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すぐそこに、「I」さんはいた
小林哲夫(『水仲間』高知県断酒新生会30周年事業記念誌)
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滋賀県にも「 I 」さんに会うために、月に一度、明石海峡を越える酒害者がいます。〈酒害者〉
私が断酒会に入会した当初から現在まで、最も重大な関心を持って注視している先輩は、香川県の「I」さんです。
彼は私よりやや年上で、断酒会にも早く入会しました。
そしてこの人の、すべての面で私よりやや早いということが、私の断酒にとって大きな意味を持っているのです。
とりあえず一言でいうと、やや前を歩いている人には、どうやらついていけるということです。
はるかに早く断酒しているということは、入会当初の会員にとって非常に遠い存在であり、時には、雲の上の人言う感じさえ与えます。
そして、もしその人が酒害体験を語らずに、高次元の人間論や人生論を例会で展開すれば、雲の上の人どころか、全く無縁の存在となってしまいます。
しかし、やや早い「I」さんが、自分の酒害体験をじっくり話してくれるとなると、より身近な存在となり、遂には自分自身と混同するほどの存在になります。
しかも、その酒害体験を語る中に、「I」さんの深い自己洞察が加わるとなると、まさに鬼に金棒です。
自分でも信じられないほど素直になれて、いつの間にか私は、実に真剣に「I」さんから学ぼうとしたのです。
ところで、私にとっての「I」さんはやや早い人ですが、香川県の新しい会員にとってまったく同じであることに気づきます。
つまり、彼等にとってのさ「I」さんは、はるかに早い人であるにもかかわらず、どう考えてもすぐそこにいる人であり、やや早い人なのです。
何故なら、二十数年たった今でも自分の酒害体験を、常に昨日の事のように語るからです。
こうした関係が、断酒仲間同士の間では最も大切な事であり、また「I」さんが、松村会長の精神を深く理解し、誠実な断酒生活を送っていることを意味しています。
私が「I」さんの体験発表を初めて聞いたのは、昭和42年秋の断酒学校です。
その年の2月に入会したものの、わずか3カ月の断酒ののち、失敗に次ぐ失敗を重ねていた頃で、学校に参加したと言っても、妻や父の強い要請の結果に過ぎず、真剣味などあまりなかった時です。
会場は高知市五台山の吸江寺という小さな禅寺で、参加者も四、五十名という小規模なものでした。
高知県以外の断酒仲間が非常に少なかったころですので、「I」さんも何回か発言しました。
それも目頭を終え、涙を流しながらです。
また、他の会員の発表を聞いている時も同様でした。
その様子を見て私は、何というめそめそした人だろう。
飲んでいた頃は多分、ひどい泣き上戸であったのだろう、というくだらないことを考えていました。
またその程度の人間でしかなかったのです。
43年の春の断酒学校でも、「I」さんは涙をこぼしていました。
やっと断酒できるようになっていた私は、なんという涙もろい人だろう、と思ったぐらいでした。
私自身、すでに例会で涙を流したことはありましたが、それは、酒を飲めない苦しさと、精神の不安定さからくる衝動的なもので、「I」さんの涙とは異質なものであったのです。
43年の秋には、この人は生まれつき感性の豊かな人だ、と初めて「I」さんの涙を評価しました。
後になって、かなり見当違いであることが分かりましたが。
そして、44年春には、全神経を集中して「I」さんの話に耳を傾けました。
断酒の持つ意味を、積極的に模索するようになっており、そのヒントが「I」さんの話の中にある、と思うようになっていたからです。
とにかく誤解からスタートしながら、「I」さんに強く引きつけられていたのは、「I」さんの人柄は勿論、すぐそこにいる人、という親近感があったからでしょう。
その時「I」さんは、駅のプラットフォームの電球を叩き割った話をしました。
国鉄職員の「I」さんが、酔っ払って自分の職場の電球を、何とか割ってやろうと石を投げ続けたがどうしても当たらず、遂には、柱によじ登って石で叩き割った話は、「I」さんの酒乱のしつこさを表して面白かったのですが、なんと彼は、その話をしながら声を詰まらせ、目頭を押さえたのです。
「I」さんの苦渋に満ちた顔を見つめているうちに、突然私は、或ることに気づきました。
それは「I」さんが、石を投げている自分の姿を思い浮かべて話しているのではなく、自分の酒乱の日々の中で、妻子がどんな苦しい思いで暮らしていたのかを、頭の中で再現しているのだ、と推測したのです。
真っ暗な奥さんの顔、心細げな子供たちの顔が主で、石を投げている自分の姿は従だったのだ、と思いました。
そして私の推測は、私自身の酒の日々につながったのです。
石を投げた、という「I」さんの言葉から、少年時代、家の近くの川岸から対岸の堤に向かって石を投げている自分の姿が見えました。
そしてそれが、高校時代、海運業をやっていた父の店の前の岸壁から、海に向かって石を投げている自分の姿につながり、やがて、妻に石を投げつけた日のことが、くっきり浮かび上がってきたのです。
三十歳ごろのある日、昼間から酒を求めて家を出ました。
近くの酒屋に行こうとしていました。
すでに朝酒を飲んでいたせいで、まだかなり酔いが残っていました。
その私の後ろを妻がしつこく付いて来るのです。
何が何でも、もうこれ以上飲まさないぞ、という必死の思いだったのでしょう。
私は振り向いて、妻を怒鳴りつけました。
妻は立ち止まって何かを言いました。
