断酒新生指針 

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全日本断酒連盟            




 1.酒に対して無力であり、自分ひとりの力だけではどうにもならなかったことを認める
 2.断酒例会に出席し自分を率直に語る
 3.酒害体験を掘り起こし、過去の過ちを素直に認める、また、仲間たちの話を謙虚に聞き
 
    自己洞察を深める
 4.お互いの人格の触合い、心の結びつきが断酒を可能にすることを認め、
 
   仲間たちとの信頼を深める
 5.自分を改革する努力をし、新しい人生を創る
 6.家族はもとより、迷惑をかけた人たちに償いをする
 7.断酒の喜びを酒害に悩む人たちに伝える


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<ザゼンソウ>



「酒」
 
酒害者の家族にとってこれ程
 
恐ろしいものはない
 
辛いものはない
 
苦しいものはない
 
悲しいものはない
 
恥ずかしいものはない
 
大嫌いなものはない
 


 

1.酒に対して無力であり、自分ひとりの力だけではどうにも
 
   ならなかったことを認める 





 酒害者の酒に対する執着はすさまじい。
 
悩み苦しんでいる家族より酒のほうを選び、時には、コップ一杯の酒に自分の人生を賭けてもよい、と考えることすらある。
 

 内臓疾患、職場での重大なミス、離婚問題等が動機になって節酒に挑戦し、何回となく失敗してもなお、酒に対して無力であるという現実を認めることができない。
 

 節酒が出来ないことを認めて、時には断酒に挑戦する人もあるが、ほんの数日でまた飲み始める。
 
そして、例えわずかな日数でも酒を断つことができたのだから、今度こそ節酒が出来るはずだ、と考えている。
 

 何度同じことを繰り返しても、自分が酒に対して意志が働かない人間であり、アルコール依存症になっているとは認めない。
 
酒に対する無力の承認は、もう二度と酒を飲めないことを意味する。
 
そしてそれは、生き甲斐のすべてを酒害者から奪い取ることでもあるのである。
 

 また、アルコール依存症ほど理解されていない病気も珍しい。
 
低人格、意志薄弱人間がなると考えている人が多く回復が可能だと考えている人は極めて少ない。
 
この病気に対する偏見、誤解は社会に満ち溢れている。
 
そして、酒害者自身が世間と同じ偏見を持っていることが、問題の解決を難しくしている。
 
自分をアルコール依存症だと認めることは、己の全人格を否定することにもなりかねないのである。
 

 しかし、事実は事実として素直に受け入れよう。
 
酒に対して無力であることは、決して恥ずかしいことではない。
 
アルコール依存症は元来、酒を絶対にコントロールできない病気であり、人格が原因で発病するものではない。
 
自分がアルコール依存症になっており、酒に対して無力あるという事実を認めないことが恥ずかしいことであり、断酒を決意し、この病気から回復しようとする努力は誇れるものである。
 

 自分自身の偏見を捨てよう。
 
病気の進行とともに人格の荒廃が進むことがあるが、それはこの病気特有の症状であり、断酒することによって徐々に回復する。
 

 われわれ酒害者の人間としての本質価値は、一般の人達となんら変わるところがない。
 
また、断酒が継続される過程で様々な問題意識が生まれ、それらを解決していくうちに、信じられないような新しい人生が拓けるのである。
 

 酒に対して無力であることを認めたとき、断酒への努力が始まる。
 
しかし、自分ひとりの力だけで断酒しようとする人たちは、必ずと言ってよいほど失敗する。
 
自分ひとりだけの弱さを認められない人の自信は過信でしかなく、「孤独な病気」と呼ばれているアルコール依存症を、十分に理解していないことにある。
 

 われわれは孤独になることを望んでいなかったが、酒にすべてを支配される生活を続ける中で周囲の人達の信頼を失い、孤独はどんどん深まっていった。
 
ついには、その孤独の恐ろしさに震え、自らを責めさいなんだ。
 

 酒害者の悲しさは、酒を飲むためにはどんな嘘でもつかねばならないことにある。
 
そしてその嘘が、孤独の最大の原因になる。
 
勿論、嘘をつくことには後ろめたさもあり、それなりの反省もするのだが、だからといって嘘をやめるわけにはいかなかった。
 
命よりも大切な酒を飲めなくなるからである。
 

 嘘の繰り返しが延々と続く中で、酒害者にとっての嘘は、生きていくための必要悪となる。
 
われわれは酒以外の問題で嘘をつくことはなかったのだが、生活のほとんどすべてが酒に関わってくるとなると、他者から見て、どうしても嘘で固めた人間になる。
 

 その嘘が原因で、われわれは誰にも相手にされなくなったのだ。
 
一人ぼっちの孤立した暮らしの中でますますひどい酒を飲むようになり、心身ともにぼろぼろになった。
 
アルコール依存症は酒をコントロールできない病気であるとともに、孤独が際限もなく深まる病気だともいえるのである。
 
だから、この病気から回復するためにもっとも必要なことは、孤独から抜け出すことである。
 
言い換えれば、信頼できる仲間を作ることである。
 

 一人では酒をやめられないから、必然的に断酒会ができたと考えることができる。
 
酒害者は酒の歴史とともに生まれていたと思われるので、ずっと以前から酒に悩む人達の中には、酒を断つしかないと考えた人もいただろうし、一人でそれなりの努力をした人もいたと考えられる。
 
