体的不健康
 
   肝炎、糖尿病,高血圧、脳炎、食道がん、胃潰瘍、十二指腸潰瘍・・
 

 アルコール依存症は、精神、社会、身体の順に不健康にしていくために、なかなかその病気を判断したり、認識したりしがたい病気である。
 
気が付いた時は、肝硬変寸前だったり、断酒してからガンになり死亡したりする人が多い。
 

 正しい人間生活を取り戻すために断酒するのだから、身体的に飲めなくなって仕方なく断酒するのではなく、身体が丈夫なうちに断酒しなければ何の意味もないことになるのである。



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<ヒメキンギョソウ>
例会を終わりて断友(とも)の仏前に 我等の読経拙く流るる  



114.断酒例会とは自分で自分を罰するところ、そして又、
 
   他人の無言の励ましを受けるところでもある  





断酒会の例会は「体験談に始まり、体験談に終わる」と言われている。
 

しかし、いくら体験談とはいえ、自分の酒量や飲み方を自慢げに話たり、妻(夫)を攻撃するような話をすることは全くナンセンスであり、百害あって一利なしと言わざるを得ない。
 

そもそも体験談とは、己の酒のために周りの人々にどんな迷惑をかけてきたのかを深く反省し、迷惑をかけられた人の心になって己を分析し、自分で自分を罰することなのであるから、それによって心が浄化され、すがすがしくなり、初心に帰れるのである。
 

そして又、他人の体験談を聞くことによりその人と同じような心になり、浄化作用を受け、初心を呼び戻してもらえるのである。
 

即ち、私達は自分の体験を分析することで決意を固め、他の人の体験談を聞くことによって励まされているのである。



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<ヒメキンセンカ>
あの席に座りし断友(とも)は今は亡く 新しき断友(とも)がもう座りたり  



115.他人の体験談を聞くだけでは駄目である、
 
   自分の体験を語ることなしに成長はない 





 病院から断酒会に参加している患者さんや加入したばかりの会員の中には「何も言うことはありません。
 
私はただ皆さんのお話を聞きにきたもんで・・」といって、自分のことを話したがらない人がいるものです。
 

 これはまだ酒害による歪んだ性格(自己中心、甘え・・・など)が取れてないからであり、自己客観視する力が戻ってない証拠なのです。
 

 私達は「何かがあったから断酒会に来た」のであって「何もありません」と言うのは体験談の真の目的を理解していないことなのです。
 

 そもそも体験談とは、酒ゆえに犯した罪、周りの人々にかけた数知れない迷惑を、自己反省し、自分で自分を罰する「身調べ」なのだから、始のうちは、小さな失敗でいいから、何かひとつ見つけ出して、自分に言い聞かせるつもりで話すことが大切なのです。
 
それが、何年も繰り返していると、今まで気付かなかった自分の悪業がありありと見えてきて「恥かしくて街も歩けません」などと言うようになるものです。



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<ヒメジョオン>
在りし日の断友(とも)の十八番(おはこ)の愛唱歌 歌えば悲し「君こそ我が命」  



116.ああして欲しいこうして欲しいと言っているうちは
 
   酒は止まらない、ああしてあげたいこうしてあげたいと
 
   思うようにならなければ真の断酒はできない 





 酒害にかかると心が歪み、自己中心の心が強くなり、自分の思い通りにならないと攻撃的になって我儘を通そうとします。
 

 この心を「子供の心」と言います。
 
この「子供の心」は酒を止めたからと言って、直ちに消えるものではありませんし、この心のあるうちはなんにでも欲求が激しく、酒の誘惑に負けやすいものです。
 

 しかし、断酒を志して、一年、二年、三年と例会に参加するようになると、自分の家族はもちろん、周りの人々にも、特に酒で苦しんでいる人々に手をさしのばせるようになり、真の断酒にだんだん近づいてゆくのです。



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<ヒメツルソバ>
今日からは酒より放さる妻の目に 新たな涙ふつふつと湧く  



117.何かをしてもらうために断酒をするのではない、
 
   断酒をするために何かをするのだ  





「妻が子供を連れて家出してしまいました。
 
酒を止めれば妻が帰ってきてもいいと妻が言ってますので断酒したいと思い入会しました」と、Aさんという方が例会に参加してきました。
 
会員のいろいろな援助活動があって、しばらくして奥さんが帰ってきました。
 
そのとき、会長さんが言いました。
 
「Aさん、あなたの場合、奥さんが帰ってきてからが本当の断酒なのですよ、頑張ってください」と。
 

 しかし、Aさんは奥さんが帰ってきた安心からか、酒に手を出してしまい、又、奥さんは家を飛び出してしまいました。
 

 このように断酒を何かの目的を達成するための手段として考えている人が結構多いのではないでしょうか。
 
曰く「肝臓を壊したから」
 
「会社をクビになりそうだから」と。
 
このような人は、「肝臓が治ったから」とか「会社のクビがつながったから」という理由で酒に手を出してしまうのです。
 

 断酒は手段ではなく、断酒そのものが目的なのであって、その目的達成のため足を使って何らかの行動をするのです。



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<ビヨウヤナギ>
秋晴れの北近江路を列なりて 目指すは舞鶴記念大会  



118.我々にとってもっとも大切に考えなければならない
 
   ことは何故酒害者になったかということではなく、
 
   酒害者になってどうしたかということである  





 酒害者の多くが考えることは
 
「何故オレはこんなみじめな酒害者になったんだろう」ということであり、
 
「友達が悪かった」
 
「家内が悪妻だった」云々と行き着くところは外罰的で、自己批判は全く出てこない。
 

 本当の原因は「自分が酒を飲みすぎた」ことであって周りの人に原因があるわけがない。
 
それどころか、周りの人々に多大の心配や迷惑をかけてきたことに全く気が付かないのだから困った病気である。
 
こんなことではいくら考えたって酒害から立ち直ることはできない。
 

 酒害者の考え方のもっとも大切なことは
 
 ・酒害者になって周りの人に何をしてきたか(反省)
 
 ・酒害者だとわかってから何をしてきたか(償い)
 
ということであり、これが「断酒道」につながる唯一の道なのです。



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<フクジュソウ>
主婦なりて酒に狂いし婦人(ひと)の発表 胸えぐらるる我も主婦なり  



119.酒害者は狂気で問題から逃避しようとするが、
 
   断酒をすれば正気で問題と対決するようになる 





 夫の酒を何とかして止めさせたい、息子の酒を止めさせるにはどうしたらよいか、という酒害相談は各断酒会に毎日のように寄せられていることでしょう。
 

 酒におぼれているこれらの夫や息子は、酒を止めさせようとすればするほど、却って酒に走ってしまうものです。
 
それは精神的にも身体的にもアルコール依存が形成されているから酒を飲むことによって心の安定を求めているのです。
 

 彼らとて酔いがさめた時、心のどこかで大なり小なり「酒を止めなければ駄目になる」と思っているのです。
 
ところが止められない自分に嫌悪を覚え、その不安から逃れるために飲む訳です。
 
だから、彼らがしょんぼり考え込んでいる様な時に、自分で止められないなら断酒会ってどんなことをやっているか見に行こうとか、病院にいってみようかとか話しかけることです。
 
