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   感 性 の 回 復 と 断 酒


 
               小林哲夫(『水仲間』高知県断酒新生会30周年記念記念誌)
  

 78歳の映画監督・山田洋二氏に会ったとき、「これが78歳なら、歳をとるのも悪くない」と思った。
 
ある人に伝えたら、「ふつう人は年月を重ね、感受性が磨り減って頑固にそして老いていく。
 
だけど、あの人は鋼のような感受性を持っているから、苦労を重ねても磨りきれることがない。
 
そして何時までも、若く瑞々しいんだよ」と教えてもらったことがある。
 
 もし、小林先生の語られる研ぎ澄まされた感性というものが、鋼の感受性と同義であるならば是非ともそうありたい。
 
 そして死ぬ直前まで素敵でありたいと思う。(酒害者)
 
                                                 

はじめに


 

 「アルコール医療研究」編集部より、「依存より創造へ」における主張のエッセンスと、それらをさらに発展させた論考というテーマで執筆の依頼があったとき、私は内心ほっとしました。
 
何故なら、アルコール医療専門誌に断酒会の正確な姿を記述する機会は少ないからです。
 

 「依存より創造へ」は、高知県断酒新生会の創立二十五周年を記念して、昭和58年1月に刊行したものですが、発刊後、編集責任者としての私は、その反応にかなり神経質になっていました。
 
というのは断酒会はもともと合理的に組み立てられたものではなく、また、現在の医療分野でも高まっているハイテク化とは無縁の、人間の持つもっとも素朴な「感動」という心情の世界を重視しながら、今日まで発展して来たものであるからです。
 
だから、私が事実どおりの記述をしても、多分すんなりとは理解されないだろう、という危惧を持っていたのです。
 

 私の心配は半ば杞憂で、半ば予測どおりになりました。
 
各地域の断酒仲間や、アルコール専門臨床医たちは深い理解を示してくれましたが、一部の関係者には疑問もあったようです。
 
そこで、「臨床精神医学」(第12巻12号)に掲載された論文の中の、文学的な表現で感動は受けるものの、現実と乖離しないだろうかとの指摘を糸口にして、「依存より創造へ」で表現しようとしたものと、その詳細を論考してみたいと思います。
 


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1.感性の目覚めと断酒意欲


 

 「依存より創造へ」の表の主張は、タイトルどおりです。
 
アルコール症からの回復は、アルコールに対して依存するだけでなく、あらゆる依存性から脱却して、新しい生き方を創造することだとしました。
 
したがって、自分自身を変えることの重大さを強調したのです。
 
そして、それを可能にするためには、通常人としての感性を回復することだと、もう一つの主張を潜在させました。
 
意図的に文学的な表現にしたのは、その方が、裏の主張を理解してもらうためにずっと効果があると思ったからです。
 

 アルコール症者でも、生きている限りは情念の世界を残しています。
 
それに訴えたかったのです。
 
したがって、表のテーマは「依存より創造へ」であり、裏のテーマは「感性の回復と断酒」なのです。
 
今回は、裏のテーマを主にして記述します。
 


○ アルコール症者の感性の世界


 
 米倉育男氏は(病跡学者)は、高知県出身のアルコール症作家田中英光の評論の中で、「アル中は死を重ねる」と延べ、松村会長は「アル中が死ぬということは、二度死んだことになる」と同じ意味のことをいっています。
 