だが、そうした人達の努力がことごとく破れたため、アルコール依存症は不治である、という偏見が生まれたのではないだろうか。
 

 われわれ自身を振り返って考えるとよくわかることだが、何度か一人で酒を断つ努力をした結果は無残なもので、断酒会に入会することでやっと断酒できたのである。
 
断酒会をはずしてわれわれの断酒はあり得ない。
 

 断酒会でわれわれがやっていることを、非指示的集団療法と医療関係者たちは呼んでいるが、正にその通りで、誰かの指導で酒のやめ方を学んでいるわけではない。
 
われわれは断酒会に全く平等な立場で参加し、本音で話し合える仲間としてお互いが助け合い、励まし合い、啓発しあって新しい生き方を目指すのである。
 
そうした信頼関係が断酒会の中で得られるため酒がやめられるのだから、われわれはとても一人で断酒できるとは考えられない。
 

 また、断酒会に入会して数年断酒が継続されている人の中に、「これからは一人で止めていきます」という人がいる。
 
絶対やめられないと思っていた酒がやめられたときの歓びは、口では表現できないほどだ。
 
正に奇跡だと思う。
 

 だが、そのとき、断酒会が自分に奇跡をもたらしてくれたと考える人は道を間違わないのだが、自分は奇跡を起こすほどの力のある人間だと勘違いした人は、自分を過大評価するようになる。
 
自分独自の発想や実践方法を絶対的なものだと考えるようになり、もう仲間と一緒でなくてもやっていけると考える。
 

 そうした人達が断酒会から離れて、どんな結果を出しているのだろうか。
 
ほんの短い期間なら、その人独特の考え方でやっていけるかもしれない。
 
しかし、一人ほど弱いものはない。
 
理解してくれる人も助言してくれる人も周囲にいなくなると、結局は自分の殻の中に閉じこもってしまうかもしれない。
 
そして、酒を飲んでいなくても、あのひどい酒を飲んでいたころの孤独な状態に戻ってしまう。
 

 考えてみれば、その人にとって酒はかつて、孤独を一時的に解消してくれる特効薬でもあった。
 
人間の記憶はかなりいい加減なもので、また、時間の流れは恐ろしいものである。
 
一人ぼっちの断酒が苦しくなったとき、過去の辛い酒のことだけを思い出せばよいのだが、もう一つの楽しい酒の記憶が戻ったりする。
 
そうなると、飲酒の誘惑に勝てなくなるのは時間の問題になる。
 

 とにかく、一人で断酒すると言って会から離れて、よい結果を出している人はいない。
 
われわれは一人で止められるというどんなに強い自信を持ったにせよ、現実をじっくり見れば、断酒会から離れることがどんなに危険なことかよくわかるはずである。
 

 われわれは、そうした先輩会員の脱落への過程を素直に受け止めて、自分ひとりの力だけではどうにもならないことを、改めて確認しよう。
 
そして、これからの自分の断酒の糧にしよう。
 




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<うぐいす>
阿武山の坂に登れば ウグイスの 声のどかなり 断酒の喜び  



2.断酒例会に出席し自分を素直に語る





 断酒と自らの意志によって酒を断つことで、外からの外圧で酒をやめさせられる禁酒とは意味が異なる。
 
従って、断酒会ではどんな場合でも強制があってはならないのだが、例会出席に関してだけは「必ず」という言葉がよく使われ、「鉄則」だとさえ言われている。
 

 どんな組織に入会しても、それがたとえ趣味の会であったとしても、その組織が催す会合に出席することが第一条件であるが、断酒会の場合はそれが特に強調される。
 
自分ひとりの力だけではどうにもならないことを認めて入会したので、あるいは入会後、そのことが身にしみてわかったので、出席するのは当たり前のことだと言えばそれまでだが、これには多くの重要な理由がある。
 

 断酒会につながるには二つのケースがある。
 
一つは、地域から直接に入会するケースである。
 
この場合、一人で何とか酒を切っている人もあるにはあるが、まだ身体の中のアルコールが抜けていない人が圧倒的に多い。
 

 家族や友人の説得で、自分自身の意思で、あるいは断酒会員の酒害相談に反応してその気になっていても、突然酒を切ることになるので、彼らの心が不安定なことはいたし方のないことである。
 

 断酒意欲と飲酒欲求が交互にめまぐるしく彼らを襲うので、活力と不安と苛立ちに自分を見失ってしまいそうになる。
 
こうした場合、再飲酒を防ぎ心の安定を得るために、どうしても飲まない時間を稼ぐ必要が生じてくる。
 

 それを可能にしてくれるのが、酒を飲んでいない仲間が大勢集まっている例会である。
 
例会に毎日のように出席することで、共通の体験を持つ会員たちの話が彼らを落ち着かせ、不安と苛立ちが嘘のように消える。
 
人によってはそれでも不十分なことがあり、それを補ってくれるのが仲間への電話であり、訪問である。
 

 もう一つは病院で治療を受ける中で断酒を決意し、断酒会につながったケースである。
 
この場合、治療中に酒が切れ、安定し、いろいろなアルコール依存症に関する知識を得たといっても、それだけですんなりといくものではない。
 

 頭の中で組み立てた知識での断酒のイメージと現実との差に戸惑い前者同様、不安や苛立ちに襲われて飲酒欲求が起こることがある。
 
前者のようなからだの欲求は少ないが、その他は同じである。
 
したがって、彼らも時間を稼ぎ、地域の断酒会に早く馴染む必要がある。
 

 単に時間を稼ぐために例会はあるのではないが、まず最初に例会が果たす役割は、こうした一見単純そうなことである。
 
しかし、この役割は最も重要なもので、入会直後の例会出席の多少が断酒の成否の鍵になっている。
 

 例会の中には、信じられないような大切なものがぎっしり詰まっている。
 
まず、同じ悩みを持つ人たちが集まっているので、今まで出会うことのなかった、自分の悩みを正確に理解してくれる仲間にめぐり逢える。
 

 しかし、入会当初は不安と緊張で硬くなっているので、そうした重要なことに気づかない。
 
逆に、「しゃべらされるから例会に出たくない」という人が以外に多い。
 

「何をしゃべってよいのかわからない」と「何かしゃべると笑われそうで嫌だ」の二つが、新入会員を無口で臆病にする。
 
長い期間孤立し、酒に自らの主体性を奪われた生活をしていた人間が、久しぶりに大勢の人間の中に出るのだから無理のないことである。
 

 だが、いくらしゃべりたくなくても、住所と氏名ぐらいなら誰にでも言えると思う。
 
名前を言えるようになると、その後に「がんばります」とか「何とか我慢しています」と付け加えることができるようになり、やがて「○○町の○○」です。何とか頑張っています。今後ともよろしく」となる。初めのうちはそれで十分である。
 いつ、どんな場合でも、未知の者同士に新しい人間関係がつくられる時には、必ず言葉が交わされる。
 