決して飲んだことをクドいたり叱ったりしてはいけません。
 

 とにかく手を変え品を変えて根気強く断酒会に誘うことです。
 
断酒会に通うようになったらしめたもの。
 
だんだん正気で問題と対決するようになるものです。



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<フジ>
一杯の梅酒に負けし人の言う 「七年断酒も坂下るるごと」と  



120.断酒会の機能の核は酒害者、
 
   組織の核は断酒家でなければならない  





 断酒会の機能(はたらき)は常に酒害者に向かっていなければならないから、例会においては断酒道の初心者(新入会員、失敗者など)が常に話題の中心になっていなければならないことはたびたびこの欄に書いてきたし、組織上の中心人物が断酒家であるべきことも言を待たないであろう。
 

 あなたの会ではこれが反対になっていないかどうか深く反省してみましょう。
 

 断酒会(例会)の話題の中心が古参会員ばかりで占められることは時々あります。
 
こんなことが続くとマンネリズムに陥ったり、新しい会員に抵抗心を起こさせ、失敗、脱落という不本意な事態となって現れます。
 

 又、組織運営の中心人物が時々失敗をしているならば、会員は寛容だからその役から降ろすようなことはしないだろうが、その自分に甘い風潮が会員に浸透し、失敗者が続出し、例会は呑ン平の懇親会と化し、世間の批判を浴びるであろうし、それにも増して重大なことは断酒会の真の意義を失って崩壊してしまうでありましょう。



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<フヨウ>
唯二人 朋友会の紹介に立てば重たき「滋賀県断酒同友会」  



121.旅人のオーバーを脱がせたのは強い風でなく、
 
   それはやさしく暖かい太陽であった(イソップ物語) 





 初めて例会参加した新人会員は自己嫌悪、拒否反応の心が強く働いているから、なかなか自分の体験を裸になって言えないものです。
 
だから「裸になれ」と言って根掘り葉掘り体験(失敗)を聞きだそうとする古参会員がいれば抵抗を感じ、自己嫌悪を増長させ、先輩との断絶を招き、ひいては例会を嫌いにさせる原因になるものです。
 

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」の譬えの通り、断酒歴の長い人ほど謙虚でなければなりません。
 
「旅人のオーバーを脱がせたのは、強い風ではなく、それは優しく暖かい太陽であった」と言うイソップ物語は正に断酒家の姿勢を教えてくれるものとして余すところがない。
 

 酒害者を断酒させるのは、お説教ではなく酒害者に対する優しい思いやり、真心がその人をして自ら裸になろうとする心を起こさせるのです。



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<ホウセンカ>
大会に初めて出会う断友(とも)なれど名刺交換 再会を誓う  



122.寛容とは広い心でゆるすこと、
 
   見て見ぬ振りをすることではない  





 断酒会員の中には、時にはつまづいて酒を飲みだす人もおります。
 

 断酒会とは、酒を止めた人の会ではなく、酒を止めたい人の会なのだから、時にはつまづくこともあるだろう・・とその断酒に失敗しかけた人を見て見ぬ振りをすることが寛容だと考えたら大変な見当違いです。
 

 寛容とは広い心で赦すことであって、そのズッコケた会員が自ら反省し、自ら罰しようとする時に、その失敗を非難したり攻撃したりせずに、すべてを赦し、ともに断酒を改めて誓い合うことなのです。
 

 会員がズッコケるとほとんど例外なく例会に出席しなくなります。
 

 そんな時、出てくるまで待ちましょうと、ノンビリ構えているのも寛容ではありません。
 

 積極的にその人の立ち上がりを助けてあげるのが断友のつとめでもありますから、手を変え品を変えて例会出席に誘わねばなりません。
 

 このときこそ、真の寛容の心が必要であり、その心が失敗者を立ち上がらせる動機付けになるのです。



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<セキチク>
妻のみが家族であらず子供等と 揃いて聴きぬ高槻記念例会  



123.断酒会の仕事をすることは酒害者にとって
 
   重荷だが、断酒家にとっては励みになる 





 なかなか断酒できない会員に「役員になってもらえば断酒できるだろう」と会計係りをやってもらったら会の金を飲んでしまった、という笑い話にもならない悲劇がある。
 
昔から「身を固めれば酒が止むだろう」とか「車を買ってやれば酒をつつしむだろう」と考えて結婚させたり、車を買ってやったりしてみたが、だんだん悪くなるばかりで、ついには結婚の相手に酒を飲む原因を求めたり、車を駆って遠くへハシゴをするようになることすらあります。
 

 これは、他から何らかの制限を加えて止めさせようとするからであり、酒害者にとっては加罰以外の何物でもありません。
 
これと同じようになかなか止められない人を断酒会運営の中心人物にしておくことは、その人に断酒会が罰を加えている結果になることがあります。
 
そのような人はまだアル中という病気が進行中でありますので、問題から逃れようとする意識が強く、その重圧に耐えかねて酒に走るという悪循環をまねくことが多いものです。
 

 断酒会は酒害者に開かれていなければなりませんが、やはり中心人物は正気で問題と対決できる断酒家でなければなりません。



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<セッコク>
大会の中に親しき断友(とも)に会い 固き握手に絆深まる  



124.断酒会には情報の提供はあっても、
 
   説教があってはならない 





“例会とは体験談に始まり体験談に終わる“という言葉は初心者に対して、お説教をしたり批判をしてはいけないということを教えている言葉です。
 
お説教や批判は必ず初心者の反発心を誘い、断酒の志を翻させる役目しかないものです。
 

 このことは十分わかっている人でも、つい自分の体験を話しながら「私はこうだったからあなたもそうした方が良い、こうしたら駄目だ」という言い方をしていることがあるものです。
 

 断酒会を訪ねる人々は、酒害とはどんなものなのか、断酒会とは何をするところなのか知りたがってくる人たちなのです。
 
まだ断酒の決意も弱くグラグラしている人たちですからその情報を得て初めて決心が付くものなのです。
 

 体験談はその情報提供なのですから、常に初心に帰り同じ高さで話し合わなければ、初心者は離れて行きます。
 
先輩顔をして自分の体験を押し付けていないかどうか常に反省しながら、無条件の敬意といたわりの心を持って話を聞いてあげなければなりません。



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<ソシンロウバイ>
大会に二階に座る断友(とも)見つけ 互いに手を振り心通わす  



125.傲慢の中身は無力である、
 
   謙虚の中にこそ真の力がる  





 傲慢と謙虚について多くの説話やことわざが残っている。
 

 西洋では、あの有名なイソップ物語のうさぎと亀の話があるし、日本の古い川柳には「実るほど、頭を垂れる、稲穂かな」というのがある。
 

 しかしながら、酒害者が断酒会に入ってやがて断酒家に変容していく過程において、傲慢と謙虚がこれ程まで顕著に変化するのも他に例がない。
 
はじめは恐る恐る酒を飲んでいた青年がやがて酒害にかかるにつれて、酒量と比例して傲慢が増長し、酒を征服したかのような錯覚に陥り、酒びたりの生活をするに及んで、自己本位な鼻持ちならぬ人間になってもその傲慢さ故に、自らを酒害者と認めることができず、職場を失い、家庭が崩壊し、身体的にも酒を受け付けることができなくなってはじめて自分の無力さを知るのである。
 

