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生きた断酒と死んだ断酒
(故人)新阿武山病院理事長 今道裕之(全断連顧問)
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『孤独の殻に閉じこもったままでの断酒を「死んだ断酒」と呼ぶとすれば、開いた心をもって
生きている断酒は、「生きた断酒」と呼ぶことができます。「生きた断酒」からは自然に
仲間が生まれますし、家族との心も通じ合うようになります。』(今道先生)
断酒会ではよく、六ヶ月あるいは一年断酒した会員達に、会員らが激励の言葉を寄せ書きにした色紙が贈られます。
私達専門家もしばしばそれに、「何かひと言」とサインを求められますが、そんなとき、私は好んで「仲間を大切に」とか、あるいは、「生きた断酒を」と書かせてもらうことにしています。
半年、一年と長い間例会に出席しているにもかかわらず、いつまで経っても断酒会の中で仲間をつくれない人がいます。
ただ一人で例会に出席し、帰りもそそくさと一人で帰っていきます。
このような人は、いつか必ず例会に顔を出さなくなり、再び酒に溺れてしまうことになります。
アルコール依存症という病気が、孤独と表裏一体をなしているものであることは前にもお話しましたが、断酒会の中で仲間ができない、あるいはつくろうとしない人は、例え断酒ができていても、まだ依存症からまったく抜け出すことができていないと言えます。
人は孤独である限り、喜びをもって生きていくことはできません。
ここでいう孤独とは、外界の人達との接触を絶たれた心の状態を言います。
依存症の場合、外界との接触がまったく断たれているとは思いません。
「お前が飲むのも無理はないよ」とか、「酒飲みの気持ちが分かってたまるかよ、なあお前」といったような、自分に都合のよい言葉は耳に入ってきます。
しかし、「お前の酒は飲んでいるとはいえない、呑まれているのだ」、「どんなに突っ張ってみても、お前は酒には克てないよ」とか「夫として、父親としての責任が果たせているのか」、「今の状態から抜け出すには、完全に断酒する以外に道はないよ」といったような、自分に都合の悪い、耳の痛い言葉は、まったくといってよいほど聞こえません。
酒害者の耳は聞こえなくなっている、とよく言われる由縁です。
見ることにおいても同じです。
もう家庭は崩壊寸前の姿になっているのに、会社は首になりかけているのに、まったくそのことに気づいていません。
妻が離婚など考えるはずはないし、会社ではまだ自分を十分信頼してくれていると思い込んでいます。
現実というものがまったく見えていないのです。
外界との接触を断たれ、孤独という殻の中に閉じこもってしまった人の世界は、一体どんなものでしょう。
感覚遮断という有名な実験がありますが、これは光の音もなく、皮膚感覚や重力さえも感じさせないような空間の中に人間を置いておくと、二十四時間も経たないうちに、幻覚などの異常心理が出現するというものです。
この実験から、人は様々な現実の刺激の中ではじめて健康に生きていくことができるのだ、ということが分かります。
これは身体的な感覚の世界における孤独の現象です、心の世界の中における孤独は、さらに複雑なものになります。
人との心の交流を失った世界、喜怒哀楽の感情の共感を失った世界は、暗くて無味乾燥な、いわばそれは狂気の世界です。
閉じた心は外界との接触を失うばかりでなく、その心の世界においては、外から入ってくるさまざまな刺激は妄想的に歪められて知覚され、自己の内部に生じた刺激は、外界に向かって伝達することのできない幻覚に変化します。
アルコール依存症の患者さんによくみられる嫉妬妄想も、幻聴も、そのような完全に閉じてしまった心の世界の産物なのです。
妄想や幻覚が生じるとことまでは至らなくても、外界を健康な心で感じる能力を失ってしまっていますから、花を見ても美しいという感情は生まれず、ただ花という「物」がそこにあるだけとしか感じることができません。
子供を見ても、妻と話しても、そこに愛情が沸いてくることはなく、そこに誰か自分以外の人間がいる、という意味しかもてなくなってしまっています。
逆に、外界に向かって開いている心とはどのようなものでしょう。
閉ざされた心が無味乾燥な狂気の世界、心を失った世界だとすれば、開いた心は豊かな感情に溢れた、無限の広がりをもった悦びの世界です。
野に咲く一輪の花はこの上もなく美しいものとして目に映り、小鳥のさえずりは自然が奏でる美しい音楽と聞こえ、世界は希望に満ち、人は活き活きと躍動し、人との出会いに無上の喜びを感じます。