何かをしゃべるからこそ、人と人との関わり合いが生まれる。
 
ほんの二、三秒の言葉が断酒への意思表示になり、他の人たちに心を開いたことになる。
 

 会員たちはこの短い発表にすぐ反応して、「○○さん、本当によかったですね、一緒に頑張りましょう」と話しかけてくる。
 
ほんのちょっぴりしゃべったことで人間関係は一歩前進し、暖かい対話も生まれる。
 

 初めて断酒例会に出た人たちは、酔っ払っていない限り口数が非常に少ないか、全く沈黙を守っている人が多く、警戒的でもある。
 
断酒会はある意味では命より大切な酒を取り上げる会であるから、譬え断酒するために入会しても警戒的にならざるを得ないだろう。
 

 しかし、勇気を奮って、何でもよいから一言しゃべろう。
 
飲みたければ飲みたいと言おう。
 
自信がなければ自信がないと言おう。
 
誰も馬鹿にしたりはしないし、非難もしない。
 
本当の気持ちを述べることが一番大切であり、そこから始めて断酒への道が拓けるからである。
 

 断酒会は、酒を断って新しい自分を創っていく会であるが、酒を断った直後には、新しい物の考え方はなかなか生まれてこない。
 
従来通りの生活の中で、ただ酒だけは飲んでいないという形を作るので、いろいろな混乱が起こる。
 
時には、酒をやめていることの意味すらわからなくなる。
 

 我々は随分長い間、何を考えるにしても、何をやろうとしても、その前にまず一杯であった。
 
つまり、酒がからだに入っていないと何もできなかった。
 
それが、一滴のアルコールも入っていない状態で物を考え、何かをやろうとするので混乱があるのは当たり前のことである。
 

 混乱を防ぐには主体性のある新しい発想が定着しなければならず、それを自分のものにするためには、どうしても例会に出席する必要がある。
 
例会で人の話をじっくり聞き、聞いたことを自分なりに判断して、今度は自分が話そう。
 

 かなり精神が不安定な状態で自己表現するので、最初のうちは不思議な話もするし、見当違いなこともいう。
 
時には、ひどく人を傷つけることさえ言うこともある。
 
しかし、誰もそうした発表を批判することはない。
 
誰もがたどってきた道なのである。
 
だから、どんなに自信のないことでも、迷わずに事実通り話せばよい。
 

 過去の酒害体験を話すことは非常に重要なことだが、恥かしくて言えなければ無理に言わなくてもよい。
 
断酒の日が重なると、いずれ自分から言うようになる。
 
それが話せないと、断酒も続かないことが解かるようになるからである。
 

「語るは最高の治療」という言葉が断酒会にあるが、人の話を素直に聞き、事実通りはなすという前提があって、初めて生きた言葉になる。
 
ただひたすら自分を率直に語り続けることで、我々は同じ酒害者であり、同じ人間であることを確認し、信頼できる仲間であるからこそ一緒に断酒が継続されているのである。
 

 生きている限り断酒例会に出席し、何十年断酒が継続されていても、自分を率直に語るというのは何ら変わるところがない。
 




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<うめ>
命より家庭よりもの酒捨てし 強き勇者の君を仰ぎぬ  