 このときから断酒への道へ入り、亀のようにコツコツと一日断酒を続けることにより謙虚の心が培われてゆくのであるが、この心は断酒の日が重なれば重なるほど顕著になり、人間としての魅力が溢れ出るようになるのである。



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<ソメイヨシノ>
今回もあの日の断友(とも)に会えるかと 探し当てれば先ずは握手を  



126.断酒の節(ふし)とは断酒による神経症状をいうのでは
 
   ない、それは断酒による人格の変容期だということである  





「節だ、節だと言わないで欲しい。かえってイライラしてくる・・」という人がいるものです。
 

 これこそ「節」に入っている証拠であって素直な心がなくなっている。
 
断酒して三ヶ月、六ヶ月、一年、三年などを節と呼んで警戒するのは、その頃に失敗する人が多いからである。
 
これはアメリカでもスウェーデンでも変わらない。
 

 酒によって幼児のように依存心の強くなった酒害者が、断酒することによって新生第二の人生を歩むわけだから、元の自立心旺盛な成人に戻るのに、少年期のような反抗期があっても不思議ではない。
 
反抗精神旺盛な少年は立派な成人になるが、反抗しない少年は成人しても自立できないと言われています。
 

 イライラはその反抗期の一つの症状であり、これを乗り越えるとすばらしい自立期が来るのです。
 
心の中に固くて丈夫な節を残して・・・。



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<タカサゴユリ>
沢山の仲間の中に断友(とも)を追い寄りて 互いの断酒喜ぶ  



127.酒害者を直してやろうと思っている人がいたら、
 
   その人は酒害者より重症な精神病患者である  





 酒害者の家族からの相談を受けて、何とかしましょうとその酒害者と何度も接触を試みてもうまく行かず、それどころか酒害者をして益々酒に走らせてしまった苦い経験を多くの断酒会の皆さんは持っていると思う。
 

 これは、その相談を担当した断酒会員の心の中の、何とか直してやろうと思う傲慢さが酒害者の反発を呼んだのであろう。
 
その接触の仕方に功をあせるせっかちな行動がなかったか。
 
自分の体験を話している中に押し付けがましい先輩ぶったお説教がなかったか深く反省しなければならない。
 

 酒害が直るということは酒を飲まなくなるということなのだから、酒害を治せるのは酒害者自信であって、他のいかなる人といえどもそれはできないことを改めて銘記しなければならない。
 

 酒害者をしてその気にさせることは、酒害を病気とする考えの上に立って、彼本来の人格を尊敬し、必ず立ち直ることを信頼して、根気強く、自分の体験を話してあげること以外にありません。



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<タチイヌノフグリ>
鹿の待つ大和路行きて六千の 断友(とも)等と断酒新たに誓う  



128.おれがを出したら嫌われる、
 
   自分を忘れてつくしてみよう  





 酒害者を助けてあげるというのは看護の精神がなければできません。
 

 看護の思想の源流はヨーロッパで中世期のカトリックのシスターであると言われています。
 
彼女らは、「病人を治しやろう」というおこがましい心は全くなく、唯、苦しんでいるこの人たちに「自分は何ができるのだろうか、
 
今、ここで私にできるサービスというのは何でしょうか」と患者に尋ね、それが背中をさすってあげることであれば、
 
彼女らは何のためらいもなく背中をさすり、水が欲しいと言えばどんな遠くからでも水を運び、家が欲しいと言えば家を建ててあげて、
 
医者を呼んでくれと言えば医者を捜し求めて連れてきたということです。これが病院の始まりだと言われています。
 

 酒害者を助けてさし上げるということは、このシスターと同じ考えでしなければなりません。
 
「オレが酒を止めさせてやろう」などと心のどこかで思ったら、相手の酒害者はたちまちあなたから遠ざかり、益々酒に走らせる結果になること必定です。



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<ダッチアイリス>
壇上の幼等共に祖父想い 「よろしくたのむ」と言うはいじらし  



129.酒害の初期にはその病識は得られない、
 
   しかも酒害が進行すればするほど病識を拒絶する 





 酒害者は何故断酒できないのか、という難問を解く一つの鍵として酒害者に病識があるか、ないかということがある。
 

 世間一般に「呑ン平」と称される人に「あなたはアル中だと思うか」と聞いて御覧なさい。
 
恐らく99%の人は「ノー」と答えるでしょう。
 

 しかも、本人は勿論だが、家族だってアル中だとは思っていないでしょう。
 

 身体をこわすか、精神的に異常が起こるようになって、やっと家族が「アル中かな」と思うのであるが、その頃には酒害者自身に酒のための異常心理が起こって「自分はアル中ではない」と言い張って飲み続けるのですから、誠に始末に困るわけです。
 

 よく「どん底まで行かないと酒はやめないよ」と言う人がいますが、確かにそれも一つの心理ですが、早めに、病院か断酒会を訪ねることが病識を得る最良の方法のようです。



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<タネツケバナ>
少年の胸に過ぎし日戻り来て あふる涙に発表途切れぬ  



130.断酒とはじめは止めさせてもらい、
 
   やがて自分で止めようと思い、
 
   ついには止めさせて頂いていると気が付くもの  





 酒害者は酒に限らず、すべてのことに依存心が強い。
 
こんな状態のときに酒をやめるということは容易なことではない。
 
こんなときは「病院とか断酒会の世話にならないと酒は止められない(依存)」のが普通である。
 

 断酒が少し続いてくると「酒は自分でやめるもの(自覚)」と気が付くようになるが、この時期には「自分の力で酒は止められる(傲慢)」と錯覚し、失敗する人が多い。
 

 やがて、その時期も乗り越え、例会を重ね、断酒学校、研修会、大会などに参加するに連れて「自分の断酒は多くの同志に支えられてできている(感謝)」ことに気が付いて、初めて断酒に安定期を迎えるのである。



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<ダリア>
あふる来る涙ぬぐいぬ少年に 男泣きせしあの日の息子(こ)を見る  



131.清濁合わせ呑む心がなければ
 
   断酒会活動はできない  





 都会の川は濁っています。
 
そんな川が全国にたくさんあって、みんな海に向かって汚水を流し込んでいます。
 
しかし、そのため地球上の海水が汚れて、魚介類が全部死んでしまった等の話は聞きません。
 
むしろ、この汚水の中に入っている何物かが、魚介類の栄養になっていることだってあるようです。
 

 断酒会も正にその通りで、会の中に多少の悪い人(失敗をする人)がいたからといってその断酒会の屋台骨がぐらつくようなことがあってはなりません。
 
 
 断酒会とはそもそも酒を止めたい人の集まりなのだから、いまだ完全に酒を止められない人がいても当然なことであり、それを嫌って「少数精鋭主義」などと称して、強く純粋を求めると入会者は入ってこないし、会員相互もお互いに「悪いとこ探し」が始まって、かえって会活動が低下してしまうものです。
 

 失敗した人の生々しい体験発表こそが、他の人あな断酒の糧になることを知り寛容の精神で会活動に参加しましょう。



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<チューリップ>
壇上の若等に我が子重ね見つ 真の叫びを涙で聞き入る  