私は両者のいう最初の死は、通常人としての感性の死を指していると理解しています。
 

 田中英光は、太宰治の墓前で割腹自殺を図るという異常さでしたが、日常生活では魂を抜かれたように、いつもふらふらしていたそうです。
 

 松村会長は断酒会をつくる前、一人で一年半ほど断酒していましたが、その間、大学ノートに黙々と過去の自分を書き続けました。
 
そのとき、飲酒時代の自分が死んでいたことに、つくづく気づいたといいます。
 

 プロ作家を目指して頑張っていた当会会員の江村槙典は、「月の昇る風景」で評論家たちに高く評価されましたが、彼らは、「奇妙な生の喪失」という意見で一致していました。
 
アルコール症者独特の感性の世界は、通常人に生の喪失を感じさせるのです。
 
酒だけが生甲斐という暮らしの中では、通常人としての感性を失うのは、当然のことだからです。
 

 それは、アルコール症者が、不安と孤独の中で生きていることに起因しています。
 
アルコール症者の孤独は、孤独を愛する人間が進んでなった状態とはわけが違います。
 
酒が原因で周囲の人達との関係を破壊し、嫌われ、無視されることでなった孤独です。
 
止むを得ずなった孤独ですので、そうした状態を決して幸せだとは思わないのです。
 

 だから、何とかして人間関係を修復しようとします。
 
しかし、孤独の原因となっている酒を止めようとしないので、願望だけに終わってしまうのです。
 
アルコール症者が攻撃的であったり、他罰的であったりするのは、酒の問題を棚上げしておいて、自分の努力が認められない、と考えている場合が多いのです。
 

 やがて、周囲の人達との人間関係の修復を断念せざるを得なくなりますと、今度は、孤独の中に苦痛と不安が芽生えます。
 
関わりを持ちたいと思っている人たちに拒否されれば当然そうなるのです。
 
そして、それらを消すために、ますます酒にのめり込むようになるのです。
 
アルコール症者にとっての酒は、この世のすべての桎梏から解き放たれる特効薬ですから。
 

 やがて、狭い空間の中で自分だけの世界をつくり、孤立してぼんやり暮らすようになります。
 
退嬰的で、かつ、はかない世界です。
 
そして、酒以外にはあまり興味のない、アルコール症独特の感性の世界が具現されることになります。
 

 断酒会では、「この世の地獄を見たければアル中の家庭を、極楽を見たければ断酒会員の家庭を見よ」と言いますが、もう一つの事実もあります。
 
それは、「この世の極楽を見たければ、一人ぼっちでぼんやりしている酒を飲んでいるアル中を見よ」です。
 

 孤独なアルコール症者でも、酒の深い酔いの中に何らかの意味を持って生きているのです。
 
確かに、苦しくて辛い酒を、アルコール症であるが故に飲まざるを得ない一面もありますが、誰からも咎められず、一人でぼんやり飲んでいるときは、酔いの中に至福のひとときを過ごしています。
 
ときには、無我の境地に入り極楽を覗くことができます。
 

 適正飲酒者には想像できないでしょうが、人間らしさを失った飲酒の中でも、喜びはあるものなのです。
 
その喜びは、アルコール症者としての感性を持つことで感じ取れるもので、通常人としての感性を失って初めて自分のものとなります。
 
だから、こうした世界に安住している限り、断酒の意欲は絶対わいてこないと考えます。
 
酒を飲むこと意外に感動の生まれてこない人間に、酒をやめようという決断ができるはずがないからです。
 


○ 通常人としての感性の目覚め


 
 昭和六十年六月に高知市で開催されたアルコール医療研究会の分科会で、「アルコール依存症は死に至る病だという患者に対する説得は、あまり効果がない」と発表した精神科医がいたそうですが、私には、いまさら何を分かりきったことを、という感じがしないわけでもありません。
 

 病状を専門医が事実どおり説明し、命に関わる状態にまで進行していると言えば、患者は驚き怖れ、一時的に断酒を決意するでしょう。
 
しかし恐怖心は、怖れるに足る状況から抜け出すと、やがて消滅します。
 
治療が進み、からだの病気としてのアルコール症が回復すると、患者は心の病気のことなど忘れ(それが心の病気なのですが)、断酒より飲酒のことを考え始めます。
 
少しぐらい飲んでも命に別状はない、と自己診断するからなのです。
 
入院のたびにいったん断酒を決意し、退院するとすぐに酒に走るのは、失礼な言い方ですが、飲めるからだに治してやったからだと思います。
 

 病識を徹底的に叩き込むことが意味がないとは言いませんが、もっと重要なことは、患者をアルコール症独特の歪められた感性の世界から引きずり出し、眠りこけている通常人として感性の目覚めを促すことです。
 