3.酒害体験を掘り起こし、過去の過ちを素直に認める、
 
   また、仲間たちの話を謙虚に聞き自己洞察を深める 





 惨めだった過去は思い出したくない。
 
誤った生き方を続けたことも認めたくない。
 
そうした傾向は人間なら誰にでもあることだが、我々の断酒を継続させるためには、そうした事実を素直に認めることが欠かせない。
 

 病気のせいだとはいえ酒に振り回されて、自分でも嫌になるような行為を繰り返した。
 
自己中心的なものの考え方が強くなり、自分の間違いを棚上げして人を理由もなく攻撃し、傷つけた。
 
時には暴力すら振るったこともある。
 

 酔いが醒めれば後悔し、もう二度と同じ誤りは繰り返さないと心に誓いながら、酒を飲むと同じ結果になった。
 
周囲の人たち、特に家族に与えた苦痛は計り知れない。
 

 そうした酒害体験を思い浮かべることは、恥かしく、苦しく、恐ろしい。
 
しかし、逃げ出してはけない。
 
それどころか、記憶の薄れている部分や、まるで記憶にない部分まで掘り起こす努力をし、当時の自分の姿をより明確に頭の中に再現する必要がある。
 

 酒を断ったのだから、暗い過去のことは忘れ、明るい将来の展望のみ考えればよいと思うかもしれないが、そうした発想では断酒は継続されない。
 
我々と酒との関係をもっとも正確に教えてくれるのは、あの惨めな日々の自分の姿であり、酒によって歪められた自分の心であるからである。
 

 断酒してある程度日数が経ち、自分を表現する力がついてきたら、積極的に過去の酒害体験を掘り起こし、機会あるごとに話そう。
 
断酒例会の中で語られる様々な話の中で、過去の酒害の実態がなんといっても柱になる。
 
酒で病んでいた自分の心を詳しく知ることが、断酒継続へのエネルギー源になることは誰も否定できない。
 

 こだわりは場合によってはよくないことだが、我々が自分の酒害体験にこだわることは重要である。
 
酒害の恐ろしさが生々しければ生々しいほど、その対極にある幸せへの願望が強くなり、我々は酒に手を出すことはない。
 

 二度とあんな生活に戻りたくないと願うなら、その戻りたくない生活の本当の姿を忘れないことだ。
 
真に平和を願う人たちが、戦争の悲惨さをいつまでも忘れまいとするのと同じである。
 

 ところが、いくら掘り起こそうと努力しても、どうしても思い出せないことがある。
 
しかも、その掘り起こせない部分が、記憶にある部分よりずっと大きく、より重要である。
 

 我々には泥酔したときの記憶がまるでない。
 
また、そんなに酔っ払っていないときでも、記憶の大部分がすっぽ抜けていることがある。
 
そうした記憶にない部分でわれわれは、自分の意思とはまるで関係のない非人間的な行動があったりする。
 

 目覚めたとき、家族の鋭い非難の目に、いったい何をやったのだろうか、と不安になる。
 
時には、家族が逃げ出していないことすらある。
 
そんなとき、われわれはその原因を知ろうとしなかった。
 
恐ろしいからである。
 

 自分の記憶にある部分は、まだ多少正気があってやったことなので大したことはないが、記憶にない部分には病気の極端な症状が出ている。
 
酒と自分の関係がどんなひどいものであるのかが証明されている。
 
だから、その記憶にないものまで知ることが、自分の病気の本質を知り、酒を断っていく上で最も重要なものになる。
 

 それを知っているのは家族である。
 
特に配偶者が一番正確に覚えている。
 
そして、酒をやめさせるために、あるいは、単に責めるだけのためにすべてを話した。
 

 だが、われわれはそれを認めなかった。
 
酔いが去り正気に戻ったとき、とてもそんなことは信じられなかった。
 
動機がないということだけで、徹底的に否認した。
 
作り話で攻撃されているとすら思った。
 
そうした話を認めると、自分の人間としての価値が失われるからである。
 

 酒を断ってからも、家族の証言がなかなか認められない。
 
しかし、家族は嘘をついているのではない。
 
勇気を出して、事実は事実として受け入れよう。
 
自分の犯した過ちは、本当に過去を反省しているのであれば認められるはずである。
 

 酒害体験の中でもっとも大切なものは、様々な問題行動よりも、その中に隠されている酒によってゆがめられた発想や、人間らしさを欠き始めた心のほうである。
 
したがって、例会で語る酒害体験は、酔っ払ってやった無残な行動を詳細に話すことも大切だが、その時の自分の心の動きを話すことのほうがもっと大切である。
 

 記憶にないことでも話すことは可能である。
 
配偶者の証言や、仲間達の体験発表に神経を集中していると、ほとんど全部の状況を追体験することができる。
 
最初のうちは事実と少し食い違うかもしれないが、それを何度も話しているうちに記憶が戻り、やがて自分の実像に迫ることができる。
 

 その時何を考えていたのか、どんなに悩み、どんなに苦しんだのかも追体験できる。
 
また、どんなに卑怯で、どんなに浅ましいことを考えていたのかも思い浮かべることができる。
 
ずっと以前の自分の心理が、つい昨日のことのように蘇ってくる。
 
われわれは、記憶のかけらもない実体験を追体験するという、酒害者ならではの珍しいことをやるのである。
 

 われわれは酒に依存する生活を続けた結果、主体性を欠く人間に変えられた。
 
自分の人生をどう生きるのか、現在抱えている問題をどう解決するのかという大切なことを考える力を失くした。
 
自分を洞察する力などどこかにふっ飛んでしまった。
 

 若年でアルコール依存症になった人は、人格の成長に一番大切な時期にその成長が止まった。
 
止まっただけでなく、わがままで稚拙な幼児のような状態にまで退行した人もいる。
 
自我の確立ができ、自分なりの生き方ができていた人も、酒害のためにそれを失った。
 
アルコール依存症を視点を変えて考えると、自己洞察力の喪失の病気であり、自我の喪失の病気だといえる。
 

 それから回復するためには、やはり自分をじっくり見つめ、自分を良く知ることが不可欠なものになる。
 
自己洞察力を養い、自我を奪回することによって、われわれの断酒は正しい方向で継続されるのである。
 
自己洞察力とは、直感や優れた観察力で自分を見抜く力をいう。
 

 そのためには、仲間達の体験に自分を重ねて考える必要がある。
 
自分が失っているものを取り戻したり、持っていないものを新しく作るためには、それをもっている人や、持ち始めた人の話がヒントになる。
 

 ところが最初のうちは、仲間達の話を素直に聞くことがなかなかできない。
 
われわれは酒のために生活空間を狭くし、自分の殻の中に閉じこもった生活が長かったため、自己中心的な考え方しか出来なくなっていたのである。
 

 そのためわれわれは断酒初期、酒は見事に断っていても、自分の考え方をかたくなに守る姿勢から抜け出せない。
 
仲間達の話に反発したり、否定したりする傾向の強いのはそのせいであろう。
 

 素直になれなくてもよいから、とにかく仲間達の話に耳を傾けよう。
 
自分の考え方と相反することでも熱心に聞こう。
 
自分が非難されているような気がすることがあるが、そうした被害意識はすぐ消える。
 
やがて逆に学びとろうとするようになる。
 
仲間たちは自分と共通した悩みを持ち、そこから抜け出してきたことがわかるからである。
 

 素直に聞けるようになると自己批判ができるようになり、だんだん謙虚になれる。
 
謙虚になれることによって自分の本当の姿が見えてくる。
 
過去の様々な過ちが素直に認められ、洞察力が養われてくる。
 
仲間たちは自分の本当の姿を映し出す鏡なのである。
 
そして、ここから自己改革への道が開けるのである。
 

 人によっては、尊敬できる一人の先輩会員に密着して、彼の持つ優れたものを学びとろうとするが、これは知恵のあるやり方であるとともに、その先輩会員の影響から離れられなくなる危険がある。
 
やはり一番正しいやり方は、例会の中で、日常の関わりの中ですべての会員から学びとる方法であろう。
 




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<ゲンゲ>
家庭(いえ)あるも命あるも職あるも 断酒の道を歩きてこそぞ  