132.周りに変化を求めても駄目、
 
   自分を変えなければ回りは変わらない 





 断酒を初めて何年か経って、いわゆる「悟りの断酒」になるまで次のような経過があると言われています。
 
○我慢の断酒
 
○自慢の断酒
 
○不満の断酒
 
○悟りの断酒
 

 断酒の最初は我慢・がまん・ガマン・・・。歯を食いしばって頑張っていた人も、いつか楽になり、それほど我慢しなくてもよいようになると、周りの人に(断酒の心意気)を示そうとするものです。
 
「つらいでしょう」とか「偉いわねえ」と言われると満足するが「そんなこと当たり前でしょう」とでも言われようものなら「こんなに苦しんで断酒してきたのに・・」と心に不満がムラムラと盛り上がってくる。
 
だから、、周りの者は「偉いわねえ」と褒めてあげることが大切であるが、断酒する人がそれを求めてはいけない。
 
断酒しているから評価が高まるのであって、褒めてもらいたいから断酒するのではないのです。



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<チョウジガマズミ>
発表を終わりて父と並びたる 若等に明日の幸せ願わん  



133.酒を飲み続けるということはできないが、
 
   酒をやめ続けることはできる  





 猿に酒を飲むことを教えると次の三つのタイプに分かれるということです。
 
A 酒を飲み続ける  
 
B ときどき飲む  
 
C 一度は飲むが二度とは飲まない
 
 正に人間社会と同じで、Aを呑ン平猿といい、Cを下戸猿とでも言うべきか。
 

 私たちは言うまでもなくAタイプであり、そして、酒豪と呼ばれ敬意を表されたこともあった。
 

 それがいつか酒害者と軽蔑されるようになったのはどうしてなのか?
 
A タイプの猿はやがて、ボンヤリとするようになり、オドオドしながら酔いがさめると酒を飲む。
 
遂には手が震え、全身痙攣を起こし、酒も飲めなくなって、ヨダレを垂らしながら死んでゆく。
 
この姿を不思議そうに眺めている健康な猿は勿論B とCの猿です。
 
人間社会なら軽蔑の目で見てるのでしょう。



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<ツバキ>
晴天の福岡大会青々と 玄界灘は我等迎えり  



134.説教には反発はあっても感動はないが、
 
   体験発表には感動だけがあって反発はない  





 「説教で酒が止むのなら、医者も断酒会も要らない」とはよく言われる言葉である。
 

 酒害相談には「酒を飲んで何になるのか、家族のことを考えたことはあるのか・・・」とか「ああしなさい。こうしなけりゃ駄目だ・・」などという説教調のお話は何の効果もないことは私たちは十分知っている筈である。
 
酒害者や、断酒初心者には、素直な心、反省の心、謙虚な心が欠けているのが普通である。
 
だから説教じみた話には反発心は起こっても感動は起こらない。
 
感動のないところに180度転換(飲酒から断酒へ)という一大変事は起こりようがない。
 
せいぜい例会嫌いにさせる効果しかなく、即ち、失敗のお手伝いしているに過ぎないのである。
 

 心のそこから反省しつつ話す「体験発表」こそが、断酒例会の基本であり、そこには共鳴と感動だけがあって反発心が起こるなどということは全くないのである。



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<ツルニチニチソウ>
手作りの出迎えうれし 福岡の断友(とも)等の踊りは断酒の証  



135.「やめる」という言葉を信じてあげよう、
 
   「のみたい」という心が萎むまで  





 酒害者はウソ付だという。
 

 酒をやめる」と言った舌が乾かないうちに酒を飲んでしまう。
 
この姿を表面的に見ると確かにウソ付きに見えます。
 

 しかし「止めたい」と言う心と、「飲みたい」と言う心が渾然として存在し、交互に大きくなったり縮んだりしているのが酒害者なのであるから、酒害者必ずしもウソつきではない面あるし、むしろ病気として同情すべきだと思うのです。
 
「鳴くなと言えば、なおせきあげるホトトギス」の譬えに似て「飲むなと言えばなお飲みたくなる酒害者」の病的な心理を理解してあげて「止めたい」という心を大きく育ててやる方向を考えてあげなければいけないと思うのです。
 

 一日やめても一緒に喜んであげる。
 
失敗しても「やっぱり駄目か」と言わずに激励してあげる。
 
そして再び止め始めたらほめてあげて一緒に喜んであげる・・。これを繰り返してみましょう。
 
必ず「やめる」という心が、「のもう」という心に勝つはずです。



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<ツルハナナス>
断酒など夢と思いぬ君の手に 三か月表彰鉄より重し  



136.過去はとりかえせない未来はわからない、
 
   今日一日断酒すること以外に何がある 





 酒害は病気である。
 
しかし,病気だからといって、酒害の果ての悪業は赦されていいものだろうか。
 

 「赦すことはできても忘れることはできない」とは、ある断酒家の家族が言った言葉である。
 
誠に意味の深い言葉であって、読み返せば読み返すほど、加害者であった我々の心に突き刺さる。
 
 
 加害者である我々は、被害者である家族、同僚、上司などに寛容な心を持って赦され断酒生活を続けている訳であるが、私たちの悪業はどれほどその人たちを悲しませ、その心を深く傷つけてきたことか。
 

 それなのに、私たちはともすれば過去に触れられることを嫌がり、過去を忘れようとし、そして、将来の断酒を口にして信じてくれと言う。
 

誠に自分勝手な話であり、誰が信じてくれましょうぞ。
 
 
 私たちのできることは「今日一日の断酒」これ以外何もありません。
 

 今日も亦がんばりましょう「一日断酒」を。



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<トウモクレン>
朝夕に狂いし程の酒断ちて 晴れの場に出て受ける彰状  



137.人間関係のうちで最も傷つけやすい
 
   会話をしているのは夫婦である 





 断酒会の例会で、あんなに昔の飲んでいたときの自分の悪業を、平気で仲間と喋りあっていた人でも、同じことを奥さんに言われると無性に腹が立って「畜生のんでやろうか」なんて思うものである。
 

 夫婦とは不思議なものである。
 

 愛し合って結婚したのに(いや、愛し合い、許し合っているからであろうか)二人の会話を第三者的に分析してみると、酒を飲まない夫婦でも相当に相手を傷つけているものである。
 
しかし、普通一般の夫婦は、正常な寛容の心があるので破綻にいたらないが、酒害者夫婦はそうはいかないのである。酒害者は寛容な心を失っているし、夫の酒害に苦しんでいる妻も心の余裕を失っているからたまらない。
 
家庭が破綻しないのが不思議なくらいである。
 

 夫が酒害から立ち上がろうとするとき、そしてまだ断酒が定着していないとき、妻がうっかり昔のことを愚痴ったりすると夫の失敗を招くことがあるものです。
 
そんなときはこう言いましょう「でも、今はうれしいわ、すっかり別人となったんですもの」



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<トロロアオイ>
飲む父にこぶし振り上げ嘆く息子(こ)と 二年表彰受くは夢かと  