感動しなくなった人間を感動する人間に変えることだと私は、先輩たちや私自身の体験を通じて信じています。
 

 人間その気になればやれないことはない、と言います。
 
そのやる気にさせるのが感動であり、感動はそれぞれの人の感性に直結して生まれます。
 
そして、何がその人の感性を刺激し目覚めさせるのかは、画一的に考えられるものではありません。
 
アルコール症になる要因はあまりにも複合的で、それぞれの過去の人生ドラマすべてに関係しているからです。
 
ただ一つ言えることは、誠実な対応がそれを可能にします。
 
医師は治療で、断酒会員は酒害相談で。
 

 「依存より創造へ」の事例の中で、酒に打ち克って死んだMと、敗れ去ったBのことを書きましたが、私はあえて、両者の死後のことにまで触れました。
 
それも、事実から逸脱しない範囲でかなり文学的に表現しました。
 
その必要があると思ったからです。
 

 Mの場合は告別式で妹が、「断酒会のお陰でほんの数年でしたが、兄は人間らしく生き、人間として死ねました」と嬉し泣きをした話で、Bの場合はBの死後、一周忌もこないうちに奥さんが再婚して、幸せそのもののような生活をしている話です。
 
反応がありました。
 
Mの話に関しては失敗の多かった、そう長くは生きていられないほどからだを害していた当会会員が、死ぬということは大仕事だとよく分かった、と通常人でもめったに持てない死生観に目覚め、希望を持ってきっちり断酒したことです。
 
明らかにM の死にざまに感動したのです。
 

 Bの話に関しては、岸和田市のアルコール専門病院に入院していた入院回数100回以上というYが、Bの話を読んで断酒を決意し、五十八年夏から断酒を継続中です。
 
Yは酒と心中するんだと決めていましたので、酒に命を取られることを敗北だと思っていなかったのですが、Bの妻がBの死後幸せになったことにショックを受けて、酒と心中することが恐ろしくなったといいます。
 
飲酒を敗北と認めたYの気持ちが、私にはよく分かります。
 

 松村会長は5回目の入院をするためぼろぼろのからだを引き摺って下司病院に行ったとき、下司先生の憐れみを交えた蔑みの目を見て、突然断酒を決意したといいます。
 
松村会長を高く評価していた下司先生は、過去4回の入院のなかで彼なりに全力投球したのですが、五回目の松村会長を見たとき挫折感からくる脱力感をどうすることもできなかったのでしょう。
 
ところが松村会長の眠っていた通常人としての感性は、下司先生の挫折感に強烈に反応したのです。
 

 私の場合はもっと複雑です。
 
周囲の状況が私の飲酒を許さなくなったため、一族の合意のもと、私は無理やり断酒会に入会させられました。
 
したがって、一年余りは失敗の連続でした。
 
ある日、昼間から酔っぱらって眠っている私の足の裏に、小学一年生の一人息子が、マジックインキでバカと書きました。
 
それを見た妻が、「お父さんは馬鹿ではない、あれでもお父さんなりに頑張っているのだから、許してやりなさい」と説得しているのを聞いて、本気で断酒に取り組む気になりました。
 

 習ったばかりの仮名文字で、父親の足の裏に馬鹿と書かねばならなかった息子の哀れさが、私の父性を強烈に貫いたのと、きっちりした性格で、断酒会員であるのに平気で飲酒している私を責め続けてきた妻が、私のほんの少しの努力を認め、許してくれたことが、「俺は許されないことをしている」と自覚できたのです。
 
何がきっかけになるのかは、人さまざまでよく分からないところがありますが、断酒の動機付けのまっ先に、通常人としての感性の目覚めがあることは間違いありません。
 
 「依存より創造へ」の中で、事例の記述に関して意図的に文学的な表現をしたのは、アルコール症者の眠っている通常人としての感性をゆさぶり、断酒意欲に結びつけるためであったのです。
 


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<梅>
断酒など夢と思いぬ君の手に
 
  三か月表彰鉄より重し
 
 


2.感性の練磨と断酒持続


 