4.お互いの人格の触合い、心の結びつきが断酒を
 
  可能にすることを認め、仲間たちとの信頼を深める 





 一人では酒をやめられないことを認めて断酒会に入会した。
 
例会に出席して、過去の酒害体験を赤裸々に話した。
 
現在持っている悩みも率直に語った。
 
これからの人間としてのあり方についても話した。
 
しかし、断酒生活を永続させるためには、それだけでは十分でない。
 

 同じ悩みを持つもの同士がそれぞれの心を通わせ合い、お互いの人格が触れ合わなければ、いくら大勢の酒害者が集まって体験談を語り合ったとしても、その中から収穫するものは少なく断酒そのものまで行き詰ってしまう可能性がある。
 

 もともと断酒会は、酒害者同士の信頼関係が在って始めて成立した組織である。
 
そうした人間関係にすべての会員が無関心になれば、断酒会は一気に崩壊してしまうだろう。
 
われわれ酒害者同士に一体感がかけたとき、断酒も、断酒会も消失することを忘れてはならない。
 

 昭和33年秋、完全自立を目指す断酒自助集団が高知で発足したときは、会員はわずか二名であった。
 
一人で一年半酒を断っていた元政治家と、まだ酒が切れていない28歳の青年であった。
 

 青年は何も考えず、元政治家をひたすら信じてついていった。
 
元政治家は、どんなに努力しても失敗してしまう青年を、誠意と根気と信頼感でやっと断酒に成功させ、自らは酒害相談のノウハウを学ぶことができた。
 

 やがて、元国鉄助役が入会し、「やっとたどり着いた。やっと自分のいる場所を見つけた」と、感動で声を震わせた。
 
次いで、一人で五年も酒を断っていた老人が入会し、「酒を飲まない仲間ができて本当に良かった」と、ほっとしたように笑った。
 

 彼ら4人は、お互いが酒害者であるというだけで、それぞれ何の迷いもなく受け入れた。
 
すぐに一体感が生まれ、全国組織づくりの基礎を作った。
 
酒害者同士の信頼関係があって初めて成立した組織である、と敢えていう理由がこれである。
 

 酒に溺れ、孤独な生活を続けているうちに生まれた、自己中心的な考え方から脱出するには時間がかかる。
 
自分のことを素直に話せるようになっても、人の考え方をすんなりと認めるには抵抗がある。
 
自分の考え方に固執しない人はよいが、そうでない人は相手の考え方を軽視したり、否定したりする。
 
それが原因でやがて意見の対立が始まり、感情のもつれになる。
 
ついには人間関係を損なう不信感にまで発展することがある。
 

 不信感が生まれると例会に溶け込めなくなり、積極的に出席していた姿勢が崩れる。
 
そのうち、現在断酒できているという実績だけを心の拠りどころにして、例会に出ないようになる。
 
面白くない場所には出たくない、考え方の違う人達とは話し合いたくないというのが、人間の持つ一般的な傾向である。
 

 われわれは、断酒という目的はひとつであっても、異なった様々な視点を持っている。
 
性格や生活環境の違い、あるいは、今まで生きてきた人生の捉え方まで違う。
 
それぞれの価値観を持っているのだ。
 
だから、自分の考え方だけが正しいと言う発想を捨て、お互いの価値観の差を知り、それを受け入れる努力をしよう。
 

 われわれの断酒が継続され、人格の向上がたゆみなく続いている要因の一つの柱に、酒害者同士の濃密な仲間意識がある。
 
常に助け合い励ましあう友愛を、傷つけない裏切らない友情を、社会一般の人たちよりずっと重視しているところにある。
 
そうした強い信頼関係をつくるには、仲間達の断酒理論を理解することより、人間そのものを深く理解する方が重要である。
 

 より深く理解しようと努力する過程でお互いの人格の触れ合いがあり、心と心の結びつきが始まる。
 
ついには、何でも話せ、何でも分かり合える関係にまでなれる。
 

 いまだに偏見、誤解の目で見られているアルコール依存症という病気の実態を、正確に理解しているのはわれわれ当事者と、家族を含めた一部の人達でしかないことを考えると、われわれ仲間同士の心と心がしっかりと結びつくことは、ごく自然なことでもある。
 

 断酒会には信頼関係があるからこそ、自分の欠点をさらけ出しても軽蔑されることはない。
 
逆に、その率直さが評価される。事実と本音を常に話すことで信頼関係はますます強くなり、やがて強い絆となる。
 
そしてその絆の強さが、断酒継続の強力な武器となる。
 

 しかし、よくよく考えると、努力して仲間たちとの信頼関係をつくったずっと以前から、われわれは仲間たちを信じ、断酒会を信じていた。
 
断酒会に入会したとき、仲間たちは今まで関わってきたどんな人たちよりも、われわれのことを理解してくれた。
 
こうした人達がいるからこそ断酒会は信じられる、と思った。
 

 つまり、信じるということが、我々には最初からあったのである。
 
だから、初心に還りさえすれば、どんなに物の考え方に差があったとしても、信頼関係を作れないはずはないのである。
 

 我々は飲酒時代、あらゆる信頼関係をなくしていた。
 
周囲の人達は勿論、家族の間にもなくなっていた。
 
また、人を信じなくなっていた。
 
人に信じられないようになっていたからである。
 
信頼関係は人と人との間にあるものであるから、どちらか一方が信じていないと成立しないものであるが、我々の場合は両者がそうであった。
 

 断酒が継続されるようになって、自分や人を信じられるようになり、周囲の人達からも信じられるようになった。
 
前者との差は歴然としている。
 

 信頼のない人生は空ろであり、ある人生は充ちている。
 
「断酒幸福」という言葉は、信頼関係の復活そのものを指すといっても過言ではないのである。
 




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<ハナミズキ>
あの地獄思えば遠き水口も うれしき集いの元旦例会  