138.スリップしたひとに「何故」と聞いてはいけない、
 
   それは嘘を言わせるだけだから 





 断酒会員がスリップ(失敗)した時、その人に「何故のんだの」と聞いてごらんなさい。
 

 曰く「仕事がうまくいかずイライラした」
 
「上司に叱られムシャクシャしていた」
 
「知らないうちにジュースにウィスキーが入っていた」・・云々と、まことしやかにその理由を並べるものです。
 
しかし、これはみんな後から考えたコジ付けであって、すべて「自分はのむ気はなかったんだが・・・」と原因を他に転嫁しているのがよくわかります。
 
本当は飲みたいから飲んだのであって、アルコール依存症そのものが飲ましたに過ぎないのです。
 

 だから、「何故」と聞かれてコジ付けを言っているうちに、アルコール依存症が原因であることを忘れ、いつの間にか、コジ付けが本当の原因のように錯覚してしまい、反省もなく、自分を罰することもできなくなってしまうのです。
 

 だから、スリップした人に「何故」と聞くのはやめましょう。
 
そして、再びスリップを繰り返すことのないように、「これからどうするか」について話し合いに乗ってあげましょう。
 
それが、自ら罰することになるからなのです。



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<ナガミヒナゲシ>
例会を指し示されし先輩の 後を歩きて十年表彰  



139.酒害者のウソを受け入れてはいけない 、
 
   それは甘やかすだけである、しかし酒害者の
 
   ホンネは聞いてやらなくてはならない  





 酒害者はウソつきである。
 
酒を飲むためには平気でウソをつくものである。
 
自分から酒友を誘ったくせに、友達が自分を誘ったのだと言ったり、一人でヘベレケになったくせに、わざわざ上役の家を訪ねて、そこから自分の家族に電話するなどは、まだ罪の軽いほうである。
 

 親戚、知人にウソを言って金を借りるのを手始めに、質屋、サラ金と借金を重ねても奥さんにそのことを隠したり、二日酔いなのに風邪だ、腹痛だと言って会社を休む。
 
数え上げたら切がない。
 

 このような酒害者のウソを許してはいけないのである。
 
これは酒害者特有の甘えを増長させるだけである。
 

 しかし、どんな酒害者でも十に一つはホンネを言うことがあるものです。
 
これを見極め認めてやることが、酒害者をして断酒に踏み切る心を起こさせるキッカケになることがあるものです。



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<ナシ>
父のよに酒の人生歩むなと 若き息子の横顔眺む  



140.酒害には三つの悪がある 孤独(精神的生命の衰弱)、
 
   貧困(社会的生命の衰弱)、病弱(身体的生命の衰弱)  





 Aさんは当時四十五才、妻子に逃げられ、職場を追われ、時々日雇いの仕事をしては飢えをしのいでいた。
 
いや、飢えをしのぐというよりは酒の渇きをしのいでいたと言った方いい。
 
一日働いては飲んで三日寝ているといった調子だ。
 
近所の人は、近いうちに死ぬんではないかと気味悪そうに噂をし合っていた。
 

 見るに見かねて、近くに住んでいた断酒会員が例会につれてきたが、一見六十才ぐらいに見える彼は、無口でオドオドして腰が落ち着かない。
 
案の定、生活のパターンは全く変わらないし、勿論酒はやめようとしない。
 

 心配した会員みんなの世話で顧問の先生の病院に入院数ヶ月・・・。退院した彼は断酒会通いが始まった。
 
雨の日も、風の日も・・・。
 

 爾来三年、彼の顔につやがもどり、年齢より若く見えるようになった。
 
ある菅工事会社に就職し、金回りもよくなったのか、服装もきちんとしてきたし、会員の世話をして走り回るようになった。
 

 今、会員達は別れた奥さん、子供たちとの対面を実現させようと奔走している。



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<ナズナ>
口ずさむ演歌に「酒」の唄われて 君に気付きてそっと噤みぬ   



141.失望を味わいそれを乗り越えた人でなければ
 
   真の喜びはわからない 





 誰だってアルコール依存症になるんではなかろうとなどとビクビクしながら、酒を飲んでいる人などはいない。
 

 気がついたら、この世の地獄を這い回っている自分を見つけたというのが本当の姿であろうとと思う。
 
ご多聞に漏れず私もそうだった。
 
そのときには、職もなく、妻子にも逃げられ、将来を悲観して自殺をしようとさえしたが、死に面して決断がつかなかった。
 

 しかし、断酒会を知り、会員の皆さんに助けられて、やっと普通並の生活ができるようになったきた。
 
別れていた妻子とも今では仲良く暮らしている。
 

 他人から見たら、全く普通の一家だが、私たちにとっては正にこの世の天国である。
 

 「山の高きは、谷の深きをもって知る」という。
 
この世の地獄を味わったものにとっては普通の生活が天国なのである。
 

 私は心の底から、アルコール依存症になったことを喜んでいます。(ある体験談)



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<ニオイタチツボスミレ>
断酒して二年過ぎる今もなお 夢で飲みたる君に悲しや  



142.自立とは孤高を保つことではなく、
 
   他と共存することである 





 幼少の頃は親に依存し、青年期には友人と手をつなぎ、結婚すると夫婦は頼り合う。
 
老いて死が近付くと神だ仏だと騒ぎ出す。
 
所詮、人間は何かに頼ってないと生きていけない生き物なのだ。
 

 私たち酒害者は、その他に酒の中に生き甲斐を見出し、それに頼って生きてきた。
 
一にも酒、ニにも酒、それが自分の命を縮めるらしいと判っていても酒、酒、酒の毎日だった。
 
父らしさ、夫らしさを放棄し、妻に頼り、同僚に頼り、福祉に倚りかかってやっとの思いで生きている人が多い。
 

 これらの人の中に「このような依存を断ち切るために断酒会に入りなさいというのはおかしいのではないか。
 
それは断酒会に依存することになり、自立することにならないのではないか。
 
俺は男だ、一人でやめてみせる」と言って入会を拒否する人がいる。
 
そもそも、自立というのは、他の世話を断って一人孤高を保つことではなく、他の人世話を受けるが、他の人の世話もすることなのである。
 
世の中とはそういうものであり、断酒会も会員互いに支えあって共存共栄することが真の自立なのである。



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<ニチニチソウ>
うまそうに飲みたる酒のC.Mに 見ぬ振りしつも会話弾まぬ  



143.自分の飲酒欲求に負けてお金を使えば命が縮み、
 
   他人の断酒願望のためにお金を使えば命がのびる 





 ひとたびアルコール依存症と診断された者は再び適当に酒を飲むことは不可能である。
 
それはブレーキの壊れた自動車にガソリンを詰め込んで走るのに似て、結末は自己破壊以外の何ものでもない。
 
自分のひと時の欲望に負け酒を買って飲むということは、わざわざお金を使って自分の死を買っているということに過ぎないのである。
 

 即ち、アルコール依存症にかかった者は、真に悔しく残念なことではあるが、断酒すること以外に生き延びる術がないのである。
 

 しかも、この断酒というものは、数日間なら誰でもできることではあるが、生涯断酒を貫くということは並大抵のことではない。
 

 アルコール依存症者は飲んでいる時は殆どの人は依存心の強い自己中心的な性格になっている。
 
この子供のような心を方向転換して、受容と理解をもって、未だ酒を止めきれず苦しんでいる人のために奉仕する、いわゆる断酒会活動のために自分のお金を使えるような人間になるならば、生涯断酒を貫くことができ、天寿を全うし得るであろう。