 たとえ一ヶ月でも断酒すると、生活パターに変化が起こり、それを通して飲酒時代の自分の非に気づきます。
 
一年も断酒が続くと、酒のない生活に喜びを感じるようになります。
 
ところが、断酒三年目あたりから大きな変化が現れます。
 
全断連でも、各地域断酒会でも問題になっている断酒会からの離脱であり、それに起因する最飲酒です。
 
離脱の最大の原因は、すでにアルコール症を克服したから、断酒会につながっていなくても十分やっていける、と考えるようになることです。
 
しかしその考え方では、アルコール症を慢性疾患として捉えることができなくなり、単に過去経験した疾病だという甘い考え方につながります。
 

 彼らは彼らなりに理性を使って生活設計をし、飲酒時代の失われた時間を取り戻そうと努力します。
 
仕事に熱中し、家族とより良い関係を作ろうとします。
 
仕事や家族を大切にすること自体は正しいのですが、時間を惜しむあまり、断酒例会をはずして考えるとこに、致命的な間違いがあります。
 

 通常人としての感性に目覚め、通常人としての日常生活に取り組めるようになったとき、思わぬ落とし穴にはまります。
 
それは、通常人の世界とは、適正飲酒者たちの飲酒文化の世界でもあるからです。
 
酒以外のことなら、通常人とまったく同じ感覚で生きていくのは正しいのですが、飲酒文化の中で暮らしながら、自分の中に断酒文化を創り上げていくためには、特別に磨き上げられた感性を持つ必要があるのです。
 
それがなければ、飲酒文化に対抗し得ないのです。
 

 そして、その感性を磨く場所は、断酒例会の中にしかないのです。
 
たかだか三年ぐらいの断酒で断酒例会を離れていく人達は、例会の持つ重大な意味を理解できなかったためだ、と思います。
 
アルコール症者が新しい生き方を目指して生涯断酒するためには、一生断酒例会に出席して感性を磨くしかないと思います。
 


○ 感性を磨く場所としての断酒例会


 
 断酒会は、あらゆる面で自由であることを重視しています。
 
だから、命令したり、強制したりすることはタブーです。
 
しかし、例会に関しては、必ず出席するようにと強調したり、例会の中では体験発表だけにしようと規制しています。
 
理由は簡単です。
 
例会に出席して自分の酒害体験を語り、人の話を真剣に聞けば、おのずと豊かな感性が養われ、それが断酒に直結するからです。
 

 「依存より創造へ」の中でも一番多いのは、この例会に関するものです。
 
私の事例の記述にしても、断酒仲間が寄せた体験談にしても同様です。
 
そして、例会で教わったとか、例会で学びとったという言葉がやたら出てきますが、例会では教えたり、指導したりということは戒められていますので、正確に言えば、例会の中でそれぞれの感性を使って感銘を受け、理性を使って自分のものとしたということになります。
 