5.自分を改革する努力をし、新しい人生を創る





「断酒」とは酒を飲まないことだけで充分だ、と考えるのは、断酒初期であれば別にとやかく言われるものではない。
 

 激しい飲酒欲求に襲われたとき、早く自分を変えたらよかったのに、自己改革が進んでいたら飲みたい気なんか起こりはしなかったのに、などとはまず考えない。
 
頭の中にあるのは酒だけだからである。
 

 断酒例会の始まる時間まで何とか我慢するか、できそうにもないと思えば仲間に連絡をとればよい。
 
初めて断酒に挑戦したときは、誰でもそんなものである。
 

 酒を飲まないための段取りもしないで、受け売りの断酒理論にこだわってあれこれと考えていると、逆に酒に走る可能性が強い。
 
断酒経験が浅いときは、経験豊かな仲間が実践活動を通して構築した、それぞれの理論や自己改革法は現実味に乏しいので、危機を防ぐことには結びつかない。
 

 だが、いつまでも酒さえ飲まなければよいのだと単純に考えていると、結局、その飲まないはずの酒を飲んでしまうことになる。
 
本物の断酒とは、コップの中の酒を口に入れるか入れないかという、単に物理的な動作を指すものではないからである。
 

 我々は例会に出席して、自分の本当の姿を探し始めた。
 
仲間たちとの対話と信頼関係を通して、自分がだんだん見えてきた。
 
しかし、仲間たちとの友情がいくら深まっても、自分の本質に迫ることができていても、自分を変える努力を始めなければ、アルコール依存症という病気からの回復はないのである。
 

 我々は、アルコール依存症という酒を飲まずにはいられない病気になったが、そうした状態になるまでの生活体験の中で、心に歪みやひずみを持つようになった。
 
将来の展望も開けず、焦りと無気力が交互に訪れるような状態では当たり前のことかもしれない。
 

 幼児のようにわがままで、社会性がまるでなくなっている人もいる。
 
他罰的、攻撃的で、自分だけが正しいと思っている人もいる。
 
現実を直視する勇気がなく、現実と幻想の入り混じった世界でぼんやり暮らしている人すらいる。
 
家族がいてもいなくても、孤独な生活を続けることで視野が狭くなり、自分以外のものに目を向けなくなるのが一般的である。
 

 であるので、アルコール依存症がからだの病気だけでないことを理解し、個人差はあるにせよ、それぞれが心の健康を欠いていたことを認めよう。
 
また、酒を断ってもこうした傾向は急に改善されず、この健全と言えない心が原因になって再飲酒する危険がある。
 

 我々にとって本物の回復とは酒を飲んでいないことだけでなく、長い飲酒時代に身についた、様々な欠点を直し続けなければ得られないものである。
 
言葉を換えれば、これまでのあらゆる価値を転換することである。
 

 自分の欠点を捜すことはそんなに難しいものではない。
 
自分を変えなければならないと考えるだけで、自分の持っているいろいろな欠点が浮かび上がってくる。
 
例会を通してすでに、それとなく気にしていたからである。
 
今まで気になりながら認めたくなかったことを、素直に認めるということである。
 

 それさえできれば、自分自身のこれまでと、これからの生き方に問題意識が持てるようになり、我々の回復は生きている限り続く。
 
そしてある時点から、社会一般の人達よりずっと洞察力が深まり、それを足がかりにしてあらゆる改善が進み、より豊かな人間性を持つようになる。
 

 普通の病気が回復するということは、元の健康なからだになったときすべてが終わる。
 
しかし、アルコール依存症は一生かけて治さなくてはならない病気であり、からだだけでなく心の病んだ部分を治し、その上、人間としての成長が死ぬまで続く。
 

 普通の病気が治って元通りになる状態をゼロと考えると、酒害者がアルコール依存症から回復する場合は、ゼロを通り越してプラス一にもプラス五にもなるということである。
 
周囲の人たちに与えた苦痛を除いて考えれば、あるいは、恵まれた病気と言えるかもしれないのである。
 

 自己改革をするために、自分自身を肯定的に捉えよう。
 
酒に溺れ切った生き方そのものを否定しても、自分の人間性まで否定しないでほしい。
 
自分が元々駄目な人間であり、そのせいで酒害者になったと考える人には、自分を改革する余地がないのである。
 

 自分が酔っ払ってやった非人間的な行動は許せなくても、自分という人間そのものは許そう。
 
自分を責めてばかりいる人は、自分のあら探しはできても、自己改革のためのエネルギーを持つことはできないのである。
 

 断酒会発足当時は、「断酒互助会」「断酒友の会」「断酒新生会」等の名称が多い。
 
これらの名称は、それぞれの組織が最も重視していたテーマをつけている。
 

「互助会」は、お互いが助け合い、励ましあうことを一番大切に考え、「友の会」は、同じように仲間同士の信頼関係に重点を置き、「新生会」は、断酒して新しい人生を創造するという、全断連の基本理念をそのままを会名としている。
 

 断酒してもとの人間らしい人間に立ち返り、昔の幸せな生活を取り戻すのだ、と考えるのは悪いことではないが、もう一歩進んで、生まれ変わった気で全く新しい生き方を創るのだと考えるほうが、より積極的にこれからの人生に取り組むことができ、また、最も意味の深い生き方ではないだろうか。
 