断酒会の人達が「酒をやめて、はじめて自然がこんなにも美しいものかと知った」とか、「生きることが、こんなに喜びに満ち満ちているものであることを、はじめて体験した」とよく話されます。
それらはすべて詩の世界だと言えるでしょう。
人も動物も植物も。あらゆる風景も道端の小さな石でさえも私たちに語りかけ、対話するのです。
心は無限に広がり、妄想や幻覚の世界とは逆に、詩の世界、美の世界が見えてきます。
閉じた心の中での想像が妄想だとすれば、開いた心の中での創造は詩や芸術につながっていきます。
孤独の殻に閉じこもったままでの断酒を「死んだ断酒」と呼ぶとすれば、開いた心をもって生きている断酒は、「生きた断酒」と呼ぶことができます。
「生きた断酒」からは自然に仲間が生まれますし、家族との心も通じ合うようになります。
断酒はアルコール依存症の治療にとって最も重要な目標ですが、言い換えればこれは本来、健康を取り戻すため、あるいは、生きていくための手段ですから、断酒は治療の目標であっても、「人がいかに生きていくか」という、人生の究極的な目標にはなりえません。
断酒が軌道にのったところで、その人がその後どんな生き方をしていくかは、人それぞれに異なり、そこには様々な人生模様が繰り広げられます。
断酒を続けながら仲間とも楽しく行動しているが、家庭の中では飲酒時代同様会話がなく、絶えず家族に当り散らしている人もいます。
あるいは、断酒会の仲でも仲間としての横の関係を結ぶことが下手で、断酒暦とか、役員と平会員といったような縦の人間関係にしか関心がもてない人もいます。
また、断酒会の中では、一般社会における学歴、職業、階級はまったく無関係であるにもかかわらず、心ひそかに、俺は奴らとは人間が違うんだ、と思っているような人もいます。
一般にはむしろ逆で、仲間と共に断酒して新しい人生を発見することによって、家族中が幸せになり、感謝と希望をもって積極的に生きようと努力する人達がほとんどです。
要は同じ断酒でも、その中身が問題です。
断酒が本当にその人の人生に大きな意味をもったものなのか、ただ断酒しているだけで、その人の生き方に何の変化もみられないようなものなのか、断酒が単なる目標を超えて、「いかに生きていくのか」の指針になることが重要なのでしょう。
ところで次のようなケースに出会うと、断酒生活においては、非常に奥の深い問題に遭遇することもあることを、強く感じさせられます。
ある人は断酒が軌道にのるようになってから会を離れました。
それからもう十年が過ぎましたが、その人はいまもひとりで断酒を続けています。
しかし、その人の表情はいつも寂しげで、どこかかげりがあり、活気が乏しいのです。
人生に対して後ろ向きで、世を拗ねて生きているようなところがあります。
断酒していますから、一般社会の人達とも気を許して付き合うことができませんし、さりとて、断酒会に戻る気にもなりません。
心のどこかで、自分の過去のアル中生活と断酒会を重ね合わせてしまっているこの人は、断酒会とのつながりを断つことによって、過去のアル中生活に訣別しようとしているようです。
しかし、いくらそう自分に言い聞かせてみても、過去から現在、そして未来への連続の中で生きているのが人間である限り、人は決して自らの過去を抹殺することはできません。
過去に決別したいと願うことは、逆にますます過去にとらわれ、いつまでも過去から解放されないようにしていると言えます。
しかし、彼は断酒会に感謝しています。
「今もこうして何とか酒がやめられているのは、初めに通った断酒会のお陰だと思っています。
私が過去に犯した罪はあまりにも大きかったのです。
私はあのことを絶対に忘れてはならないのです。
こうして酒をやめ続けていくことが、私にとって唯一の罪の償いなのです」この言葉を聞いたとき、 私はある牧師の言葉を思い出しました。
「人が他人を許すことは、自らを許すことに比べればまだはるかに易しい。
自らを許す―これほど難しいことはない」という言葉です。
こんなことから、断酒会はアルコール症者が体験を告白し語り続けることによって、究極的には自らを許容し、過去から解放される場なのではないだろうか―そこから、本当に「新しく生きる」ことが始まるのではないでしょうか。
断酒会の奥義はそこにあるように思います。
断酒会「松村語録」より
断酒会に入会すること
*松村春繁 全日本断酒連盟初代会長(S38.11設立)
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