 われわれアルコール症者は残念なことに、過去の飲酒体験のすべてを話すことができません。
 
しかも、一番重要だと思われる部分がどうしても欠落してしまいます。
 
なぜなら、泥酔状態ではどんな非人間的な行動があったのかは自覚できないし、また仮にあったとしても、翌朝には記憶の一切が消されてしまっているからです。
 
だから、われわれが記憶している限りの過去の自分を語っても、それはほんの一部にしか過ぎません。
 

 しかし、記憶にないからといって無視してよいものではありません。
 
自分自身の酒害の本質はより無残な状態の中で具現されるからです。
 
だから、それらを何らかの方法で掘り起こし、語れるようになることでより強い自浄作用が働き、断酒の意味が深められるのです。
 
したがって、自分の家族の体験発表が、非常に重要なものになってきます。
 
自分で語れる自分より、妻が語る自分のほうがより真実を含んでいることが多いからです。
 
断酒会がA.Aと違って、家族を含めた例会を持つ真の意義はここにあります。
 

 家族や他の会員の体験発表に耳を傾け、その中から真実を感じ取ることは、読書に通じるものがあります。
 
初めて例会に出席した人たちは、数少ない例を除いて例会に違和感を持ちます。
 
初めて本を手にした人が、活字を追うのが精一杯で、本に馴染めないのと同様です。
 
しかし、例会出席が続く中で、自分の体験をじっくり話せ、また先輩会員の話に反応し、感動を受けるようになりました。
 
本にしても、無理に読み進む中でだんだんと面白くなり、何が書かれてあるのかを、徐々に理解するようになるのです。
 

 やがて、不思議なことが例会の中で起こります。
 
忘れてしまっていた自分の実体験を、自分の家族や他の会員の体験談を聞きながら追体験するという、アルコール症ならでは不思議な現象です。
 
それは、優れた文学書を読み進む中で、作中の人物に同化して、体験を共有してしまう現象に似ています。
 
忘れていた事実を思い出すということだけでなく、自分ならやりかねないという、反省の上に立った体験の予測も含まれています。
 

 そしてそれは、それぞれの人の感性を磨き、豊かにすることに直接密接につながります。
 
感性の回復の進んでいる人は容易に追体験できますが、そうでない人は、最初のうちは他人事として聞き流します。
 
しかし、例会出席が続けば、やがて自分の体験として受け入れることができるようになります。
 

 例会出席が多く、また真剣に断酒に取り組んでいる会員は、結果として特別に優れた感性を持つようになり、例え二十年、三十年と断酒が継続されていても、飲酒当時の無残な自分の姿を、昨日のことのように語ることができるし、新入会員の発表を聞きながら、同様の状態を網膜に再現できます。
 
そしてそれは、慢性疾患としてのアルコール症と永久に共存し、アルコール症という病気そのものを、生きていく上の糧ともする、通常人には理解しがたいほどの次元の高い思想にもつながります。
 
「アル中で良かった」ということのできる断酒会員は、十分に感性の練磨されたすばらしい人間です。
 

 また、感性の磨かれた断酒会員は、その結果としてさまざまの能力を持つようになります。
 
芥川賞の候補にもなったなだいなだ先生の初期の作品「海」の終章に、「人は言葉で話すのではなく、言葉を通して話すのだ」とありましたが、そうした人が人を理解する一番大切な心を、いつしか自分のもにします。
 

 入会したばかりの会員が、興奮したり、臆病になって、常識ではまず理解できないような体験発表をすることがあります。
 
首尾一貫しない、あるいは支離滅裂な話でも、彼らは言葉だけを聞かないで、言葉の裏にこめられた気持ちを、正確に察知することができます。
 
そしてそれは新入会員を暖かく受け入れるだけでなく、常に自分の酒害の本質を見つめ、断酒の原点に立つことにつながります。
 
「依存より創造へ」で、例会における様々なエピソードを紹介しましたが、感性を磨く場として例会があることを知ってもらいたかったのです。
 


○ 感性の回復と創造意欲


 
 A.Aで言うドライドランカーは、断酒会員の中にもいます。
 
酒を飲んでいないだけで、物の考え方も、日常の生活態度も飲酒時代と大して変わっていないようでは、やがて再飲酒するものと思われます。
 
なぜなら、そこには人間としての本当の喜びがなく、単に我慢を重ねているだけであるからです。
 
断酒を出発点にして、新しい生き方を創造することによってのみ、われわれアルコール症者は本当の喜びを味わうことができるのです。
 
感性の回復はその創造性を高め、生きることに意欲を燃やさせます。
 
磨き抜かれた感性は高い知性に通じ、潜在しているそれぞれの可能性を掘り起こします。
 

 通常人としての感性の目覚めは、やがて周囲の人達の、特に家族の苦痛の日々を自分の傷みとし、償いの方策を求めるようになります。
 
そして過去の無為の時間を逆に生かして、通常人の何倍も真剣に生きます。
 
断酒することによって得た平穏無事な生活に安住することなく、常に自分自身と闘いながら、生きていることの意味を追い求めるようになります。
 

 表の主張の「依存より創造へ」と、裏の主張の「感性の回復と断酒」は、表裏一体をなすものです。
 
断酒会は、感動に満ちた例会を持つことと、広く社会に感動を与える運動を展開することで、そのことを実証していくものと信じます。
 
 



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   断酒会「松村語録」より

       アル中は心身の病気である
     

                        *松村春繁 全日本断酒連盟初代会長(S38.11設立) 
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