各地域断酒会で「ゼロからの出発」という言葉が良く使われているが、それが我々には一番正しい選択ではないだろうか。
 

 また特に、人格形成の一番大切な青年期に酒害者になった人にとって、元の状態に戻るということは、まるで未熟な自分に戻ることでしかない。
 
それよりは、断酒することによって新しい自分を創る作業を始めるのだと考えるほうが、もっと意味があるのではないだろうか。
 

 人生のまだスタート地点にいる青年酒害者が、自らの創造性を発揮して豊かな人生づくりに挑戦する。
 
そこには暗いイメージのかけらもなく、苦痛を乗越えてきた人のみが持つ力強さがある。
 
断酒会を人生の落伍者集団としか見ていない人達の目を、彼らはきっと覚ましてくれるだろう。
 

 壮年期に酒害者になった人は、挫折の体験がそれなりに豊富である。
 
飲酒時代は挫折するたびにやけ酒になったが、断酒した今となっては、その挫折の原因が自分の性格、能力等を知る上で重要なポイントになる。
 
新しい自分を創るためにはどんな方向転換が必要なのかが、その挫折体験の中にぎっしり詰まっている。
 
新しい選択をするのには消極的な年代だが、断酒会員は一般の同世代とは違うことを広く知らせて欲しい。
 

 長い人生を立派に生きてきて、老齢になって酒害者になった人にとっても、同様のことが言えるのではないだろうか。
 
青年期、壮年期のすばらしかった自分を取り戻そうとしても、時間は戻らないし、自分を取り巻く状況はすべて変わっている。
 
過去の夢を追うよりは老いを素直に受け入れ、これからすばらしい老後を創ろう、と考えるほうが自然ではないだろうか。
 
またそう考えることですばらしかった過去の自分が、自然に蘇ってくるのではないだろうか。
 

 アルコール依存症という病気は、創造性の喪失の病気と言い換えることができる。
 
我々は過去、惰性だけで人生を生きてきたような気がしないでもない。
 
だから、この病気から回復するためには、今まで持ち続けてきたすべての価値の転換を図ることが重要であり、それを行動に移すことではないだろうか。
 

「断酒新生」、これは永遠に変わることのない我々の最重要課題である。
 
 



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<バビアナ>
日日の小さき幸せ喜ぶも あの日の苦しみ忘れ得ぬこそ  



6.家族はもとより、迷惑をかけた人たちに償いをする 





 酒を飲まないのが最大の償いである、と考える人は多い。
 
確かに、酒が直接の原因で家族や周囲の人々が受けた苦痛は、われわれの想像をはるかに超える。
 
したがって、われわれが酒を断つことで家族の苦しみは半減し、幸せな生活を徐々に取り戻す。
 

 何故苦しみが半分残り、幸せが徐々にしか取り戻せないのだろうか。
 
それは、酒を飲まないことだけで償いが終わるものではないから、すべてが一挙に解決しないということである。
 

 酒を断ってすぐに、迷惑をかけた人たちに何とか償いたいと考える人たちは少なくない。
 
酒を飲まないことだけに集中して、周囲の人たちに対する配慮に欠けるのは無理のないことである。
 
しかし、断酒が継続されている過程で、過去の自分の所業に罪の意識を持ち、何とか償わなければならないと考えることは、人間なら当然のことである。
 

 しかし、アルコール依存症は病気であるので、病んだ心が原因で行った様々な行為に、罪の意識が強すぎることは危険である。
 
そんな自分を赦せないと考えて自分を責め続ける人は、決して家族の望む償いをすることはできない。
 
自分本来の人間性を肯定し、病んだ自分の心を赦すやさしさが無ければ人間を幸せにすることなどできるはずがない。
 

 といって、まるで罪の意識のないことは非常に危険である。
 
すべてを酒のせいにして、自分を見つめる努力をしない人は、自分を責める代わりに断酒したことを過大評価し、やたらと誇大性が強くなってしまう。
 
酒と戦って勝利を収めた英雄だと思っている。
 
贖罪意識の代わりに上昇意識がやたらに強く、断酒会の中で目立つことばかりを考えるようになる。
 

 われわれは酒に支配された生活を続けた結果、自己否定の傾向が強くなった。
 
酒をやめられないと信じていたからである。
 
そんな中で、自分を責めることだけが安らぎになっていた。
 
酒はやめられないが、自分を責めてさえいれば、あるいは家族に許してもらえる、と考えていた。
 
自己否定、自責等は酒を飲んでいた頃のわれわれの特徴であるので、それから脱却し、それでいて贖罪意識を持つ必要があるのである。
 

 飲酒時代の手前勝手な考え方が妻子に与えた傷は深い。
 
断酒が継続され、精神的にも安定が得られたら、妻子の心の傷を癒すのにどんな対応が必要なのかを考え、努力することが、われわれの償いの中でもっとも大切なものである。
 

 率直にわびることが大切である。
 
妻子の望むことを、できる限りしてやることも大切である。
 
それをするためには、妻子の痛みを自分のものにしようとする気持ちが大切である。
 
それが最高の償いである。
 

 また、時には、われわれより家族の回復がずっと遅れている場合がある。
 
「アルコール依存症は家族ぐるみの病気である」という言葉どおり、われわれの酒のため家族が病んでいることがある。
 
われわれが酒を断って回復への道を順調に歩き出しても、家族によってはそれに歩調を合わすことができず、いろいろな問題を引き起こす。
 

 断酒した夫をひたすら責め続け、実現不可能な過酷な要求を突きつけたりする。
 
平和な家庭づくりに励んでも、片っ端から破壊したりする。
 
しかし、気長く対応して、回復を援助するのがわれわれの償いである。
 

 傷が深すぎる夫婦の場合、両者がどんなに努力しても、愛情関係がなかなか復活されないことがある。
 
長い年月をかけて徐々に深まった溝だけに、努力だけではそんなに早く埋めきれない。
 
だが、償いの気持ちだけは持ち続けて欲しい。
 
時間をかければ愛は復活するだろうし、そうでない場合でも、両者が納得いく結果が出るだろう。
 

 一家がすでに離散してしまった人もいる。
 
償う相手がいないと思うかもしれないが、そうではない。
 
償えなくても償う気持ちだけは捨てないぞと考え、それなりの行動を起こすことで自らが浄められる。
 
酒害相談に積極的に取り組むことがそれである。
 

 断酒会の創世記に、松村春繁(全断連初代会長)が病躯に鞭打って全国行脚したのも、第一世代の断酒会員たちが、断酒会結成のためすべてをなげうって各地を奔走したのも、償いの心を潜めていたと考えられる。
 