少し歩いてまた振り返ると、妻はやっぱりついてきています。
また怒鳴りました。
妻は立ち止まって、絶対に飲まさないから、と言いました。
そんなことを何回か繰り返しているうちに、酒屋がすぐ近くになりました。
私の腹立ちは逆上に変わり、妻に向かってとうとう石を投げつけたのです。
勿論、まだ、理性のかけらは残っていたので、当たらないように加減はしていました。
しかし、何回も脅すため投げているうちに、手元が狂って、とうとう妻の足に当たってしまったのです。
妻が道端にしゃがんで恨めしそうな目で私を見ました。
いや、本当はそんな目まで憶えている筈はありません。
しかし、「I」さんの話を聞きながら、じっくり自分の記憶を掘り起こしていると、本当に見えたのです。
その上2、3歳位だった息子が、不安そうな目で家の中でじっと座っている姿まで、はっきり見えたのです。
後でこの話を妻にしますと、彼女はその時の模様を、昨日のことのように記憶していました。
恨み、憎しみ、情けなさ、その他、様々なつらい思い出が駆け巡って、その時妻は初めて、私との離婚を考えたそうです。
すぐそこにいる「I」さんの酒害体験を聞くと、忘れ去っていたどうしようもない状態を、不思議なくらい思い出せます。
その上、「I」さんの自己洞察に触発されて、私はその時の状況だけでなく、酒によって低下していた自分の人格まで、反省を込めて自覚できたのです。
つまり、自分と酒の本質的な関係が分かったのです。
涙がこみ上げてきましたが、この時の涙が、私には初めて本物の涙だったと思います。

<梅>
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飲む父にこぶし振り上げ嘆く息子(こ)と 二年表彰受くは夢かと
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それから数年して、私は「I」さんに、こんなことを言ったことがあります。
「お互いに子供が小さい頃に断酒が出来たから、もう我々が酔っ払ってやったことを、息子たちは忘れてくれているでしょうね」と。
父親の酒の悪い影響が、息子の成長の妨げになってほしくないという願望が、ついついそんな言葉になったのでしょう。
「I」さんは真剣な表情で、「小林さん、そんなことは絶対ありません。口に出さないだけで、本当ははっきり覚えていますよ」ときっぱり言いました。
やがてそのことが、私の息子によって証明されたのです。
断酒して八年余りたったある日のこと、私は高校一年生になったばかりの息子に、生まれて初めて長い説教をしたことがあります。
クラブ活動のことに関してです。
私の言ったことが正論でああったため、息子は追い詰められたような気持ちになったのか、突然、全く別のことで反撃してきたのです。
半ばやけくそのようでした。
「お父さん、僕は小さい頃、つらいと思ったことは一度もないけど、当たり雨の育ち方はしていないんだよ。そのことだけは忘れてほしくない」と。
私は粛然としました。
「I」さんはあのころすでに、自分の妻子の苦痛を完全に自分の痛みとしていたので、私にあのように断言したのです。
そして「I」さんの言葉通り、私の息子は当時の体験をからいと思ったことはない、という言葉を使って私を許しながら、当たり前の育ち方はしていない、という言葉で忘れていないことを表明し、うっぷんを晴らしたのです。
つらいと思ったことがないはずはないのに。
父親を許すために、かっとなりながらも辛いと言わなかった息子に、頭が下がる思いでした。
息子の言葉で、私は幼いころの息子の、つらい、淋しい日々を思い出しました。
そしてその日々は、父親である私が記憶しているくらいですので、当事者である息子には、絶対忘れる事の出来ないものです。
絶え間のない両親の争いに巻き込まれて、何時もおどおどしていた息子。
私が断酒会に入会してからも、遊びの時間や、一家団欒の時間を放棄して、例会についてきてくれた息子。
疲れ果てて例会場で眠ってしまった息子。
また、一人淋しく留守番をしていた息子。
全国大会、ブロック大会の時は、叔母の家に預けられていた息子。
つらい、淋しい日々であったはずなのに、と思うことで、私は自分の酒害の根の深さまで自覚できたのです。
そして、妻が例会でよく使う、「許す事は出来ても、忘れることはできない」という言葉の重みを理解したのです。
断酒が長く継続されると、ともすれば、もうこんなに長く頑張ったから、家族も昔のことを許し、忘れてくれるはずだ、と考えるようになります。
しかし家族は、私たちの努力を認め、許してはくれますが、忘れてはくれません。
過去の記憶の中から一番つらかった記憶だけを消すということは物理的にも不可能です。
しかしそんなことではなく、家族達が忘れてくれないのは、酒害の恐ろしさを再確認することで、断酒の幸せを倍加させ、協力態勢を持続するためなのです。
私はそうした重要なことを、家族からだけでなく、「I」さんが真剣に語り、熱心に聞き入る姿勢から学びとったのです。
何故なら「I」さんは、自分の酒害をえぐりながら語ると同時に、家族の立場から自分の姿を語ることのできる、素晴らしい断酒会員だからです。
聞くこと、語ることは表裏一体をなすもので、どちらが欠けても、私たちの断酒継続は危ないのです。
それを理想的な形で実践している「I」さんが、すぐそこにいる人であったのは、私にとっては幸いであったと思います。
断酒会「松村語録」より
前向きの断酒をしよう
*松村春繁 全日本断酒連盟初代会長(S38.11設立)
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