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<ニワウメ>
「飲む」という武器に我は恐ろしや 真のケンカを未だ出来ずに  



144.酒害者が断酒するということは、
 
   いろいろな人に借りをつくることであり、
 
   断酒していくということはその借りを返すことである  





 「私は一生懸命独りで生きているつもりです。誰のお世話にもなっておりません」と言っている人がいます。
 

 しかし、この世の中を誰の世話にもならず生きていくことができるでしょうか・・。
 
毎日食べる米、住んでいる家・・。何処を見たって他人様の手のかかっていない物なんて一つもありません。
 

 まして、酒害者が断酒に至るまでの道程において、どれくらいの人々に、どれほどまでに迷惑をかけてきたでしょうか。
 

 そして、やっとの思いで断酒の道に踏み入ったときから、又しても、一緒にこの道を歩く多くの同志の励ましと、支えあう力によって倒れずに歩いてきたのです。
 
決して自分ひとりの力で断酒が出来たのではありません。
 
だから、私たちは、今までに迷惑をかけてきた人々や社会に対し、できるだの償いをしなければなりません。
 
即ち、断酒し続けること、それが恩返しになる訳です。



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<ニワザクラ>
「飲まるよりまし」と我に言い聞かせ 腹立つ事も胸に押さえり  



145.例会で失敗者をとがめてはいけない、
 
   そこでは互いに許しあうことが大切である  





 断酒会の例会で、失敗した人に「何故飲んだのか」などと、責め立てるような発言をする会員を時々見かけることは真に残念なことである。
 
そもそも、失敗者は、家族に責められ、同僚、上司に責められ、己の良心にも責め立てられ、どうしようもなくて助けを求めて例会に来たのではなかろうか。
 
それを例会場で会員にも責め立てられたとしたら、彼の逃げるところは酒しかなくなるだろう。
 

 ところで、そもそも、断酒会員の中で、失敗者を責める資格を持っている人はいるであろうか。
 
私たちは断酒会員である限り、多かれ少なかれ何らかの断酒失敗の経験を持っている筈である。
 
とするならば、私たちは互いに許しあい、助け合い、支えあって行くのが本筋であり、間違っても首吊りの足を引っ張るようなことをしてはいけないのである。



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<ネコヤナギ>
酒飲まぬ我の体に酒染みて 酒という字に未だ怯えり  



146.断酒会活動は酒害者救済というが、
 
   それは酒害者である自分を救うということである  





 昔から「情は人のためならず」と言われているが、断酒会でも「人を助けて己を救う」という同じような寸言がある。
 

 これは、酒害で悩む人の相談相手になってあげ、その方が立ち直っていくその過程において、酒害で苦しんでいる方の姿が自分の過去とあまりにもそっくりなので、知らず知らずのうちに初心に還らして頂き、自分の断酒継続につながっていくということを言ったものである。
 

 しかも、断酒道の究極の目標が「酒害者救済」であるとしているが、酒害者が立ち直って立派な断酒家になったからといって、それは先輩が支えてあげ、励ましてあげたりして助けたからではなく、その酒害者自身の力で立ち直ったのであって、むしろ支えられ、励まされ、助けられたのは先輩の方なのである。
 

 即ち「酒害者救済」という言葉の「酒害者」とは、相談をしているつもりの「自分」をも指していることを忘れてはならないのである。



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<ノアサガオ>
命より家庭よりもの酒捨てし 強き勇者の君を仰ぎぬ  



147.断酒家の尊厳のすべては断酒道にある  





 われわれ断酒家は一茎の葦にすぎない。
 
自然の中でもっとも弱いものである。
 

 だが、それは考える葦である。
 
われわれを押しつぶすために宇宙全体が武装するには及ばない。
 
ブランディの香りか、一滴の酒でもわれわれを殺すのに十分である。
 
だが、たとえアルコールがわれわれをおしつぶそうとしても、われわれ断酒家はわれわれを殺すものより尊いであろう。
 

 何故ならば、われわれは飲めば自分が死ぬことを、即ち、酒の自分に対する優勢を知っているからである。
 
だから、われわれの尊厳のすべては断酒道(考えること)の中にある。
 

 われわれは、そこから立ち上がらなければならないのであって満たすことの出来ない酒盃からではない。
 
だから、われわれは断酒道に生きることにつとめよう。
 

 ここに断酒家の道徳がある。
 
      (熊谷福夫先生の講演より)



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<ノースポール>
家庭(いえ)あるも命あるも職あるも 断酒の道を歩きてこそぞ  



148.断酒を始めるには理屈はいらないが、
 
   断酒を続けるためには断酒哲学が必要だ  





 どんな重症の酒害者でも、酒を止めたいと思う心は必ずあるものです。
 
それが強い病的な飲酒欲求の殻に隠れて、周りのものは勿論本人ですらわからないことがあるものです。
 

 このような酒害者が突然断酒を始めるものだから、周りの人は奇跡が起きたようにびっくりするわけです。
 

 しかし、これは奇跡でも何でもなく、すべて人間が持っている自己保存の本能のなせる業なのです。
 
その本能のエネルギーが、ある動機によって、飲酒欲求の殻を破って突然大爆発したに過ぎないのです。
 

 しかし、この噴煙がおさまった後が実は大問題なのです。
 
断酒のおかげで心身ともに健康を回復するにつれ「病気になって健康の大切さを知るが、健康なときは病気のことを忘れる」のが人間の通例で、いつしか自己保存本能も静かに体内にかくれてしまい、飲酒欲求がだんだん頭をもたげてくるのです。
 
この頃が一番大切なときであり、断酒学(断酒哲学)を少しずつ身につけないと断酒継続が難しくなるのです。



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<ノジスミレ>
あの地獄思えば遠き水口も うれしき集いの元旦例会  



149.断酒哲学は断酒継続しているひとだけが
 
   学びえるもの 





 哲学というと極めて難解な学問であり、私などはとてもとても・・と敬遠する人が多いものです。
 

 確かに、哲学はとはものごとの根本原理を探求する学問だから難しいかも知れない。
 
しかし断酒哲学とは一体何だと言われたら「何故、あなたは断酒するのですか」ということを探求する学問だと考えればよい。
 

 これなら何も難しそうでもなさそうだし、例会でいつも話し合っていることである。
 

 要するに、断酒例会とは断酒哲学を先生なしで自分たちで勉強し合っているところだと言える訳です。
 
しかし、「何故あなたは断酒するのですか」という問いに対し明快に答えられるようになるには何年かかるでしょうか。
 
時々ズッコケル人には中々歯切れのいい答えは得られません。
 

 そうなのです。
 
断酒継続している人にだけその哲学がわかるのです。
 
それは長い断酒経験の末に知らず知らずに身についた悟りのようなものであり、それは「人生哲学」とも又、「人間哲学」とも呼ぶにふさわしいものだと言えます。



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<ハオルチア・ファスキアタ>
日日の小さき幸せ喜ぶも あの日の苦しみ忘れ得ぬこそ  