 家族以外の人たちに対する償いも必要不可欠である。
 
詫びるだけでなく、経済的に迷惑をかけていたら具体的な形で償うべきである。
 
借りたものや金は早急に弁償することが大切である。
 
現在それが不可能なら、近い将来弁償すればよい。
 
物事のけじめをつけられなかった飲酒時代を考えると、これは自分が回復するためには欠かせないことである。
 

 もっと広い視野で考えると、社会に対してかけた迷惑の償いに、その社会に積極的に貢献することである。
 
自ら治療を受けている人たちは勿論、地域で酒害に悩んでいる人たちを支援することである。
 
もっともっと広く考えると、酒害者を新しく作らないための、酒害啓発活動がある。
 




 
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<ハボタン>
この父の元に生まるを 恨む娘(こ)が 初月給にてライター贈りぬ  



7.断酒の歓びを酒害に悩む人たちに伝える 





 われわれは酒の奴隷になり、どう考えても人間らしさを欠いた生活をしているのに、酒をやめる必要はないと思っていた。
 
アルコール依存症には元来、社会に適応できない人間がなるものという偏見を自分の内部に持っており、自分の酒を否定することは、自分の人格を否定することでもあった。
 

 ところが、病気の進行と自分を取り巻く状況の悪化や、自分の心の中に芽生えてきたどん底感によって、やがて、酒をやめたいと願うようになった。
 
だがもう一方では、やめられるはずが無いという考えも合わせて持っていた。
 
時には酒は、自分の命より大切なものであったため、断酒は実現不可能なものとあきらめていた。
 

 その不可能だと思っていたことが、断酒会に回り逢い、断酒例会を通しての家族の理解の深まりや愛の復活と、仲間たちとの信頼関係と暖かい援護によって、可能であることが実証された。
 

 われわれはどん底から這い上がり、本当の自分を取り戻すことができた。
 
断酒会は奇跡をもたらしてくれた、と感激した。
 
久しく忘れていた充足感と歓びのうちに、中身の濃い毎日を送っている。
 
これから解決していかねばならない問題も多くあるが、それを乗り切るだけの知恵も行動力も自分のものにしつつある。
 
われわれの将来への展望は明るい。
 

 断酒を可能にしただけでなく、自分を愛し、家族を愛し、それを人間愛まで高めることができた。
 
そのきっかけをつくってくれたのは、同じ酒害者である断酒会員である。
 
彼らの誠意溢れる幸せへの情報伝達によって、現在の自分があることを考えれば、同じことを酒で悩んでいる人やその家族にしようとごく自然に思いつくはずである。
 

 思いついたことはすぐ実行に移そう。
 
そして、いつまでも続けよう。
 
ところが、その人間愛に満ちた奉仕活動を簡単に中断する人がいる。
 
理由は、自分なりに頑張ったが、どうしてもわかってもらえない。
 
私は酒害相談に向いていないんだ、が圧倒的に多い。
 
本当にそうだろうか。
 

 自分の入会直前の状態を思い出してもらいたい。
 
われわれを訪ねてくれた断酒会員によっては、言っていることがよくわからないことがあった。
 
同じ酒害者であるといっても、相談を受ける側が現在の幸せな状態ばかりを説明していては、両者の断酒に対する発想に差がありすぎるので、そう簡単には理解できない。
 

 酒害相談で一番大切なことは、自分の入会前の最悪の状態を頭の中に再現し、それをありのままに話し、どんなひどい酒害者でも断酒できるという事実を伝えることである。
 
断酒などとてもできそうにないと考えている人を説得するには、自分が彼らからすぐ手の届くような存在でなくてはならないのである。
 

 また、自分で磨き上げた断酒理論による説得は、相手を追い詰め、反感を買うだけである。
 
時にはやっと芽生えかけた断酒への意欲を潰しかねない。
 
ほとんどしゃべらないで側に座っているだけで、相手に断酒を決断させた人もいるのである。
 
要は、自分にも相手にも誠実でありさえすれば洞察力が働き、相手に最適の話ができる。
 
そして、意外にすんなりと納得してもらえることが多いのである。
 

 われわれは酒浸りの生活の中で、自己中心性と受動性を身につけてしまった。
 
わがままで自己主張が強いくせに、あらゆる面で家族や友人に頼って生きてきた。
 
酒以外のことにほとんど関心がなくなり、やがて、飲むことだけを考えてぼんやり生きるようになった。
 
これほど消極的な人生を生きている人間は珍しい。
 

 アルコール依存症から回復するということは、酒を飲まないことだけでなく、そうした自己中心性、受動性を変えることでもある。
 
そのためには酒害相談を積極的に行うことが最善の方法になる。
 
自分の現在の幸せを酒害に悩んでいる人たちに分かつことで、自己中心性からの脱却があり、自分も愛せなかった人間が人を愛するようになる。
 
たとえ一人の酒害者でも断酒に結びつける手伝いができれば、自分の断酒の歓びは倍加し、積極性が蘇る。
 

 酒害相談というわれわれの奉仕活動は、社会一般の奉仕活動とはかなり差がある。
 
無償で社会や他人のために尽くす行為であることには違いはないが、よくよく考えると、金品には代えられない大きな収穫がある。
 

 酒に苦しんでいる人やその家族に接することで、ともすれば薄れがちになる自分の酒害の記憶を生々しく思い出し、自分のやるべきことが再確認できる。
 
酒害者と酒害者の連帯、人間と人間の触合い、自分自身のあり方、その他、様々な断酒の糧となるものが、彼らとの関わりの中にある。奉仕という言葉が適当でないほど自分のためになっている。
 
だから、もっと積極的に、もっと純粋に酒害相談活動に取り組むべきではないだろうか。
 

 断酒会員である限り、いつまでも酒害相談を続けよう。
 
そうすることによって、常に愛と感動を自分のものにできる。



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<ハマナス>
保障なき明日に心ゆらぐとも 今日一日の断酒を喜ぶ  


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