150.例会は同じことの繰り返しに見えるが、
 
   そこには新生(変化)と悟りがある  





 「例会はマンネリだ」と言って批判し、例会に出席したがらない会員がいるものです。
 
確かに例会は、表面的にみれば、同じ人が集まり、同じ体験を発表しているのだから、同じことを繰り返し見えるかもしれない。
 

 しかし、例えばジョギングにしても、山法師の修行にしても、昨日のそれと、今日のそれとでは少しではあるが進歩があるはずです。
 
これを行(ぎょう)と言い、一見、同じことを繰り返しているように見えるが、少しずつ変化が生じ、新しいものを生み出していくのです。
 
そして、それが確固たる信念となり、悟りの境地に達すのです。
 

 断酒例会も全く同じであり、先週の体験発表と今週の体験発表が、全く同じことを話したとしても、よく聞いてみると、違うところがあるのに気が付く筈です。
 
これが断酒の糧になるのです。
 
              (熊谷福夫先生の講演より)



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<ハゴロモルコウソウ>
この父の元に生まるを 恨む娘(こ)が 初月給にてライター贈りぬ  



151.断酒生活とは酒に変わるものを見つけて
 
   安定することではない、それは人生を生きるのに
 
   酒のいらない生き方があるのだと体験することである 





 断酒生活は徹底的に断酒一色で出発せねばならないが、酒害者であったとき、つまり、生活のすべてが飲酒欲求に支配されていたころとは違って、断酒暦が長くなると、断酒、断酒といった力みは消失して、酒のないことがストレスとならない健康な生活になってくる。
 

 断酒生活は、酒に変わるものを見つけて安定することではない。
 
酒に代わるものはない。
 
飲酒していた時間を趣味に当てるとか、飲酒で浪費した金を新しい生活に生かすとかのことは、当然あってもよいし、また新しい生活の目標を立てねばならない。
 
ただし、それらは、断酒した生活転換のしるしであって、飲酒の代わりになるものでは絶対ない。
 

 断酒生活とは、人生を生きるのに酒のいらない生き方があるのだと体験することです。
 
雪、月、花に酒が人生ならば、雪、月、花に酒がなくとも人生である。
 
それを実際に体験することである。
 
            (村田忠良先生著「断酒学」より)



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<ハナウリクサ>
保障なき明日に心ゆらぐとも 今日一日の断酒を喜ぶ  



152.断酒家は酒害を体験しているからこそ、
 
   それを熟知する者として無縁でいられるのだ  





 断酒家は飲む気になればいつでも飲める。
 
二合や三合の酒ならば酔わずに飲める。
 
しかし、一度飲めば、数日後には確実に酒害者に戻ることを知っている。
 
だから飲まないのである。
 
私が断酒家を自発性後天性精神性下戸と呼ぶのはその故である。
 

 酒は巷にあふれている。
 
世の中はに愛酒家は数え切れない。
 
酒の長所を讃える人は身近にいくらでもいる。
 

 しかし、断酒家はそんなことは気にしない。
 
なぜなら、断酒家は酒の長所も短所も、酒の功罪も、心身の依存症状も、酒害もすべて体験済みだから、それらを熟知する者として無縁でいられる。
 
熟知した上で無縁でいるということは、深遠な意味が内蔵されているが、断酒家は断酒によって自由な身になったのであるから、主体性の回復の証として、独自の個性的な思索をすべきであるし、またそれが断酒家の特権でもある。
 
私はそのテーマこそ「断酒とは何か」ということであると思うのである。
 
          (村田忠良先生著「断酒学」より)



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<ハナカイドウ>
残業を終えて帰りぬ君の背に 今日の勤めの重きを想う  



153.断酒は求めれば必ず与えられ、
 
   求めなければその動機にすら到達しない  





仏教に「縁起の法」というものがあって、世の中の諸現象には、必ずその起源となるものがあるという教えがあります。
 

この説法は、断酒にも当てはまるものと思います。
 

人に断酒をしようとする心からの希求があるならば、それが例えば針の先ほどのものであっても、徐々に成長し、何時の日にか必ず成就するものと思われます。
 

しかし、その起源となる願望がないならばその動機さえも到来しない筈です。
 

 星落つるを待つは愚かなり 星得たければ 天に昇れよ
 

 叩けよ さらば開かれん
 

などという言葉は、みなこのことを教え諭したものだと思います。



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<ハナシュクシャ>
酒を断つ決断するは君なれど 決断させしは仲間の力  



154.あなたはもはやみじめな酒害者ではない、
 
   あなたはいまや誇り高き断酒家である  





 ひとたび酒害にかかると、たとえ数年断酒していても、若し一杯の酒を飲んだとすれば、ズルズルともとの酒害者に逆戻りすることは明らかであり、それが死につながる事であるとするならば、まさに自分の十字架(死刑台)そのものを背負って歩いていると言わねばなりますまい。
 
だから、他の一般の人に比して大変な努力を強いられることになり、これが人格の改善向上につながる一大要因であるのです。
 

 断酒を始めた当時の十字架は酒害者という汚名であるかも知れません。
 
しかし断酒数年を過ぎた頃の酒害者の十字架はある輝きを発すようになるでしょう。
 
その人たちは、もう酒害者と呼ばれることもなく、愛情豊かで、意志強固、何よりも謙虚な心の持ち主になっているでしょう。
 
十字架を背負っているが故に立派な人格者に変容していく彼等こそ、正にキリストのような存在でなくて何と言いましょう。
 
さあ、あなたも、その人達と手を取り合って、あなたの輝ける十字架を背負って、胸を張って歩ける誇り高い断酒家になりましょう。



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<ハナズオウ>
あの君がああこんなにも変わらされ 仲間のおかげにただただ感謝  



155.この世の地獄を見たければ酒害者の家庭を
 
   見るがいい、この世の天国を見たければ
 
   断酒家の家庭を見るがいい 





ある体験発表

 私が主人と結婚しましたのは、終戦直後の食糧難、そしてすべての物質が不足で明るいニュース等のない、人々の心が殺伐としていたときでした。
 

 姑と義弟二人の五人家族の中で、わたしがある不安を感じたのは、結婚してあまり月日のたたない時でした。
 
主人が私に対して優しくしてくれますと、必ず姑の嫌がらせがはねかえってくるのでした。
 
姑や義弟に尽くしても尽くしても主人が留守になると必ず五臓六腑にしみる姑の嫌がらせです。
 
独りになるといつも涙の出る毎日でした。
 
原因は私が嫁ぐ前、主人が飲んで家族を苦しめたことの反発だったのです。
 
その母も13年前、14年2ヶ月の寝たっきりの闘病生活の末、私の手をしっかり握り、ありがとうと言って他界しました。
 
姑が亡くなってからの主人は、優しさを失った一人の男でしかありませんでした。
 
毎日毎日、酒でした。
 

 朝、機嫌よく、今日は速く帰ってくるからと出かけても、帰宅は必ず夜中でした。
 
何が腹立つのか、翌朝まで、勝手な文句を並べて、同じことを繰り返しながら飲み明かし、私や子供にも乱暴していたものです。
 

 主人のよく言う言葉に、私が米二表も背負ったようなふくれ顔をしていたのが酒を飲む原因だったと言っておりますが、昼夜の別なく帰宅して、何が面白くないのか、仁王様のような顔で、思い切り往復ビンタが飛んでくるような人です。
 
逃げる暇もないんです。
 
顔は見る見る腫れ上がり、青黒く、あざとなり、とても米二俵どころか、よくこの首がつながっていたものです。
 

 嫁入り道具が粗末であったと言って、持参した箪笥を二階の窓から投げられたとき等、片付ける気力もなく、ただただ主人の性格を疑いました。
 
戦後の物資不足で、切符制の時代でしたので、父母が隣近所、親戚等歩き回って、やっとの思いで揃えてくれた嫁入り道具だったのです。
 
近所の人が天から降るのは雪と雨だけだと思ったら、箪笥まで振ってきたと、私と一緒に涙しながら片付けてくれました。
 
廃材として投げるに忍びなく、材料の一部で神棚を作り今も使用させていただいております。
 

 またある冬の寒い日でした。
 
実家の母が、神経痛で止む足を、無理して来てくれたときに、綿の一杯入った袖なしを作って持って来てくれたのです。
 
夜中に酔って帰ってきた主人はいきなり、その袖なしをストーブに入れてしまったのです。
 

 何を言う間もありませんでした。
 
私は恐ろしさのあまり、瞬間的に外へ逃げました。
 
母が痛い足を引きずって届けてくれた袖なしが燃えて火の粉が夜空に舞っておりました。
 
思わず実家のある空に向かってごめんなさいと手を合わせ、思いっきり泣きました。
 

 何度別れよう、逃げようと思ったか知れません。
 
財産なんて何もいらない、五体満足なうちに別れようと。
 
でも三人の子供が、おびえた目で私にすがってくるのです。
 
随分悩みました、考えもしました。
 
しかし、私一人が別れて出て行くことは、どうしても出来なかったのです。
 
自分がついていけない主人に、子供は置いていけなかったのです。
 
私さえ我慢すれば、子供たちにひもじい思いをさせないですむと思うと、別れる気持ちもにぶる私だったのです。
 
私は、今は、縦だか横だか分らないぐらい太っておりますが、その頃は40キロもない体でした。
 
身内の人達や友人もいろいろと話し合ってくれましたが、駄目でした。
 
その時から、私は雑草のように強く生きようと考えました。
 

 36年間ほんとうに様々なことがありました。
 
楽しかった思い出は何一つ思い出せませんが、辛く苦しかったことのみ、走馬灯のように脳裏をかすめます。
 

 そして、昨年市の会報で、初めて断酒会を知ったのです。
 
Nさん、Mさんが心配して何回も来て下さったのですが、主人には、馬の耳に念仏で、話を聞いてくれないのです。
 
幻覚症状の見え始めた主人は、もう私共では手に負えないアル中患者だったのです。
 
友人、知り合いにお願いしてA病院へ連れて行って頂きました。
 
A先生はすぐに入院させて下さったのです。
 
忘れもしない九月十日でした。
 
保護室に十七日、入院日数五ヵ月、主人には随分長かったでしょう。
 
面会にも行きましたが、いつも怒鳴られ、帰ったら殺してやる等と、とてもとても話しになりませんでした。
 
仕事のこと、主人のことを考えると、眠れぬ日が続きました。
 

 その時です。
 
新生会の方がみえて、断酒会への入会を勧めて下さったのです。
 
藁をも掴む心境だった私は、その晩早速例会に出席させて頂きました。
 
会場に入った私が、先ず驚いたのは、奥さん方のにこやかな笑顔でした。
 
一瞬、私が来る所でなかったのでは、と思いました。
 
長年笑顔を忘れていた私は、目の前にいる奥さん方の顔が、どうしても、過去に私と同じアル中で泣いた人達とは思えなかったのです。
 

 二時間の体験発表で様々な会員の話を真剣に聞かせて頂きました。
 
でも主人程の暴力を振るった人は誰もいません。
 
折角断酒会に入れて頂いても、皆さんに、ご迷惑をかけるだけになるのでは、と心配になりました。
 

 約二ヶ月、私は、家族として出席させて頂いておりますうちに、今まで考えられなかった自分を見ることが、少しずつ出来るようになって来たのです。
 
不思議でした。
 
次の例会が待ち遠しくてなりませんでした。
 
断酒に関する書物は、夜明けになるのも忘れて読みました。
 
私は今まで、何故怯えてばかりいたのか、何故明るい家庭を築くことに努力することを考えなかったのか、断酒会の存在を早く知っていれば、主人を強制入院などさせずにすんだものをと、悔やまれました。
 

 会の奥さん達が、心の奥底からご主人を愛し、家庭を愛し、三年、五年、いや八年も十年も旦那様の断酒に協力なさってこられたからこそ、断酒継続できているのだと、只々感心させられました。
 

 そうこうして居りますうちに、二月、大雪断酒学校が美暎町の白金で行われました。
 
A先生は、主人を行かせて下さったのです。
 
三日間の研修が終わり、愈々六日、主人の退院の日です。
 

 会員の方々も迎えに行って下さいました。
 
帰宅と同時に、例会も開いて下さいました。
 
強張った顔の主人を見ていると、胃が痛んで仕方がありませんでした。
 
でも、会員の奥さん達の顔を思い浮かべて我慢しました。
 

 精神病院へ強制入院させられたことに対する主人の腹立ちは、大変なものでした。
 
例会には出席してくれるのですが他には絶対に出かけようとしないのです。
 
家の中で二人が顔をつき合わせて居ても、結果は悪くなるばかり。
 
断友の所へは、いくら勧めても行こうとはしないのです。
 
仕方なく主人が飲んでいた頃、交際させて頂いておりましたお酒を飲まない、社会的に立派な方々のお宅へ、私も一緒に訪ねては、種々とお話を聞かせて頂き、主人を励まして頂いたのが、主人の気持ちを少しずつ打ち解けさせてくれたようです。
 
暫く続きました。
 
折を見て、会長さんのお宅、理事さんのお宅と、二人でお邪魔にも行きました。
 

 それからの主人は、皆さんも驚くほどの変わりようでした。
 
例会は勿論、地方の会にも進んで出席してくれるんです。
 
一日も休まず。本当に顔つきまで変わって来ました。
 

 先日、私にしみじみと、「母さん、あの入院出来れば十年早くさせて欲しかったなぁ、そうしたら、お前にこれほど苦労させずに済んだものを」と言ってくれました。
 

 私の家にも、やっと断酒の灯がともりかけました。
 

 青春を知らずに過ごした三十六年、子供たちにも随分苦労もかけました。
 
私と一緒に頑張ってくれました。
 

 主人もまだまだ健康です。
 
私たちの人生はこれからです。
 
地方の断酒会の集いの道中は、景色もよく、会員の方のお話を聞かせて頂きながら、今更ながら、断酒会、そして断友の心温まる励ましに対し感謝しながら、新婚旅行気分で通わせて頂いております。
 
この世に天国があるとすれば、今の我が家がそうではないかと思い、主人の断酒に心から感謝しております。



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<ハナニラ>
償いも謝罪もいらぬ我はただ 断酒の安心続くを願う  


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